第7話 里山の盾
異変は、一本のネットニュースから始まった。
「豪雨災害の濁流から住民を救った“謎の生物”か」
見出しだけなら、よくある都市伝説のようにも見えた。
記事には、ぼやけた写真が一枚添えられていた。
濁流の中、誰かを抱えて岸へ向かう、深緑の影。
顔ははっきり写っていない。
だが、普通の人間ではないことは分かる。
ミナトはスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
いつかこうなることは分かっていた。
あの洪水の日、アオは多くの人間の前に姿を見せた。佐辺の人たちが口を閉ざしてくれても、この時代に完全に隠し通すのは難しい。
胸の奥が冷えていく。
アオの存在が、佐辺の外へ知られてしまう。
面白半分に見に来る人間がいるかもしれない。
写真を撮ろうとする者もいる。
そして、「保護」や「調査」という名目で、アオを連れていこうとする者が現れるかもしれない。
ミナトはスマホを伏せた。
「ミナト」
土間の奥から、アオがこちらを見ていた。
アオはまだ文字を読めない。
けれど、ミナトの様子が変わったことには気づいている。
「何か、来るのか」
ミナトは少しだけ笑おうとした。
「……たぶん、面倒なものが来る」
「雷か」
「もっと面倒かもしれない」
「人間か」
ミナトは答えなかった。
アオの背びれが、ゆっくりと伏せた。
「アオは、隠れる」
「うん。しばらくは目立たないほうがいい。家の中にいるか、川に行くなら上流の、人が来ないところにしてくれ」
「里の子どもは」
「来ても、しばらく会わないほうがいいな」
アオは黙った。
「肉の字、教わる日だった」
ミナトは一瞬、言葉に詰まった。
昨日、チラシを見ながら約束していたのだ。
次は「肉」と「特売」の文字を教える、と。
「落ち着いたら、またやろう」
「分かった」
アオはそれ以上、何も言わなかった。
*
翌日から、佐辺に見慣れない車が現れ始めた。
最初に来たのは、地方テレビ局の取材班だった。
カメラを抱えた若い男性と、マイクを持った女性。
集落の入口で、畑仕事をしていた老人に声をかけている。
「このあたりで、洪水のときに謎の生物が人を助けたという話を聞いたんですが」
老人は鍬を持ったまま、顔をしかめた。
「知らんなあ」
「でも、目撃された方がいると」
「この辺は、狸も鹿も出るでなあ」
「人のような、魚のような姿だったという話もあります」
「魚が人を助けるかね」
老人はそれだけ言うと、畑へ戻った。
その次に来たのは、白いワゴン車だった。
側面には、水棲生物を扱う研究機関の名前が入っている。
作業服姿の職員が三人、公民館の前で住民たちに名刺を配っていた。
「未確認の水棲生物が確認された可能性があります。安全面も含め、専門的な調査が必要です」
「もし何か情報をお持ちでしたら、ご協力ください」
「未知の生物ですので、人に危害を加える可能性も現時点では否定できません」
ミナトは少し離れた場所で、それを聞いていた。
腹の底が、静かに熱くなる。
安全。
調査。
危害。
どれも、それ自体はおかしな言葉ではない。
それでも、アオが「個体」や「対象」として扱われ、どこかへ連れていかれる光景が頭から離れなかった。
捕まえられる。
調べられる。
番号をつけられる。
そして、もうここへ帰ってこられなくなる。
ミナトは拳を握った。
「顔、怖いぞ」
背後から声がした。
振り返ると、辰蔵が立っていた。
洪水の日、アオに頭を下げた男だった。
「……すみません」
「謝らんでええ。わしも腹立っとる」
辰蔵は研究職員たちを見た。
「あいつら、アオを物みたいに言う」
「連れて行かせません」
「当たり前じゃ」
辰蔵は、ごく普通のことのように言った。
「アオは、この里の者じゃ」
ミナトは辰蔵を見た。
「……いいんですか。そんなふうに言って」
「何がじゃ」
「アオ、人間じゃないですよ」
辰蔵は鼻で笑った。
「人間でも、ろくでもないやつは山ほどおる」
「それはまあ……」
「アオは人間ではないかもしれんが、ろくでもなくはない」
ミナトは少し笑った。
辰蔵は続けた。
「あいつは、高田の孫を助けた。井上のじいさんも助けた。消防団のさとるも助けた。あの日、誰より先に川へ入った。それで十分じゃ」
