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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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8/21

第7話 里山の盾

 異変は、一本のネットニュースから始まった。


「豪雨災害の濁流から住民を救った“謎の生物”か」


 見出しだけなら、よくある都市伝説のようにも見えた。


 記事には、ぼやけた写真が一枚添えられていた。


 濁流の中、誰かを抱えて岸へ向かう、深緑の影。


 顔ははっきり写っていない。


 だが、普通の人間ではないことは分かる。


 ミナトはスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 いつかこうなることは分かっていた。


 あの洪水の日、アオは多くの人間の前に姿を見せた。佐辺の人たちが口を閉ざしてくれても、この時代に完全に隠し通すのは難しい。


 胸の奥が冷えていく。


 アオの存在が、佐辺の外へ知られてしまう。


 面白半分に見に来る人間がいるかもしれない。


 写真を撮ろうとする者もいる。


 そして、「保護」や「調査」という名目で、アオを連れていこうとする者が現れるかもしれない。


 ミナトはスマホを伏せた。


「ミナト」


 土間の奥から、アオがこちらを見ていた。


 アオはまだ文字を読めない。


 けれど、ミナトの様子が変わったことには気づいている。


「何か、来るのか」


 ミナトは少しだけ笑おうとした。


「……たぶん、面倒なものが来る」


「雷か」


「もっと面倒かもしれない」


「人間か」


 ミナトは答えなかった。


 アオの背びれが、ゆっくりと伏せた。


「アオは、隠れる」


「うん。しばらくは目立たないほうがいい。家の中にいるか、川に行くなら上流の、人が来ないところにしてくれ」


「里の子どもは」


「来ても、しばらく会わないほうがいいな」


 アオは黙った。


「肉の字、教わる日だった」


 ミナトは一瞬、言葉に詰まった。


 昨日、チラシを見ながら約束していたのだ。


 次は「肉」と「特売」の文字を教える、と。


「落ち着いたら、またやろう」


「分かった」


 アオはそれ以上、何も言わなかった。


*


 翌日から、佐辺に見慣れない車が現れ始めた。


 最初に来たのは、地方テレビ局の取材班だった。


 カメラを抱えた若い男性と、マイクを持った女性。


 集落の入口で、畑仕事をしていた老人に声をかけている。


「このあたりで、洪水のときに謎の生物が人を助けたという話を聞いたんですが」


 老人は鍬《くわ》を持ったまま、顔をしかめた。


「知らんなあ」


「でも、目撃された方がいると」


「この辺は、狸も鹿も出るでなあ」


「人のような、魚のような姿だったという話もあります」


「魚が人を助けるかね」


 老人はそれだけ言うと、畑へ戻った。


 その次に来たのは、白いワゴン車だった。


 側面には、水棲《すいせい》生物を扱う研究機関の名前が入っている。


 作業服姿の職員が三人、公民館の前で住民たちに名刺を配っていた。


「未確認の水棲生物が確認された可能性があります。安全面も含め、専門的な調査が必要です」


「もし何か情報をお持ちでしたら、ご協力ください」


「未知の生物ですので、人に危害を加える可能性も現時点では否定できません」


 ミナトは少し離れた場所で、それを聞いていた。


 腹の底が、静かに熱くなる。


 安全。


 調査。


 危害。


 どれも、それ自体はおかしな言葉ではない。


 それでも、アオが「個体」や「対象」として扱われ、どこかへ連れていかれる光景が頭から離れなかった。


 捕まえられる。


 調べられる。


 番号をつけられる。


 そして、もうここへ帰ってこられなくなる。


 ミナトは拳を握った。


「顔、怖いぞ」


 背後から声がした。


 振り返ると、辰蔵《たつぞう》が立っていた。


 洪水の日、アオに頭を下げた男だった。


「……すみません」


「謝らんでええ。わしも腹立っとる」


 辰蔵は研究職員たちを見た。


「あいつら、アオを物みたいに言う」


「連れて行かせません」


「当たり前じゃ」


 辰蔵は、ごく普通のことのように言った。


「アオは、この里の者じゃ」


 ミナトは辰蔵を見た。


「……いいんですか。そんなふうに言って」


「何がじゃ」


「アオ、人間じゃないですよ」


 辰蔵は鼻で笑った。


「人間でも、ろくでもないやつは山ほどおる」


「それはまあ……」


「アオは人間ではないかもしれんが、ろくでもなくはない」


 ミナトは少し笑った。


 辰蔵は続けた。


