04話 死んだ水路
旧導水路の奥から、石が落ちる音がした。
乾いた音ではない。湿った壁を滑り、どこか深い場所へ吸い込まれていく音だった。
入口に立つレオンの視界では、赤黒い断脈が天井と側壁へ絡みついている。細い線が多い。だが、その中に数本、黒へ近いものが混じっていた。
「入る前に、俺の《断脈視》について一つだけ説明します。俺には、崩壊につながる傷みが、赤黒い線として見えます。黒に近いほど危険です」
「原因も、どの石が落ちるかも分かるのか」
「そこまでは分かりません。見えるのは、今の状態が続いたときに、崩れが広がる方向までです」
レオンは水路の奥へ視線を戻した。
「だから、入る前に決めます。黒い断脈が走る場所では止まらない。俺が止まれと言ったら、理由を聞かずに止まってください」
「お前が進めと言っても、足元が駄目なら俺は止めるぞ」
「それでお願いします」
バルドは一瞬だけ目を細め、それから職人たちへ振り返った。
「聞いたな。前を見るのはこいつだ。足場と石を見るのは俺たちだ。勝手に追い越すな」
反発はなかった。
主水路の支持部が折れ、石材が斜面へ崩れ落ちた瞬間を、ここにいる全員が目にしていた。
バルドは入口脇の土へ木杭を打ち、縄の端を二重に巻いた。
「奥で何かあれば、この縄を伝って戻る。一本は人用、もう一本は道具用だ。絡めるなよ」
ミナが結び目を引き、緩みがないことを確かめる。
「明かりが消えたら?」
「その場で止まる。動けば、足場を外す」
レオンが答える前に、バルドが言った。
「見えるやつも、見えないやつも同じだ。暗闇で勘に頼るな」
先頭はレオン。その半歩後ろをバルドが進み、ミナは縄と記録板を持って続く。後ろの職人二人が、入口から伸ばした縄を壁際へ固定していった。
明かりを掲げると、古い水路の内部が闇から浮かび上がった。
人が二人並べるほどの幅。中央には浅い溝があり、その両側へ点検用の足場が残っている。かつて水が流れていた高さには、白い筋が壁へ帯のように刻まれていた。
今、流れている水はない。
それでも天井から雫が落ち、溝の底には黒い泥が溜まっている。
死んだ水路は、静かではなかった。
雫の音。風が抜ける音。見えない奥で、石が擦れる音。
外の明かりは、十歩も進まないうちに背後の小さな四角へ変わった。
振り返れば入口は見える。だが、そこまでの床には崩れた石と黒い泥が続いている。奥へ進むほど、ただ戻るだけでも時間がかかる。
レオンは明かりの炎を見た。
炎は細く、奥へ向かって傾いている。完全に閉じた空間ではない。どこかに出口か、空気の抜ける隙間が残っていた。
「風はあります。奥へ続いている可能性が高い」
「同時に、崩れた穴がある可能性もある」
バルドは浮かれずに返した。
「可能性は二つとも残します」
「右側を歩いてください。左の足場は途切れています」
レオンが示すと、バルドは長い棒で左側を突いた。
石板が沈み、下から濁った水がにじんだ。
「空洞だな。見た目だけ残ってやがる」
「断脈は、その下へ伸びています。崩れれば溝ごと落ちます」
「ミナ、印を付けろ。帰りに間違えるなよ」
「もう付けてます」
ミナは白い印を壁へ残した。
少し進むたびに、彼女は入口からの歩数と分岐の有無を書き込んだ。
古い水路図が残っていなくても、今通った経路は残せる。帰るためだけではない。後で人と資材を入れるなら、狭い場所と危険箇所を先に共有する必要がある。
「ここ、三人同時には通れません。荷物を運ぶなら、一列です」
「記録しておいてください。作業人数を決める材料になります」
彼女はうなずき、足元へ視線を落としたまま、ふいに立ち止まった。
「ここ、石の並び方が違います」
側壁の下半分だけ、石の色と大きさが揃っていなかった。古い壁へ、別の時代の石を押し込んである。
バルドが明かりを近づけ、継ぎ目を指でなぞった。
「一度膨らんだ壁を削って、内側から積み足してる。しかも三回はやってるな」
「記録にはありませんでした」
「昔の職人が、その場で止めたんだろう。崩れるたびに狭くして、形だけ残した」
場当たり的な修繕。
水路は直されたのではない。壊れた場所を内側から塞がれ、少しずつ細くなっていた。
レオンは壁へ手を当てた。
