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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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7/20

第6話 アオ、特売を知る

 朝、ミナトが縁側で洗濯物を干していると、家の奥から紙のこすれる音がした。


 古民家は静かだった。


 里の子どもたちはまだ学校に行っている時間で、川もおだやかに流れている。聞こえるのは、ホトトギスの声と、竹林を抜ける風の音くらいだった。


 その中で、妙に真剣な気配だけがあった。


 ミナトは手を止めた。


「……アオ?」


 返事はない。


 いつもなら、返事がなくても水路か土間にいる。


 今日は、土間の板敷きに座り込んでいた。


 アオは一枚の紙を、両手で持っていた。


 新聞に挟まっていた、スーパーのチラシだった。


 赤や黄色の派手な文字が並び、野菜、肉、卵、洗剤、日用品がにぎやかに印刷されている。


 アオはそれを、まばたきもせず見つめていた。


 文字は読めない。


 数字も分からない。


 ひらがなも、漢字も、価格表示も、今のアオにとっては模様に近いはずだった。


 それなのに、紙から目を離さない。


「おい、どうした」


 やはり返事はない。


 ミナトはそっと近づき、背後からチラシをのぞき込んだ。


 そして、理由が分かった。


 中央に、でかでかと印刷されていた文字と写真が、目に飛び込んできた。


魚肉ソーセージ お買い得!

