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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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第5話 石を投げない人たち

 佐辺川氾濫の日から、十日ほどが過ぎた。


 川はまだ濁りが残る場所があり、増水していたが、あの夜のような轟音《ごうおん》はもう聞こえない。


 流失した佐辺大橋付近の河川敷には、大型の重機やトラックが停まっており、折れた橋桁《はしげた》や欄干の撤去作業が続いていた。


 そこから、さらに下流側の場所には、人や自転車が渡るための簡素な仮設橋が設けられた。


 車が渡るには、まだ遠く下流の県道橋まで回らなければならない。


 それでも、人々が南岸と北岸を歩いて行き来できるようになっただけで、里の暮らしは少しずつ戻り始めていた。


 泥をかぶった農具や家具を洗う人。


 水没した軽トラのエンジンを確認する人。


 畑から散乱したゴミを取り除く人。


 そして、ときどき瀬川の家までやって来る人。


 縁側や玄関先には、野菜や米、干し魚、それに魚肉ソーセージが置かれるようになった。


 最初、アオはそれを警戒していた。


「罠か」


「罠に魚肉ソーセージ置くやつ、だいぶお前のこと分かってるな」


「危険だ」


「食うなとは言わないところが、お前らしいよ」


 アオは包みをじっと見た。


 それから一本だけ取り出す。


「確認する」


「食べたいだけやろ」


「確認だ」


 首元のエラが、小さく動いた。


 ミナトは笑った。


*


 そんなある日の昼下がり。


 ミナトが庭先で薪を割っていると、竹林の向こうに小さな影が見えた。


 一人ではない。


 二人、三人。


 もう少しいる。


 里の子どもたちだった。


 竹の陰から、こちらをのぞいている。


 正確には、ミナトを見ているのではない。


 家の裏手、水路のそばにしゃがんでいたアオを見ていた。


 アオは水へ片手を浸したまま、顔を上げた。


「ミナト」


「ん?」


「小さい人間がいる」


「子ども、な」


「見ている」


「まあ、そりゃ見るよな」


 子どもたちは逃げなかった。


 けれど、近づきもしない。


 一番小さな子は、年上の子の服をしっかりつかんでいる。


 洪水の夜。


 彼らも、遠くから見ていたのだろう。


 白い投光器の中を泳ぐ、黒緑色の姿を。


 ミナトは斧《おの》を置いた。


「おーい」


 子どもたちの肩が一斉《いっせい》に跳ねた。


「そんなとこにおらんで、こっち来るか?」


 顔を見合わせる。


 一番年上らしい男の子が、恐る恐る聞いた。


「あの人……怒る?」


 ミナトはアオを見た。


 アオはほとんど表情を変えていない。


 ただ、背びれが少し低くなっていた。


「怒らんよ。たぶん」


「たぶん?」


「いや、大丈夫。ちょっと人見知りなだけ」


「人見知りではない」


 アオが低く言った。


「じゃあ何」


「人間が多い」


「それを人見知りって言うんだよ」


 子どもたちの間から、小さな笑い声が漏れた。


 アオの背びれが、もう少し低くなった。


 ミナトには分かる。


 アオは、かなり困っている。そして戸惑っている。


「近づくなら、急に触らないこと。大きい声出しすぎないこと。あと、背びれ引っ張ったりするなよ」


 小さな女の子が手を上げた。


「背びれ、さわっていい?」


「……今の話、聞いてた?」


 今度はもう少し大きな笑いが起きた。


 アオは、水路からゆっくり立ち上がった。


 黒緑色の鱗。


 水かきのある大きな手。


 長い腕。


 首元で動くエラ。


 近くで見れば、子どもが泣き出してもおかしくない姿だった。


 一番小さな男の子が、仲間の後ろから顔だけ出した。


「川の神様?」


「神ではない」


「じゃあ、何?」


 アオは少し考えた。


「アオ」


 子どもたちは顔を見合わせる。


「アオ?」


「名前あるんだ!」


「アオちゃん?」


「ちゃん、いらない」


 女の子が一歩前へ出た。


 まだ少し腰が引けている。


