26話 街が動いている
旧市街へ入ってすぐ、レオンは足を止めた。
防壁の下から続いていた太い断脈は、一本のままではなかった。
石畳の下へ潜った先で枝分かれし、通りの両側に並ぶ古い家々の基礎へ伸びている。
黒くはない。
だが、一本の建物だけに集まる線でもなかった。
「この通り、最近直した場所はありますか」
レオンが尋ねると、バルドが石畳の端へしゃがみ込んだ。
継ぎ目には新しい石粉が詰められている。その隣には古い補修跡が残り、さらに先では別の色の石が一列だけ差し込まれていた。
「ある。俺も何度か入ってる。沈んだ石を上げたり、傾いた家の下へ受けを足したりな」
「同じ場所を繰り返し?」
「ああ。直したところがまた下がることもあった。だが、一度に大きく動くわけじゃねえから、その都度持たせてきた」
レオンは石畳へ手を置いた。
断脈は通りの中央を走り、家の基礎へ入り、また地面へ戻っている。
ところどころで細い線が重なり、互いを支えるように続いていた。
「通りの両側に、動いていない場所を基準として取ります」
レオンは周囲を見渡した。
「そこから石畳のずれと、家の傾きを一緒に測ります。どこからどこまで地面が動いているのか、先に確かめます」
バルドが立ち上がった。
「杭を打つ場所は俺が見る。動いてる地面に打ったら意味がねえ」
「お願いします。ミナは、ここ数年の沈下と補強の記録を集めてください。場所が分かるものを優先で」
「住んでる人にも聞きます。いつから戸が閉まりにくくなったとか、床が傾いたとか」
「それもお願いします」
リシアは旧市街の通りを見た。
店の戸は開き、軒先では野菜や布が並べられている。子どもが石畳を走り、荷を抱えた住民がすれ違う。
表から見ただけでは、地面や建物に異常が出ているとは分からなかった。
「危険な家はありますか」
「今のところ、特定の家だけが悪いとは言えません」
レオンは答えた。
「だから、先に動きを測ります」
◇
その日のうちに、旧市街の通りへ十数か所の印が置かれた。
動いていない地面へ杭を打ち、そこから縄を張る。
石畳の継ぎ目には墨印を引き、家の壁には細い糸と錘を下げた。
戸口の隙間、窓枠のずれ、床と壁の境目も記録する。
最初の測定では、石畳の墨印も、壁から下げた錘も動いていなかった。
翌朝も、ほとんどは同じだった。
だが、二日目の夕方、一つの家で壁から下げた錘の位置がずれた。
その向かいでは、石畳の墨印がわずかに開いている。
「こっちだけじゃないです」
ミナが記録板を抱えて走ってきた。
「一本裏の通りでも二か所。昨日から少し動いてます」
レオンは記録を並べた。
動いた家は隣り合っていない。
表通りの一軒。
向かいの石畳。
裏通りの二か所。
それぞれを別の傷みとして見れば、関係のない小さな変化に見える。
だが地図に置くと、四つの点は同じ範囲の中に収まった。
「バルドさん。建物が別々に傾いているように見えますか」
バルドは糸のずれと石畳を順に見た。
「家だけなら、基礎の悪い方へ倒れる。だがこれは向きが揃ってねえ」
工具の柄で石畳を叩く。
硬い音。
少し先では、低く濁った音が返った。
「下が動いて、その上に乗ってるもんが別々に引っ張られてる感じだな」
レオンも同じ考えだった。
《断脈視》では、家ごとの線より、その下を横切る太い断脈の方が強く見える。
家が原因ではない。
もっと広い範囲が動いている。
「測る場所を増やします。この四か所の間も確認して、どこまで同じ動きが出ているのか確かめます」
◇
三日目、ミナが古い修繕記録を抱えて戻ってきた。
何冊もある。
同じ場所を扱っているのに、記録された年も、工事をした職人も違っていた。
「沈んだ石畳を持ち上げた記録が五回。家の基礎に石を足したのが三回。地下へ木材を入れた記録もあります」
