27話 街を分ける線
折れた受けの隣で、昨日付けた墨印が開いていた。
ほんのわずかだった。
だが、割れた木材を見つけたときには重なっていた二本の線が、朝にはずれている。
レオンは掘り下げた穴の縁へ手を置いた。
壊れた支持部から隣へ伸びていた断脈が、昨日より濃い。
その先には、まだ形を保っている石組みがある。
「こっちも来てるな」
バルドが穴へ降り、隣の木材へ手を当てた。
工具の柄で軽く叩く。
乾いた音のあとに、奥で短い軋みが返った。
「折れてはいねえ。だが、前より噛んでる。荷が増えたんだろうな」
「もう一つ先も見ます」
レオンは立ち上がった。
壊れた一本だけを取り替える前に、どこまで影響が進んでいるかを確かめる必要がある。
職人たちは、昨日開けた場所から少し離れた石畳を外した。
広くは掘らない。
過去の修繕記録に支持材があると書かれた場所だけを、上から順に確かめていく。
最初の場所では、木材が折れていた。
二つ目では、石の受けが片側だけ深く沈み、木材が強く押しつぶされている。
三つ目は、まだ大きく動いていなかった。
だが、その手前まで赤黒い断脈が伸びていた。
「ここまでは来ています」
レオンが言うと、バルドは三つの穴を順に見た。
「一本壊れて、次が受けた。その次にも掛かり始めてるってことか」
「今の測定とは合います」
断脈だけなら、どれだけの重さが移ったのかは分からない。
だが、石畳のずれ、建物の傾き、地下の受けの状態は同じ方向を示していた。
壊れた場所の隣から、さらにその隣へ。
変化が広がっている。
◇
昼前、ミナが旧市街の地図を石畳へ広げた。
上には、これまで見つかった補強箇所が年ごとに書き込まれている。
「古い順に並べ直しました」
ミナが指を動かした。
「最初はこの辺りです。次がここ。そのあとに、こっちと裏通り」
補強の印は、同じ場所へ重なっていなかった。
少しずつ隣へ移っている。
「沈んだ場所を直したあと、その隣で別の補強をしています。全部じゃないですけど、同じ流れが何度もあります」
バルドが地図を覗き込んだ。
「昔から、荷を隣へ逃がして持たせてきたんだな」
「意図してそうしたかは分かりません」
レオンは補強の印を見た。
「ただ、一か所を支えたあと、その近くで次の沈下が出ています」
今起きていることだけが特別ではない。
小さな沈下が起きる。
支えを足す。
その場所は持つ。
別の場所が動く。
それをまた支える。
長い間、それを繰り返して街の形を残してきた。
そして今、一つの支持部が完全に折れたことで、その流れが速くなっている。
「壊れた一本を新しい材に替えたらどうなる」
リシアが尋ねた。
バルドはすぐには答えなかった。
地図ではなく、開けた穴の方を見る。
「替えるだけならできる」
「なら――」
「だが、古いのを外してる間、その分をどこかで受けなきゃならん」
バルドは足元の石畳を踏んだ。
「隣へ仮の受けを足せば、そいつも同じ地面の上だ。今までやってきたのと変わらねえ」
リシアの視線がレオンへ向いた。
「もっと外から支えることは?」
「動いていない場所から受けられるなら、可能性はあります」
レオンは答えた。
「ただし、街区の内側まで全部を外から支えるには、家や通りの下を越えて受けを通す必要があります。今ある建物を残したまま、順番に施工できるかを確認しないと決められません」
「見よう」
バルドが地図の端を押さえた。
「残せる形があるなら、穴を増やす前に分かるところまで出す」
◇
午後、レオンたちは旧市街の外側から順に測定点を回った。
通りの端。
建物の裏手。
古い補強が少ない場所。
昨日までに置いた杭と墨印を確認し、動いている場所と変わっていない場所を地図へ分けていく。
ミナが記録を読み上げる。
「ここは三日間、変化なしです」
次の印へ移る。
「こっちは二日目から開いてます。今日の朝も少し広がってます」
さらに先。
「ここも変化なし」
