第8話 「特別」だからこそ
白い絵の具を薄く溶いたような筋雲が、佐辺の青い空に点々と広がり始めていた。
夕暮れどきに響いていたひぐらしの声も、いつの間にか遠くなっている。
佐辺の里は、秋を迎えようとしていた。
鮎釣りの盛りを過ぎ、夏の間、来訪者の多かった川辺も、少しずつ静けさを取り戻している。
「アオ、気持ちよさそうじゃな!」
北岸の道から、しゃがれたおじいさんの声が飛んだ。
「今日はよそから来た人もおらんかったでな。もう少し下流まで行ってもよさそうじゃぞ」
川の中央を泳いでいたアオは、答えなかった。
返事の代わりに、ぱしゃ、と小さく水を跳ね上げた。
黒緑色の背びれが一瞬だけ水面から現れ、そのまま蛇行するように下流へ進んでいく。
向かう先には、かつて佐辺大橋があった。
洪水から、三か月。
橋そのものはなくなった。
人や自転車は簡素な仮設の歩道橋を渡れるようになったものの、車は今も下流の県道橋まで大きく迂回しなければならない。
朝夕には、遠回りする軽トラックが何台も集落を出入りしていた。
そして、旧大橋があった場所にも、洪水の爪痕は残っている。
川底には、壊れた橋の一部が沈んでいた。
そこへ太い流木や石、曲がった金属片などが複雑に絡みつき、中央部には大きな堆積物のかたまりができている。
県による新しい大橋の建設計画そのものは、すでに動き始めていた。
だが、川底の調査や本格的な撤去作業を進めるにも、この堆積物が邪魔になっている。
アオも普段は、その場所を避けていた。
流れが速いからではない。
尖った金属片や、どこへつながっているか分からない針金が危険だからだ。
「アオぉーっ! 底のほう、やっぱりまだいっぱいあるかー!」
大声が飛んできた。
アオは方向を変え、北岸へ泳ぎ寄った。
水から上がる。
「騒がしい声だ」
「ははっ。消防団員の声が小さかったら務まらんだろ」
赤木さとるだった。
アオは振り返り、川の中央を見る。
「たくさんある」
「何が見える?」
「大きな石。太い木。鉄のくず」
「……やっぱりな」
さとるは頭をかいた。
昨日の寄合のことを思い出す。
*
「新しい大橋の計画は、ようやく動き出した」
公民館で、辰蔵が言った。
集まった人々の表情が少し明るくなる。
「じゃが、すぐ工事が始まるわけではない」
辰蔵は続けた。
「中央に残った瓦礫が、かなり厄介らしい。調査も撤去も、予定より時間がかかるそうじゃ」
「業者に全部任せるしかないんですか」
「大きいもんは、そうなる。わしらが勝手にどうこうできるもんではない」
消防団の若者が腕を組んだ。
「じゃあ、待つしかないか」
「ただな」
辰蔵が図面を指した。
「岸から片づけられる流木や、小さな瓦礫は先に減らしておきたいらしい。川底の状態も、もう少し分かれば助かるそうじゃ」
「でも、真ん中は深いですよ」
さとるが言った。
「流れもある。人が潜って見るような場所じゃない」
しばらく、誰も答えなかった。
*
「さとる」
声に呼び戻された。
「あ……すまん、考えごとしてた」
「困っているのか」
「ちょっとな」
さとるは、水面から突き出た流木を見る。
「どうやったら、あそこを片づけられるかなって」
アオは何も言わなかった。
ただ、川の中央を見た。
*
その夜。
古民家の台所で、ミナトが夕飯の支度をしていた。
包丁で野菜を切っていると、土間から声がした。
「ミナト」
「何」
「川の片づけ、アオならできるかもしれない」
包丁が止まった。
「……大橋のところか」
「そう」
アオは土間の板敷きに座っていた。
「川の中央。深い。流れが速い。人間は危ない」
「うん」
「アオは長く潜れる。流れも分かる。水の中で動ける」
ミナトは黙った。
それは確かだった。
けれど、あそこには流木だけではない。
折れた金属。
コンクリートの破片。
針金。
人間が捨てたものまで混じっている。
「危ないぞ」
「川は知っている」
