52話 正常のその先
翌朝、水路の流れが止まった。
昨日まで水を含んで黒く見えていた石肌が、朝の光の下で少しずつ乾いていく。
レオンが現場へ着いたときには、職人たちが沈んだ区間の両端に目印を置き、外す石を確認していた。
「昨日見えた範囲だけで済みそうですか?」
レオンが聞くと、職人は首を横に振った。
「開けてみないと分かりません。ただ、広くてもこの辺りまででしょう」
石を外していくと、抜けは昨日確認できた範囲より少し先まで続いていた。
職人たちは石を必要な分だけ外し、基礎の状態を確かめていく。
湿った砂。
水の通った跡。
指で押すと崩れる部分。
その先で、ようやく固い基礎へ当たった。
「ここから先は生きてる」
反対側も確認する。
そちらも、沈んだ区間を越える前に固い部分へ届いた。
職人が立ち上がった。
「抜けたのはこの間ですね。昨日見えてた空洞より少し広い。ただ、局所で収まってます」
「周りを余計に崩さず直せますか?」
「できます。緩んだところだけ外して、下から戻します」
レオンはうなずいた。
「お願いします」
工法を決めるのは職人だ。
レオンが決めるべきなのは、直したあとに何を確認すれば、再び水を流していいと言えるかだった。
石組みへ手を当てる。
目を凝らす。
赤黒い線は、露出した基礎の中を斜面側へ伸びている。
昨日までに確認した漏水跡と、流出した砂と、今見えている空洞。
線は、その同じ場所に重なっていた。
原因を教えられたわけではない。
現物を開いたことで、基礎材が抜けた範囲まで確認できた。
「ミナ。開いた範囲を記録してください。昨日見えていた空洞との差も」
「はい。戻した後の比較用ですね」
「はい」
ミナが職人へ位置を確認しながら、帳面へ書き込んでいく。
その間に、緩んだ基礎材が取り除かれた。
用意していた材料が運ばれ、職人たちは固い部分との境を確かめながら少しずつ詰め直していく。
一度に戻さない。
高さを合わせる。
石を据えたとき、片側だけへ荷が寄らないよう確かめる。
沈んでいた区間が、少しずつ元の形へ戻っていった。
最後に、最初に漏れた継ぎ目と、その後に開いた反対側の継ぎ目を作り直す。
今度は表面だけを塞ぐのではない。
傷んだ部分を除き、奥まで状態を確認してから戻していく。
昼を少し過ぎた頃。
職人が道具を置いた。
「施工は終わりです」
レオンは修復した区間を見る。
形は戻っている。
だが、これで終わりではない。
「通水前の値を取りましょう」
ミナが測定担当のところへ向かった。
修復した区間。
上流側。
下流側。
基準点から順に値が読み上げられ、帳面へ並んでいく。
職人も石組みの高さを確かめた。
「高さは揃ってます。昨日確認した沈みは残ってません」
レオンは水路管理人を見る。
「流せますか?」
「流せます。最初は少なめで?」
「お願いします」
上流へ合図が送られた。
しばらくして、水音が近づいてきた。
細い流れが、乾いていた水路の底を進む。
修復した区間へ入った。
昨日、最初に見たときなら、石の隙間から水が染み出していた。
職人たちも、斜面側へ視線を向ける。
誰も喋らない。
水が継ぎ目を越える。
少し待つ。
斜面側に、新しい水の筋は出てこない。
「漏れてない」
職人が低く言った。
レオンはすぐに答えず、石組みに手を当てる。
《断脈視》を通す。
昨日まで空洞を横切っていた赤黒い線は見えない。
だが、それだけでは足りない。
「変位をもう一度」
測定担当が杭へ戻る。
ミナが通水前の値と並べた。
「変わってません」
レオンはうなずいた。
「もう一段、流せますか?」
「流します」
水路管理人が合図を送った。
水量が増える。
水面が上がり、作り直した継ぎ目へ届いた。
職人たちは左右へ分かれた。
斜面側にも回る。
漏れない。
もう一度測る。
変位はない。
水路管理人がレオンを見る。
「通常量まで戻します」
「お願いします」
今度の水音は、はっきりと大きかった。
上流から戻ってきた水が、勢いを増して修復区間へ流れ込む。
誰も動かない。
水面が継ぎ目を越える。
石組みを抜ける。
そのまま、勢いを落とさず下流へ走っていった。
斜面側に新たな染み出しはない。
測定値も動かない。
《断脈視》で見ても、昨日まで沈下区間へ重なっていた線は戻らなかった。
職人が息を吐いた。
「これなら大丈夫だ」
水路管理人も、流れの先を見たまま肩の力を抜いた。
「これで下へ戻せます」
レオンはうなずいた。
「このまま通常量で見られますか?」
「見ます。漏れか変位が出たら、すぐに量を落とします」
「お願いします」
この区間は、直った。
◇
下流へ回ると、細くなっていた流れが戻り始めていた。
分かれた水が畑の脇を走り、乾きかけていた土へ少しずつ染み込んでいく。
水路脇で待っていた住民の一人が、流れを見て声を上げた。
「来たぞ」
それだけだった。
だが、その声を合図にするように、小さな分水口が順に開いていく。
桶へ水を汲む者。
畑の端を見て回る者。
道具を取りに戻る者。
止まっていた作業が、あちこちで再び動き始める。
レオンはその様子を見た。
設備が直ったというのは、沈んだ石組みが直ることだけではない。
その先で止まっていた生活が、また動くことだ。
「ちゃんと戻りましたね」
隣でミナが言った。
「はい」
原因は追えた。
必要な範囲を開いた。
職人が基礎と継ぎ目を戻した。
水を流しても漏れず、変位もない。
この一件は、直った。
◇
それから数日。
導水路は通常の水量で使われ続けた。
毎日の確認でも、新しい漏水はない。
測定値も変わらなかった。
直した場所は、直っている。
レオンとミナは、その間に今回の導水路の記録をまとめていた。
原因。
復旧した範囲。
施工内容。
通水後の測定値。
数日間の確認でも変化はない。
これで、この導水路は復旧済みとして記録に残せる。
最後の確認を書き込んでいたとき、扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、水路管理人とは別の現地担当者だった。
手には、新しい記録が一枚ある。
「別の場所で、異常が出ました」
レオンは立ち上がった。
「導水路ですか?」
「いえ。場所も、設備も別です」
机の端には、復旧後の確認まで終えた導水路の記録がある。
復旧した区間に、新しい異常は出ていない。
この一件は、確かに終わった。
なのに。
フェルデン盆地では、終わらない。




