49話 責任の行き先
地下排水路の崩落から、翌朝。
ガレスの机には、五件の記録が並べ直されていた。
共同貯水槽。
主要荷車路の擁壁。
地下排水路。
公営倉庫。
旧分水門。
その中央に、事故後の報告書が置かれている。
「二件を選べ、と私は言った」
ガレスが言った。
「はい」
「選んだ二件を、今でも間違いだったと思うか」
レオンは少しだけ間を置いた。
「いいえ」
共同貯水槽は、通常水位のまま使い続けられる状態ではなかった。
主要荷車路の擁壁も、大型荷車を通し続けていい状態ではなかった。
どちらも、調査班を入れたから危険の広がりを確認できた。
「では、地下排水路を選ばなかった判断も正しかったと?」
「当時の情報なら、優先度を下げる理由はありました」
亀裂の進行はほとんどない。
流量も通常。
一時的なら別系統へ振り替えられる。
事故が起きた今から見れば、いくらでも別の答えは作れる。
だが、あの時点で共同貯水槽と擁壁を後へ回す理由にはならない。
ガレスは事故報告書を指で叩いた。
「なら、何が足りなかった」
レオンは答えられなかった。
ガレスは五件のうち、地下排水路の記録を抜いた。
「お前は、これを後へ回した」
「はい」
「それで終わった」
レオンが顔を上げる。
「調査班は二班しかない。だから二件に入れた。そこまではいい」
ガレスは地下排水路の記録を開いた。
「では、残った三件に何を残した」
「……」
「変化を拾う監視項目は?」
「決めていません」
「報告を上げる条件は?」
「決めていません」
「選定後に追加した管理条件は?」
「決めていません」
ガレスは事故後の記録を開いた。
「崩落当日の朝、下流へ出る水がいつもより少ないように見えたとの報告があった」
「はい」
「その時点では、崩れていない」
「はい」
「その変化が出たら復興局へ上げろと、事前に決めていたか」
「……いいえ」
ガレスは記録を閉じた。
「それで事故を必ず防げたとは言わん」
声は変わらない。
「報告が一刻早く上がっても、崩れたかもしれん。別系統へ振り替えても、すでに周囲へ水が回っていたかもしれん」
そこで、ガレスはレオンを見る。
「だが、お前はその一刻を取りにいっていない」
レオンは何も言えなかった。
「二班しかないことと、残る三件のその後を決めないことは同じではない」
ガレスは五件の記録を一つに揃えた。
「本格調査へ入れないなら、変化が出たときに拾う仕組みを残す。使い続けるなら、どこまでを許すか決める。止められる設備なら、止める条件を決めておく」
共同貯水槽では、水位を下げた。
擁壁では、大型荷車を止めた。
目の前の現場には、負荷を下げる判断を残した。
だが、選ばなかった三件には、その後の変化を拾うための条件を何も追加していない。
「お前は五件を見て、二件を選んだ」
ガレスが言う。
「選んだ二件だけを見て終わりなら、五件を見た意味がない」
その言葉が、レオンの中に残った。
「現場へ入る力はある。危険を見つける力もある。だが、全部の現場へ張り付けないなら、それでも変化を拾える形を残せ」
ガレスは椅子へ背を預けた。
「三日後、王国中央監理院で重大事故諮問会が開かれる。お前にも出てもらう」
「分かりました」
ガレスの視線は五件の記録から動かなかった。
「そこで何を問われるかは、自分で考えておけ」
二件を選んだのは、自分だ。
後へ回した一件で、人が巻き込まれた。
三日後に何を問われるのか。
考えるまでもなかった。
◇
その日のうちに、レオンはミナと残る二件の記録を開き直した。
公営倉庫。
旧分水門。
「調査班は、まだ空きません」
ミナが言った。
「分かっています」
だから、今できることを決める。
何が変わったら報告を上げるのか。
閉鎖中の公営倉庫では、何を確認し続けるのか。
旧分水門は、どの変化が出たら停止するのか。
答えを復興局だけで決めるのではない。