「ありがとう」


 アオが見る。


「うちのおじいちゃん、助けてくれた」


 女の子は、小さな手を差し出した。


 アオは、その手をしばらく見ていた。


 やがて、自分の大きな手をゆっくり伸ばす。


 鋭い爪が触れないように。


 女の子は、その指先を両手で握った。


「冷たい」


 アオの手がわずかに引く。


「でも、つるつるしてる」


 女の子は笑った。


 後ろの子どもたちが、一斉に近づいてきた。


「ぼくも!」


「アオ、泳げる?」


「魚捕れる?」


「水の中で息できる?」


「夜も見える?」


「魚肉ソーセージ好きってほんと?」


「好きだ」


 そこだけ即答だった。


 ミナトが吹き出した。


「返事早っ」


*


 それから数日。


 子どもたちは、少しずつ瀬川の家へ来るようになった。


 最初は竹林の向こうから。


 次は庭まで。


 その次には、土間の入口からアオをのぞくようになった。


「アオー」


「いる?」


「魚肉ソーセージ持ってきた!」


 アオはそのたびに、


「騒がしい」


 と言った。


 けれど、子どもたちが来ても水路へ逃げ込むことはなくなった。


 大人たちも似たようなものだった。


 用があるのかないのか分からない顔で、家の前までやって来る。


「いやあ、この辺、草が伸びとるでなあ」


「昨日も見に来てましたよね」


「草は一日でも伸びる」


「そうですか」


「……あれの傷は、もうええんか?」


「アオなら、だいぶ治りましたよ」


「そうか。ならええ」


 それだけ言って帰っていく。


 ミナトは縁側から、その後ろ姿を見送った。


「人気者だな」


「落ち着かない」


「みんな、お前が気になるんだよ」


「見ても、何もない」


「背びれあるじゃん」


「ミナトも見るか」


「毎日見てる」


「飽きないのか」


「飽きない」


 アオは黙った。


 エラが一度だけ、小さく開いた。


*


 六月も後半に入る頃には、佐辺川の水位もほぼ普段通りに戻っていた。


 ある日、子どもたちが言った。


「アオと川行きたい!」


「魚捕って!」


「泳ぐところ見たい!」


 ミナトはすぐに首を振った。


「ダメ。まだこの前の洪水からそんな経ってないだろ」


「もう水きれいだよ」


「見た目だけで決めるな、危ないよ」


 すると、横にいたアオが言った。


「浅いところなら、アオが見る」


 ミナトが振り向く。


「本気か?」


「流れも分かる」


「まあ……オレよりは分かるだろうけど」


「ミナトより役に立つ」


「分かってるけど腹立つな」


 結局、場所を限定することにした。


 家から少し上流にある、普段から里の子どもたちが遊ぶ浅瀬。


 大人も何人か同行する。


 そして、少しでも水が増えたらすぐに帰る。


 それが条件だった。


 川は、少しずつ本来の透明さを取り戻していた。


 浅瀬では、丸い石の間を小魚が走るように泳いでいる。


「アオ! 魚!」


「でっかいやつ!」


「鮎いる?」


 子どもたちが口々に叫ぶ。


 アオは低く息を吐いた。


「騒がしい」


 ミナトは腕を組んだ。


「嫌ならやめとくか?」


 アオはしばらく黙った。


「一回だけ」


「絶対一回で終わらんぞ」


 アオは川へ入っていった。


 膝。


 腰。


 そして胸まで水に沈む。


 次の瞬間。


 ざぶん。


 黒緑色の身体が、水の下へ消えた。


「すげえ!」


「消えた!」


「どこ?」


 水面《みなも》には波紋だけが残っている。


 数秒後。


 少し上流で、アオが浮かび上がった。


 片手に鮎。


 もう片方に、ウグイ。


 さらに口には小さな魚をくわえている。


「口で捕るな!」


 ミナトの声に、子どもたちが大笑いした。


「もう一回!」


「次でっかいやつ!」


「一回だけと言った」


「えー!」


 いっせいに不満の声が上がる。


 アオの背びれがぺたりと伏せた。


「人間の子どもは、要求が多い」


「人気者は大変なんだよ」


「人気者には、ならなくていい」


「もう遅いと思うぞ」


 向こうから、


「アオー!」


 とまた呼ばれる。