「あいつは、高田の孫を助けた。井上のじいさんも助けた。消防団のさとるも助けた。あの日、誰より先に川へ入った。それで十分じゃ」


 そして、ミナトの肩をぽんと叩いた。


「一人で怒るな」


「え?」


「怒るなら、この里みんなで怒る」


*


 その夕方。


 ミナトが家へ戻ると、アオは土間の板敷きにいた。


 床には、特売チラシが広げられている。


 だが、魚肉ソーセージの写真ではなく、文字の並んだ部分をじっと見ていた。


「アオ」


 アオが顔を上げる。


「人間が、来たか」


「来た」


「アオを探しているのか」


「たぶん」


「なぜ」


 ミナトは少し迷った。


 アオは自分の手を見る。


 水かきのある長い指。


 鋭い爪。


 深緑色の鱗。


「珍しいからか」


「……それもあると思う」


「珍しいものは、捕まえるのか」


「捕まえさせない」


「ミナトは、弱い」


「今それ言う?」


「でも、怒っている」


「怒ってるよ」


 アオのエラ蓋が、小さく一度動いた。


「ミナトが怒ると、顔が怖い」


「お前に言われたくない」


 アオは立ち上がった。


「アオが出ていけば、迷惑はかからない」


 ミナトの表情が変わった。思わず大きな声が出る。


「何言ってんだ」


「人間は、アオを探している。アオがいなければ、来ない」


「ダメだ」


「川に戻る」


「ダメだって言ってるだろ!」


 声が古民家の中に響いた。


 アオの背びれが、びくりと伏せた。


 ミナトは息を吐いた。


「……悪い。でかい声出した」


「怒っている」


「うん。でも、お前にじゃない」


 ミナトはアオを見る。


「ここが家だろ」


 アオは黙った。


「佐辺の人たちだって、お前を守ろうとしてる」


「なぜ」


「だって、お前が先に守ったからだよ」


 アオの琥珀色の目が、ミナトを見る。


「洪水のときだけじゃない。子どもと魚捕ったり、年寄りからスルメもらったり、くだらない話したり……」


「特売も」


「それは今、関係あるか?」


「ある」


「……まあ、あることにしよう」


 ミナトは少し笑った。


「もうみんな、お前がどういうやつか知ってるんだよ」


 そのときだった。


「ミナトくん!」


 外から辰蔵の声がした。


 ミナトが庭へ出る。


「はい――」


 言葉が止まった。


 辰蔵だけではなかった。


 佐辺の老人たち。


 消防団の若者たち。


 子どもたちの親。


 あの日、野菜や梅干しを持ってきたおばあさんたち。


 そして、洪水の日にアオに助けられた男の子と、その母親。


 みんなが瀬川の家の前に立っていた。


「……どうしたんですか、これ」


 辰蔵が腕を組む。


「明日、あの研究機関の連中がまた来るらしい」


「はい」


「それでな。話し合った」


「何をですか」


「この先へは入れん」


 ミナトはまばたきをした。


「……え?」


 消防団の若者が笑った。


「古民家のほうへ来る道、まだ土砂崩れの危険があるからな。危ない場所までわざわざ案内する必要もない」


 おばあさんの一人も言った。


「聞かれても、誰も知らんと言えばええ。川の神様は、見える人にしか見えんのじゃ」


「神ではない」


 家の中から声がした。


 全員がそちらを見る。


「聞こえとったんか」


 少し笑いが起きた。


 子どもの母親が言った。


「もし、それでも無理に探そうとするなら、私も話します」


「何を?」


「あの人は、息子の命の恩人ですって」


 男の子がミナトの横から家の中をのぞいた。


「アオ、いる?」


 戸口の奥で、背びれの上部がぴくりと立った。


 ミナトが少し横へずれる。


 アオは、ゆっくり庭へ出てきた。


 誰も逃げなかった。


 辰蔵が一歩前へ出る。


「アオ」


「なんだ」


「明日から、少し騒がしくなる」


 アオの鱗が、わずかに立った。


「だが、心配せんでええ」


 辰蔵は言った。


「あんたは、この里の守護神じゃ」


 アオの琥珀色の目が大きく開いた。


「神ではない」


「知っとる」


「今、神と言った」


「では、守り人じゃ」


「人、でもない」


 ミナトが吹き出しそうになる。


 辰蔵は構わず続けた。


「あんたがこの里を守った。今度は、わしらの番じゃ」


 周りの人間たちもうなずいた。


「聞かれても何も知らん」


「川の音がそう聞こえただけじゃ」


「写真? 古い木の根っこじゃろ」


「ただの婆さんの見間違いじゃ」


「いや、久枝さんのせいにするな」


 少し笑いが起きた。


 アオは、その人間たちを見ていた。


 自分を隠すために集まっている。


 怖がるでもなく。


 珍しいものを見るようでもなく。


 ただ、当たり前のように立っている。


「なぜ、そこまでする」


 洪水の日に助けられた男の子の母親が答えた。