それぞれの担当者と確認し、その設備で実際に見られる変化を条件にする。
「二件とも、担当者を呼んでもらえますか」
「はい」
事故が起きてからでは遅い。
そのことを、今度は記録の上に残した。
◇
三日後。
レオンは王国中央監理院の会議室にいた。
重大事故諮問会に呼び出されたのは三人だった。
王国復興局長。
局次長のガレス。
そして、五件の現場確認を担当したレオン。
長机の向こうには、主席監理官と数名の監理官が座っている。
レオンは復興局長を見た。
ヴァレインへ送られる前を含めても、直接顔を合わせたのは数えるほどしかない。
局長は中央監理院への報告や協議、調整で局本部を空けることが多かった。
局内の実務を回し、現場へ指示を出していたのはガレスだ。
だから、この三人が同じ机につくこと自体、レオンには妙な感覚があった。
主席監理官が、五件の記録を開いた。
「まず、経緯を確認します。復興局に懸案として残っていた五件に対し、当時動かせる調査班は二班だった」
「はい」
答えたのはガレスだった。
「そこで、共同貯水槽と主要荷車路の擁壁を優先して本格調査へ回した」
「はい」
「その二件を選定したのは?」
「レオン・アーデン復旧官です。五件から二件を選ばせたのは私です」
主席監理官が記録へ目を落とす。
「五件すべての現場を確認した?」
「それは本人の判断です」
そこで初めて、主席監理官がレオンを見る。
「レオン・アーデン復旧官。五件すべてを確認したのか」
「はい」
「その上で二件を選んだ?」
「はい」
主席監理官は地下排水路の記録を開いた。
「地下排水路では、その時点ですでに亀裂が確認されていた。それでも、本格調査には回さなかった」
「はい」
「理由は?」
今度は最初から、視線がレオンへ向いていた。
「当時、地下排水路は亀裂の進行がほとんどなく、流量も通常でした。一時的なら別系統への振り替えも可能でした」
共同貯水槽。
主要荷車路の擁壁。
あのとき確認した二件を思い出す。
「対して、共同貯水槽と擁壁は、使用を続けることで負荷が掛かり続ける状態でした。五件を確認した時点では、この二件を先に扱うべきだと判断しました」
「その判断に誤りはなかったと?」
「二件を選んだ判断は、当時の情報では変えません」
レオンは一度、地下排水路の事故報告を見る。
「ただ、選ばなかった三件について、その後の管理条件を追加で設計しなかったことは、私の不足でした」
主席監理官がガレスを見る。
「局次長。この点については?」
「管理上の不足はあります。そこは本人にもすでに指摘しています」
そのとき、局長が初めて口を開いた。
「その点については、局次長から報告を受けています。選定後の管理に不足があったことも承知しています。局長として、その監督が行き届かなかった責任は私にもあります」
主席監理官がガレスへ視線を戻した。
「局次長。では、二件を選んだ現場判断そのものにも問題があったと見ていますか?」
「いいえ」
一瞬、室内が静かになった。
「そこは分けるべきです」
ガレスは二件の記録を机の上へ出した。
「共同貯水槽は、通常水位のまま使い続けられる状態ではなかった。主要荷車路の擁壁も、沈下が荷車の通行位置まで広がっていました」
記録を揃える。
「二班しか動かせない条件で、この二件を優先した判断自体を誤りとする根拠はありません」
「しかし、地下排水路は崩れています」
主席監理官が言った。
「はい」
ガレスは事故報告を開いた。
「一次崩落で二名が巻き込まれました。一名は脚を負傷、もう一名は軽傷。死者はいません」
「その後、退避範囲を広げていますね」
「はい。最初の崩落地点から離れた石敷きの継ぎ目に、新たに水が浮いているのが確認されています。その後、レオン・アーデン復旧官が退避範囲を広げました。実際にその範囲内で二次崩落が起きています。追加の巻き込まれはありません」
主席監理官がレオンを見る。
「退避範囲を決めた根拠は?」