「川を知ってても、あそこは別だろ。尖った鉄とかあるんだぞ」
「気をつける」
「それで済むならいいけどな」
アオは黙った。
「でも、橋がないと、里の人間が困る」
ミナトは包丁を置いた。
「……やりたいのか」
「やってみる」
短い返事だった。
ミナトは少し考えた。
「分かった。辰蔵さんたちに相談しよう」
「うん」
「でも、勝手にはやるなよ」
「分かった」
「危ないと思ったらやめる」
「分かった」
「オレが止めたら?」
少し間があった。
「……止まる」
「今の間、何?」
「少し不満」
「やっぱりな」
アオのエラ蓋が、小さく動いた。
「ミナトは、うるさい」
「お前が無茶しそうだからだよ」
土間の奥で、ギュルギュル……と小さな音がした。
ミナトは振り向いた。
「……今、嬉しかった?」
「違う」
「ほんとに?」
「うるさいのは、悪くない」
ミナトはしばらくアオを見た。
「お前、そういうの急に言うなよ」
「なぜ」
「……こっちが困るだろ」
*
翌日。
辰蔵と消防団の若者たちに話すと、返事はすぐには返ってこなかった。
「アオが、中央部の片づけを手伝えるかもしれないと言ってます」
辰蔵はアオを見る。
「本気か」
「川の中なら動ける」
「危ないぞ」
「知っている」
「いや」
辰蔵は首を振った。
「お前さんが普段泳いどる川とは違う。何が引っかかっとるか分からん。鉄もある。木もある。下手に動かせば、別のもんが崩れるかもしれん」
アオは黙って聞いていた。
「無理はしない」
横にいた消防団員が笑った。
「ほんとか? アオ、わりと無理するぞ」
「する」
「認めるんかい」
「そこは否定しろよ」
ミナトがすぐに突っ込んだ。
少しだけ笑いが起きた。
辰蔵は腕を組んだ。
「なら、条件じゃ」
「じょうけん」
「一人で勝手にやらん。岸の人間と合図を決める。危ないもんは無理に動かさん。それから――」
辰蔵がミナトを見た。
「こいつが止めたら、止まれ」
アオもミナトを見る。
「ミナトが」
「止まれ」
「……分かった」
「また間があったぞ」
「少し不満」
「そこも昨日と同じかよ」
辰蔵が笑った。
それから、声を少し落とした。
「アオ」
「なんだ」
「これは、お前さんだけの仕事じゃない」
アオが見る。
「里の仕事じゃ。お前さんだけに背負わせるつもりはない」
「里の仕事」
「そうじゃ」
辰蔵はうなずいた。
「お前さんは、その中で、自分にできることをやる。それだけじゃ」
アオは川へ視線を向けた。
背びれの上部が、ほんの少し立った。
*
作業は、少しずつ進められた。
外から人が来ていない時間を選び、消防団員たちが岸側を担当する。
アオは水中で、人間が簡単に近づけない深みを受け持った。
最初に教わったのは、道具の使い方だった。
「これはバール」
「ばーる」
「石とかを、てこの力で動かす」
「てこ」
「そこからか」
さとるが頭を抱える。
スコップ。
バール。
厚い作業用の袋。
太いロープ。
アオは一つずつ覚えた。
もっとも、水かきのある手では、人間と同じようには扱えない。
「これは使いにくい」
「だろうな」
「人間の手は、細かい」
「アオの手は?」
「魚を捕るのにいい」
「適材適所ってことにしとこう」
アオは水へ入った。
底にたまった細かな土砂を避ける。
絡み合った枝を一本ずつ外す。
持ち上げられる石は岸へ運ぶ。
動かせないものは、無理に触らない。
岸では消防団員たちが受け取り、次々と積み上げていく。
「アオ、右!」
水の中から顔が出た。
「右」
「そっちじゃない!」
「右と言った」
「お前から見て右!」
「最初に言え」
「すまん!」
ミナトがため息をついた。
「先に合図決めろって言われただろ」
「これから決める!」
「もう始まってるよ……」
*
何日か経つと、目に見えて流木が減った。
川の中央にあった大きなかたまりにも、少しずつ隙間ができ始める。
