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19話 沈黙する壁

 南門の東側だけ、壁が暗かった。


 橋から戻ってきたばかりの荷車が、南門の下を次々とくぐっている。


 麦を積んだ荷車が街へ入り、空になった荷車が南へ戻る。門の内側では荷を受ける手押し車が行き交い、遠くからは鍛冶場の槌の音も聞こえていた。


 昨日まで止まっていた道が、ようやく街の流れへ戻ったばかりだった。


 その頭上で、領都を囲む防壁の一角だけが沈黙している。


 夕刻の点検では、防壁に刻まれた術式が南門から左右へ順に淡く光る。


 西側はいつもどおりだった。


 だが東側は、門から少し離れたところで光が途切れている。


 その先の壁は、闇に沈んだままだった。


 少なくとも、普通の目にはそう見える。


 レオンの視界では違った。


 暗い区画を越え、その隣の塔へ向かって赤黒い断脈が何本も走っている。


 南門から駆けつけた兵士が、息を整えながら言った。


 門の下でも、何人かの兵士が壁を見上げている。外から見れば石が崩れたわけでも、穴が開いたわけでもない。


 それでも、毎日光るものが光らない。


 異常だと分かるには、それだけで十分だった。



「昨日までは、東側も反応していました。今朝の見回りでも、崩れた場所はありません」



 壁の前では、防壁の術式を担当する魔術師が、壁に刻まれた術式を確かめていた。


 指で刻み目をなぞり、何度か首を傾げる。



「見たところ、焼けたり欠けたりはしていません。もう一度、起動してみます」



 レオンは壁を見上げた。



「起動すれば、何が分かりますか」

「どこまで反応するかです。同じ場所で止まるなら、そこから先を調べます」



 単純な確認だった。


 動かないなら、もう一度動かしてみる。


 それ自体はおかしくない。


 ただ、レオンには壁の内側に断脈が見えている。



「分かりました。ただし、先に壁の上から人を下ろしてください」



 魔術師がレオンを見る。



「点検ですよ?」

「異常が出ている設備を動かすんです。何が起きるか分からない以上、人は残せません」



 リシアがすぐに兵士へ向き直った。



「東側の壁上から全員下ろしてください。門前も、壁から離して通します」

「承知しました」



 兵士たちが階段を上がっていく。


 壁上にいた見張りへ声が掛かり、一人、また一人と階段を下りてきた。理由を聞き返す者はいない。


 レオンが橋や水路で止める判断をしたあと、実際に何が起きたかを知っている兵士たちだった。


 橋が開いたばかりで、南門には荷車の出入りが増えていた。


 その流れを兵士が片側へ寄せ、防壁の東側から人を離していく。


 バルドは塔の根元まで歩き、壁石を工具の柄で叩いた。


 硬い音。


 少し場所をずらす。


 また硬い音が返る。



「音は悪くねえな」



 ミナは記録板を開いた。



「どこを見ればいいですか」

「光が止まる場所と、その時刻。それから塔で音や砂落ちがあれば全部」

「分かりました」



 壁上から最後の兵士が下りた。


 魔術師が術式へ手を置く。



「起動します」



 南門の刻み目が淡く光った。


 光は壁に沿って東へ進む。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして、昨日まで動いていたという区画の手前で止まった。


