51話 一件ずつなら
レオンたちが、記録に残されていた地帯――フェルデン盆地へ着いたのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。
フェルデン盆地には、集落と畑へ水を送る導水路が伸びている。
一件ずつ追って終わるな。
ガレスの言葉は覚えている。
だが、まとめて比べるにしても、今ここで起きている一件が本当に個別の原因で説明できるのか、まず確かめる必要がある。
最初に案内されたのは、導水路の一部だった。
十数歩ほどの区間で、石を組んだ水路の片側が沈み、継ぎ目から水が染み出している。
水量はすでに落とされていた。
それでも石の隙間から漏れた水が、斜面へ細い筋を作っている。
「異常が見つかったのは六日前です」
現地の水路管理人が言った。
「最初は継ぎ目から少し水が出ている程度でした。塞いだんですが、二日後には少し離れた継ぎ目も開きました」
「水路そのものの沈下を確認したのは?」
「三日前です。そこで通常量を流すのをやめました」
レオンは水路へ目を戻した。
対応が遅かったわけではない。
漏水を見つけ、補修した。
沈下を確認してからは、水量も落としている。
少なくとも、記録を見る限り無理な運用を続けた形跡はなかった。
隣では、王都から同行したミナが帳面を開いている。
「現地の記録だと、昨日の時点で沈んでるのはこの区間だけです。上流も下流も動いてません」
「今日も測りましょう」
「もう準備してます」
返事と同時に、ミナが測定杭の方を指した。
王都から持ってきた記録束とは別に、現地で受け取った点検記録が足元の箱へ積まれている。
レオンは水路の縁へしゃがみ、石組みに片手を当てた。
目を凝らす。
赤黒い線が、沈んだ区間へ重なった。
一本ではない。
石組みの内側へ続く線がいくつかに分かれ、そのうち太い一本が斜面側へ伸びている。
だが、それだけだった。
なぜ沈んだのか。
どこを直せばいいのか。
そんなものは見えない。
背後で、測定杭を確認する声が上がった。
現地の測定担当が基準点を取り直していく。
ミナが値を受け取り、昨日の記録と並べた。
「変わってません。この区間だけです」
少なくとも、沈下が周囲へ広がっている様子はない。
「斜面側も見ます」
「下へ回るんですか?」
「はい」
水路管理人が先に降りた。
レオンとミナも続く。
斜面へ回ると、上から見たときより状態が分かりやすかった。
石組みの下。
本来なら詰まっているはずの部分に、小さな空洞ができている。
湿った砂が、その下へ筋になって流れていた。
レオンは指で触れた。
表面だけではない。
少し押すと、奥の砂まで崩れる。
「ここ、抜けてますね」
ミナも覗き込む。
「水が通った跡です」
「上から漏れた水ですか?」
「その可能性が高いです」
まだ決めない。
レオンは立ち上がった。
「この区間の点検記録はありますか」
「あります」
水路管理人が箱から記録を取り出した。
紙の端は擦れている。
この区間で大きな沈下が記録されたことはない。
漏水についても、六日前のものが最初だった。
職人が石組みを確認する。
「継ぎ目はかなり古いです。ただ、六日前の漏水までは、異常として扱われた記録はありません」
少し離れた場所を指した。
「最初に漏れたのはここです。二日後に開いたのは、反対側のこっちです」
レオンは二つの継ぎ目を見比べた。
最初の漏水。
その二日後に開いた継ぎ目。
間にあるのが、今沈んでいる区間だった。
目に見える沈下が確認されたのは、その翌日。
それ以前から、わずかに動き始めていた可能性はある。
レオンは最初に漏れた継ぎ目の前へ腰を落とした。
表面は、六日前の応急補修で埋め直されている。
だが、その脇へ細い隙間が残っていた。
「一度、水をもう少し落とせますか」
「明日の朝までなら、水量を落としたままにできます」
水路管理人が答えた。
「下流へ回せる量は減りますが、止めずには済みます」
「それでお願いします。継ぎ目より水位が下がれば十分です」
管理人が上流へ合図を送った。
しばらくして、水面が少しずつ下がっていく。
濡れていた石が露出する。
継ぎ目も見えた。
職人が細い金具を差し込む。
途中で止まるはずだったそれが、思ったより深く入った。
「……奥まで切れてるな」
職人の声が低くなる。
水路管理人が継ぎ目を覗き込んだ。
「表だけ塞いでも駄目だったわけですか」
「ええ。奥まで傷んでいます」
レオンは斜面側を見た。
漏れた水。
流された砂。
できた空洞。
その上にある石組み。
順番ならつながる。
「最初に開いたのは、この継ぎ目です」
レオンは記録を地面へ置いた。
「そこから水が入った可能性があります。最初は量が少なく、外から見える漏水だけだと思われていたんでしょう」
「でも、中にも流れていたんですか?」
ミナが聞く。
「その可能性があります。下の基礎材を少しずつ運び出したと考えれば、今見えている空洞ともつながります」
レオンは二つの継ぎ目を順に見た。
「基礎の支えが減れば、目に見えるほど沈む前でも石組みは少しずつ動きます。その影響で反対側の継ぎ目が開き、さらに水が入りやすくなったと考えれば、記録の順番とも合います」
