12話 水を逃がせ
半分まで抜いた石の奥で、水が鳴っていた。
細い流れではない。
塞がれた街道の下で行き場を失い、出口を押し広げようとする重い音だった。
谷側の水抜き口では、バルドたちが短い木材を組んでいる。古い石組みの両側へ支えを立て、その手前には泥を受けるための板が並べられていた。
街道の上には兵士が残り、基準の杭から橋と石畳へ張った縄を見ている。
レオンは、水抜き口から街道の下へ伸びる断脈を追った。
黒い線はまだ太い。
橋を受ける石積みへ食い込み、ゆっくりと脈打っている。
「支えは持つか」
バルドは組んだ木材を蹴り、縄の張りを確かめた。
「上の石二段までは受けられる。だが、奥の土まで崩れたら止められん」
「水の勢いが変わったら、すぐ閉じられるようにしてください」
「板を一枚噛ませてある。押し込めば口を絞れる」
完全に開くための仕掛けではない。
開きすぎたときに、戻すための仕掛けだった。
レオンは街道の上を見上げた。
「ミナ。石を動かすたびに、三箇所を測ってください。街道の墨印、橋の南端、橋脚です」
「どれか一つでも動いたら?」
「どこが動いたかを先に教えてください。止めるかどうかは、それを見て決めます」
「分かりました」
ミナは記録板を抱え、兵士とともに街道へ上がった。
リシアは作業区画の外で、谷へ降りる道を塞ぐ兵士たちへ指示を出している。対岸の御者が近づかないよう橋番とも合図を決め、職人が上り下りする道だけを空けていた。
水を抜く作業そのものは職人の仕事だ。
だが、周囲を止め、人を近づけず、必要な人数を作業へ残すのはリシアの判断だった。
「始めます」
レオンが言うと、職人二人が縄を握った。
「指一本分だけ引いてください」
縄が張る。
半分まで抜かれていた石が、泥を擦りながらわずかに動いた。
隙間から出る水が太くなり、受け板へ黒い泥を叩きつける。
「そこで固定」
職人たちが縄を杭へ巻きつけた。
濁った水は、泥受けの板へぶつかり、横へ設けた溝から谷へ流れていく。
レオンは断脈を見た。
水抜き口の周囲を走る線が細かく揺れている。
だが、橋へ向かう黒い線は変わらない。
「上は?」
しばらくして、ミナの声が街道から返った。
「橋脚は変わりません! 橋の南端も同じです! 街道の墨印だけ、ほんの少し動いてます!」
まだ土が押し出されている。
水を抜き始めたことで動いたのか、抜かなければもっと動いていたのか。この一度だけでは判断できない。
「このまま待ちます。次はまだ動かさないでください」
水は途切れずに流れ続けた。
泥に混じって、小さな石が受け板へ転がる。
バルドが棒で流れを分け、石の大きさを確かめた。
「表面の泥だけじゃねえな。道の中から細かい石まで出てる」
「流れが土を運んでいます」
「開けすぎれば、中を空にするぞ」
「だから、今の幅で変化を見ます」
時間を置いて、再び距離を測る。
今度は街道の墨印も、ほとんど動いていなかった。
橋を押す動きが弱まっている可能性はある。
だが、水抜き口の奥では、黒い断脈が一箇所へ集まり始めていた。
古い石組みの右上。
支えを入れた石ではなく、そのさらに奥だった。
「バルドさん。右上の奥で、崩れが広がり始めています」
「見える石じゃねえな」
「はい。どこまで傷んでいるかは分かりません」
「なら、次に水が増えたら閉める。今のうちに右の支えを一本足すぞ」
バルドは職人へ短い木材を持たせ、既存の支えへ斜めに噛ませた。
石組みを直接押すのではなく、両側の動いていない岩へ力を逃がす形だった。
「これで崩れを止められますか」
「見えてる石ならな。奥の土までは知らん」
「十分です。分からない場所まで持つとは考えません」
支えが追加される。
もう一度、石を指一本分だけ引いた。
今度は水がすぐに増えなかった。
一拍遅れて、奥で何かが外れる音がした。
濁流が隙間から噴き出した。
「板を入れろ!」
バルドの声と同時に、職人たちが絞り板を押し込んだ。
水の勢いは半分まで落ちた。
だが、泥受けの板へ大きな石が当たり、片側が浮き上がる。流れが作業足場へ向きを変えた。
「左を押さえて! 正面には立たないでください!」
兵士二人が横から板を押さえ、職人が根元へ杭を打ち込む。
水抜き口の上で、石組みが低く軋んだ。
黒い断脈が、右上から橋の石積みへ一気に伸びる。
「バルドさん、右の支えが沈んでいます!」
「下に石を入れろ! 木を持ち上げるな、隙間へ薄いのを打ち込め!」
職人が泥の中へ平たい石を差し込み、木槌で叩く。
一枚では足りない。
二枚目が入る。
沈んでいた支えが止まり、石組みの軋みが弱くなった。
「水は閉じるか!?」
バルドが叫ぶ。
