36話 止める理由
「許可はできん」
ガレス・オルド局次長は、レオンが差し出した申請書を机へ戻した。
机の上には、高架水路の補修記録と測定結果が並んでいる。
「過去三回、支柱を測ったのは補修が終わったあとだけ。漏水を確認してから通水を再開するまでの記録が抜けている。そこまでは分かった」
ガレスは申請書から目を上げた。
「それで、まず送水を止めて測りたいと」
「はい」
「なぜ止水からなんだ」
「三回とも必ず行っていて、その直後を一度も測っていないからです」
レオンは机の上の記録を指した。
「今の通水状態で測る。そのあと送水だけを止めて、補修には入らず同じ場所を測る。そこで数字が変わらなければ、次の工程を見ます」
「つまり、止水が原因だと考えているわけではない」
「まだ分かりません」
止水したときなのか。
補修作業の途中なのか。
通水を戻したときなのか。
今までの記録では、そのどこで支柱が動いたのかを切り分けられない。
「だから、一つずつ確かめたいんです」
ガレスの指が申請書を叩いた。
「問題を複雑化させるな、アーデン復旧官」
レオンは黙ってガレスを見る。
「現場で疑うこと自体を否定するつもりはない。だが、漏水も起きていない主要送水幹線を、確認のためだけに止めるという話だ」
「長く止めるつもりはありません」
「時間の問題ではない」
ガレスは申請書の一枚を指で押さえた。
「止水すれば西区への送水量に影響が出る。市街側の貯水量を確認し、影響の少ない時間帯を選ぶとしても同じだ」
ガレスはレオンを見る。
「止水しなければ確認できないことは分かった。だが、それは止水しなければならない理由ではない」
「……はい」
「設備側から止水を求める所見も出ていない。今の高架水路は送水できている。止水を認めるだけの客観的な根拠はない」
レオンは申請書を引き寄せた。
止水時間も絞った。
市街への影響を減らす手順も書いた。
それでも、埋まっていないものがある。
今、水を止めなければならない理由だった。
レオンは申請書を閉じた。
取り下げるとは言わなかった。
◇
復興局の資料室へ戻ると、ミナが机いっぱいに書類を広げていた。
高架水路の補修記録。
送水側の運用記録。
西区周辺で予定されている工事一覧。
レオンが戻ると、ミナが顔を上げた。
「駄目でした?」
「駄目でした」
「止水時間を絞っても?」
「時間の問題じゃありませんでした」
主要幹線を、調査だけのために止める。
その判断をガレスは認めない。
オスカーの施工責任で突破できる範囲でもなかった。
「じゃあ、どうするんですか」
ミナが聞いた。
レオンは机の上の工事一覧へ目を落とした。
「高架水路の調査だけでは、止水は認められません」
「はい」
「なら、同じ送水系統に止水を必要とする作業がないか確認します」
高架水路だけが、王都の水路設備ではない。
取水。
送水量の調整。
途中の分岐。
市街側の貯水。
一つの水路を流すために、いくつもの設備がつながっている。
そのどこかで止水を伴う作業が予定されていれば、同じ時間を使える。
「この辺りですね」
ミナが工事一覧を引き寄せた。
西区高架水路と同じ送水系統にある予定だけを拾っていく。
水路壁の小補修。
点検口の交換。
魔力灯の術式交換。
どれも送水を止める必要はない。
さらに先の日付へ進んだところで、レオンの指が止まった。
送水量調整所。
定期点検。
予定日は、まだ先だった。
「これ、今回の高架水路へ水を送っているところですよね」
「はい」
ミナが資料を確認した。
「不調報告が付いてます」
別の記録を抜き出す。
水量を大きく落としたとき、閉鎖板の動きが鈍くなることがある。
手動で補助すれば必要な位置までは動かせる。
通常の送水には影響していない。
そのため、次回の定期点検に合わせて確認する予定になっていた。
「これだけなら、まだ先でもおかしくないですね」
レオンはうなずいた。
今、水は流れている。
必要な量も送れている。
不調があることと、今すぐ直さなければならないことは別だった。
「現物を見ます」
◇
送水量調整所は、高架水路より上流側にあった。
石造りの水路をまたぐように、小さな建屋が組まれている。
その中央には、厚い石の閉鎖板が吊られていた。
普段は水面より上まで引き上げられている。
水量を落とすときは、魔力で少しずつ板を下ろし、水の通り道を狭めていく。
閉鎖板の脇には低い石台があり、表面にはいくつもの術式が刻まれていた。
「普段はここまで上げています」
担当者が閉鎖板を示した。
「不調が出るのは?」
「水量を大きく落とすときです。途中から、板の下がり方が鈍くなることがあります」
「前回、高架水路を止めたときは?」
