31話 街は残った
境界の墨印は、三日経っても動かなかった。
朝と夕方。
レオンたちは同じ場所を測り続けた。
新しく組んだ受け。石畳の継ぎ目。残した家の壁。地下へ入れた支持材。
どこにも、切り離す前のような変位は出ていない。
境界の向こうでは、失った街区がそのまま残っていた。
地面はところどころ沈み、解体した家の跡には石と土が露出している。残していた壁の一部も傾き、もう人が暮らせる形ではない。
そこだけ見れば、復旧したとは言いにくかった。
レオンは境界の手前へしゃがみ、石畳へ手を置いた。
断脈は残っている。
だが、沈んだ側からこちらへ伸びていた線は、三日前と同じ場所で途切れていた。
「外側、今日も変位なしです」
ミナが記録板へ書き込んだ。
「これで六回連続ですね」
「はい。まだ測定は続けます」
バルドが新しい受けを工具の柄で叩いた。
硬い音が返る。
「こっちも変わらん。荷も増えてねえ」
レオンは立ち上がった。
止まった、と判断したのは三日前だ。
だが、一度止まったように見えただけでは足りない。
朝と夕方で測り、地下を見て、残した側の建物も確かめた。
それでも変化は出なかった。
切った境界は、今のところ機能している。
「残した側は、このまま使えます」
ミナが顔を上げた。
「じゃあ、戻れる家もあるんですね」
「境界の外側は。ただし、測定は続けます」
「分かってます」
少し離れたところで、旧市街の世話役がそのやり取りを聞いていた。
世話役は境界の向こうを見た。
今、その向こうにあるのは、解体された家と沈んだ通りだった。
「……あっちは、もう戻せねえんだな」
「はい」
レオンは答えた。
曖昧にはしなかった。
「でも、こっちは残りました」
世話役は境界のこちら側へ目を向けた。
通りには、戸を開ける家がある。
洗った布を干す者がいる。
子どもが石畳の端を走り、その後ろから母親の声が飛んだ。
境界から数軒先では、昨日まで閉じていた店の戸板が外されている。
失った一角のすぐ隣で、朝が始まっていた。
世話役はしばらく黙っていた。
「……ここで、止められたんだな」
「はい」
世話役は境界の向こうを一度だけ見た。
「見せたいもんがある。来てくれ」
◇
旧市街の外れにある通りで、見覚えのある看板が壁へ掛けられていた。
五日前、最初に荷物を運び出した小さな店のものだった。
看板には擦れた跡が残り、端が少し欠けている。
新しいものではない。
店も、以前と同じ建物ではなかった。
それでも戸口の前には商品箱が並び、店主が一つずつ蓋を開けていた。
「全部は置けねえけどな」
店主はレオンを見ると、箱を足元へ下ろした。
「売る分だけ持ってきた。残りは商人組合の倉を借りてる」
以前、荷車へ載せた帳簿も、店の奥の机に置かれていた。
「場所は狭くなりましたね」
「前よりな」
店主は看板を見上げた。
「でも、店は店だ」
通りの先から、金属を打つ音が響いた。
別の建物では、旧市街から移った職人たちが工具を並べている。
炉そのものを運べなかった工房もある。
使える場所を借り、持ち出した工具と材料で、先にできる仕事から再開していた。
槌が振り下ろされる。
乾いた音が二度続いた。
その脇には、復旧した街道から届いた木材と鉄材が積まれている。
道がつながっていなければ、ここまで運べなかったものだ。
「どうだ、朝からうるせえだろ」
バルドが後ろから言った。
「いい音です」
「そうか?」
バルドは笑った。
「俺には仕事が増える音にしか聞こえんがな」
ミナが小さく笑いながら、記録板へ何かを書き足した。
「何を書いてるんですか」
「移転した店と工房です。どこで再開したか、あとで分からなくならないように」
壊れた場所を記録していた板に、今は再開した場所が増えている。
レオンはそれを見てから、通りの先へ目を向けた。
荷車が一台、ゆっくりと曲がってきた。
麦袋を積んでいる。
南門から入り、復旧した街道橋を渡ってきた荷だった。
荷車が通り過ぎたあと、遠くで水の流れる音がした。
公共水場では、桶を持った住民が列を作っている。
水路を直した頃には、その水が戻るだけで街中が沸いた。
今では、人々は話をしながら桶へ水を汲み、当たり前のように持ち帰っていく。
その向こうでは、水車が回っていた。
街道では荷が動いている。
南門の上には兵士が立ち、防壁の術式が淡く光っている。
どれも、レオンがこの街へ来た日には止まりかけていたものだった。
一つを直しただけでは、街は戻らなかった。