水路管理人が沈んだ区間を見る。
職人はしばらく現物を確認していた。
「そこまでなら筋は通ります。ただ、下が本当に抜けているかは見た方がいい」
「確認できますか」
「この水位なら、側壁の石を一枚だけ外せます。本格的に崩す必要はありません」
職人が二人を呼んだ。
最初に漏水が出た継ぎ目の脇。
固定を外し、側壁の石を慎重に引き抜く。
石が外れた瞬間。
内側から湿った砂がぱらぱらと落ちた。
その奥に、本来あるはずの基礎材がない。
握り拳ほどの隙間が、斜面側へ続いている。
職人が継ぎ目の裏へ指を入れた。
そこから空洞へ向かって、細い筋が残っている。
周囲より色が濃い。
水が繰り返し通った跡だった。
「ここから入ってますね」
職人が言った。
「継ぎ目の裏から、そのまま基礎の中へ抜けています」
ミナが空洞を覗き込んだ。
「……抜けてる」
職人が落ちた砂を指先でつまんだ。
そのまま斜面側へ降り、流れ出していた砂と見比べる。
「同じですね」
指先の砂を擦る。
「ここの基礎材が、斜面側へ流れ出た跡です」
もう一人の職人が細い棒を差し入れる。
奥へ進む。
斜面側に回った職人も、空洞へ同じように棒を入れた。
「もう少し」
「そっち、上か?」
「少し下だ」
二人が角度を変える。
やがて。
かつ、と小さな音がした。
「当たった」
斜面側の職人が言った。
継ぎ目の裏。
水路の下にできた空洞。
斜面側へ抜けた空洞。
全部がつながっている。
レオンは開いた場所へ手を当てた。
《断脈視》を通して見る。
赤黒い線は、露出した空洞を横切り、斜面側へ伸びていた。
現物と重なる。
「これなら、今起きている沈下は説明できます」
レオンが言った。
「最初の継ぎ目から入った水が基礎材を流し、石組みが少しずつ動いた。その影響で反対側の継ぎ目も開き、流入する水が増えた。三日前に確認された沈下は、その結果だと考えられます」
「地盤そのものが動いた可能性はないんですか?」
ミナが聞く。
「今のところ、その可能性は低いです」
レオンは測定杭へ目を向けた。
「今日も上流と下流は動いていません。過去の点検記録にも、この周囲がまとめて動いた形跡はありません」
職人もうなずいた。
「下を開けた状態とも合います。地盤全体が動いたなら、こんな局所的な抜け方にはなりにくい」
レオンは露出した空洞を見る。
継ぎ目の劣化。
漏水。
基礎材の流出。
局所的な沈下。
一つずつなら、特別な現象ではない。
復旧現場なら起こり得る。
「今日は戻しておきます」
職人が外した石を見る。
「本格的に直すなら、水を止めてこの区間を開いた方がいい」
「明日できますか」
「材料を今日中に揃えれば」
「お願いします」
レオンは水路管理人を見る。
「では、この水位のまま明日の朝までお願いします。これ以上、継ぎ目へ水を入れたくありません」
「分かりました」
管理人がうなずいた。
「明日の朝からなら、この区間は完全に止められます」
「止める時間はできるだけ短くしたいです。基礎材と必要な石を、開ける前に全部そろえてください」
職人がうなずいた。
「抜けている範囲を確認しながら戻します」
「お願いします」
レオンは記録を閉じた。
少なくとも、今起きている沈下の直接原因は追えた。
古い継ぎ目から水が入り、下の基礎材が流され、石組みが沈んだ。
それだけなら。
普通の故障だった。
◇
日が傾く頃、レオンとミナは現地で借りた部屋へ戻った。
机の上には、王都から持ってきた分厚い記録束が置かれている。
その横へ、今日の測定結果と現地の点検記録を並べた。
レオンは今日確認した導水路の記録を脇へ置いた。
それから、ガレスから渡された記録束を開く。
フェルデン盆地で過去に扱われた別の案件を一件選んだ。
現地側にも、その案件について残っている記録を用意してもらっている。
設備は違う。
原因も違う。
レオンとミナは、二つの記録を順に照合した。
当時の調査結果。
特定された直接原因。
実施した復旧。
復旧後の確認。
内容に食い違いはない。
「持ってきた記録と、現地の記録。合ってます」
ミナが二つの記録を重ねた。
「はい」
レオンも、もう一度目を通した。
書かれているのは、原因不明のまま終わった案件ではない。
そのとき何が壊れたのか。
なぜ壊れたのか。
どう直したのか。
そこまでは、現地側の記録にも同じように残っている。
今日見た導水路も、少なくとも直接原因を追えるところまでは同じだった。
「明日はどうしますか?」
「抜けた範囲を全部確認します。基礎を戻して、継ぎ目を作り直します」
「それで終わりですか?」
「通水して、変位と漏水を確認してからです」
ミナが笑った。
「やっぱり、そこまでやるんですね」
「直したつもりで終わらせる方が、あとで面倒です」
レオンは今日の記録を閉じた。
今起きている沈下の直接原因は追えた。
直すべき範囲の見当もついた。
必要なのは、明日、実際に開いて確かめながら正しく戻すことだ。
この一件は直せる。
少なくとも今は、そう思えた。