5本束 特売


 写真には、赤い包装の魚肉ソーセージが何本も束になって写っていた。


 光沢までついて、妙にうまそうに見える。


 アオの目は、完全にそこへ固定されていた。


 首元では、エラ蓋がぱたぱたと忙しなく動いている。


 ミナトはしばらく、それを見た。


「……お前、めっちゃ欲しそうやん」


 アオがゆっくり振り向いた。


「ミナト」


「何」


 アオはチラシを指さした。


「これは、本物か」


「写真だな」


「しゃしん」


「絵みたいなもんだよ。本物を写したやつ」


 アオはもう一度、チラシを見る。


 エラ蓋はまだ動いている。


「つまり、本物がある」


「まあ、あるな」


「どこに」


「スーパー」


「すーぱー」


「店だよ。食べ物とか、いろいろ売ってる場所」


 しばらく沈黙したあと、アオはチラシへ視線を戻した。


「スーパーに行けば、このソーセージ、もらえる」


「もらえるんじゃない。買うんだ」


「かう」


「お金を払って、品物を受け取る」


 アオの琥珀色の目が、わずかに大きくなった。


「山か?」


「違う」


「川の先?」


「違う」


「巣か?」


「魚肉ソーセージの巣はない」


 エラ蓋の動きが止まった。


 アオはチラシを見る。


「これだけいるのに」


「群れじゃないんだよ」


「群れではないのか」


「まとめ売りや」


「まとめうり」


 初めて聞く音を確かめるように、アオは繰り返した。


 ミナトは洗濯物を干し終え、土間に腰を下ろした。


「アオ。これはな、店で売ってる。人間は店に行って、欲しいものを選んで、お金を払って持って帰るんだ」


「なぜ、置いてあるものを持って帰ってはいけない」


「泥棒になるから」


「どろぼう」


「人のものを勝手に持っていくこと」


 アオは少し考えた。


「悪いことか」


「悪いことや」


「なら、しない」


 即答だった。


 ミナトは少しだけ笑った。


「えらいな」


「魚肉ソーセージは、正しく得る」


「すごい信念だな」


 アオはチラシをひざの上へ丁寧に置いた。


「お金とは、魚か」


「ちがう」


「石か」


「ちがう」


「スルメか」


「微妙に近づいてるけど、全然違う」


 ミナトは財布から小銭を取り出し、アオの手のひらに乗せた。


「これがお金」


 アオは硬貨をつまみ上げた。


 光にかざす。


「丸い」


「丸いな」


「食えない」


「食うなよ」


「これで、ソーセージを得る」


「そう」


 琥珀色の目が大きく開いた。


 硬貨。


 チラシ。


 もう一度、硬貨。


「人間は、丸い石で食べ物を交換するのか」


「まあ、ものすごく雑に言えばそう」


「不思議だ」


「オレもたまにそう思う」


 アオはチラシの写真を見つめた。


「ミナト」


「何」


「丸い石は、いくつ必要だ」


 ミナトはチラシを見た。


「えーっと、特売で……まあ、これなら安いな」


「とくばい」


「いつもより少ないお金で買えるってこと」


 背びれの上部が、ぴくりと立った。


「今、行く」


「行かない」


 背びれが止まった。


「なぜ」


「お前がそのまま行ったら、スーパーが別の意味で大特売になる」


「別の意味」


「客が全員逃げる」


 アオは黙った。


 背びれが、少し伏せる。


 ミナトはすぐに続けた。


「いや、お前が悪いって意味じゃない。この里の人たちはもう慣れてきたけど、店には知らない人も来る。子どもも、お年寄りも、初めてお前を見る人もいるだろ」


 アオはしばらくチラシを見ていた。


「里の人間は、逃げない」


「うん。でも、佐辺の外の人も来るからな」


「……なら、ミナトが行く」


「まあ、そのつもり」


「アオは、待つ」


「待てるか?」


「待つ」


「ほんとか?」


 少し間があった。


「……少し、待つ」


「あやしいな」


*


 その日の午後。


 ミナトは買い物かごを持って、佐辺のスーパーへ出かけることにした。


 家を出るとき、アオは土間と庭をつなぐ細い引き戸のそばに立っていた。


 ただの見送りというより、任務へ送り出す司令官に近い。


「ミナト」


「何」


「魚肉ソーセージを、正しく得ろ」


「了解。正しく買ってくる」


「丸い石は持ったか」


「財布な」


「敵はいるか」


「特売日のおばちゃんたちは、ある意味強敵かもしれん」


 アオは真剣にうなずいた。


「気をつけろ」


「何の物語になってんだよ」


*


 スーパーに着くと、ミナトは思わず笑ってしまった。


 入口近くの特売コーナーに、魚肉ソーセージの束が山のように積まれていたのだ。


 これをアオが見たらどうなるんだろう。


 たぶんエラ蓋が大変なことになる。


 ミナトは五束ほどかごに入れた。


 少し迷う。


 さらに二束足した。


「……まあ、今日はいいか」


 レジで会計をしていると、店員のおばさんが笑った。


「今日は魚肉ソーセージ多いねえ」


 ミナトは苦笑した。


「家に、めちゃくちゃ好きなやつがいるんです」


「あら、そんなに?」


「異常に」


「じゃあ、特売でよかったねえ」


「ほんとに」


*


 家に帰ると、アオは縁側に座っていた。


 川の対岸へ向けていた顔が、ミナトの足音でこちらを向く。


「ただいま」


 アオが立ち上がった。


「得たか」


「得た」


 アオの妙な言い回しがうつっている。


 ミナトは袋を置いた。