「あなたが、そこまでしてくれたからです」


 アオは黙った。


 男の子が一歩前へ出る。


「アオは、どこにも行かないでね」


 背びれが、ゆっくり伏せた。


「アオは……いてもいいのか」


 辰蔵がすぐに答えた。


「いてもいい、ではない」


 アオが見る。


「いてくれんと困る」


 ミナトは何も言わなかった。


 アオも、しばらく黙っていた。


「……騒がしい里だ」


「嫌か?」


 アオは人々を見る。


「少し」


「正直だな」


 エラ蓋が、小さく動く。


「でも」


 少し間があった。


「ここは、あたたかい」


 今度は、誰もすぐには何も言わなかった。


 やがて、おばあさんの一人が包みを差し出した。


「ほれ。守り人は腹が減るじゃろ。スルメと梨じゃ」


 別の老人も袋を持ち上げる。


「魚肉ソーセージもあるぞ。特売じゃった」


 背びれの上部が、ぴくりと立った。


 エラ蓋がぱたぱたと動く。


「今、めちゃくちゃ嬉しかっただろ」


「確認しただけだ」


「何を」


「特売」


 里の人々がどっと笑った。


*


 翌日。


 研究機関の職員たちが再び佐辺を訪れた。


 だが、古民家や川の上流へ続く道の手前には、辰蔵たちが立っていた。


 消防団の若者たちもいる。


 おばあさんたちも、なぜか道端に椅子を並べて座っていた。


 どう見ても井戸端会議だった。


 ただし、通り抜ける隙間はない。


「この先で未確認生物の目撃情報がありまして」


 職員が言った。


 辰蔵は淡々と答える。


「この先は、先日の雨でまだ危ない。よそから来た人を勝手に入れるわけにはいかん」


「我々は専門機関です。危険な生物であれば、適切な保護が必要になります」


「危険な生物なら、あんたらの目の前にもおる」


 辰蔵がおばあさんたちを見た。


「この婆さんらは強いぞ」


「何を失礼な」


「昨日も誰か、鍬持ってイノシシ追い返しとったじゃろ」


「畑に入ってきたからじゃ」


「ほらな」


 職員は困ったように息をついた。


「ふざけているわけではありません。もし未知の種であれば、学術的にも非常に重要な――」


 辰蔵の声が少し低くなった。


「命を助けてもらった相手を、学術的に重要かどうかで見るつもりはない」


 職員は黙った。


「少なくとも、この先で何か見たという話は、わしらからは出んよ」


*


 その様子を、少し離れた南岸の物陰から、ミナトとアオが見ていた。


 川を挟んだ向こう側。


 辰蔵たちは、誰一人としてその場を離れない。


「辰蔵は、強い」


「強いだろ」


「水の中では弱い」


「そりゃそうだ」


「でも、強い」


 ミナトは笑った。


「今日は、お前が飛び込まなくていい」


 アオが見る。


「今日は」


「佐辺の人間が守る番だ」


 アオは対岸を見る。


 辰蔵。


 消防団の若者。


 椅子に座ったおばあさんたち。


 アオの背びれが、わずかに震えた。


 ミナトは何も言わなかった。


 しばらくして、アオが口を開いた。


「……あたたかいな」


「うん」


「少し、痛い」


 ミナトは隣に立ったまま答えた。


「そういうときもあるよ」


 アオは黙った。


 やがて、


「ミナト」


「何」


「帰ったら、肉の字を教えろ」


 ミナトが笑った。


「そこに戻るのかよ」


「文字を覚える」


「何のために?」


「特売を、自分で見つける」


「知ってた」


 ミナトは肩の力を抜いた。


「じゃあ今日は、“守る”も教えるか」


「まもる」


「そう」


 アオは、向こう岸をもう一度見る。


「守る」


*


 ネットの記事は、数日のあいだ少し騒がれた。


 けれど、決定的な写真も、新しい目撃情報も出なかった。


 やがて話題は、別のニュースへ流れていった。


 その日の夕方。


 古民家の縁側で、ミナトは紙に大きな字を書いた。


守


 アオはじっと見た。


「まもる」


「そう」


 アオは指先で、字の形をなぞる。


「アオ、守る」


「うん」


 川の向こうを見る。


「里も、守る」


 ミナトはうなずいた。


「そうだな」


 少し間があった。


「ミナトも、守る」


「……それは嬉しいな」


 アオはもう一度、紙を見る。


「今日は、アオも守られた」


 ミナトは答えなかった。


 夕暮れの光が、縁側に差し込んでいた。


 遠くから、里の子どもたちの声が聞こえる。


 アオは指先でもう一度、その字をなぞった。


「まもる」


 そして、その隣に置いてあった特売チラシへ目を移した。


「次は、肉」


 ミナトが吹き出した。


「はいはい」


 古民家の向こうで、佐辺川が静かに流れていた。


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