13話 荷を渡せ
翌朝、最初に谷を越えたのは、荷ではなく一本の細縄だった。
重りを結んだ縄が弧を描き、対岸の土へ落ちる。
一度目は届かなかった。
二度目で、橋番の兵士が縄の端を拾い上げた。
「取ったぞ!」
谷の両側から声が返る。
領都側では、職人が太い運搬縄を細縄へ結び始めていた。
街道の下には、すでにバルドたちが入っている。水と一緒に土が抜けた場所へ仮の支えを入れ、残った石畳が落ちないよう下から受ける作業だ。
道の補強と、荷の受け渡し。
二つの作業が、同時に始まっていた。
対岸では、リシアが昨夜決めた順番に荷車を並べ替えさせている。
先頭は麦。
その後ろに、街道の補強へ使う木材と鉄材。
急がない荷は橋から離し、作業の妨げにならない場所へ戻されていた。
「最初は穀物です。製粉所へ必要な量が届いたら、復旧資材へ切り替えます」
リシアの声が谷を越える。
「荷主と袋の数は、こちらとそちらで同時に記録してください。順番は変えません」
不満そうな御者もいたが、誰も荷車を前へ出そうとはしなかった。
何を先に通すかは、街全体の事情を知るリシアが決める。
どうすれば人を危険へ出さずに通せるかは、レオンたちが決める。
昨夜ぶつかった二つの判断が、朝には一つの作業へ変わっていた。
レオンは橋の南側にある大きな岩へ手を当てた。
表面は丸みを帯びているが、地面の奥まで一体になっている。
対岸には、古い橋番小屋の基礎石が残っていた。
どちらも橋を受ける石積みから離れている。
街道や橋へ荷を掛けず、谷を挟んで向かい合う位置だった。
レオンの視界では、岩の表面へ細い断脈が走っている。
だが、縄を引く方向へ伸びる黒い線はなかった。
「領都側は、ここを使います」
縄を担当する職人が、岩の周囲を歩いた。
「向こうの基礎石は、こっちからじゃ見えんぞ」
「橋番に叩かせてください。音と揺れを確認します」
対岸で橋番が工具を振る。
基礎石から、澄んだ音が谷へ返った。
さらに周囲へ杭を打ち、石そのものが動かないことを確かめる。
レオンに見える断脈だけで、支える場所を決めることはできない。
岩の状態を職人が見て、石の固定を兵士が確かめ、初めて荷を掛けられる。
「太縄を引くぞ!」
細縄を手繰ると、谷の上へ太い運搬縄が渡った。
二本を平行に張り、その間へ荷を吊るす輪を組む。
職人は縄を岩へ回し、後方へ打った杭にも分けて結んだ。
対岸でも同じ作業が進む。
荷を動かすための細縄を往復させれば、人が橋へ出なくても袋を引ける。
ミナは基準の位置へ立ち、記録板を開いた。
「袋の重さと、縄の下がり方を測ればいいんですよね」
「はい。一つ渡すたびに記録してください。最初は麦袋の半分以下です」
「下がりすぎたら?」
「谷の岩へ当たる前に止めます」
最初に吊るしたのは麦ではなかった。
穀物袋と同じ大きさの布袋へ、石を詰めた試験荷だ。
重さは麦袋の半分ほど。
吊り輪へ掛け、両岸の兵士が細縄を握る。
「引け!」
袋が地面を離れた。
運搬縄が低く鳴り、谷の中央へ向かって沈んでいく。
「下がり、腕一本分!」
ミナが叫ぶ。
「下の岩までは、まだ余裕があります!」
石袋が谷の中央を越えた。
その瞬間、領都側の岩へ回した縄がわずかに滑った。
レオンの視界で、岩の表面を走る断脈が濃くなる。
「止めて!」
両側の兵士が細縄を固定した。
石袋が谷の上で揺れる。
「何が動いた!」
街道下の作業場から、バルドが上がってきた。
泥の付いた手には、短い木槌を持っている。
「岩ではありません。縄が上へ逃げています」
「角へ食い込んだか」
職人が縄の位置を確かめる。
岩の上側は丸い。
荷を引くたび、縄が少しずつ高い場所へ滑っていた。