「ちゃんと正しくな」


 一束。


 二束。


 三束。


 四束。


 五束。


 さらに六束。


 七束。


 アオの琥珀色の目が、大きく開いた。


 次の瞬間、エラ蓋が激しくぱたぱた動き始める。


 背びれの上部まで、ぴんと立った。


 それでも顔はほとんど変わらない。


「……群れ」


「だから群れじゃない」


「多い」


「特売だったからな」


「とくばい」


 アオはゆっくり手を伸ばした。


 壊れやすいものにでも触れるように、束を両手で持つ。


 のどの奥から、ギュルギュル……と小さな音が漏れた。


 ミナトが止まった。


「……何、その声」


 アオも止まった。


「何」


「いや。今、なんか鳴いたぞ」


「鳴いてない」


「鳴いたって」


「鳴いてない」


「めちゃくちゃ嬉しそうな音だったけど」


 アオは答えず、魚肉ソーセージを抱え直した。


「ミナト」


「何」


「これは、山で採れるのか」


「まだそこ気になるんか」


「どこで、増える」


「工場」


「こうじょう」


「人間が食べ物とか物を、たくさん作る場所」


 アオはしばらく動かなかった。


 手の中の束を見る。


「人間は、すごい。工場は、もっとすごい」


「比べる基準も対象も盛大に間違ってる……」


 ミナトは一本取り出し、包装をむいてアオへ渡した。


「ほら。特売記念」


 アオは受け取って、ゆっくりかじった。


 何度も食べているはずなのに、今日のアオはいつも以上に時間をかけて食べている。


「うまいか?」


「うまい」


 エラ蓋が、小さく動いた。


「正しく得た味がする」


「なんか急に道徳の教科書みたいになったな」


「泥棒ではない」


「そう。ちゃんと買った」


「特売」


「覚えたな」


 アオは置いてあったチラシをもう一度手に取った。


「次も、これが来るか」


「また載ることもあるな」


「ミナト」


「嫌な予感しかしないけど何」


「毎日、紙を確認する」


「新聞係になる気か」


「特売を逃さない」


 ミナトは腹を抱えて笑った。


*


 その日から、アオは新聞に挟まるチラシを熱心に見るようになった。


 文字は読めない。


 数字も分からない。


 けれど、魚肉ソーセージの写真だけは絶対に見逃さなかった。


 たとえ隅に小さく載っていても、すぐに見つける。


「ミナト」


「またか」


「群れがいる」


「だから群れじゃない」


「特売か」


「……お前、だんだん分かってきたな」


 背びれの上部が、ぴくりと立った。


 のどの奥から、ごく小さく、ギュルギュル……と音がした。


 ミナトは聞こえないふりをした。


 里の子どもたちは、そんなアオを見て大笑いした。


 年寄りたちは、


「今度からチラシ取っといてやる」


 と言い、魚肉ソーセージの安い日を教えてくれるようになった。


 アオは、まだ文字を読めない。


 買い物の仕組みも、人間の世界の便利さも、分からないことだらけだった。


 それでも、またひとつ、人間の世界を覚えた。


 店。


 お金。


 特売。


 そして、


 魚肉ソーセージは、正しく得るもの。


*


 夕方。


 ミナトとアオは縁側に並んで座っていた。


 アオは一本を半分に折って、片方をミナトに差し出す。


「半分」


「今日はたくさんあるんだから、一本食えばいいだろ」


「半分がいい」


「またそれか」


「特売は、分けると、長く続く」


 ミナトは笑った。


「誰に教わったんだよ」


「ミナト」


「オレ、そんな賢そうなこと言ったか?」


「いつも、半分にする」


 ミナトは受け取った。


 魚肉ソーセージの半分。


 ただの安売りの品だった。そうでなくても、そもそも、素朴で、昔から、どこにでもある食べ物だ。


 アオは自分の半分を食べる。


「特売は、いい」


「そうだな」


「人間の仕組みの中で、かなりいい」


「評価が限定的すぎる」


 ミナトが笑う。


 アオのエラ蓋が、小さく二度動いた。


 川の音が、遠くで静かに響いている。


 佐辺の夕暮れは穏やかで、縁側には特売で買った魚肉ソーセージが、まだたっぷり残っていた。


*


 その夜。


 アオはチラシを丁寧に折りたたんで、戸棚の奥にしまった。


 ミナトが見つけた。


「それ、取っておくのか?」


 アオはうなずいた。


「初めて、特売を見つけた紙」


「記念品か」


「宝」


 ミナトは少し黙った。


 泣くような話ではない。


 ただのチラシだ。


 魚肉ソーセージが大きく載った、スーパーの特売チラシ。


「じゃあ、次は文字も少し覚えるか」


 アオが顔を上げた。


「文字を覚えると、特売が分かるか」


「分かる」


 背びれの上部が、ぴくりと立った。


「覚える」


「動機が一直線すぎる」


「魚肉ソーセージのためだ」


 ミナトは笑いながら、しまったばかりのチラシをもう一度広げた。


「よし。じゃあ最初は、これだな」


 指さす。


「魚」


 アオはじっと見た。


「さかな」


「そう」


 アオは、もう一度その形を見る。


「さかな」


 その夜、古民家の灯りは少し遅くまでついていた。


 ミナトはチラシを教科書代わりにして、アオに文字を教えた。


 アオが最初に覚えた人間の文字は、「魚」。


 次に覚えようとした文字は、もちろん「肉」だった。


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