 アオはしばらく子どもたちを見ていた。


「……騒がしい」


 それでも、川から上がろうとはしなかった。


*


 その週の終わりには、今度は里の年寄りたちがやって来た。


 縁側に包みが並べられていく。


「これ、干したスルメじゃ。噛《か》めば噛むほど味が出る」


「うちはきゅうり持ってきたで」


「こっちは梅干し」


「米も置いとく」


「魚肉ソーセージもあるぞ」


 最後の言葉に、アオのエラが小さく動いた。


 ミナトは見逃さなかった。


「今、反応したな」


「してない」


「した」


「してない」


 目の前に並んだものを見て、アオが言った。


「多い」


「好かれてるんだよ」


「返せない」


 一人の老人が首を横へ振った。


「返さんでええ」


 アオを見る。


「あんたは、もう十分返してくれた」


 別の老人も続けた。


「孫を助けてもろうた。こんなんじゃ足らんくらいじゃ」


 アオは何も言わなかった。


 老人がスルメを一本差し出す。


「食べてみなされ」


 アオは慎重に受け取った。


 匂いを嗅ぐ。


 かじる。


 少し止まった。


「硬い」


「そういうもんじゃ」


 またかじる。


「……うまい」


「そうかそうか」


「歯が丈夫でええなあ」


「魚肉ソーセージばっかりじゃ飽きるじゃろ」


 アオは真剣に答えた。


「飽きない」


「そこ張り合わんでいいから」


 ミナトのツッコミに、年寄りたちが笑った。


 アオは少し身を固くした。


 けれど、誰もアオを後ろから指さしてはいなかった。


 誰ひとり、逃げようともしなかった。


 ただ、縁側に座って笑っている。


*


 日が傾く頃には、みんな帰っていった。


 縁側には、スルメ、きゅうり、梅干し、米、干し魚、魚肉ソーセージが残った。


 アオは、その前に座っていた。


「どうした?」


 ミナトも隣に腰を下ろす。


「人間は、変だ」


「まあ、否定はしない」


「怖がる。泣く。騒ぐ。食べ物を持ってくる」


「忙しいんだよ、人間は」


「ミナトも忙しい」


「オレも人間だからな」


 アオは、佐辺川の向こうを見た。


 北岸の集落に、少しずつ灯りがともり始めている。


 橋があった場所には、まだ何もない。


 少し離れた仮設橋を、人影がゆっくり渡っていく。


「あれは、もう逃げないのか」


「誰が?」


「里の人間」


 ミナトは少し考えた。


「たぶん、逃げない」


「また来るか」


「来ると思うぞ」


「なぜ」


「お前に会いたいんじゃない?」


 アオは黙った。


「アオは、何もしていない」


「人を助けただろ」


「川の中から、三人」


「握手もした」


「した」


「スルメも食った」


 アオが少し首をかしげる。


「それは、したことなのか」


「大事な交流だよ」


 アオはやや溜めてからたずねた。


「ミナト」


「何」


「人間は、アオを化け物と呼ばないのか」


 ミナトは、すぐには答えなかった。


「少なくとも、ここの人たちは、お前をアオって呼び始めてる。そして、会いたがってる」


 アオは黙って、里の灯りを見ていた。


 向こう岸から、子どもの声がした。


「アオー! また明日ぁ!」


 アオの背びれが、小さく動いた。


「……また明日来る」


「嫌か?」


「騒がしい」


「明日は、帰れって言う?」


 少し間があった。


「言わない」


 ミナトは笑った。


 魚肉ソーセージの包みを一本取る。


「食うか」


「半分」


「こんだけあるんだから一本食えよ」


「半分がいい」


「なんで」


「ミナトと食うと、うまい」


 ミナトは一瞬黙った。


 それから、魚肉ソーセージを半分に折った。


「……はい」


 片方をアオへ渡す。


 二人は縁側に並んで食べた。


 川の向こうから、また声がした。


「アオー!」


 アオは最後の一口を飲み込んだ。


「騒がしい」


「行ってきてもいいぜ」


 アオは立ち上がった。


「少しだけ」


 ミナトは笑った。


 アオは斜面を下り、川へ下りていった。


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