28話 旧市街の住民へ
旧市街の外れに、住民が集められていた。
昨日、レオンたちが引いた線より外側。
三日間の測定で、大きな変位が出ていない通りだった。
朝からリシアが各戸へ人を回し、家や店の者へ集まるよう伝えている。
通りの中央には簡素な机が一つ置かれ、その上に旧市街の地図が広げられていた。
家並み。通り。測定した場所。
そして、昨日決めた一本の線。
店主。職人。家を持つ者。借りて暮らす者。
机の前だけでは収まりきらず、通りの両側まで人が並んでいた。
レオンたちが測定を始めてから三日。
通りに杭や墨印が増え、石畳まで開けられれば、何も起きていないと思う者はいない。
それでも、集まった者たちの顔に切迫した色は薄かった。
外では、いつもと同じように店が開いている。
傾きの出ていない家も多い。
床下で受けが折れていると言われても、目の前の壁は立っていた。
「それで、どこを直すんだ」
最前列にいた旧市街の世話役が尋ねた。
年嵩の男で、片手には店の鍵を握っている。
「水路のときみたいに、止める場所が決まったんだろ?」
別の住民が続ける。
「橋だって通れるようになった。壁も直した。今度は、この辺の下を直すって話じゃないのか」
レオンは、地図の上に引かれた一本の線へ手を置いた。
「先に、分かっていることだけ説明します」
ざわめきが少し落ちた。
「この辺りの地下には、昔から何度も支えが足されています。沈んだ場所を持たせるために、石や木材を入れて、今の家並みを残してきた」
レオンは、最初に折れた支持部へ印を置いた。
「三日前、この一つが壊れました。今は、その分を隣の支持部が受けています。その隣にも変化が出始めています」
「じゃあ、折れたやつを直せないのか」
声が飛んだ。
「一本を替えるだけならできる」
バルドが前へ出た。
机の端へ、割れた木材の一部を置く。
「だが、こいつには上の家の重さが載ってた。新しい材を入れるなら、その間、その重さを別の受けへ預けなきゃならねえ」
世話役が眉を寄せた。
「別の受け?」
「仮に支える場所が要るってことだ」
バルドは地図の内側を指した。
「だが、隣も、その先も地面が動き始めてる。そこへ新しい受けを立てたところで、安全な足場にはならねえ」
「じゃあ、どうするんだ」
「動いてねえ外側から受ける」
バルドの指が、昨日引いた線の外へ移った。
「ここなら支えの足元を置ける。だが、外から一本入れりゃ、この中の家全部を支えられるわけじゃねえ」
指が線の内側を横切った。
「奥まで支えを組むには、家の下へ入らなきゃならん。床も外す。壁もどかす。通りも剥がす。地下を開けなきゃ、組み直せねえ」
今度は、すぐに声が返らなかった。
世話役の男が、地図の線を見た。
「……全部、壊すのか」
「全部ではありません」
レオンは線の外側を指した。
「ここから外は、今のところ動いていません。こちらを残すために、内側とのつながりを切る準備をします」
「準備って、何をする」
「まず、人と家財を出します。仕事に必要な道具や、使える資材も運び出す。そのあと、地下を開けるために必要な建物は解体します」
通りの空気が変わった。
「解体するって……」
世話役が聞き返す。
「戻れるのか、戻れないのか、どっちなんだ」
レオンは地図から目を上げた。
「今の家へ戻れるとは約束できません」
ざわめきが一気に広がった。
「まだ住めてるぞ!」
「うちは戸だって普通に閉まる!」
「昨日まで客も入ってたんだ!」
声はもっともだった。
壁が崩れたわけではない。
床が抜けたわけでもない。
目の前で暮らせている場所から出ろと言われている。
しかも、戻れる保証はない。
「本当に、家を空けなきゃならないのか!」
「今のまま住み続けて安全だとは言えません」
レオンは答えた。
ざわめきの中から、別の声が飛ぶ。
「だったら、いつ危なくなるんだ」
「分かりません」
「分からないのに、家を空けろって?」
「危なくなってからでは、残せる場所まで変わる可能性があります」
レオンは声を張らなかった。
机の上の地図へ、二つ目の印を置く。
「最初の支持部が壊れたあと、隣の墨印が開きました。その次の支持部にも、昨日より強く荷が掛かっています」
三つ目の印を置く。
「昨日決めたこの線は、今の測定なら動いていない側に置けます。ですが、内側の変位がここを越えれば、同じ場所では分けられません」
「かもしれない、ばっかりじゃねえか」
誰かが吐き捨てるように言った。
レオンは否定しなかった。
「はい。いつ壊れるかも、次にどこが折れるかも断定できません」
だからこそ、見えている断脈だけで答えを作らなかった。
測った。
掘った。
記録を集めた。
住民から聞いた。
バルドたちと、今の家並みを残したまま支え直せる場所があるかを確かめた。
その上で、残せる範囲を選んだ。
「でも、今ある家を載せたまま、動いていない場所から支え直す方法がないことは確認しました」
通りが静かになった。
世話役の男は、しばらくレオンを見ていた。
「あんた、水を戻したよな」
「はい」
「橋も直した」
「はい」
「壁だって、あの魔物が来た日に持たせた」
レオンは答えなかった。
