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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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9/20

第8話 「特別」だからこそ

 白い絵の具を薄く溶いたような筋雲が、佐辺の青い空に点々と広がり始めていた。


 夕暮れどきに響いていたひぐらしの声も、いつの間にか遠くなっている。


 佐辺の里は、秋を迎えようとしていた。


 鮎釣りの盛りを過ぎ、夏の間、来訪者の多かった川辺も、少しずつ静けさを取り戻している。


「アオ、気持ちよさそうじゃな!」


 北岸の道から、しゃがれたおじいさんの声が飛んだ。


「今日はよそから来た人もおらんかったでな。もう少し下流まで行ってもよさそうじゃぞ」


 川の中央を泳いでいたアオは、答えなかった。


 返事の代わりに、ぱしゃ、と小さく水を跳ね上げた。


 黒緑色の背びれが一瞬だけ水面から現れ、そのまま蛇行するように下流へ進んでいく。


 向かう先には、かつて佐辺《さなべ》大橋があった。


 洪水から、三か月。


 橋そのものはなくなった。


 人や自転車は簡素な仮設の歩道橋を渡れるようになったものの、車は今も下流の県道橋まで大きく迂回《うかい》しなければならない。


 朝夕には、遠回りする軽トラックが何台も集落を出入りしていた。


 そして、旧大橋があった場所にも、洪水の爪痕《つめあと》は残っている。


 川底には、壊れた橋の一部が沈んでいた。


 そこへ太い流木や石、曲がった金属片などが複雑に絡みつき、中央部には大きな堆積物のかたまりができている。


 県による新しい大橋の建設計画そのものは、すでに動き始めていた。


 だが、川底の調査や本格的な撤去作業を進めるにも、この堆積物が邪魔になっている。


 アオも普段は、その場所を避けていた。


 流れが速いからではない。


 尖った金属片や、どこへつながっているか分からない針金が危険だからだ。


「アオぉーっ! 底のほう、やっぱりまだいっぱいあるかー!」


 大声が飛んできた。


 アオは方向を変え、北岸へ泳ぎ寄った。


 水から上がる。


「騒がしい声だ」


「ははっ。消防団員の声が小さかったら務まらんだろ」


 赤木さとるだった。


 アオは振り返り、川の中央を見る。


「たくさんある」


「何が見える?」


「大きな石。太い木。鉄のくず」


「……やっぱりな」


 さとるは頭をかいた。


 昨日の寄合のことを思い出す。


*


「新しい大橋の計画は、ようやく動き出した」


 公民館で、辰蔵が言った。


 集まった人々の表情が少し明るくなる。


「じゃが、すぐ工事が始まるわけではない」


 辰蔵は続けた。


「中央に残った瓦礫が、かなり厄介らしい。調査も撤去も、予定より時間がかかるそうじゃ」


「業者に全部任せるしかないんですか」


「大きいもんは、そうなる。わしらが勝手にどうこうできるもんではない」


 消防団の若者が腕を組んだ。


「じゃあ、待つしかないか」


「ただな」


 辰蔵が図面を指した。


「岸から片づけられる流木や、小さな瓦礫は先に減らしておきたいらしい。川底の状態も、もう少し分かれば助かるそうじゃ」


「でも、真ん中は深いですよ」


 さとるが言った。


「流れもある。人が潜って見るような場所じゃない」


 しばらく、誰も答えなかった。


*


「さとる」


 声に呼び戻された。


「あ……すまん、考えごとしてた」


「困っているのか」


「ちょっとな」


 さとるは、水面から突き出た流木を見る。


「どうやったら、あそこを片づけられるかなって」


 アオは何も言わなかった。


 ただ、川の中央を見た。


*


 その夜。


 古民家の台所で、ミナトが夕飯の支度をしていた。


 包丁で野菜を切っていると、土間から声がした。


「ミナト」


「何」


「川の片づけ、アオならできるかもしれない」


 包丁が止まった。


「……大橋のところか」


「そう」


 アオは土間の板敷きに座っていた。


「川の中央。深い。流れが速い。人間は危ない」


「うん」


「アオは長く潜れる。流れも分かる。水の中で動ける」


 ミナトは黙った。


 それは確かだった。


 けれど、あそこには流木だけではない。


 折れた金属。