アオは何度も水中と岸を往復した。
それでも、無傷では済まなかった。
細い金属片で腕を擦る。
鱗の端が欠ける。
背びれにも、小さな傷が増えた。
「今日は終わり」
ミナトが言った。
「まだできる」
「終わり」
「まだ明るい」
「お前の身体見て言ってんだよ」
濡れた鱗は、いつもよりつやがなかった。
背びれも低く伏せている。
エラ蓋の動きも、少し重い。
アオはミナトを見る。
「条件」
「そう。条件」
少し沈黙してから、
「分かった」
と答えた。
辰蔵が笑う。
「ミナトには逆らえんか」
「うるさい」
「どっちが?」
「両方」
*
十日ほど経った頃。
大半の流木や細かな瓦礫は取り除かれていた。
最後まで残ったのは、旧橋の橋脚周辺に食い込んだ大きな残骸だった。
折れたコンクリート片。
曲がった金属。
太い木。
それらが複雑にかみ合い、一つの塊になっている。
「これは、アオだけじゃ無理だ」
水から上がったアオが言った。
さとるはしゃがみ込み、水面を見る。
「だろうな」
「重い」
「重いだけじゃなくて、引っかかってるんだろ?」
「そう」
しばらく考えていたさとるが、立ち上がった。
「なら、全部をアオに運ばせる必要はない」
「どうする」
「こっちで引っ張る」
用意された太いワイヤーを持ち上げる。
「アオ、このワイヤーをあの残骸に巻けるか」
「わいやー」
「めちゃくちゃ頑丈なロープみたいなもんだ」
アオは、水かきのついた自分の手に目をやった。
「細かく結べない」
「結ばなくていい。大きく回して、外れないように何周も巻けばいい」
さとるは少し考えた。
「でっかい魚肉ソーセージを捕まえると思って」
背びれの上部が、ぴくりと立った。
ミナトが横から言った。
「今ので伝わるんだ……」
「伝わるならええだろ」
「大きな魚肉ソーセージ」
アオは確認するように言った。
「そう。それを逃がすな」
「分かった」
ワイヤーの端を持ち、アオは水へ入った。
長い線が、するすると水面へ吸い込まれていく。
絡まないように。
自分の身体へ巻きつかないように。
ゆっくりと。
慎重に。
水中では、細かな作業が難しい。
以前、捨てられた釣り針が鱗に刺さったときもそうだった。
水かきのついた手では、うまく抜けなかった。
鱗が剥がれ落ちるまで、うずくような痛みに耐えるしかなかった。
だからこそ、アオは急がない。
大きく一周。
もう一周。
角度を変えて、さらに回す。
「アオーっ! 反対からも一回回せー!」
岸から、さとるの声が飛んでくる。
しばらくして。
ぼこっ、と水面が盛り上がった。
アオの頭が出た。
「できた」
「よし!」
ワイヤーの反対側は、岸で待つ小型重機につながれている。
運転席の男が手を上げた。
「ゆっくり引くぞ!」
エンジン音が上がる。
ワイヤーが水面の上で一直線に張った。
消防団員たちは安全な位置から、その動きを見守る。
最初は何も起こらない。
ぎり……ぎりぎり……と金属が軋む音がした。
「動いた!」
「ゆっくり! 一気にやるな!」
水面が大きく揺れる。
土に埋まっていた残骸が、わずかにずれた。
「もう一回!」
重機がゆっくりと後退する。
ぐぐ、と水の中で塊が動いた。
そして。
長いあいだ川底に噛み込んでいた残骸が、ようやく外れた。
水面に泥が広がる。
「いける!」
少しずつ。
少しずつ。
大きな塊が川岸へ引き寄せられていった。
やがて、濡れたコンクリートと曲がった金属の残骸が、岸へ姿を現した。
「やった!」
歓声が上がった。
「抜けたぞ!」
「アオ、ようやった!」
「さとるもな!」
「オレは声出してただけだ!」
「それはいつもじゃ!」
笑い声が広がった。
*
ミナトは、その輪から少し離れた場所にいるアオへ近づいた。
「アオ」
アオは岸に座り込んでいた。
腕にも、水かきにも、細かな傷がある。
ところどころ、黒緑色の鱗が剥がれていた。
「痛むだろ」
「少し」
「無茶しやがって」