ミナが一枚ずつ並べる。
「全部、この辺りです」
記録の位置は、今動いている範囲と重なっていた。
バルドが古い図を覗き込む。
「地面そのものを直した記録はねえな」
「沈んだところを、その都度支えています」
レオンは答えた。
石を足す。
木材を入れる。
隣の基礎へ受けを渡す。
沈むたびに、その場所が下がらないよう支えてきた。
それで長い間、街は形を保っていた。
だが、支持する場所が増えるほど、一つが動いたときに隣へ力が渡る。
橋や防壁で見てきたものと同じだった。
違うのは、今度は一つの設備ではないことだ。
人が暮らす街区そのものが、その上に載っている。
「最近、急に変わったことはありませんでしたか」
ミナが集めた住民の聞き取りを読み上げた。
「三日前の朝までは普通に閉まっていた戸が、その日の夕方から擦るようになった家が二軒。棚の皿が落ちた店が一軒。夜に床下で木が割れる音を聞いた人もいます」
「三日前?」
レオンが顔を上げた。
ミナも記録の日付を見直した。
「グレイファングが来た日です」
バルドの表情が変わった。
「大型が塔へぶつかった日か」
レオンはすぐにはうなずかなかった。
衝突の前から、旧市街には長年の沈下と補強がある。
大型一頭の衝撃だけで、ここまでの問題が生まれたわけではない。
だが、最初の大きな変位が始まった時刻とは重なる。
「衝突が原因だとは決めません」
レオンは記録を指した。
「ただ、その前から限界に近かった場所が、あの衝撃で一つ壊れた可能性はあります」
バルドが古い図の一点を叩いた。
「この下に、木の受けを入れた記録がある。今動いてる範囲の端だ」
「開けられますか」
「石畳を何枚か外せば見られる。だが、いきなり広く掘るのはなしだ」
「最小限でお願いします」
◇
職人たちは、通りの端から石畳を数枚だけ外した。
土を崩さないよう、狭く掘り下げていく。
古い石組みが現れた。
その下に、黒ずんだ太い木材が横へ渡されている。
一本ではない。
さらに奥へ、別の木材と石の受けが続いていた。
「継ぎ足してるな」
バルドが土を払った。
「こいつが沈んだとき、隣へ受けを足した。その隣が動いて、また足したんだろう」
レオンは穴の縁へ手を置いた。
地面の奥が見える。
赤黒い断脈が、古い木材と石組みの間を縫うように走っていた。
その中で一本だけ、途切れている。
正確には、途切れた場所から二方向へ線が濃く伸びていた。
片方は表通りへ。
もう片方は、裏通りで墨印が動いた場所へ。
「バルドさん。ここ」
レオンが指した先を、バルドが手で探る。
土の奥から、割れた木片が出てきた。
断面は新しい。
古く黒ずんだ表面の内側だけが、まだ淡い色を残している。
「折れてる」
バルドが低く言った。
「この受け、一つ死んでるぞ」
レオンは断脈の先を追った。
壊れた受けが負担していた場所から、隣の石組みへ。
そこからさらに別の支持部へ。
黒くはない。
だが、昨日より濃くなっている線がある。
支えを失った分が、隣へ移っている。
「家一軒の問題じゃありません」
レオンは穴から立ち上がった。
「この受けが壊れて、受けていた分が隣へ移っています」
リシアが旧市街を見た。
通りでは、まだ店が開いている。
人が歩き、荷車が通り、夕餉の支度をする煙が屋根の間から上がっていた。
「では、次に壊れる場所を探す?」
「それだけでは足りません」
レオンは、地面の下で枝分かれする断脈を見た。
「どこまで支え続けられるのかを調べます」
壊れた一本を取り替えれば済むのか。
それとも、支え合っている街区そのものを分けなければならないのか。
レオンの視界では、壊れた受けから伸びる断脈が、その先の支持部まで続いていた。