 暗いままの壁は何も変わらない。


 だが、その瞬間だった。


 レオンの視界で、隣の塔へ伸びていた断脈が濃くなった。


 暗赤色の線が一本、黒へ近づく。



「止めてください」



 光が消えた。


 壁は再び沈黙する。


 黒へ近づいた断脈も、少しずつ元の色へ戻っていった。



「何かありましたか」



 魔術師が尋ねる。



「俺には、崩れる前兆が線に見えます。起動した瞬間、隣の塔の線が濃く反応しました。このまま続けるのは危険です」

「塔?」



 魔術師は暗い区画と塔を見比べた。



「ですが、見たところ塔に異常はありません」

「なら、今度は塔を重点的に見ます。もう一度だけ、短くお願いします」



 レオンは塔の根元へ移動した。


 バルドも隣へ立つ。



「俺はここを見ます。バルドさんは石を」

「音が変わったら、すぐ言うぞ」



 ミナが記録板を構えた。



「準備できました」



 魔術師がもう一度、術式を起動する。


 南門が光る。


 東へ走る。


 また、同じ場所で止まった。


 同時に、塔の断脈が黒く染まった。


 一度目より速い。


 ごりっ。


 鈍い音が、壁の内側から響いた。



「止めて!」



 光が消える。


 直後、塔の継ぎ目から細かな砂が落ちた。


 ぱらぱらと落ちた砂は、つい先ほどまで兵士が立っていた壁際の階段へ散った。


 大きな崩落ではない。


 だが、何も起きないと思って人を残したまま試していれば、その頭上で石が動いたことになる。


 バルドが壁へ手を伸ばす。



「ここだ」



 さきほど叩いた場所だった。


 工具の柄を当てる。


 今度は、わずかに濁った音が返った。



「一回目とは違う。中で石が動いた」



 ミナが記録板へ書き込む。



「二回目の起動と同時です。光が止まった場所は、一回目と同じでした」



 魔術師も塔の継ぎ目へ寄った。


 落ちた砂を指で拾い、眉を寄せる。



「……ここは昨日まで、異常の報告がありません」



 レオンは返事をしなかった。


 術式が反応しない場所。


 起動するたびに傷みが増える場所。


 二つは同じではない。


 その事実だけは、もう確認できた。


 レオンは一度目の記録へ目を落とした。


 光が止まった場所は同じ。


 だが二度目は、塔から音と砂落ちが加わった。


 試すたびに、分からないものが減るのではなく、別の場所の危険が増えている。


 魔術師が立ち上がる。



「もう一度だけ試せば――」

「しません」



 レオンは即答した。


 魔術師の言葉が止まる。



「まだ、なぜ塔の中で石が動いたのか分かりません」

「俺にも分かりません」

「なら、止まった場所を調べるためにも――」

「二回とも、起動するたびに塔の状態が悪くなりました」



 レオンは砂の落ちた継ぎ目を指した。



「三回目で何が起きるか分からない。壊れるまで試す必要はありません」



 魔術師はしばらく黙っていた。


 やがて、壁から手を離す。



「……分かりました。起動は止めます」



 レオンはうなずいた。



「昨日までの点検記録を見せてください。いつ、どの区画が反応したか分かるものを」

「あります。修繕した記録も一緒に出します」

「お願いします」



 バルドが塔の継ぎ目へ墨で印を付けた。



「俺はこっちを見る。継ぎ目が広がりゃ、すぐ分かるようにしとく」



 ミナが記録板を閉じかけて、また開いた。



「今日の二回も、同じところに書き足しておきます」

「お願いします」



 原因はまだ分からない。


 術式がおかしいのか。


 壁がおかしいのか。


 過去の修繕に何かあるのか。


 今決めつければ、橋のときと同じことになる。


 見えている異常と、残っている記録を重ねて調べるしかない。


 リシアが兵士へ告げた。



「東側は今夜、停止したままにします。壁上の巡回は危険区画を避けて組み直してください。外側の見回りも増やします」

「はい」



 兵士が走っていく。


 ほどなく、壁上の見張りは東側を避けて配置し直された。門の外へ出る兵士も増え、いつもの夕刻より多くの足音が防壁の内外を行き交い始める。


 動かない壁を無理に動かす代わりに、人がその穴を埋める。


 少なくとも今夜は、それで守るしかない。


 魔術師も記録を取りに南門の詰所へ向かった。


 人が離れたあと、壁は静かだった。


 反応しなかった区画には、淡い術式の刻み目だけが残っている。


 そこを走る断脈は、赤いままだ。


 レオンは隣へ視線を移した。


 塔の根元。


 さきほど砂が落ちた継ぎ目に、バルドが引いた墨の線が残っている。


 一本だったはずの線が、わずかにずれていた。



「バルドさん」



 声を掛けると、バルドがしゃがみ込んだ。


 指先で継ぎ目をなぞり、顔を上げる。



「……開いてるな」



 ほんのわずかだった。


 それでも、印を付けてからまだ大して時間は経っていない。


 レオンの視界では、その継ぎ目の奥を走る断脈が黒く脈打っていた。


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