29話 街を空ける
翌朝になっても、旧市街の住民から答えは出なかった。
レオンたちは、昨日と同じように測定から始めた。
線の内側。
最初に折れた支持部の隣では、墨印がまたわずかに開いている。
その先も、昨日よりほんの少しだけずれていた。
だが、昨日決めた境界より外側には、まだ大きな変化はない。
「外側は、今のところ同じです」
ミナが記録板へ書き込む。
「内側は?」
「二か所、昨日より開いてます。大きくはないですけど」
レオンは地面へ手を置いた。
地下を走る断脈も、測定結果と同じだった。
折れた支持部から隣へ。その先へ。
濃くなった線は、まだ昨日の境界を越えてはいない。
昨日、住民へ伝えた線は、今朝も使える。
だからといって、昨日の説明だけで家を空ける決断ができるわけではなかった。
◇
昼前から、住民が一軒ずつ地図の前へ来るようになった。
集会ではない。
家族で話したあと、聞きたいことができた者が来ている。
「親父が歩けねえんだ。移るなら、荷物より先に親父を出したい」
ミナが家の位置を確認する。
「人数は?」
「三人だ。俺と女房と親父」
「運ぶ人も必要って書いておきます」
その隣では、店主がリシアへ尋ねていた。
「場所を借りられたとして、いつまで使える」
「まだ期間は決められません。元の場所へ戻れるとも約束できないので、短期間だけを前提にはしません」
「商品を全部置ける広さは?」
「それも店ごとに確認します。まず、商いを続けるために何が必要かを出してください」
別の職人は、使える工房の炉の大きさを聞いていた。
家畜をどこへ置くのかと尋ねる者もいた。
誰もまだ、出ると決めたわけではない。
だが、出ることになったら何が必要なのかを考え始めている。
リシアは、それを一つずつ記録させた。
親族を頼れる家。
住む場所を用意する必要がある家。
店を続けたい者。
工房が必要な者。
老人や小さな子どもがいる家。
昨日までは、旧市街の地図に建物と測定点しかなかった。
その横へ、そこで暮らしている人間の事情が増えていった。
◇
二日目になっても、全員の意見は揃わなかった。
朝の測定を終えたあと、世話役がレオンのところへ来た。
「まだ、まとまらねえ」
世話役は地図の前で腕を組んだ。
「出た方がいいって奴もいる。まだ何も壊れてないのに、店を閉められるかって奴もいる。年寄りは、ここ以外で暮らしたことがねえって言う」
「分かりました」
「急かさねえのか」
「測定結果が変わらない限り、昨日伝えた以上のことは言えません」
世話役が地図を見る。
「変わったら?」
「そのときは、すぐに伝えます」
レオンも地図へ目を落とした。
急げば安全になるとは限らない。
だが、待てば同じ条件が残るとも限らない。
決めるために必要な時間と、地面が待つ時間は別だった。
「それまでは、こっちも準備だけ進めます」
「準備?」
「外側から支えられる場所を詰めます。まだ家は壊しません」
少し離れたところでは、バルドたちが境界の外側を調べていた。
石畳を叩き、過去の修繕記録と照らし合わせる。
支えを置く足元として使える場所と、使いたくない場所を分けている。
「ここは駄目だ」
バルドが工具の柄で石を叩いた。
硬い音のあと、奥で少し濁る。
「表は動いてねえが、中の詰まりが甘い。切ったあとにこいつへ預ける気にはならんな」
「では外します」
レオンは地図の印を一つ消した。
残す側だから、どこでも使えるわけではない。
動いていないこと。
支えの足元として使えること。
その両方が必要だった。
◇
その日の夕方、最初に荷物を出したのは、線の内側にある小さな店だった。
全部ではない。
帳簿と金箱、それから店主が一人では運べない商品だけだった。
「出るって決めたわけじゃないぞ」
店主は、荷車へ箱を載せながら言った。
「分かっています」
「もし何も起きなかったら、また戻すからな」
「はい」
レオンはそれ以上言わなかった。
荷車は、復旧した街道を通って領都へ入ってきた商人のものだった。
荷を降ろした帰りに、商人組合から旧市街へ回されている。
別の通りでは、兵士が老人の家から大きな箱を運び出していた。
防壁の警備が通常へ戻ったことで、旧市街へ回せる人手ができている。
今まで直してきたものが、次の復旧を支えていた。
それでも、その日に家そのものを空けた者は少なかった。
夜になれば、まだ多くの窓に灯りがついた。
◇
