23話 グレイファング襲来
魔術師が壁へ手を置いた、そのときだった。
外周側から笛が鳴った。
一度。
続けて、短く二度。
「接近! 東側、グレイファング!」
壁上の兵士が叫ぶ。
レオンは塔脇の階段を上がり、外を見渡せる中段で止まった。
片手を塔の石へ当てる。
ここなら外柵まで見える。足元ではバルドたちが仮支えを押さえ、ミナが塔の墨印につき、魔術師が南門側の刻み目を操作していた。
外柵の向こうで草が大きく揺れる。
一頭。
その後ろに二頭。
さらに左右から四頭。
少し遅れて、奥に三頭が姿を見せた。
「十頭」
外柵側から、女の声が飛んだ。
灰色の四足獣が、横へ広がっている。
長い前脚。低く突き出した頭。口元から覗く白い牙。
十頭すべてが、防壁の方を向いていた。
外柵の前には領兵が並び、その横には、先ほど領都へ到着した商人の護衛についていた冒険者たちも出ていた。
「正面を追いすぎるな!」
「左右を見ろ。柵へ抜かせるな!」
「分かってるよ」
冒険者たちの声が重なる。
リシアもすぐに壁上へ声を上げた。
「東側から人を下げないでください! 南門は閉鎖、壁際へは誰も近づけないように!」
兵士たちが返事を飛ばす。
レオンは魔術師を見下ろした。
「そのまま起動を続けてください。最低出力のままです」
「分かりました」
東側は今、完全に暗い。
術式を戻さなければ、外から受けた衝撃を壁そのものが受ける。
だからといって急いで出力を上げれば、ずれた塔から南門へ負荷が逃げる。
一つずつ戻し、壁の動きを見ながら進めるしかない。
魔術師が起動操作を続ける。
レオンの手の下では、塔の奥を赤黒い断脈が何本も走っていた。
「来る!」
外から声が飛んだ。
前に出ていたグレイファングが一斉に動く。
二頭が正面から飛び出した。
左右の草も同時に割れる。
灰色の身体が低く沈み、地面すれすれを滑るように距離を詰めた。
迎えた冒険者の一人が剣を振る。
グレイファングは長い前脚で地面を掻き、身体を横へ逃がした。
刃が肩の毛を散らす。
着地した瞬間には、もう次の相手へ牙を向けていた。
「右、二頭!」
「左も来る!」
戦線が横へ広がった。
槍が伸びる。
剣が閃く。
一頭が地面へ転がる横を、別の一頭が飛び越えた。
人間へ正面から殺到しているだけではない。
左右へ振り、空いた場所を抜けようとしている。
「抜けるぞ!」
二頭が戦いから離れた。
向かった先は外柵だった。
一頭が肩から横木へぶつかる。
乾いた破砕音。
木が裂け、柵に隙間が開いた。
灰色の身体がそこへねじ込まれる。
「壁へ行く!」
もう一頭も続いた。
冒険者の一人が追う。
後ろの一頭へ追いつき、走ったまま首筋へ刃を入れた。
グレイファングが前のめりに転がる。
だが、先頭は止まらない。
防壁まで、もう数歩だった。
グレイファングが跳ぶ。
長い前脚が石へ掛かる。
爪が表面を削った。
そのまま身体を引きつけ、肩から壁へ叩きつける。
どん、と腹の奥まで響く衝撃が来た。
術式の消えた壁が震える。
塔の内側で、太い木材が低く軋んだ。
継ぎ目から砂が落ちる。
「今ので動いたぞ!」
バルドが支えを押さえた。
「外から衝撃です!」
ミナが墨印へ顔を寄せる。
レオンの視界では、暗赤色の断脈が塔の根元へ集まっていた。
一本が、黒へ近づく。
グレイファングは着地すると、ほとんど間を置かず前脚を石へ掛けた。
身体を沈める。
もう一度。
肩が壁へ叩きつけられた。
どんっ。
一度目より砂が多く落ちる。
内側の支えがまた鳴った。
「二回目! 継ぎ目が開いた!」
墨の線がずれていた。
ほんのわずか。
だが、さっきまではなかった隙間だ。
塔の根元を走る断脈がさらに濃くなる。
三度目は受けられない。
グレイファングが、もう一度壁へ向き直った。
追いついた冒険者が踏み込む。
グレイファングが先に跳んだ。
壁へではない。
冒険者へ。
牙をかわした直後、剣が首筋へ走る。
灰色の身体が地面へ崩れた。
「右、終わった!」
外から声が飛ぶ。
別の場所でも、領兵の槍と冒険者の剣が残る個体を押し返していた。
ほどなく、前へ出ていた七頭はもう立っていなかった。
「あと三頭だ」
外から男の声がした。
草地の奥には、最初から残っていた三頭がいる。
