21話 壁の外
防壁の組み直し方を詰め始めて、まだ半刻も経っていなかった。
南門の詰所へ、外周巡回の兵士が駆け込んできた。
肩で息をしながら、泥の付いた手袋を外す。
「東側の外柵で、グレイファングの足跡を見つけました。壁からかなり近いです」
詰所に広げられていた術式図面から、全員の視線が上がった。
リシアが先に尋ねる。
「いつのものですか」
「新しいです。朝の巡回ではありませんでした。外柵も一箇所、折られています」
レオンは図面を閉じた。
術式をつなげば、塔から南門へ負荷が移る。
だから今は、東側を無理に起動できない。
その状態で、壁の外にも異常が出た。
「現場を見ます」
リシアが兵士へ向き直る。
「護衛を二人付けてください。外周巡回は続けます。何か見つけても追わず、位置だけ記録を」
「承知しました」
バルドが立ち上がり、工具袋を肩へ掛けた。
「俺も行く。柵がどう壊れたか見りゃ、何か分かるかもしれん」
「私、巡回記録を持っていきます」
ミナは棚から記録板を引き抜いた。
防壁の異常を調べていたはずが、見る場所が壁の外まで広がった。
◇
南門を出ると、昨日まで復旧に使っていた街道が続いていた。
荷車は橋へ向かって動いている。
その道から東へ外れ、防壁に沿って進むと、低い木柵が見えた。
外周巡回の兵士が使う道の外側に立つ柵だった。
一本だけ、上半分が内側へ折れている。
木は古くなっていたが、根元から腐って倒れた形ではない。
折れた面は新しく、白い木肌が露出していた。
その手前の土に、深い跡が残っている。
「これです」
兵士が指した。
人の靴でも、荷獣の蹄でもない。
いくつもの足跡が、柵の向こうから防壁へ向かって続いていた。
「グレイファングで間違いありませんか」
「はい。この爪跡と、前脚の幅なら間違えません」
レオンは足跡へ目を落とした。
《断脈視》で魔物の種類が分かるわけではない。
だが、この土地を巡回してきた兵士には、残された痕跡から見分けられる。
いつ通ったか、どちらへ進んだかも、現場には残る。
「朝の巡回では、本当にありませんでしたか」
「はい。ここは毎回通ります。柵が折れていれば見落としません」
兵士はしゃがみ、足跡の一つへ指を添えた。
「グレイファングなら、この時期は南の林沿いで見ることが多いです。こんな壁際まで寄った報告はありません」
「追跡は?」
「していません。柵の外側へ辿ると、草地で跡が分からなくなりました」
レオンは柵から防壁を見た。
南門東側の塔が、外からも見える。
石は立っている。
穴も開いていない。
それでも、その内側では術式を起動するたびに塔が動き、今は東側の一部を止めている。
普通の目には、いつもと同じ防壁にしか見えなかった。
「ミナ。巡回記録を」
「はい」
ミナが板を開き、ここ数日の記録を順に並べた。
目撃。
足跡。
鳴き声。
外柵の損傷。
毎日の巡回では、見つけた場所が簡単な地図に印されている。
「この印、前は全部こっちです」
ミナが外周路より先を指した。
「南側の林沿い。こっちの東側は、ほとんど空いてます。でも三日前から……一つ、二つ。少しずつ壁側へ寄ってます」
「数は増えていますか」
「記録だけだと分かりません。同じ個体を別の日に見てるかもしれないし、見つけてない日もあります」
レオンはうなずいた。
増えたとは言えない。
だが、場所は変わっている。
これまで離れた場所で確認されていた痕跡が、数日かけて領都へ近づいている。
しかも今朝の跡は、これまで印の少なかった東側だった。
「いつもの場所から外れている理由は分かりますか」
レオンが兵士へ尋ねる。
兵士は首を振った。
「分かりません。餌場が変わったのか、何かに追われたのか。グレイファングが通る場所を変えること自体はあります。ただ……」
言葉を切り、折れた柵を見る。
「この距離は、近すぎます」
断定できるのは、そこまでだった。
防壁の不調が原因なのか。
別の理由でグレイファングが寄ってきたところへ、たまたま防壁の異常が重なったのか。
今の材料では分からない。
原因が分からなくても、危険への備えは必要だった。
「今夜、東側の術式を止めたまま守れますか」
リシアが巡回兵へ尋ねた。
兵士は少し考えた。
「増員すれば、一晩なら。ただ、壁上を空けた区画まで人で埋めるとなると、南門と外周巡回から回すことになります」
「明日の夜も同じ配置を続けた場合は?」
「他の門の巡回を削ることになります」
リシアは防壁を見上げた。
東側だけを守るために、別の場所を薄くする。
それでは防壁を直す意味がない。
「今夜は増員します。ただし、領兵だけで埋め続けることはしません」
リシアは護衛の兵士へ向き直った。