レオンは断脈と流れを見比べた。
ここで完全に閉じれば、出口を失った水が再び街道の下へ溜まる。
開けたままでは、土と石を運び出し続ける。
「半分だけ残します! 今の板より、もう一枚重ねてください!」
絞り板が追加され、水は人の腕ほどの太さまで細くなった。
泥を吐く勢いが落ちる。
橋へ伸びかけていた黒い断脈も、そこで止まった。
「ミナ! 上の印は!」
返事はすぐには来なかった。
街道の上で、人が走る音がする。
やがて、ミナが斜面の縁から身を乗り出した。
「街道は動いてません! 橋の南端も、橋脚も同じです!」
レオンは息を吐いた。
危険が消えたわけではない。
だが、水を抜くたびに橋が押される状態は止められた。
「この幅を維持します。濁りが減るまで、石はこれ以上動かしません」
「夜通しか」
「はい。水量と印を交代で確認します」
リシアが谷側へ降りてきた。
「兵士は二組残します。測定と立入禁止を交代で続けさせます」
「職人も残す。支えが沈んだら、兵士だけじゃ直せん」
バルドは水抜き口の木組みへ手を当てた。
「俺も残る」
「バルドさんは休んでください。明日、街道の下を確認する作業が要ります」
「この組み方をしたのは俺だ。最初の交代までは見る」
譲るつもりのない声だった。
レオンは反対しなかった。
「では、最初の交代までお願いします。俺は上の測定を確認します」
◇
空が暗くなる頃には、水の濁りが少し薄くなっていた。
泥受けには、黒い土と小石が山のように溜まっている。
街道の墨印は、それ以上ずれていない。
橋の南端も、基準の杭との距離を保っていた。
レオンの視界では、街道から橋へ食い込んでいた黒い断脈が暗赤色まで薄まっている。
橋を壊し続けていた動きは、ひとまず止まった。
「これなら、明日は橋を直せますか」
ミナが尋ねた。
「まだです。水が抜けた分、道の下がどうなったかを確かめます」
レオンは石畳の端へしゃがんだ。
継ぎ目からにじんでいた泥は減っている。
代わりに、石の下から空気が抜けるような音がした。
バルドが細い棒を隙間へ差し込む。
棒は抵抗なく沈み、半分を越えても底へ当たらなかった。
「……思ったより深いな」
別の継ぎ目でも同じだった。
白い修復術式で平らにされた区画の下から、水と一緒に土が抜けている。
石畳は残っている。
だが、その下で道を支えるものが失われていた。
「荷車は通せませんね」
ミナの声が低くなる。
「はい。今通せば、橋へ着く前に道が落ちます」
水を逃がしたことで、橋を押す動きは止められた。
同時に、表面の下へ隠れていた損傷が露わになった。
レオンは白い修復術式の帯を見渡した。
橋を積み直す前に、空洞になった街道を下から支え直さなければならない。
「明日は、この道の下を確認します」
背後から、リシアの声がした。
「それでは間に合いません」
レオンが振り返る。
リシアは対岸に並ぶ荷車を見ていた。
「製粉所へ回せる穀物は、あと二日分です。木材と鉄材も届かなければ、動き始めた工房がまた止まります」
「この道には、まだ誰も乗せられません」
「ですが、安全になるまで待ち続ければ、街の方が先に止まります」
リシアの声は冷静だった。
それでも、引くつもりがないことは分かった。
「荷車を通せば、道ごと落ちる可能性があります」
「何も通さなければ、二日後にはパンを焼けない者が出ます」
「街を動かすために、人を危険な場所へ出すことはできません」
「では、復旧総監として代わりの方法を示してください」
谷を挟んだ対岸には、麦袋を積んだ荷車が並んでいる。
足元の街道は、地面の形を残しているだけだった。
リシアの言うことも間違っていない。
物流が止まり続ければ、それもやがて人命の問題になる。
だが、だからといって、崩れると分かっている道へ人を乗せることはできない。
レオンは橋の両岸を見た。
人を渡す必要はない。
荷車を渡す必要もない。
必要なのは、街へ穀物を届けることだ。
「人は通しません」
リシアがレオンを見る。
「荷車も通しません。道の下を支える作業と並行して、荷だけを渡します」
「橋を使わずに?」
「谷の両側へ縄を張ります。まず穀物を小分けにして、一袋ずつです」
バルドが街道へ差していた棒を引き抜いた。
「道直しと荷運びを、同時にやる気か」
「どちらも止められません」
「人手は倍にはならんぞ」
「だから、必要な量だけを先に通します」
リシアはしばらく黙っていた。
やがて、対岸の荷車から視線を戻す。
「最初に渡す荷は、こちらで決めます」
「お願いします。俺は、人を危険な場所へ入れずに渡せる方法を決めます」
安全を譲らず、街も止めない。
次に作るのは、そのための仮の道だった。