このまま続ければ、最後には岩の縁を越えて外れる。
「下へ溝を切るか?」
「岩を削る時間はありません」
レオンは後方の杭と、縄の角度を見比べた。
「引く方向を下げます。地面近くへ、縄をもう一本回してください」
「そいつだけじゃ、荷を掛けたときに杭が抜けるぞ」
「岩で重さを受けます。杭は、縄が上へ逃げるのを止めるだけです」
バルドが岩の周囲を一度見た。
「杭一本じゃ足りん。三本を互いに結べ。一本が緩んでも、残りで止める」
「お願いします」
レオンの案を、バルドが実際に持つ形へ変える。
職人たちは縄を組み直した。
再び石袋を引く。
今度は岩へ回した縄が同じ位置を保った。
断脈の色も変わらない。
袋は谷の中央を越え、領都側へ届いた。
兵士が受け止めた瞬間、対岸から声が上がる。
「渡ったぞ!」
まだ試験にすぎない。
それでも、橋を使わずに荷を渡せることは証明できた。
リシアが対岸の御者たちへ振り返った。
「麦袋を半分に分けてください。口は二重に縛る。最初は一袋だけです」
「うちの鉄材はいつになる!」
荷車の脇から男が声を上げた。
「麦が製粉所へ届いた後です」
リシアは即座に返した。
「今日、粉が尽きれば街全体が困ります。鉄材は、その次に必ず渡します。順番は変えません」
男は何か言いかけたが、周囲の御者を見て口を閉じた。
◇
最初の麦袋が谷の上へ出た。
対岸の御者たちは声を潜め、その動きを見守っている。
石より軽い。
だが、中身が動くため、風を受けるたびに袋が揺れた。
「急に引かないでください! 同じ速さで!」
レオンの指示に合わせ、両側の兵士が縄を送る。
袋が中央へ達する。
運搬縄は下がったが、試験で記録した範囲を越えていない。
岩の断脈にも変化はなかった。
やがて袋が領都側へ届き、待っていた職人の腕へ収まる。
布の口を開く。
中には、乾いた麦が残っていた。
泥も水も入っていない。
リシアが短く息を吐いた。
「製粉所へ運んでください」
「次も同じ重さで続けます」
レオンは対岸へ向けて腕を上げた。
「次の袋を!」
運搬が始まった。
一袋。
また一袋。
ミナが重さと時間を記録し、職人が縄の擦れを確かめる。
兵士たちは交代しながら細縄を引いた。
対岸では御者たちが大袋を小分けにし、こちらでは届いた麦を荷車へ積み直していく。
橋は止まっている。
街道も直っていない。
それでも、物は動き始めた。
◇
日が傾く頃、最初に届いた麦が製粉所へ運び込まれた。
水車は回っていた。
だが、挽く麦がなく、石臼は止まっていた。
受け取った麦が入れられると、石臼が低い音を立てて動き始めた。
粉受けへ、白い粉が少しずつ落ちていく。
製粉所の前には、パン屋と食堂の者が袋を持って待っていた。
大歓声は上がらなかった。
誰もが、落ちてくる粉を確かめるように見ている。
やがてパン屋の女が、粉を一握り取った。
「これなら、明日の分を焼ける」
その声を聞いて、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
水が戻り、今度は麦が届いた。
街の仕事が、もう一度つながったのだ。
レオンは製粉所の外から、回る水車と石臼を見た。
橋を直したわけではない。
物流を完全に戻したわけでもない。
だが、復旧を待つ間にも、人の暮らしを止めない方法はある。
「必要な麦は届きました」
リシアが記録板を閉じた。
「次は木材と鉄材です。街道下の補強に使う分から渡します」
「はい。届いた資材から、道を支えます」
遠くの谷では、麦袋に代わって短い木材が縄へ吊られていた。
次に谷を越えるのは、壊れた道を直すための荷だった。