 コンクリートの破片。


 針金。


 人間が捨てたものまで混じっている。


「危ないぞ」


「川は知っている」


「川を知ってても、あそこは別だろ。尖った鉄とかあるんだぞ」


「気をつける」


「それで済むならいいけどな」


 アオは黙った。


「でも、橋がないと、里の人間が困る」


 ミナトは包丁を置いた。


「……やりたいのか」


「やってみる」


 短い返事だった。


 ミナトは少し考えた。


「分かった。辰蔵さんたちに相談しよう」


「うん」


「でも、勝手にはやるなよ」


「分かった」


「危ないと思ったらやめる」


「分かった」


「オレが止めたら?」


 少し間があった。


「……止まる」


「今の間、何?」


「少し不満」


「やっぱりな」


 アオのエラ蓋が、小さく動いた。


「ミナトは、うるさい」


「お前が無茶しそうだからだよ」


 土間の奥で、ギュルギュル……と小さな音がした。


 ミナトは振り向いた。


「……今、嬉しかった?」


「違う」


「ほんとに?」


「うるさいのは、悪くない」


 ミナトはしばらくアオを見た。


「お前、そういうの急に言うなよ」


「なぜ」


「……こっちが困るだろ」


*


 翌日。


 辰蔵と消防団の若者たちに話すと、返事はすぐには返ってこなかった。


「アオが、中央部の片づけを手伝えるかもしれないと言ってます」


 辰蔵はアオを見る。


「本気か」


「川の中なら動ける」


「危ないぞ」


「知っている」


「いや」


 辰蔵は首を振った。


「お前さんが普段泳いどる川とは違う。何が引っかかっとるか分からん。鉄もある。木もある。下手に動かせば、別のもんが崩れるかもしれん」


 アオは黙って聞いていた。


「無理はしない」


 横にいた消防団員が笑った。


「ほんとか? アオ、わりと無理するぞ」


「する」


「認めるんかい」


「そこは否定しろよ」


 ミナトがすぐに突っ込んだ。


 少しだけ笑いが起きた。


 辰蔵は腕を組んだ。


「なら、条件じゃ」


「じょうけん」


「一人で勝手にやらん。岸の人間と合図を決める。危ないもんは無理に動かさん。それから――」


 辰蔵がミナトを見た。


「こいつが止めたら、止まれ」


 アオもミナトを見る。


「ミナトが」


「止まれ」


「……分かった」


「また間があったぞ」


「少し不満」


「そこも昨日と同じかよ」


 辰蔵が笑った。


 それから、声を少し落とした。


「アオ」


「なんだ」


「これは、お前さんだけの仕事じゃない」


 アオが見る。


「里の仕事じゃ。お前さんだけに背負わせるつもりはない」


「里の仕事」


「そうじゃ」


 辰蔵はうなずいた。


「お前さんは、その中で、自分にできることをやる。それだけじゃ」


 アオは川へ視線を向けた。


 背びれの上部が、ほんの少し立った。


*


 作業は、少しずつ進められた。


 外から人が来ていない時間を選び、消防団員たちが岸側を担当する。


 アオは水中で、人間が簡単に近づけない深みを受け持った。


 最初に教わったのは、道具の使い方だった。


「これはバール」


「ばーる」


「石とかを、てこの力で動かす」


「てこ」


「そこからか」


 さとるが頭を抱える。


 スコップ。


 バール。


 厚い作業用の袋。


 太いロープ。


 アオは一つずつ覚えた。


 もっとも、水かきのある手では、人間と同じようには扱えない。


「これは使いにくい」


「だろうな」


「人間の手は、細かい」


「アオの手は?」


「魚を捕るのにいい」


「適材適所ってことにしとこう」


 アオは水へ入った。


 底にたまった細かな土砂を避ける。


 絡み合った枝を一本ずつ外す。


 持ち上げられる石は岸へ運ぶ。


 動かせないものは、無理に触らない。


 岸では消防団員たちが受け取り、次々と積み上げていく。


「アオ、右!」


 水の中から顔が出た。


「右」


「そっちじゃない!」


「右と言った」


「お前から見て右!」


「最初に言え」


「すまん!」


 ミナトがため息をついた。


「先に合図決めろって言われただろ」


「これから決める!」


「もう始まってるよ……」


*


 何日か経つと、目に見えて流木が減った。


 川の中央にあった大きなかたまりにも、少しずつ隙間ができ始める。