点を置くたび、ばらばらだった範囲に形が出てきた。
動いている側では、地下の断脈が家の基礎と支持部を行き来している。
外側へ離れるほど線は細くなり、やがて途切れる。
レオンは地図の上に縄を置いた。
動いている印だけを囲う。
最初に考えていたより広い。
だが、旧市街全部ではない。
「この外側は、今のところ動いていません」
レオンが言った。
「なら、そこを残す側にできるか」
バルドが聞く。
「可能性はあります」
レオンは縄の内側を見た。
問題は、動いている範囲だった。
壊れた支持部を直す。
隣を支える。
さらにその隣へ受けを足す。
それを続けても、支えの足元そのものが同じように動いている。
新しい受けを入れるたびに、どこかへ荷を渡さなければならない。
全部を残そうとするほど、まだ動いていない側まで支えに使うことになる。
そうなれば、今残っている場所まで巻き込む。
「バルドさん」
「分かってる」
バルドは低く答えた。
「この中を一本ずつ受け替えてくのは無理だ。抜くたびに隣へ載る。仮に受けても、その下が動く」
「全部を一度に受けるのは?」
リシアが尋ねた。
バルドは首を横に振った。
「受ける先がねえ。動いてない場所まで持っていくなら、間にある家も道もそのままじゃ済まん」
バルドは縄の内側を指でなぞった。
「動いていない外側から支えを伸ばすことはできる。だが、この家だけ支えれば済む話じゃねえ。今までこいつが受けてた分は、また隣へ回る」
「一軒ずつ直していくのは?」
「できん。最初の一軒を外した時点で、残った方へ荷が寄る。なら先に全部を支えなきゃならんが、その支えを置く地面まで動いてる」
バルドは縄で囲った一帯を指した。
「やるなら、この中の家を先に解体するしかねえ。通りも剥がす。地下を開けて、動いてない外側から支えを組み直す」
「住民を退かせるだけでは足りない?」
「人がいなくなっても、家はそのまま載ってる。古い受けは、その下だ。外して組み直すなら、上にある床も壁も先に外さなきゃ触れねえ」
バルドは地図の上を指で叩いた。
「地面を組み直したあとに、ここへ建て直す話なら別だ。だが、今ある家並みを残したまま直すのは無理だ」
避難させれば済む話ではなかった。
地下を組み直すには、その上にある家と通りを先に失う。
人が戻れる場所を作ることはできるかもしれない。
だが、今の街区をそのまま残すことはできない。
誰も続けなかった。
できる工事がないわけではない。
一本を替えることも、石を足すこともできる。
だが、それで街区全部を今の形のまま残せるわけではない。
むしろ同じことを続ければ、次の支持部へ荷を送り続ける。
レオンは地図を見た。
動いていない側。
動き始めている側。
その間に、まだ変化の小さい場所がある。
今なら、残す側を選べる。
だが、隣の支持部まで折れれば、その範囲はまた変わる。
「このまま全部を支え続ける案は取りません」
リシアはしばらく地図を見つめていた。
やがて、縄で囲われた一帯へ目を落とす。
「……全部は残せない、ということですね」
「はい」
短く答えると、リシアはもう一度地図を見た。
「残せるのは、どこまでですか」
レオンはすぐには答えなかった。
通りの向こうでは、店の戸が開いている。
荷を運ぶ人がいて、軒先では布を畳んでいる。
今も普通に使われている家ばかりだった。
壊れてはいない。
暮らせている。
それでも、その下では支えが順番に荷を渡している。
レオンは地図へ指を置いた。
動いている印と、変化の出ていない印の間をゆっくりとなぞる。
「この線より外側は、残す側として考えます」
その内側には、動いている印が集中していた。
すでに複数の支持部へ変位が広がっている。
「ですが、こちら側は――」
一度、言葉を切った。
これまでなら、どこを直せば残せるかを考えていた。
今回は違う。
残すために、残さない場所を決めなければならない。
「残せません」