「条件は守った」
「まあ、それは認める」
「腹が減った」
「結局それかよ」
ミナトはポケットから魚肉ソーセージを一本取り出した。
「今日は、一本全部食え」
アオが見る。
「全部」
「腹減ってんだろ?」
「半分」
「今日はいいって」
「半分こ」
「……なんで」
アオは魚肉ソーセージを見る。
「今日のソーセージは、特売ではない」
「は?」
ミナトが眉を寄せる。
アオののどの奥で、ギュルギュル……と音がした。
「アオにしかできないことが、できた」
ミナトは少し黙った。
「……特別、ってことか」
「とくべつ」
「他のもので代わりにできないってこと」
「特売ではなくて、特別」
「一文字違いでだいぶ違うな」
「今日は、特別」
ギュルギュル……。
また、小さく鳴った。
ミナトは笑った。
「得意げだな、お前」
「だから、半分こにする」
「どういう理屈だよ」
「ミナトもいた」
ミナトの手が止まった。
アオは続けた。
「さとるも、辰蔵もいた。みんなでやった」
少し間がある。
「だから、半分」
ミナトは何も言わず、包装をむいた。
真ん中で折る。
「はい」
「うん」
二人は、川岸に並んで魚肉ソーセージを食べた。
*
「アオ」
辰蔵がやって来た。
「なんだ」
「ようやってくれた」
深く頭を下げる。
続いて、さとるたち消防団員も頭を下げた。
作業を見守っていた住民たちも、それに続く。
アオの爪が、出たり引っ込んだりした。
「頭を下げるな」
「礼じゃ」
「何度も、いらない」
「何度でも言う。ありがとう」
アオはミナトを見る。
「困る」
「慣れろ」
「難しい」
「それも練習だ」
アオは川を見る。
中央部をふさいでいた大きな塊は、もうない。
水が、そこを通り抜けている。
「橋ができたら、人間は渡るのか」
「ああ」
ミナトが答えた。
「子どもも、大人も、車も、みんな渡る」
「危なくないか」
「安全に作ってもらうんだよ」
辰蔵も川を見る。
「大きな橋脚も、あの辺に立つことになるそうじゃ」
アオの琥珀色の目が大きく開いた。
「あそこに」
「そうじゃ」
流れだけになった水面を、アオは長いあいだ見ていた。
*
それから数週間後。
新しい佐辺大橋の起工式が行われた。
県や工事関係者も訪れ、河川敷には普段より多くの人が集まった。
もちろん、その時間、アオは姿を見せなかった。
式が終わり、外から来た人々が帰った夕方。
辰蔵たちは、佐辺側の河川敷に残っていた。
大橋のたもとから少し外れた、草の生える一角。
そこに、小さな台座が置かれていた。
目を凝らさなければ、気づかず通り過ぎるくらいのものだった。
台座には、一枚の金属プレートが埋め込まれている。
描かれているのは、一匹の奇妙な生き物。
背びれ。
長い手。
少し不機嫌そうな琥珀色の目。
そして、その手には一本の魚肉ソーセージ。
デザインは、佐辺小学校の先生が引き受けてくれた。
「……魚肉ソーセージ、いる?」
ミナトが言った。
さとるが笑う。
「いるだろ」
「なんで」
「これがないとアオっぽくない」
「背びれと長い腕で十分分かるわ」
プレートには、大きな説明文もない。
アオの名前さえ、目立つようには書かれていない。
ここを通る人間の大半には、ただの小さな地域の意匠にしか見えないだろう。
けれど、佐辺の人間には分かる。
辰蔵が満足そうにうなずいた。
「これくらいでええ」
「アオには?」
ミナトが聞く。
「まだ内緒じゃ」
「なんでですか」
「見つけたときの反応を見たい」
「辰蔵さん、意外と性格悪いな」
「何を言うとる」
さとるがプレートを見る。
「ギュルギュル言うかな」
「たぶんな」
ミナトは笑って、金属の表面を指先でなぞった。
小さな絵だった。
目立たない。
知らない人なら、意味も分からない。
それでも、そこにあった。
これから新しい橋が架かる。プレートのすぐ上に。
まだアオは、そのことを知らなかった。