「水が浮いていたことだけではありません」
レオンは、崩落直前の通りを思い出した。
「私には、崩壊につながる不連続が、線のように見えます」
「固有能力ですか?」
「はい。《断脈視》と呼んでいます」
「そのとき、どう見えた?」
「赤黒い線が、まだ崩れていない地面の下から、通り沿いの建物側へ伸びていました」
「崩落時刻まで分かりますか?」
「いいえ。いつ落ちるかは分かりません」
レオンは続けた。
「ただ、線が伸びた先に人を残す理由はないと判断しました」
主席監理官は短くうなずき、事故報告へ書き込んだ。
「では、責任について確認します」
室内の空気が変わった。
主席監理官がガレスを見る。
「局次長は、今回の事故について、どう整理していますか」
「局内の実務を預かる立場として、私に責任があります。五件から二件を選ばせ、二班をどう動かすか決めたのも私です」
レオンが顔を上げる。
「レオン・アーデン復旧官にも、選ばなかった三件の管理に不足があった。ですが、それだけで今回を終わらせるなら不十分です」
ガレスの指が、五枚の記録を順に押さえた。
「ただし――」
ガレスは、五枚の記録から視線を上げた。
「この五件は、レオン・アーデン復旧官が王都へ戻った日に生まれた案件ではありません」
監理官の一人が、局長を見る。
「二班しか動かせない状態も同じです」
ガレスは局長へ視線を移した。
「私は局内の実務を預かっています。ですが、その体制を最終的に預かり、中央監理院への報告と協議に責任を持つのは局長です」
局長がガレスを正面から見た。
「つまり、現場の判断だけでなく、局の体制そのものも確認すべきだと?」
「はい」
ガレスは短く答えた。
「今回の事故を、現場担当一人の管理不足だけで処理できる話ではない、と言っています」
主席監理官が、今度は局長へ向き直った。
「局長。この五件が懸案として残っていたことは、把握されていましたか」
「報告は受けています」
「動かせる調査班が二班だったことも、把握されていましたか」
「把握しています」
「この五件を二班で扱う状態について、中央監理院とはどのような協議をされていましたか」
局長の返答が、一拍遅れた。
「必要に応じて、案件ごとの報告と調整はしています」
「この五件を二班で扱う体制そのものについて、協議はされていましたか」
局長はすぐには答えなかった。
主席監理官が、手元の記録へ目を落とした。
「では、確認すべきことが増えました」
五件の案件。
二班の調査体制。
優先対象外となった案件の管理。
そして、その状態を中央監理院とどう協議していたのか。
「現場担当者の判断だけを見れば終わる事故ではありません」
その言葉を境に、質問の向きが変わった。
積み残された案件と人員体制。
未着手案件の管理。
中央監理院への報告と調整。
誰が、どこまで責任を持っていたのか。
レオンに向いていた問いは減っていった。
代わりに、ガレスへ。
そして、局長へ向けられる問いが増えていった。
やがて、レオンとガレスには退出が告げられた。
局長だけが、中央監理院に残った。
◇
会議室を出ても、レオンはすぐには歩き出せなかった。
ガレスが自分を守った。
そう考えるには、あまりにも違う。
事故の翌朝には、レオンの不足を容赦なく突いた。
今日も、その不足を消したわけではない。
ただ、それだけに責任を閉じることを拒んだ。
ほとんど顔を合わせたことのない、復興局の長。
その人と自分が、初めて同じ一つの事故について責任を問われた。
そして今、問われ続けているのは扉の向こうの一人だった。
その日の夕刻。
復興局内へ、一枚の通知が回った。
今回の事故と管理体制上の責任を受け、現職の復興局長が辞任する。
短い文面だった。
レオンは通知を読み終え、静かに机へ置いた。
五件の案件から始まった選択は、一つの事故で終わらなかった。
復興局長の席が、空いた。




