01話 赤い亀裂に覆われた街
峠を越えた先に、領都リューデンが見えた。
山あいの盆地に、灰色の城壁と家々が広がっている。
かつては鉱山と街道で栄えたという街だ。
だが、レオンの目には、街の形より先に別のものが映っていた。
赤い断脈。
城壁の継ぎ目を縦に裂き、屋根から屋根へ飛び、街道の石畳を蛇のように這っている。
山側から街へ延びる水路には、ひときわ太い線が走っていた。
水路から道へ。道から建物へ。建物から地盤へ。
街全体が、見えない糸で崩壊へ引かれているようだった。
「……これが、復旧不能と呼ばれた理由か」
御者が振り返る。
「何か言いましたか、役人様」
「いいえ。進んでください」
レオンは視線を外した。
これほど広い範囲を一度に追えば、無数の断脈が重なり、どこを優先すべきか見失う。まずは住民の生活へ直接影響している場所を確認し、危険の優先順位をつけなければならない。
城壁には色の違う石が継ぎ足され、修復術式で表面だけ整えた跡があった。
断脈の一本が、その継ぎ目を横切っていた。
やがて馬車が門前で止まった。
門番は王都の印が入った派遣命令書を見ると、歓迎の言葉もなく通行を許した。
街へ入ると、中央広場に人の列ができていた。
老人も、子どもも、大小の桶を手に並んでいる。その先には荷車に載せられた水樽があり、係の男が柄杓で水を分けていた。
「一世帯、これだけだ! 明日も配る。押すな!」
「昨日より少ないじゃないか!」
「上の貯水槽が減ってるんだ。文句なら水路に言え!」
怒鳴り声に、泣き出す子どもの声が重なる。
通り沿いの水場は乾いていた。石の吐水口には白い跡だけが残り、下の受け皿には泥が溜まっている。
閉じた店も多く、粉を挽く水車は止まっていた。
レオンは馬車の窓から、水路の位置を探した。
街の中央を通る細い水路には、わずかな水しか流れていない。
その底には、複数の断脈が重なっていた。
ただ水源が細っただけではなさそうだ。
上流か供給設備のどこかで、異常が起きている。
◇
領主館でレオンを迎えたのは、銀髪の若い女性だった。
華美なドレスではなく、濃色の乗馬服を身につけている。机には書類が積まれ、開いた帳簿の横には冷めた茶が置かれていた。
「リシア・ヴァレインです。父に代わり、この領地を預かっています」
「王国復興局から派遣されたレオン・アーデンです」
「存じています。王都の水路橋で命令系統を乱し、こちらへ送られた方ですね」
挨拶の直後に、それだった。
レオンは表情を変えなかった。
「王都からは、そう報告されたのですか」
「詳しい事情を調べる余裕はありません。この領地には、王都の役人同士の争いより優先すべき問題があります」
リシアは開いた帳簿へ手を置いた。
「今日の配給を減らせば、明日まで持つ家が増える。ですが、減らしすぎれば今日を越せない者が出ます。私は、その判断を毎日しています」
「同感です。だからこそ、まず水路を見ます」
リシアの青灰色の目が、わずかに細くなった。
「滞在用の部屋は用意しました。以前、徴税官が使っていた部屋です。必要最低限の家具は残っています」
「ありがとうございます。荷物はそちらへ運ばせます」
「職務については、明日改めて説明します。今日は長旅の疲れを――」
「主水路の状態を教えてください」
リシアの言葉が止まった。
「街へ入る途中、水を求める住民の列を見ました。中央水路の流量も少ない。山側から来る主水路に問題があるはずです」
「到着したばかりで、よくそこまで断定できますね」
「断定はしていません。現象から可能性を絞っています」
レオンは机上の地図へ目を向けた。
領都と周辺の地形が描かれている。山から引かれた一本の線が、街の手前で貯水施設へ入り、そこから複数の水路へ分かれていた。
「主水路は現在も通水していますか」
「しています」
「流量を絞っている?」
「水路が不安定です。通常量を流すと漏水が増えるため、半分以下まで落としています」
「いつからですか」
「目に見えて悪化したのは十日ほど前です。ただ、問題自体は以前から続いていました」
「点検記録と修繕履歴は」
「揃っていません。水路管理人が持っている記録と、職人組合が保管している記録が別々です」
王都と同じだった。
設備はつながっているのに、情報は分断されている。
「通水を止められますか」
リシアはすぐには答えなかった。
「止めれば、上の貯水槽に残っている水だけになります」
「何日分です」
「節水を徹底して三日。平常どおり使えば、もっと短いでしょう」
三日。
レオンは地図上の主水路を指で追った。
「現場を見せてください」
「今からですか」
「今からです。停止すべき状態なら、明日まで流し続ける理由はありません」
「状態を確認するだけなら、管理人を呼びます」
「呼ぶ時間で現場へ行けます」
リシアはレオンを見た。
到着早々に領地の生命線へ口を出す厄介者と思われても仕方がない。
だが、形式を優先している時間はなかった。
