02話 水を止めろ
「水路は止めん」
低い声が、ざわめく現場を押し切った。
大柄な男が、主水路の支持柱を背に立っている。片目を横切る古傷と、使い込まれた工具袋。辺境領の職人たちを束ねる棟梁、バルド・グレンだった。
「王都の役人が着いたその日に、街の水を止めろだと? 冗談じゃない。ここには、見た目ほど大きな割れはない」
バルドは支持柱の継ぎ目を拳で叩いた。
「補修はしてある。漏れも塞いでいる。水を止めれば、街は三日で干上がる。それでも止めろと言うなら、壊れる証拠を見せろ」
その間にも、レオンの視界では断脈が一本ずつ黒く変わっていた。
支持柱の根元から水路底へ伸びる線が、流れに合わせて脈打っている。ひときわ太い一本は、隣の柱へ届きかけていた。
だが、断脈だけを根拠にしてもバルドは動かない。
それでいい、とレオンは思った。現場を預かる者が、見えないものだけで街の生命線を止める方が危うい。
「確認させてください。春に足した柱は、元の柱へ固定しただけですか」
「横へ梁を渡して、水路の重さを二本の柱で受けるようにした」
「水路底との接続は」
「古い石を残して、上から術式で固めた。全部壊して組み直す時間も石材もなかった」
レオンは支持柱へ近づき、石の表面へ手を当てた。
細かな震えが、指先から腕へ伝わる。一定ではない。水が継ぎ目を越えるたび、石がわずかに沈み、遅れて横へ揺れた。
「ミナ。昨日言っていた音は、どこから聞こえた」
ミナは水路の下へ回り込み、耳を澄ませた。
「ここです。ゴロゴロじゃなくて……今は、石をこするみたいな音が混じってます」
バルドの表情が変わった。
「どけ」
彼は膝をつき、工具の柄を柱へ当てた。耳を寄せる。
水が通る。
ごり、と低い音が工具を通して響いた。
「……継ぎ目が動いてやがる」
「それだけではありません」
レオンは地面へしゃがみ、柱の根元に溜まった泥を手で払った。
補修跡とは反対側から、細い水が染み出していた。泥の表面には、斜面へ向かって細い割れ目が続いている。
「古い柱と足した柱が、同じように沈んでいません。水路の重さが移るたび、継ぎ目がこすれ、柱の根元が斜面側へ押されています」
「なら、なおさら急に止められん」
バルドは立ち上がった。
「水量を一気に落とせば、古い継ぎ目が反動で割れる。上流側にも水が溜まる」
「同意します。全面停止ではなく、段階的に落とします」
レオンは水路と斜面、その下にある作業区画を見渡した。
「まず、下流側の作業員を退避させます。水門を一段だけ閉じ、振動が下がるか確認してから次を決めます」
「一段で止まらなかったら」
「もう一段落とします。その前に、残る側へ仮の支えを入れます」
バルドはレオンの顔をじっと見た。
「……なぜ、その手順になる」
「流し続ければ、柱のずれが広がる。ですが、一気に止めれば古い継ぎ目が割れる。先に支えを入れ、一段ずつ水量を落として、振動の変化を確かめます」
沈黙が落ちた。
やがてバルドは鼻を鳴らした。
「少なくとも、机の上だけで物を言ってるわけじゃなさそうだ」
背後から、リシアの声が飛んだ。
「限定的に認めます」
全員が振り返る。
リシアは主水路と、その下の作業区画を見比べ、短く息を吸った。
「段階的な減水と、危険区画からの退避だけです。完全停止は、私の判断なしでは認めません」
「十分です」
レオンは即座に動いた。
「ミナ、下流の作業員へ退避を伝えて。走らせず、工具は置かせる。バルドさんは、残す側の支持柱へ仮支えを」
「俺に指図する気か」
「崩れたあとで、あなたの腕を借りられなくなる方が困ります」
一瞬の間のあと、バルドは口の端を上げた。
「聞いたな、お前ら! 丸太を三本、縄を二巻き! 古い柱には直接当てるな。横から荷を受けるぞ!」
職人たちが一斉に動き出した。
さきほどまでレオンへ向いていた反発が、バルドの号令を境に作業へ変わる。丸太を担ぐ者、縄をほどく者、石材を選ぶ者。誰も同じ動きをしていないのに、現場全体が一つの生き物のように動き始めた。
ミナは斜面を駆け下り、作業員へ声を飛ばす。リシアの護衛は、住民が近づかないよう道を封鎖した。
レオンは水門係の前へ立つ。
「まず一段だけ、ゆっくり閉じてください」
「一段だけだな。閉めるぞ!」
操作輪が回った。
水音が少しずつ低くなる。
断脈の脈動も、わずかに遅くなった。
「そこで固定してください!」
水門係が操作輪を固定する。
バルドたちは丸太を組み、支持柱から少し離れた場所へ斜めに当てていた。縄が締まり、木が軋む。
「右が浮いてる!」
「石を噛ませろ! 薄いのからだ!」
レオンは断脈を追った。
太い黒い線はまだ残っている。だが、隣の柱へ伸びていた枝が細くなった。
「もう一段、落とします」
バルドが水路を見上げる。
「支えは持つ。やれ!」
「水門、もう一段!」
再び操作輪が回る。
水面が下がった。
次の瞬間、支持柱の内部から乾いた破裂音が響いた。
古い支持部が折れ、水路の一角が大きく沈む。石材が斜面へ崩れ落ち、土煙が舞い上がった。
しかし、仮支えが残った水路を受け止めた。
丸太が悲鳴のように軋む。職人たちが縄へ飛びつき、傾いた支えを押さえた。
「左を締めろ!」
バルドが縄を指した。
「二人は根元へ石を入れてください! 水門はそのまま、これ以上落とさない!」
レオンの指示に、バルドの現場判断が重なる。
ミナは上と下を行き来し、支えの傾きと水の漏れを伝えた。
「下流側、漏れが減ってます!」
「右の丸太、まだ動いてる!」
「縄を一本追加だ! ミナ、そこから離れろ!」
誰か一人では間に合わない。
レオンが危険の広がりを読み、バルドがそれを支える形へ変え、職人たちが手を動かす。ミナが現場の目と耳になり、リシアの護衛が人を近づけない。
崩れた石の音が止んだ。
丸太の軋みも、少しずつ小さくなる。
レオンの視界で、隣の支持柱へ伸びていた黒い線が途切れた。
太く脈打っていた断脈が、すっと暗赤色へ薄まる。さらに枝分かれしていた線が一本、また一本と消えていった。
灰色の水路が、赤黒い網の向こうから戻ってくる。
さきほどまで視界を埋めていた危険の色が引き、濁った水面へ夕方の光が戻った。
丸太の軋みが止まり、地面の震えも収まった。
連鎖崩壊は止まった。
「……止まったのか」
バルドが荒い息のまま尋ねる。
「はい。振動は収まっています。少なくとも、今すぐ残りまで崩れる動きは止まりました」
レオンは崩れた区画へ目を向けた。
人は巻き込まれていない。主水路の中核も残った。
最悪は避けた。
だが、水路を安全に再開できる状態ではない。仮支えは長く持たず、補修記録も資材も不足している。
そして、街に残された水は三日分だけだ。
リシアが崩れた支持部を見つめたまま言った。
「三日で、水を戻せますか」
レオンは崩れた水路ではなく、斜面の地形、古い設備、泥だらけの職人たちを見た。
バルドは壊れた柱を確かめ、ミナは息を切らしながらも次の指示を待っている。
「一人では無理です。だから、ここにいる全員の力を借ります」