 アオは何度も水中と岸を往復した。


 それでも、無傷では済まなかった。


 細い金属片で腕を擦る。


 鱗の端が欠ける。


 背びれにも、小さな傷が増えた。


「今日は終わり」


 ミナトが言った。


「まだできる」


「終わり」


「まだ明るい」


「お前の身体見て言ってんだよ」


 濡れた鱗は、いつもよりつやがなかった。


 背びれも低く伏せている。


 エラ蓋の動きも、少し重い。


 アオはミナトを見る。


「条件」


「そう。条件」


 少し沈黙してから、


「分かった」


 と答えた。


 辰蔵が笑う。


「ミナトには逆らえんか」


「うるさい」


「どっちが?」


「両方」


*


 十日ほど経った頃。


 大半の流木や細かな瓦礫は取り除かれていた。


 最後まで残ったのは、旧橋の橋脚周辺に食い込んだ大きな残骸だった。


 折れたコンクリート片。


 曲がった金属。


 太い木。


 それらが複雑にかみ合い、一つの塊になっている。


「これは、アオだけじゃ無理だ」


 水から上がったアオが言った。


 さとるはしゃがみ込み、水面を見る。


「だろうな」


「重い」


「重いだけじゃなくて、引っかかってるんだろ?」


「そう」


 しばらく考えていたさとるが、立ち上がった。


「なら、全部をアオに運ばせる必要はない」


「どうする」


「こっちで引っ張る」


 用意された太いワイヤーを持ち上げる。


「アオ、このワイヤーをあの残骸に巻けるか」


「わいやー」


「めちゃくちゃ頑丈なロープみたいなもんだ」


 アオは、水かきのついた自分の手に目をやった。


「細かく結べない」


「結ばなくていい。大きく回して、外れないように何周も巻けばいい」


 さとるは少し考えた。


「でっかい魚肉ソーセージを捕まえると思って」


 背びれの上部が、ぴくりと立った。


 ミナトが横から言った。


「今ので伝わるんだ……」


「伝わるならええだろ」


「大きな魚肉ソーセージ」


 アオは確認するように言った。


「そう。それを逃がすな」


「分かった」


 ワイヤーの端を持ち、アオは水へ入った。


 長い線が、するすると水面へ吸い込まれていく。


 絡まないように。


 自分の身体へ巻きつかないように。


 ゆっくりと。


 慎重に。


 水中では、細かな作業が難しい。


 以前、捨てられた釣り針が鱗に刺さったときもそうだった。


 水かきのついた手では、うまく抜けなかった。


 鱗が剥がれ落ちるまで、うずくような痛みに耐えるしかなかった。


 だからこそ、アオは急がない。


 大きく一周。


 もう一周。


 角度を変えて、さらに回す。


「アオーっ! 反対からも一回回せー!」


 岸から、さとるの声が飛んでくる。


 しばらくして。


 ぼこっ、と水面が盛り上がった。


 アオの頭が出た。


「できた」


「よし!」


 ワイヤーの反対側は、岸で待つ小型重機につながれている。


 運転席の男が手を上げた。


「ゆっくり引くぞ!」


 エンジン音が上がる。


 ワイヤーが水面の上で一直線に張った。


 消防団員たちは安全な位置から、その動きを見守る。


 最初は何も起こらない。


 ぎり……ぎりぎり……と金属が軋《きし》む音がした。


「動いた!」


「ゆっくり! 一気にやるな!」


 水面が大きく揺れる。


 土に埋まっていた残骸が、わずかにずれた。


「もう一回!」


 重機がゆっくりと後退する。


 ぐぐ、と水の中で塊が動いた。


 そして。


 長いあいだ川底に噛み込んでいた残骸が、ようやく外れた。


 水面に泥が広がる。


「いける!」


 少しずつ。


 少しずつ。


 大きな塊が川岸へ引き寄せられていった。


 やがて、濡れたコンクリートと曲がった金属の残骸が、岸へ姿を現した。


「やった!」


 歓声が上がった。


「抜けたぞ!」


「アオ、ようやった!」


「さとるもな!」


「オレは声出してただけだ!」


「それはいつもじゃ!」


 笑い声が広がった。


*


 ミナトは、その輪から少し離れた場所にいるアオへ近づいた。


「アオ」


 アオは岸に座り込んでいた。


 腕にも、水かきにも、細かな傷がある。


 ところどころ、黒緑色の鱗が剥がれていた。


「痛むだろ」


「少し」


「無茶しやがって」


「条件は守った」