そして、ミナトの肩をぽんと叩いた。
「一人で怒るな」
「え?」
「怒るなら、この里みんなで怒る」
*
その夕方。
ミナトが家へ戻ると、アオは土間の板敷きにいた。
床には、特売チラシが広げられている。
だが、魚肉ソーセージの写真ではなく、文字の並んだ部分をじっと見ていた。
「アオ」
アオが顔を上げる。
「人間が、来たか」
「来た」
「アオを探しているのか」
「たぶん」
「なぜ」
ミナトは少し迷った。
アオは自分の手を見る。
水かきのある長い指。
鋭い爪。
深緑色の鱗。
「珍しいからか」
「……それもあると思う」
「珍しいものは、捕まえるのか」
「捕まえさせない」
「ミナトは、弱い」
「今それ言う?」
「でも、怒っている」
「怒ってるよ」
アオのエラ蓋が、小さく一度動いた。
「ミナトが怒ると、顔が怖い」
「お前に言われたくない」
アオは立ち上がった。
「アオが出ていけば、迷惑はかからない」
ミナトの表情が変わった。思わず大きな声が出る。
「何言ってんだ」
「人間は、アオを探している。アオがいなければ、来ない」
「ダメだ」
「川に戻る」
「ダメだって言ってるだろ!」
声が古民家の中に響いた。
アオの背びれが、びくりと伏せた。
ミナトは息を吐いた。
「……悪い。でかい声出した」
「怒っている」
「うん。でも、お前にじゃない」
ミナトはアオを見る。
「ここが家だろ」
アオは黙った。
「佐辺の人たちだって、お前を守ろうとしてる」
「なぜ」
「だって、お前が先に守ったからだよ」
アオの琥珀色の目が、ミナトを見る。
「洪水のときだけじゃない。子どもと魚捕ったり、年寄りからスルメもらったり、くだらない話したり……」
「特売も」
「それは今、関係あるか?」
「ある」
「……まあ、あることにしよう」
ミナトは少し笑った。
「もうみんな、お前がどういうやつか知ってるんだよ」
そのときだった。
「ミナトくん!」
外から辰蔵の声がした。
ミナトが庭へ出る。
「はい――」
言葉が止まった。
辰蔵だけではなかった。
佐辺の老人たち。
消防団の若者たち。
子どもたちの親。
あの日、野菜や梅干しを持ってきたおばあさんたち。
そして、洪水の日にアオに助けられた男の子と、その母親。
みんなが瀬川の家の前に立っていた。
「……どうしたんですか、これ」
辰蔵が腕を組む。
「明日、あの研究機関の連中がまた来るらしい」
「はい」
「それでな。話し合った」
「何をですか」
「この先へは入れん」
ミナトはまばたきをした。
「……え?」
消防団の若者が笑った。
「古民家のほうへ来る道、まだ土砂崩れの危険があるからな。危ない場所までわざわざ案内する必要もない」
おばあさんの一人も言った。
「聞かれても、誰も知らんと言えばええ。川の神様は、見える人にしか見えんのじゃ」
「神ではない」
家の中から声がした。
全員がそちらを見る。
「聞こえとったんか」
少し笑いが起きた。
子どもの母親が言った。
「もし、それでも無理に探そうとするなら、私も話します」
「何を?」
「あの人は、息子の命の恩人ですって」
男の子がミナトの横から家の中をのぞいた。
「アオ、いる?」
戸口の奥で、背びれの上部がぴくりと立った。
ミナトが少し横へずれる。
アオは、ゆっくり庭へ出てきた。
誰も逃げなかった。
辰蔵が一歩前へ出る。
「アオ」
「なんだ」
「明日から、少し騒がしくなる」
アオの鱗が、わずかに立った。
「だが、心配せんでええ」
辰蔵は言った。
「あんたは、この里の守護神じゃ」
アオの琥珀色の目が大きく開いた。
「神ではない」
「知っとる」
「今、神と言った」
「では、守り人じゃ」
「人、でもない」
ミナトが吹き出しそうになる。
辰蔵は構わず続けた。
「あんたがこの里を守った。今度は、わしらの番じゃ」
周りの人間たちもうなずいた。
「聞かれても何も知らん」
「川の音がそう聞こえただけじゃ」
「写真? 古い木の根っこじゃろ」
「ただの婆さんの見間違いじゃ」
「いや、久枝さんのせいにするな」
少し笑いが起きた。
アオは、その人間たちを見ていた。
自分を隠すために集まっている。
怖がるでもなく。
珍しいものを見るようでもなく。
ただ、当たり前のように立っている。
「なぜ、そこまでする」
洪水の日に助けられた男の子の母親が答えた。