三日目の朝。
レオンが最初の測定点へ着くと、すでに世話役が待っていた。
その後ろには、何人かの住民がいる。
「昨日、もう一度みんなで話した」
世話役は言った。
「全員が納得したわけじゃねえ」
レオンは黙って聞いた。
「家を壊していいって話にも、まだなってない」
「はい」
「だが、人が中にいたままじゃ、あんたらも何もできねえんだろ」
「地下を開ける作業には入れません」
男はしばらく黙った。
「なら、先に人を出す」
後ろの住民たちが、小さくうなずいた。
「戻れるかどうかを決めるのは、そのあとだ。家を壊す話も、そのあとにしてくれ」
「分かりました」
それならできる。
今の家を諦める決断と、安全な場所へ移る決断を、一度にさせる必要はない。
「まず、線の内側からです」
レオンは地図を指した。
「今日中に全部とは言いません。老人や子どもがいる家、運ぶのに人手が必要な家から始めます」
リシアも記録を開いた。
「移る場所が決まっている家から順に動かします。まだ決まっていない家を、先に外へ出すことはしません」
世話役がうなずく。
「それなら、やれる」
旧市街が、少しずつ動き始めた。
◇
そこから二日かかった。
荷車が何度も旧市街へ入り、人と家財を運び出した。
ミナは家ごとに印を付けた。
人が残っている。
人は出たが、商売道具が残っている。
運び出しが終わった。
それを一軒ずつ分けていく。
バルドたちは、その間も境界の外側で支えを入れる場所を詰めた。
まだ建物には触れない。
地下へ入るために、どこを開ける必要があるか。
切り離したあと、残す側をどこで受けるか。
必要な木材と石を、復旧した街道から運び込む。
作業に使う通りは兵士が空け、住民の荷車と資材の荷車がぶつからないよう順番を決める。
誰か一人が街を空けたのではない。
住民が荷を選び、商人が運び、兵士が道を空け、職人が次の作業を準備する。
レオンは、その間も朝と夕方の測定を止めなかった。
内側の変位は少しずつ広がっている。
だが、境界の外はまだ持っていた。
五日目の夕方。
ミナが最後の一軒から戻ってきた。
「線の内側、人は全員出ました」
「確認できていますか」
「はい。家ごとに確認しました。家畜も残ってません」
リシアも別の記録を閉じる。
「今夜の居場所も、全員決まっています」
レオンは旧市街を見た。
家はまだ立っている。
看板が外された店もあれば、そのままの店もある。
戸が閉じられ、人の声だけが消えた通りが伸びていた。
建物を失ったわけではない。
まだ、戻れる可能性を捨てたわけでもない。
それでも、人だけは危険な側から出せた。
「明日の朝から、外側の受けを組みます」
バルドが言った。
「受けを作ってから、どこを開けるか決める。家を壊すのはそのあとだ」
「お願いします」
レオンは、最後に境界の墨印を確認するため歩き出した。
一つ目。
変化なし。
二つ目。
変化なし。
三つ目。
そこで足が止まった。
朝には重なっていた墨の線が、離れている。
ごくわずかだった。
だが、その印は境界の外側にあった。
「ミナ」
呼ぶ前に、ミナも気づいた。
記録板を開き、朝の数字と見比べる。
「……動いてます」
バルドが近づいた。
石畳へしゃがみ、工具の柄を当てる。
一度。
二度。
少し場所をずらしたところで、鈍い音が返った。
「開けるぞ」
職人が石畳を数枚だけ外した。
土を崩さないよう、狭く掘る。
やがて、古い木の支持部が現れた。
バルドが土を払う。
木材の途中に、細い亀裂が入っていた。
指を掛ける。
表面が、ぱきりと剥がれた。
その奥で、木は割れていた。
「……こいつもだ」
バルドが低く言った。
「折れてる」
レオンは穴の縁へ手を置いた。
地面の奥に、赤黒い断脈が走っている。
昨日まで細かった線が濃くなり、さらに外側へ伸びていた。
その先には、まだ人が暮らしている家がある。
昨日まで、残す側として考えていた場所だった。
レオンは地図を開いた。
五日前に引いた一本の線。
住民へ説明し、そこを境に残す側と分けるはずだった線。
もう、その位置では足りない。
「作業は止めます」
バルドが穴から顔を上げる。
「明日の受けもか」
「はい。ここを足元には使えません」
レオンは地図の線へ指を置いた。
住民に考えてもらっている間も、地面は動いていた。
人を出し終えたときには、残せる場所の方が変わっていた。
「この線は、もう使えません」