冷たい石の奥に、細い断脈が幾重にも重なっている。だが、黒い線は壁そのものではなく、さらに下へ向かっていた。
「原因は壁だけではありません。下が動いています」
先へ進むほど、溝の底に溜まる泥が増えた。
本来なら一定の方向へ下るはずの水路が、途中からわずかに逆へ傾いている。泥の表面には、乾いた場所と濡れた場所が交互に残っていた。
「水がここで止まり、壁へ押しつけられていた」
「地面が持ち上がったか」
「一箇所ではありません。前と後ろで高さがずれています」
バルドは棒を横へ置き、床の傾きを確かめた。
「……確かに、向こうが高い。水路ごと折れてるな」
そのとき、奥で低い音が響いた。
ご、と水路全体が息を吐いたような音だった。
天井の断脈が黒く脈打つ。
「止まって!」
全員の足が止まった。
遅れて、前方の天井から砂が落ちる。小石が一つ、二つ。次いで、拳ほどの石が点検路へ砕け落ちた。
誰も動かなかった。
レオンは断脈の伸び方を見る。黒い線は真下ではなく、右前方の側壁へ走っていた。
「左へ寄って、三歩だけ戻ります。一人ずつ。走らないで」
バルドが天井を見上げ、落ちた石の割れ口を確かめた。
「右の壁が押してる。左なら持つ。お前ら、縄を緩めるな」
レオンの指示に、バルドの判断が重なる。
ミナが先に三歩戻り、職人たちが続いた。最後にレオンとバルドが離れる。
直後、右側の石積みが崩れた。
土煙が明かりを覆い、湿った風が抜ける。
崩れたのは、先ほど全員が立っていた場所だった。
ミナが息を呑んだが、声は上げなかった。職人たちも、レオンではなくバルドを見た。
バルドは崩れた石とレオンの示した退避位置を交互に見て、短くうなずいた。
「次も、先に言え」
「そのために前を歩いています」
それだけで十分だった。
「……線は消えたか」
「黒い脈動は止まりました。ですが、崩れた石の向こうは見えません」
「なら、見えるところまで開ける。天井には触らん。下から一個ずつだ」
バルドはレオンの返事を待たず、崩れた石の前へしゃがみ込んだ。
無謀ではない。どの石が荷を受け、どれなら抜けるかを見ている。
レオンは断脈を追い、触れてはいけない石を示した。
「その上の二つは残してください。左下の小さい石からなら動かせます」
「同じ見立てだ。抜くぞ」
職人たちが石を受け取り、後ろへ送る。
ミナは外した順番と位置を記録した。
レオンが危険の連鎖を読み、バルドが石の組み方を読む。
レオンが残せと言った石を、バルドも残す。バルドが抜けると判断した石に黒い断脈が走っていれば、レオンが止める。
意見が一致したときは、確認の言葉すら短くなった。
「次」
「左下です」
どちらか一方だけでは、進めない。
崩れた石の隙間が、人一人分まで広がった。
その先には、さらに古い水路が続いていた。
側壁は傷んでいる。床はずれている。だが、天井の高さは保たれ、白い水跡が奥へ伸びていた。
そして、わずかに水の流れる音がする。
「生きてます」
ミナが囁いた。
「水路が生きているとは限らない」
レオンは音の方向へ視線を向けた。
断脈はある。だが、連続して黒く脈打つ線はない。
少量なら、通せる可能性がある。
さらに奥へ進むと、水路は大きく裂けていた。
地盤のずれによって、手前と奥の溝が横へ半歩ほど食い違っている。そこへ過去の職人が石を積み、泥を詰め、何度も水を渡そうとした跡が残っていた。
補修材は崩れ、流路の中央を塞いでいる。
「ここを越えれば、貯水槽の近くへ出るはずです」
ミナが壁の古い目印を確かめた。
「この印、父さんに教わりました。出口側の点検口が近いです」
レオンはずれた溝と断脈を見比べた。
主水路のような大量の水は無理だ。
だが、崩れた補修材を除き、ずれた部分を支え、流れをつなげれば、生活に必要な量だけなら貯水槽へ送れる。
「旧導水路は使えます」
バルドはすぐにはうなずかなかった。
壁を叩き、床を測り、裂け目の長さを確かめる。
「応急ならな。ここへ受けを作って、水を横へ渡す。だが、石板が要る。長い梁もだ。術式を掛け直す魔石も残ってない」
「領主館の備蓄は」
「主水路の仮支えで使った。職人組合にも、ここの幅を渡せる材はない」
道は見つかった。
直し方の形も見えた。
だが、それを作るための資材がない。
暗い水路の奥で、細い水音だけが続いていた。