「あなたが、そこまでしてくれたからです」
アオは黙った。
男の子が一歩前へ出る。
「アオは、どこにも行かないでね」
背びれが、ゆっくり伏せた。
「アオは……いてもいいのか」
辰蔵がすぐに答えた。
「いてもいい、ではない」
アオが見る。
「いてくれんと困る」
ミナトは何も言わなかった。
アオも、しばらく黙っていた。
「……騒がしい里だ」
「嫌か?」
アオは人々を見る。
「少し」
「正直だな」
エラ蓋が、小さく動く。
「でも」
少し間があった。
「ここは、あたたかい」
今度は、誰もすぐには何も言わなかった。
やがて、おばあさんの一人が包みを差し出した。
「ほれ。守り人は腹が減るじゃろ。スルメと梨じゃ」
別の老人も袋を持ち上げる。
「魚肉ソーセージもあるぞ。特売じゃった」
背びれの上部が、ぴくりと立った。
エラ蓋がぱたぱたと動く。
「今、めちゃくちゃ嬉しかっただろ」
「確認しただけだ」
「何を」
「特売」
里の人々がどっと笑った。
*
翌日。
研究機関の職員たちが再び佐辺を訪れた。
だが、古民家や川の上流へ続く道の手前には、辰蔵たちが立っていた。
消防団の若者たちもいる。
おばあさんたちも、なぜか道端に椅子を並べて座っていた。
どう見ても井戸端会議だった。
ただし、通り抜ける隙間はない。
「この先で未確認生物の目撃情報がありまして」
職員が言った。
辰蔵は淡々と答える。
「この先は、先日の雨でまだ危ない。よそから来た人を勝手に入れるわけにはいかん」
「我々は専門機関です。危険な生物であれば、適切な保護が必要になります」
「危険な生物なら、あんたらの目の前にもおる」
辰蔵がおばあさんたちを見た。
「この婆さんらは強いぞ」
「何を失礼な」
「昨日も誰か、鍬持ってイノシシ追い返しとったじゃろ」
「畑に入ってきたからじゃ」
「ほらな」
職員は困ったように息をついた。
「ふざけているわけではありません。もし未知の種であれば、学術的にも非常に重要な――」
辰蔵の声が少し低くなった。
「命を助けてもらった相手を、学術的に重要かどうかで見るつもりはない」
職員は黙った。
「少なくとも、この先で何か見たという話は、わしらからは出んよ」
*
その様子を、少し離れた南岸の物陰から、ミナトとアオが見ていた。
川を挟んだ向こう側。
辰蔵たちは、誰一人としてその場を離れない。
「辰蔵は、強い」
「強いだろ」
「水の中では弱い」
「そりゃそうだ」
「でも、強い」
ミナトは笑った。
「今日は、お前が飛び込まなくていい」
アオが見る。
「今日は」
「佐辺の人間が守る番だ」
アオは対岸を見る。
辰蔵。
消防団の若者。
椅子に座ったおばあさんたち。
アオの背びれが、わずかに震えた。
ミナトは何も言わなかった。
しばらくして、アオが口を開いた。
「……あたたかいな」
「うん」
「少し、痛い」
ミナトは隣に立ったまま答えた。
「そういうときもあるよ」
アオは黙った。
やがて、
「ミナト」
「何」
「帰ったら、肉の字を教えろ」
ミナトが笑った。
「そこに戻るのかよ」
「文字を覚える」
「何のために?」
「特売を、自分で見つける」
「知ってた」
ミナトは肩の力を抜いた。
「じゃあ今日は、“守る”も教えるか」
「まもる」
「そう」
アオは、向こう岸をもう一度見る。
「守る」
*
ネットの記事は、数日のあいだ少し騒がれた。
けれど、決定的な写真も、新しい目撃情報も出なかった。
やがて話題は、別のニュースへ流れていった。
その日の夕方。
古民家の縁側で、ミナトは紙に大きな字を書いた。
守
アオはじっと見た。
「まもる」
「そう」
アオは指先で、字の形をなぞる。
「アオ、守る」
「うん」
川の向こうを見る。
「里も、守る」
ミナトはうなずいた。
「そうだな」
少し間があった。
「ミナトも、守る」
「……それは嬉しいな」
アオはもう一度、紙を見る。
「今日は、アオも守られた」
ミナトは答えなかった。
夕暮れの光が、縁側に差し込んでいた。
遠くから、里の子どもたちの声が聞こえる。
アオは指先でもう一度、その字をなぞった。
「まもる」
そして、その隣に置いてあった特売チラシへ目を移した。
「次は、肉」
ミナトが吹き出した。
「はいはい」
古民家の向こうで、佐辺川が静かに流れていた。