その三頭が、同時に動きを止めた。
こちらへ来ない。
逃げもしない。
ただ、さらに奥へ顔を向けている。
低い唸りが響いた。
さっきまでとは違う。
腹の底へ押し込まれるような声だった。
三頭が左右へ退く。
その間から、もう一頭が姿を現した。
「……うそだろ」
誰かの声が落ちた。
グレイファングだった。
同じ灰色の毛。
同じ長い前脚と牙。
だが、一回り大きい。
並ぶ三頭より肩が高く、胸が厚い。
前脚も明らかに太い。
「あんなのが壁まで来たら、今の東側じゃひとたまりもねえぞ」
バルドが吐き捨てた。
壁上の兵士たちがざわめく。
「大型だ!」
「東側へ来るぞ!」
支えを押さえていた職人の一人が、思わず外を振り向いた。
木材が軋む。
「手ぇ離すな!」
バルドの怒声に、職人が慌てて支えへ向き直る。
壁へ触れていた魔術師の指も止まりかけた。
「手を止めないでください」
レオンが言った。
「でも、あれがこっちへ来たら――」
「今止めれば、もっと弱いまま迎えることになります。最低出力のまま続けてください」
リシアが壁上へ声を飛ばす。
「持ち場を離れないでください! 東側へ向かう個体だけ報告を!」
ざわめきが押し戻される。
大型が一度だけ低く唸った。
三頭が同時に動く。
一頭は左。
一頭は右。
一頭は正面に残る。
距離は崩していない。
大型だけが、その場に留まった。
「前衛、広がるな!」
「壁との間を空けるな!」
右の一頭が走る。
領兵がそちらへ向く。
同時に左も動いた。
冒険者二人が引かれる。
正面の一頭も飛び込んだ。
防衛線が三方向へ裂かれる。
大型だけが動かない。
一拍。
人の間に、一本の道が開いた。
大型が地面を蹴る。
「速っ――」
外から声が漏れた。
体格に似合わない速さだった。
一気に外柵の割れ目へ入る。
冒険者の一人が追いつく。
大型が走ったまま前脚を横へ振った。
剣で受けた男の身体が、二歩分も横へ押される。
それでもすぐに踏み込み直した。
大型の首へ斜め後ろから剣が入る。
血が散った。
大型は首を振り、それでも止まらない。
そのまま防壁へ向かってくる。
「おい、今ので止まらねえのかよ!」
外の声とほぼ同時だった。
「一番区画、入ります!」
魔術師が叫んだ。
南門から塔の手前まで、淡い光が一気につながる。
切り分けた境で止まった。
その先へは流れていない。
レオンは塔の断脈を追う。
起動しただけなら、黒くならない。
南門側の線も動いていない。
戻せた。
その確認と、大型の到達が同時だった。
大型が地面を蹴る。
厚い肩が、光の戻った壁へ叩きつけられた。
どん――。
さっきの二回とは違った。
足元の石まで震えた。
壁の継ぎ目から砂が吹く。
塔の内側で支えが大きくしなる。
ぎしっ、では終わらない。
ばき、と一本が裂けた。
「塔が動いた!」
ミナが叫ぶ。
「支えに荷が掛かってる!」
バルドと職人が木材へ取りつく。
レオンの視界で、塔の根元が黒く染まった。
そこから線が走る。
起動したばかりの一番区画へ。
さらに南門へ。
速い。
術式が外から受けた衝撃を周囲へ逃がしている。
本来なら、防壁を守る働きだ。
だが、途中にずれた塔がある。
塔の動きまで、術式が南門へ渡している。
南門上部の継ぎ目から砂が落ちた。
黒い断脈が、その奥へ食い込む。
大型が壁から離れた。
再び身体を沈める。
「もう一発来る!」
誰かが叫んだ。
「切ってください!」
「今、戻したところです!」
「残したら南門まで持っていかれます! 切って!」
魔術師が壁へ手を叩きつけた。
灯ったばかりの光が消える。
塔側から。
南門側へ。
一番区画が再び暗くなった。
同時に、南門へ走っていた黒い断脈の脈動が弱まる。
伸びるのが止まった。
「南門!」
ミナが門側の記録役へ叫ぶ。
「止まってます! これ以上動いてません!」
大型がもう一度踏み込もうとした。
「そいつは俺がやる!」
「残り三頭をこっちで押さえる!」
「頼む」
外から声が飛ぶ。
大型が壁ではなく、立ちはだかった冒険者へ向きを変えた。
前脚が横へ薙がれる。
男が身を沈める。
牙が続く。
剣が受け、金属音が弾けた。
「レオン!」
バルドの声が飛ぶ。
裂けた支えがまだ塔を受けている。