男は握っていた鍵を机へ置いた。
「だから今回も、直せると思ってた」
その言葉の方が、怒鳴り声より重かった。
レオンは地図の内側を見た。
まだ立っている家。
まだ開いている店。
折れた一本を替えることだけならできる。
だが、その作業を安全に始めるための受けを、動いている範囲の中には置けない。
動いていない外側から支え直すには、地下へ届くよう上にあるものを外す必要がある。
今の家並みを守ることと、地面から組み直すことを、同時にはできなかった。
「俺も、今のまま残せる方法を探しました」
レオンは男を見る。
「ありませんでした」
誰も口を挟まなかった。
「この家並みを残すことと、ここで暮らしている人を守ることは、今は同じではありません」
世話役の男が目を伏せた。
その隣にいた女が口を開く。
「出ろって言われても、どこへ行くの」
今度は、リシアが答えた。
「そこからは私の仕事です」
彼女はレオンの隣へ立った。
「移れる場所を、これから家ごとに確認します。親族を頼れる方、領主館で場所を用意する必要がある方、それぞれ分けます」
世話役が顔を上げた。
「店は?」
「商人組合と場所を調整します。店を一日で元どおりにはできません。ですが、売れる品と帳簿、看板をどこへ移せるかは先に決めます。商いを続ける場所も、住まいとは別に探します」
「工房は、炉ごと動かせねえぞ」
奥にいた職人が言った。
「炉は無理に動かしません。工具、材料、仕掛品をどこまで移せるか確認してください。どの工房をどこへ移せるかは、バルドと職人側で必要条件を出してください。使える工房はこちらでも探します」
リシアはすぐに続けた。
「家畜がいる家は、頭数をミナへ。老人や小さい子がいる家、運ぶ人手が必要な家も先に確認します」
ミナが記録板を開いた。
「家ごとに分けて書きます」
「お願いします」
世話役の男は、しばらく黙っていた。
やがて、机の上に置いた鍵を握り直す。
「……少し、考えさせてくれ」
通りのあちこちから、小さく同意する声が上がった。
「家を空けるかもしれないって話を、今ここで決めろと言われても無理だ」
レオンはうなずいた。
「分かりました」
すぐに決められる話ではない。
住む場所。
仕事。
家族。
何年も暮らしてきた家そのもの。
それを、地図の線一本を見せられて手放せと言われても、受け入れるには時間が要る。
ただ、その時間がいくらでもあるわけではなかった。
「ただ、一つだけ伝えておきます」
レオンは地図へ手を戻した。
「一週間後も、今と同じ場所にこの線を引ける保証はありません」
世話役の視線が落ちる。
「……どういうことだ」
「今、線の外側では大きな変位が出ていません。だから、ここを残す側として考えられます」
レオンは内側に置いた三つの印を順に指した。
「ですが、この三日で動きが広がっています。さらに外側まで変位が出れば、線も外へずらさなければならない」
「そしたら?」
「今は残せると考えている家まで、空けてもらうことになります」
声が消えた。
「移る人も増えます。解体する範囲も広がる。残せる街が、その分だけ小さくなります」
レオンはそこで言葉を止めた。
急がせるために期限を作るつもりはない。
だが、待つことにも結果がある。
それを伏せたまま、考えてくださいとは言えなかった。
「今すぐ決めてくださいとは言いません」
レオンは住民たちを見た。
「その間も測定は続けます。線の位置を変えなければならない動きが出たら、すぐに伝えます」
リシアが続けた。
「こちらも、その間に移れる場所を探します。店や工房をどう残せるかも調整します」
それから、集まった住民たちを見渡した。
「皆さんも、家ごとに話してください。もし移ることになったら、何を残したいか。何を先に運ばなければならないか。こちらへ伝えてください」
世話役の男は、しばらく地図を見ていた。
「……分かった」
鍵を握ったまま、ゆっくりうなずく。
「まず、みんなで話をさせてくれ」
「お願いします」
リシアが答えた。
歓声はなかった。
納得した顔ばかりでもない。
それでよかった。
今日ここで必要なのは、住民を無理に動かすことではない。
何が起きているのか。
何を残せて、何を残せない可能性があるのか。
そして、待てば条件が変わるかもしれないこと。
それを同じ地図の前で共有することだった。
住民たちは、すぐには散らなかった。
地図を覗き込む者。
隣の者と小声で話す者。
自分の家の位置を確かめる者。
やがて一人、また一人と通りへ戻っていく。
荷造りのためではない。
家族や隣人と、これからを話すために。
レオンは机に残された地図を見た。
昨日引いた一本の線。
今なら、ここで残す側と分けられる。
明日も同じとは限らない。
「ミナ。測定は続けます」
「はい」
「バルドさん。外側から支えを入れる場合の場所だけ、先に詰めてください。まだ壊し始めません」
「分かった。いつでも動けるところまでだな」
「お願いします」
リシアも記録板を覗き込んだ。
「私は移れる場所を洗います。決めるのは、そのあとです」
誰もまだ、家を離れてはいない。
それでも、街はもう選ぶ準備を始めていた。