「手動で補助して閉じました。少し重かったですが、最後までは下りています」
レオンは閉鎖板の脇へ回った。
板そのものに欠けやひびはない。
吊り上げている枠にも、目立った歪みは見えなかった。
「一度、下ろしてもらえますか」
「どこまでです?」
「通常の点検で動かすところまでで構いません」
担当者が石台に刻まれた制御紋へ手を触れた。
指先から魔力が流れ込む。
刻まれた線が淡く光り、閉鎖板がゆっくりと下がり始めた。
水の通り道が狭まり、水路を走る音も少しずつ変わっていく。
途中までは滑らかだった。
だが、ある高さまで下がったところで、動きがわずかに鈍った。
「ここです」
担当者が言った。
レオンは《断脈視》を使った。
石台から閉鎖板の駆動部へ伸びる魔力の流れ。
その途中に、細い赤黒い切れ目が重なっている。
「もう少し下ろせますか」
「点検範囲なら」
担当者が制御紋へさらに魔力を流した。
閉鎖板が少し下がる。
だが、さっきまでより明らかに遅い。
赤黒い切れ目も濃くなった。
「そこで止めてください」
担当者が制御紋から手を離した。
閉鎖板が止まる。
「今の位置で、駆動部の値を測れますか」
「できます」
担当者が別の技師を呼んだ。
二人で閉鎖板の脇にある点検口を開き、測定具を当てていく。
レオンには、板を下げるほど魔力の流れが弱くなっているように見えた。
だが、見えているだけでは異常とは決められない。
「……低いな」
「前もこんなだったか?」
「いや。前回より落ちてる」
担当者が記録を持ってくる。
レオンも数字を追った。
閉鎖板を下げたときの値が、前回より悪くなっている。
「前回、手動で補助したときの値は?」
「残っています」
記録を開き、現在の値と並べる。
技師の眉が寄った。
「閉じる側だけ、さらに落ちてるな」
「このまま悪くなったら?」
技師が点検口へ身を寄せた。
担当者も反対側から内部を確認する。
しばらくして、二人が顔を上げた。
「魔力だけでは、最後まで下がらなくなるかもしれません」
「手動なら?」
「今なら補助すれば閉じられると思います。ただ、前回より抵抗が増えています」
担当者が閉鎖板を見る。
「緊急時は、本来これだけで閉じられないと困ります」
レオンはうなずいた。
普段の送水量調整には使える。
だが、漏水や破損が起きて急いで止めるとき、そのたびに人を集めて手動で押し切れる保証はない。
しかも、前回より悪化している。
「次の定期点検まで、そのまま使えますか」
担当者はすぐには答えなかった。
閉鎖板と測定値を見比べる。
「普段どおり流すだけなら使えます」
そこで言葉を切った。
「でも、次に急いで止める必要が出たときは分かりません」
レオンは記録を見る。
不調がある。
前回より悪化している。
緊急時に必要な機能が確実に働くとは言えない。
定期点検まで待つ理由は薄かった。
「この状態なら、点検を前倒しする判断になりますか」
担当者が技師を見る。
技師はもう一度数字を確認してから、うなずいた。
「上げます。駆動部を開けて確認した方がいい」
「作業には?」
「一度、完全に閉じます。手動補助を付ければ、今なら閉鎖できます。その状態で駆動部を止めて点検します」
レオンはうなずいた。
「緊急補修で申請してください。測定記録も付けます」
「分かりました」
担当者が制御紋へ手を触れた。
術式が淡く光り、閉鎖板が元の位置まで引き上げられていく。
◇
翌朝。
オスカーたちは、四番から六番までの測定位置で待っていた。
ミナが一枚の書類をレオンへ差し出す。
「通りました」
送水量調整所の緊急補修申請。
設備側の測定記録と、担当者の所見が添えられている。
承認欄には、ガレス・オルド局次長の署名があった。
「予定どおり、補修が終わるまで送水停止です」
「分かりました」
レオンは書類を返した。
高架水路を調べるための止水申請は通らなかった。
だが、今度は違う。
送水量調整所そのものに、止めなければ直せない不調がある。
ガレスが止水を認める理由も、設備側の記録に残っていた。
上流から合図が届く。
「閉鎖、始まります」
水路を走っていた音が、少しずつ弱くなった。
石造りの水路の中で、水位がゆっくり下がっていく。
これまで絶えず聞こえていた水音が遠ざかる。
オスカーが測定具を持ち上げた。
「完全に止まってから時間を取ります」
「お願いします」
レオンは六番手前まで続く赤黒い線を見た。
止水が原因だと決まったわけではない。
今まで測れていなかった一つ目の工程を、ようやく同じ条件で確かめられる。
止水前の測定値はある。
次は、止めた直後。
そのあとも時間を置いて測る。
やがて、水路の底を流れていた最後の水が途切れた。
高架水路の水が、止まった。




