30話 境界
五日前に引いた線は、もう使えなかった。
レオンは地図から顔を上げた。
境界の外側で折れていた支持部。その先へ、赤黒い断脈が伸びている。
向かう先には、まだ人のいる家が並んでいた。
「ミナ。外側の測定点を全部、もう一度です」
「はい」
「バルドさん。この支持部から先、足元に使えそうな場所を見たいです。今は掘り広げないでください」
「分かった」
レオンはリシアへ向き直った。
「追加で人を出す必要があります」
「範囲は?」
「まだ決められません。先に境界を引き直します」
五日前と同じ場所へ、ただ線をずらすわけにはいかない。
昨日まで動いていなかった場所が、今日は動いている。
なら、今見えている断脈だけで次の線を決めれば、また追いつかれる。
◇
夕方までに、境界の外側へ新しい測定点が増えた。
石畳へ墨印を付ける。
建物の角から糸を垂らす。
戸口と向かいの壁の距離を測る。
バルドたちは、過去に地下を補強した記録と照らし合わせながら、必要な場所だけ石畳を開けた。
古い木材。
石組み。
その上へ、さらに後から足された別の支持材。
場所によって組み方が違う。
「こっちは生きてる」
バルドが木材を工具の柄で叩いた。
乾いた音が返る。
「少なくとも、今こいつへ荷が増えた跡はねえ」
レオンは、その位置を地図へ写した。
少し先では違った。
表の墨印はまだ動いていない。
だが地下の支持材には、新しい圧痕が残っていた。
「ここは外します」
「表はまだ動いてねえぞ」
「でも、荷が来ています」
レオンは支持材の奥へ手を置いた。
細い断脈が二本、同じ方向へ走っている。
まだ黒くはない。
だが、折れた支持部からこちらへ向かっていた。
「ここを境界にすると、切り離す前に動く可能性があります」
「なら、もう一つ外だな」
バルドが地図へ指を置く。
レオンは首を振った。
「そこも確認してからです」
線を外へ動かすほど、失う家は増える。
だからといって、家の数を先に決めることはできない。
境界にするなら、その先が実際に動いていないことを確かめる必要がある。
◇
日が落ちる頃、地図の上に新しい線が引かれた。
五日前の線より、一つ外側の通りまで後退している。
その間にある家は、十数軒。
店が二つ。
小さな工房が一つ。
昨日までは、境界の外に置いていた場所だった。
世話役は、二本の線を見比べていた。
「……ここもか」
「はい」
レオンは答えた。
「この支持部まで、荷が移り始めています。ここには境界を置けません」
「昨日までは大丈夫だったんだろ」
「昨日までは、大きな変位はありませんでした」
「今日は違う」
「はい」
世話役は何も言わなかった。
五日前、待てば境界をさらに外へ動かすことになるかもしれないと説明した。
その通りになった。
だからといって、レオンに言えることは何もなかった。
正しかったと示したいわけではない。
失う家が増えただけだ。
リシアが新しい線の内側を確認した。
「この範囲の住民は、まだ全員出ていません」
「今夜から順に動かせますか」
「移る場所は、前の確認で大半が決まっています。昨日まで境界の外だった家も、候補は出してあります」
そこで世話役が顔を上げた。
「候補まで決めてたのか」
「決めていたのは、必要になったときの場所です」
リシアは地図から目をそらさなかった。
「使わずに済むなら、その方がよかった」
男はしばらく黙った。
やがて、新しい線の内側にある自分の家を指した。
「……俺んとこも入ってるな」
「はい」
世話役は腰に下げた鍵へ手を触れた。
「分かった。先に俺が出る」
「世話役さんからでなくても――」
「まだ大丈夫だって言ってた俺が残ってたら、他の連中が動けねえ」
レオンは言葉を止めた。
男は地図から離れた。
「今夜中に要るもんだけ出す。残りは明日だ」
レオンはうなずいた。
「お願いします」
それだけ言って、男は通りの奥へ歩いていった。
◇
翌朝。
新しい境界の内側から、人は出ていた。
全部の家財を運び終えたわけではない。
だが、住民は残っていない。
兵士が通りの入口を塞ぎ、必要な物を取りに戻る者には付き添いを付けている。
レオンは新しい境界の外側へ立った。
ここから先を守る。
そのために、まず境界の外側を支えなければならない。
「ここへ一本」
「こっちは石で受ける。木だけじゃ沈む」
バルドが職人へ指示を飛ばした。
復旧した街道から運び込まれた木材と石が、通りの外側へ積まれている。
職人たちは、動いていない地面から新しい受けを組み始めた。