「ミナ」
リシアが扉の外へ呼びかけた。
すぐに、赤茶色の短髪をした少女が顔を出した。腰には工具袋を下げている。
「呼びました?」
「この方を主水路まで案内してください。水路管理人の娘なら、道と設備は分かるでしょう」
少女はレオンを上から下まで眺めた。
「王都から来た復旧官って、この人ですか」
「レオン・アーデンです」
「ミナ・ロウ。案内はしますけど、水路を見て嫌になっても、途中で帰らないでくださいね」
「帰るかどうかは、見てから決めます」
「じゃあ、たぶん帰れませんよ」
ミナはそう言って、先に廊下を歩き出した。
◇
主水路は、領都の北側から山肌に沿って延びていた。
石造りの水路を支持柱が支えている。流量は少ないが、底から低い振動音が続いていた。
「普段はもっと音が大きいのか?」
歩きながらレオンが尋ねる。
「水が多いときは。でも最近の音は変です。前はザーッて流れてたのに、今は奥でゴロゴロ鳴ってる感じ」
ミナは耳の横で手を動かした。
「漏れている場所は?」
「何箇所も。塞いでも、少し離れたところからまた漏れます。父さんたちは、漏れる場所を追いかけるだけで手いっぱいです」
道沿いには、濡れた土が筋になって残っていた。
補修された継ぎ目の周囲には白い術式跡があり、その外側から細い水が染み出している。
レオンは一つの継ぎ目へ触れた。
冷たい石の奥から、細かな振動が指先へ伝わる。
断脈は見えている。
だが、ここにある線は暗赤色に留まっていた。
危険ではあるが、起点ではない。
「上流へ行きます」
「まだ先ですか?」
「この漏水は結果です。原因は別にある」
ミナが目を丸くした。
「どうして、原因が別にあると分かるんですか」
「壊れ方には向きがある。それが俺には線として見える」
「その線を追えば、原因まで分かるんですか」
「いや。分かるのは、壊れようとしている場所と広がる向きだけだ」
「便利なのか、不便なのか分かりませんね」
「俺もそう思います」
水路を遡るほど、支持柱の間隔が不揃いになっていった。
古い柱の隣に新しい柱が足され、継ぎ目だけが修復術式で覆われている。
やがて、水路が斜面から張り出した場所へ出た。
その瞬間、レオンは足を止めた。
「……ミナ。ここから先へ行くな」
支持柱の根元から、水路の接続部へ。
黒に近い断脈が、太い根のように絡みついていた。
斜面の地盤から柱へ、柱から水路底へ。水の流れる方向へ枝分かれし、次の支持柱まで伸びている。
黒い線が、流れに合わせて脈打っていた。
水が通るたびに負荷が移り、破断の範囲を広げている。
レオンは水路へ近づき、欄壁へ手を置いた。
震えている。
水量は通常の半分以下。それでも、この振動だ。
「いつから、ここを補修している」
「去年も、その前も。あそこに新しい柱を足したのは春です。古い柱が鳴るたび、横へ一本ずつ増やしてきました」
「水を流したまま?」
「止めたら街の水がなくなるから」
レオンは接続部を見上げた。
表面に大きな割れはない。修復術式もまだ白く残っている。
だから、目に見える損傷だけを頼りにする者は、すぐには危険だと思わないだろう。
だが断脈は、王都の水路橋が崩れる直前と同じ色をしていた。
ここで落ちれば水路一本では済まない。
支持柱が斜面を削り、下の作業区画を巻き込む。残った主水路にも負荷が移る。
今も数人の作業員が、下流側で漏水を塞いでいた。
「作業員をここから退避させてください」
ミナの表情が変わる。
「そんなに危ないんですか」
「危ない。リシア様へ伝えてください。主水路を止める。周辺も立入禁止にします」
「止めるって……街の水を?」
「そうです」
背後から、馬の足音が近づいてきた。
リシアだった。最低限の護衛だけを伴い、馬から降りる。
「現場を見たら、すぐに水路を止めると?」
その声には、抑えた怒りがあった。
「街では、すでに水の配給を減らしています。主水路を止めれば、残るのは貯水槽だけです」
「理解しています」
「水を止めれば、街は三日と持ちません」
作業員たちも手を止め、こちらを見ていた。
「止めるな! 下じゃ、今日の水だって足りてないんだぞ!」
「水路を止めたら、子どもや病人から持たなくなる!」
王都から来た左遷役人が、到着したその日に街の水を止めろと言っている。
反発されるのは当然だった。
レオンは黒く脈打つ断脈から目を離さなかった。
流し続ければ、この支持部だけでは終わらない。斜面と下流区画を巻き込み、応急復旧に使える部分まで失う。
水を守るために流し続け、その水路そのものを失う。
それだけは避けなければならない。
「このまま通水すれば、水路は持ちません」
レオンはリシアへ向き直った。
「今すぐ水量を落とし、作業員と周辺住民を退避させてください。壊れてからでは、三日で戻す手段すら失います」
「それでも、止めれば街は三日と持ちません」
レオンの声は揺れなかった。
「止めなければ、三日後に困る人間すら残りません」