「まあ、それは認める」


「腹が減った」


「結局それかよ」


 ミナトはポケットから魚肉ソーセージを一本取り出した。


「今日は、一本全部食え」


 アオが見る。


「全部」


「腹減ってんだろ?」


「半分」


「今日はいいって」


「半分こ」


「……なんで」


 アオは魚肉ソーセージを見る。


「今日のソーセージは、特売ではない」


「は?」


 ミナトが眉を寄せる。


 アオののどの奥で、ギュルギュル……と音がした。


「アオにしかできないことが、できた」


 ミナトは少し黙った。


「……特別、ってことか」


「とくべつ」


「他のもので代わりにできないってこと」


「特売ではなくて、特別」


「一文字違いでだいぶ違うな」


「今日は、特別」


 ギュルギュル……。


 また、小さく鳴った。


 ミナトは笑った。


「得意げだな、お前」


「だから、半分こにする」


「どういう理屈だよ」


「ミナトもいた」


 ミナトの手が止まった。


 アオは続けた。


「さとるも、辰蔵もいた。みんなでやった」


 少し間がある。


「だから、半分」


 ミナトは何も言わず、包装をむいた。


 真ん中で折る。


「はい」


「うん」


 二人は、川岸に並んで魚肉ソーセージを食べた。


*


「アオ」


 辰蔵がやって来た。


「なんだ」


「ようやってくれた」


 深く頭を下げる。


 続いて、さとるたち消防団員も頭を下げた。


 作業を見守っていた住民たちも、それに続く。


 アオの爪が、出たり引っ込んだりした。


「頭を下げるな」


「礼じゃ」


「何度も、いらない」


「何度でも言う。ありがとう」


 アオはミナトを見る。


「困る」


「慣れろ」


「難しい」


「それも練習だ」


 アオは川を見る。


 中央部をふさいでいた大きな塊は、もうない。


 水が、そこを通り抜けている。


「橋ができたら、人間は渡るのか」


「ああ」


 ミナトが答えた。


「子どもも、大人も、車も、みんな渡る」


「危なくないか」


「安全に作ってもらうんだよ」


 辰蔵も川を見る。


「大きな橋脚も、あの辺に立つことになるそうじゃ」


 アオの琥珀色の目が大きく開いた。


「あそこに」


「そうじゃ」


 流れだけになった水面を、アオは長いあいだ見ていた。


*


 それから数週間後。


 新しい佐辺大橋の起工式が行われた。


 県や工事関係者も訪れ、河川敷には普段より多くの人が集まった。


 もちろん、その時間、アオは姿を見せなかった。


 式が終わり、外から来た人々が帰った夕方。


 辰蔵たちは、佐辺側の河川敷に残っていた。


 大橋のたもとから少し外れた、草の生える一角。


 そこに、小さな台座が置かれていた。


 目を凝らさなければ、気づかず通り過ぎるくらいのものだった。


 台座には、一枚の金属プレートが埋め込まれている。


 描かれているのは、一匹の奇妙な生き物。


 背びれ。


 長い手。


 少し不機嫌そうな琥珀色の目。


 そして、その手には一本の魚肉ソーセージ。


 デザインは、佐辺小学校の先生が引き受けてくれた。


「……魚肉ソーセージ、いる?」


 ミナトが言った。


 さとるが笑う。


「いるだろ」


「なんで」


「これがないとアオっぽくない」


「背びれと長い腕で十分分かるわ」


 プレートには、大きな説明文もない。


 アオの名前さえ、目立つようには書かれていない。


 ここを通る人間の大半には、ただの小さな地域の意匠にしか見えないだろう。


 けれど、佐辺の人間には分かる。


 辰蔵が満足そうにうなずいた。


「これくらいでええ」


「アオには?」


 ミナトが聞く。


「まだ内緒じゃ」


「なんでですか」


「見つけたときの反応を見たい」


「辰蔵さん、意外と性格悪いな」


「何を言うとる」


 さとるがプレートを見る。


「ギュルギュル言うかな」


「たぶんな」


 ミナトは笑って、金属の表面を指先でなぞった。


 小さな絵だった。


 目立たない。


 知らない人なら、意味も分からない。


 それでも、そこにあった。


 これから新しい橋が架かる。プレートのすぐ上に。


 まだアオは、そのことを知らなかった。


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