一本。
もう一本。
家一軒を支えるためではない。
切り離したあと、外側の建物と通りが沈む側へ引かれないよう、境界沿いへ順に受けを作っていく。
「締めすぎるな!」
バルドが声を上げた。
「持ち上げるんじゃねえ。今の位置で受けろ!」
レオンは断脈を追った。
新しい受けへ荷が掛かる。
細い線が一度濃くなり、そこで止まる。
隣へ広がらない。
「そのままで大丈夫です」
次の受けへ進む。
一つずつ。
外側の受けを先に作る。
それが終わるまで、内側には触れない。
◇
昼を過ぎた頃、境界沿いの受けがつながった。
バルドが最後の木材を叩く。
「こっちは持たせた」
レオンは墨印を確認した。
動いていない。
断脈も、新しい受けを越えて外側へ伸びてはいない。
「次です」
バルドが境界の内側を見る。
「どこから開ける」
レオンは、境界の内側に残る一軒の家を見た。
人はもういない。
それでも、壁も屋根も立っている。
壊れていないものを、自分たちの手で壊す。
今までの復旧でも、傷んだ場所を直すために解体したことはある。
だが今回は違う。
この家を直すためではない。
ここから先を守るために、失う側を決めて壊す。
「境界に掛かっている建物からです」
レオンは一軒を指した。
「上から軽くします。屋根材、二階の床、壁の順です。使える材は外へ出してください」
「地下を開けるためだな」
「はい。地下の支持部へ届いたら、一度止めます」
バルドが職人たちを振り返った。
「聞いたな! 使えるもんは捨てるな! 外へ回せ!」
槌が入った。
屋根瓦が一枚ずつ外される。
梁が下ろされる。
壁がなくなり、朝まで家だった場所の向こうに空が見えた。
隣の建物も同じように開けていく。
壊す音が旧市街へ響いた。
通りの外には、移った住民たちが立っていた。
世話役もいた。
誰も声を上げなかった。
自分の家ではない者も、目をそらさなかった。
やがて地下が見えた。
古い支持材が何本も交差している。
内側から外側へ。
後から足された材が、別の石組みへ。
さらにその上から別の支えが噛んでいる。
一つを外せば終わる形ではない。
「これを順に外す」
バルドが言った。
「新しい受けに荷が乗ったのを見ながらだ。一気に切れば、どっちへ走るか分からん」
「お願いします」
最初の古い材へ、楔が入る。
少し緩める。
外側の新しい受けが、低く鳴った。
「止めて」
レオンは断脈を見た。
荷が移る。
新しい受けへ。
その先では止まっている。
「いけます。続きを」
材が外された。
次。
その次。
内側と外側をつないでいた支持材が、一つずつ消えていく。
同時に、境界より内側の地面で断脈が濃くなった。
だが外側へは伸びない。
レオンは最後の一本を見た。
太い。
長年、両側をつないでいた石組みの上に載っている。
「これで最後だ」
バルドが確認した。
「外せば、向こうはこっちに預けられなくなる」
「はい」
レオンは境界の外側を見た。
新しい受け。
墨印。
建物の傾き。
断脈。
全部をもう一度追う。
最後の一本を残せば、沈む側が動いたとき、またこちらへ荷を渡す。
切れば、失う側は自分で沈む。
その動きを、外側へ渡さない。
「外してください」
バルドが楔を打った。
乾いた音が響く。
一度。
二度。
古い材が外れた。
直後、境界の内側で地面が低く鳴った。
石畳が沈む。
解体した家の跡で土が落ち、残っていた壁の一部が内側へ傾いた。
住民たちの間から息を呑む音が上がる。
「全員、そのまま!」
レオンは外側だけを見た。
新しい受けが鳴る。
一つ。
二つ。
だが、動かない。
墨印もずれない。
赤黒い断脈が境界へ走ってくる。
新しい受けの手前まで。
そこで、止まった。
レオンは地面へ手を置いた。
待つ。
もう一度、内側で石が崩れる音がした。
それでも、線は越えてこない。
「……止まった」
ミナが記録板を握ったまま言った。
「外側、変位ありません」
バルドも受けへ手を当てる。
「こっちへ来てねえ」
レオンは、境界の向こうを見た。
家が一軒、形を失っている。
その隣も、もう元のままでは残せない。
失った。
自分たちで切った。
それでも、その先の家並みは立っている。
「測定を続けます」
レオンは立ち上がった。
「今日だけでは決めません。明日も、その次も確認します」
誰も歓声を上げなかった。
必要なものを失わずに済んだわけではない。
それでも。
五日前から外へ逃げ続けていた境界は、そこで初めて止まった。