「一本追加するぞ!」
「お願いします! 押し戻さず、今の位置で受けてください!」
「分かってる! 持ってこい!」
職人が新しい木材を運ぶ。
裂けた支えの隣へ差し込み、楔を当てた。
「打つぞ!」
「二回だけ! そこで止めて!」
槌が鳴る。
一回。
二回。
「止めてください!」
レオンは塔へ触れたまま断脈を追う。
黒かった線が、少しずつ暗赤色へ戻っていく。
南門へ伸びた線は止まったままだ。
「塔は?」
「これ以上開いてません!」
「南門も止まってます!」
ミナと門側の記録役から声が返る。
「術式はそのまま停止! 誰も触らないでください!」
「分かりました!」
まだ終わっていない。
次の一撃が来ても、塔と南門を持たせなければならない。
外では大型と冒険者がぶつかり続けている。
前脚。
牙。
身体ごとの突進。
冒険者が横へ抜けても、大型はすぐに巨体を返して追う。
その後ろでは残る三頭が相手を入れ替え、隙ができるたび壁へ顔を向けていた。
「右を押せ! 三頭を散らすな!」
「分かってる!」
領兵と冒険者たちが三頭の進路を塞ぐ。
一頭が右へ逃げれば槍が止める。
別の一頭には横から回り込み、進む向きを変えさせる。
少しずつ、三頭の間が縮まっていく。
「全員、下がって!」
女の声が飛んだ。
冒険者と領兵が一斉に距離を取る。
杖が地面へ向けられた。
「地に伏す石は牙となり、群れる影はその上を走る――穿て! 石槍群生!」
地面が爆ぜた。
一頭目の真下から、太い石槍が突き上がる。
二頭目が横へ跳ぶ。
着地点から二本目。
三頭目が反転した先に、三本目が立ち上がった。
三頭の身体がほとんど同時に地面へ落ちる。
動かない。
だが、大型はまだ残っていた。
大型が正面の冒険者へ加速する。
前脚が横へ薙がれた。
冒険者が半歩内へ入ってかわし、続く牙も身体を沈めて外す。
剣が大型の首筋へ入った。
血が噴く。
大型の前脚が一度動く。
だが、振り下ろされる前に力が抜けた。
巨体が横へ崩れる。
地面が揺れた。
一度、前脚が土を掻く。
もう一度。
そこで止まった。
しばらく、誰も外柵の向こうへ出なかった。
壁上の兵士が倒れた個体を順に確認する。
「外周、動く個体なし!」
ようやく、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
リシアはすぐに指示を飛ばす。
「負傷者を下げてください! 外柵までの安全確認を。東側の警戒はそのまま維持してください!」
兵士たちが動き出す。
レオンは塔へ当てていた手を離さなかった。
断脈は暗赤色まで戻っている。
南門へ伸びた線も止まったままだ。
ここで初めて、レオンはさきほどの変化を頭の中で並べた。
通常個体の衝撃では、術式の消えた壁と塔の継ぎ目が動いた。
一番区画を起動しただけなら、南門には異常が出なかった。
大型の一撃で塔が動いた瞬間、起動した術式を通って黒い線が南門へ走った。
切れば止まった。
起動そのものが失敗だったわけではない。
この塔を挟んだまま残せないのだ。
「バルドさん。塔と南門の間、もう一段受けられますか」
「できる。全部を別物にはできんが、今より動きは伝わりにくくできる」
「お願いします」
魔術師も、光の消えた刻み目を見る。
「回路も塔の手前で一度止めます。南門側だけ先に独立させられます」
「それでいきましょう」
ミナが記録板を開いた。
「通常個体の二回で塔の継ぎ目が開いた。大型の一撃で塔が動いて、南門側へ広がった。切断後は止まった。全部残します」
「お願いします」
レオンは暗くなった一番区画を見上げた。
戻した光は、もうない。
それでも南門は立っている。
塔も、まだ持っている。
戻すことだけが復旧ではない。
残せば壊れるなら、切る。
そして、次は切らなくて済む形に組み直す。
「塔と南門を分けます。次は、ここを残せる形で戻します」
今回の「グレイファング襲来」を、防壁の外側で戦っていた冒険者たちの視点から描いた短編『セインは魔力をこぼさない』も公開しています。
レオンたちが壁の内側で術式と格闘している間、外で何が起きていたのか。
本編とは違った視点で、同じ戦いを楽しんでもらえれば嬉しいです。