「領都の冒険者ギルドへ緊急依頼を出してください。外周警戒と、グレイファングの目撃情報の収集です。今夜動ける者だけで構いません。討伐のために追わせる必要はありません。柵の外へ深く入らせないでください」
「承知しました」
兵士が走り出す。
「それと、王都へ兵員支援を要請します」
リシアは続けた。
「間に合うのを待つつもりはありません。ですが、この状態が明日で終わる保証もない。正式に支援を求めます」
リシアの視線がレオンへ向いた。
「今夜は持たせます。ですが、この配置を何日も続ける余裕はありません。明日の日没までに、東側を戻す必要があります。できますか」
「完全な復旧は約束できません」
レオンは防壁を見上げた。
「ですが、区画ごとに安全を確かめながら、最低限起動できる状態までは持っていきます」
今ある回路をつないで急いでも、塔が南門を押す。
壁だけを固めても、術式を戻した瞬間に別の場所へ負荷が出るかもしれない。
翌日の日没まで。
時間は短い。
なら、一度に全部を直そうとする方が危険だった。
「まず、東側を区画に分けます。塔と南門の間。塔の先。反応しない区画。その三つを別々に扱える状態にします」
「壁はどうする」
バルドが聞く。
「動いている塔を先に支えます。ただし、術式を戻したときの動きを見られるよう、固め切らないでください」
「仮に受けて、動きを殺しすぎるなってことだな」
「はい。どの区画から力が来るか確認できる余地を残したいです」
魔術師は持ってきた図面を開いた。
「回路を分けるなら、二年前の迂回線が邪魔になります。あれを残したままだと、切った区画の先へ勝手に流れます」
「外せますか」
「できます。ただし、外している間は東側の術式を完全に止めることになります」
リシアの眉がわずかに寄った。
「今止まっている区画だけではなく、東側全部ですか」
「はい。迂回線に力を残したまま触ることはできません」
リシアはすぐには答えなかった。
「完全停止が必要なのは、迂回線を外している間だけですね」
「その間は、です。ただ、外したあとは区画ごとに起動し直す必要があります」
リシアは巡回兵へ向き直った。
「ギルドから人が来るまでは、全面停止に入りません。外周を引き継げる人数が集まったら、領兵を壁へ戻します」
「分かりました」
それからレオンを見る。
「止める時間は、必要な分だけにしてください」
「そのつもりです」
壁を直す者。
術式を切り替える者。
外を警戒する者。
警備全体を組み直す者。
これまで別々だった仕事が、同じ期限の中へ入ってきた。
「この記録、作業場所にも置きます」
ミナが言った。
「新しい報告が来たら、そのたびに足します。壁の作業と一緒に見た方がいいですよね」
「お願いします。近づいているのか、ただ経路が変わっただけなのか、それもまだ決めません」
今は、分からないことを分からないまま残す。
そのうえで、守るために必要なことだけを先にする。
レオンたちは南門へ戻った。
◇
日が傾き始めた頃、東側の塔の前には新しい墨印が増えていた。
バルドは支えを入れる位置を決め、魔術師は迂回回路を外す順番を書き出している。
ミナは壁の記録と外周巡回の記録を、一枚の板へまとめていた。
そこへ、南門側から兵士が駆けてきた。
「冒険者ギルドから返答です。今夜動ける者を集めています。先に出られる者から外周へ回すと」
「分かりました。巡回兵と合流させて、持ち場を調整してください」
リシアは短く答えた。
十分な人数が揃うとは限らない。
だが、外周を任せられる者が一組でも増えれば、その分だけ防壁へ兵を戻せる。
レオンは三つの区画を見比べた。
明日の日没までに、再起動できる形へ持っていく。
そのためには、今動いている部分まで含めて、一度切り分ける必要がある。
「東側――」
言いかけたとき、壁上から声が落ちてきた。
「外周、動きあり!」
兵士たちが一斉に東を向いた。
レオンも階段の途中まで上がる。
防壁の向こう。
外柵より先の草地で、灰色の影が一瞬だけ動いた。
低い姿勢で草を抜け、すぐに姿を隠す。
見張りの兵士が目を凝らした。
「グレイファングです! 一体、東へ回っています!」
巡回記録に印された、これまでの目撃場所とは違う。
南の林へ戻るのではない。
防壁の東側に沿うように、影は移動していた。
レオンは壁の下を見た。
術式の消えた区画。
その隣で、まだ赤黒い断脈を抱えた塔。
そして、その外側を通るグレイファング。
原因は分からない。
だが、待って調べ続ける時間がないことだけは分かった。
「明日の日没までです」
レオンは下にいる全員へ告げた。
「その前に、東側を戻します」
魔術師が図面を持ち直す。
「どこから始めますか」
レオンは、迂回回路の残る東側を見た。
「まず、東側の残っている術式も全部止めます」