水が戻り、道がつながり、壁が働き、その全部があったから、旧市街から人と荷を移すことができた。
失った場所はある。
それでも、失ったことで終わらなかった。
◇
昼過ぎ、リシアは旧市街の地図を領主館の机へ広げていた。
以前は建物と測定点ばかりだった地図に、新しい書き込みが増えている。
移転した家。
借りた店舗。
仕事を再開した工房。
資材を置く場所。
そして、立ち入りを止めたまま残す街区。
「移転先が決まっていなかった家も、これで全部です」
リシアが一覧を閉じた。
「商いを再開できていない店は?」
「二軒です。片方は場所を調整中。もう片方は、持ち出した品の整理を先にしたいそうです」
「工房は?」
「炉が必要なところはまだです。ただ、工具だけでできる仕事は始めています」
リシアはうなずいた。
すべて元どおりではない。
家を失った者もいる。
店の広さが変わった者もいる。
同じ仕事をすぐ再開できない者もいる。
それでも、人は危険な街区から出た。
暮らす場所は決まった。
商いも、できるところから動き始めている。
「旧市街の立入禁止は継続します」
レオンは地図の境界を指した。
「残した側も、当面は朝夕で測定します。地下の支持部は、これで終わりにはしません」
「お願いします」
リシアは地図を見た。
「以前なら、壊れた建物の数だけを数えていたと思います」
レオンは彼女を見る。
「今は?」
「戻った家と、再開した店の数も数えています」
窓の外から、荷車の車輪が石畳を通る音がした。
少し遅れて、鍛冶場の槌が鳴る。
水車の回る低い音も混じっていた。
領都は、静かではなかった。
あちこちで仕事の音がしている。
レオンが初めて来た日とは、まるで違う。
「レオン」
リシアが呼んだ。
「ありがとうございました」
レオンは少しだけ間を置いた。
「まだ終わってません」
「そう言うと思いました」
リシアの口元がわずかに緩んだ。
「では、復旧総監。明日からもお願いします」
「はい」
レオンは地図を畳んだ。
全部を守れたわけではない。
失った家も、戻らない通りもある。
それでも、人は残った。
仕事も残った。
街は、動き続けている。
◇
王都復興局。
ガレス・オルドの机には、朝から新しい報告書が積み上がっていた。
水路の漏水。
石畳の沈下。
公共魔力設備の停止。
どれも一件だけなら、珍しいものではない。
だが、報告が途切れなかった。
「西区の水路は?」
「応急処置までです。恒久復旧の班は、北側の道路沈下へ回しました」
「南側の魔力設備は」
「昨日、再起動しました。ただ、今朝また別の区画で停止しています」
ガレスは眉を寄せた。
「人を増やせ」
「すでに二班、追加しています」
「なら、さらに出せ」
向かいに立つ復旧官は、わずかに言葉を詰まらせた。
「……出せる班が、もうありません」
ガレスの指が止まる。
「地方から呼べ」
「三日前から要請しています。ただ、王都へ回せる者は限られています」
復旧官は手元の記録をめくった。
「それに、人数だけの問題でもありません。現場ごとに原因が違う。表面だけ直しても、別の場所でまた異常が出ています」
ガレスは顔を上げた。
「それで?」
「今の体制では、報告に対応するだけで精一杯です。原因を追うところまで手が回っていません」
部屋が静かになった。
机の端には、別の束が置かれている。
ヴァレイン辺境領から届いた報告書だった。
給水復旧。
街道橋の再開。
防壁術式の再構成。
旧市街の連鎖沈下の停止。
そのどれにも、同じ名前が記されている。
レオン・アーデン。
「……ヴァレインは、ずいぶん景気がいいらしいな」
「はい。少なくとも、報告上は」
「報告上は、か」
ガレスは一枚を抜き取った。
何度目か分からないその名前を眺める。
「辺境へ飛ばした男が、今では復旧総監だそうだ」
復旧官は答えなかった。
「水路を戻し、橋を直し、防壁まで立て直した」
ガレスは紙を机へ戻した。
「大したものだ」
声には、感心よりも冷たさが混じっていた。
「王都とは比べ物にならない小さな現場でしょう」
復旧官が慎重に言う。
ガレスの口元が、わずかに歪んだ。
「そうだな」
指先で、積まれた報告書を軽く叩く。
「なら、ちょうどいい」
「……何がでしょうか」
ガレスは椅子へ深く背を預けた。
「やつを呼び戻せ」
復旧官が目を上げる。
「レオン・アーデンを、王都へですか?」
「ああ」
ガレスは、机に積み上がった未処理の報告書を見た。
「辺境でそれだけの結果を出したんだ」
そして、薄く笑った。
「復旧総監様の実力を、見せてもらおうじゃないか」




