第4話 濁流の守り神
佐辺川は、佐辺地区を南北に分けるように、東から西へ流れている。
上流は山深い奥佐辺へ続き、下流へ行くにつれて川幅を広げる。
北岸には集落があり、南岸の小高い斜面には、ミナトの暮らす古民家がぽつんとある。
その両岸をつないでいるのが、佐辺大橋だった。
車一台がようやく通れるほどの細い橋で、対向車が来れば、どちらかがたもとで待たなければならない。
錆びた欄干。
何度も補修された路面。
長い年月、川の流れを受け続けてきた細い橋脚。
地元の人間にとっては、頼りなく見えても、なくてはならない生活の橋だった。
春になると北岸には桜が咲き、夏には鮎が上る。
おだやかな季節には、人を集める川。
けれど、大雨が続けば、その表情は一変する。
佐辺の人々は昔から、それも含めて、この川と暮らしてきた。
*
ミナトとアオが暮らし始めて、一か月ほどが過ぎていた。
季節は、梅雨の終わりを迎えようとしていた。
アオは昼間、土間の片隅か、裏の水路にいる。人に見られないように、川で泳いでいる時間もある。
佐辺の人々には、まだその存在を知られていない。
ミナトは必要な買い物だけを里の店で済ませた。
近所の老人に声をかけられれば笑って答えるが、家のことを深く聞かれると、少しだけごまかした。
「一人で住んどるには、広すぎる家やなあ」
そう言われるたび、ミナトは笑う。
「まあ、荷物が多いんです」
本当は、荷物ではない。
土間で、黒緑色の鱗を持つ異形の半魚人が、静かに息をしている。
アオは人間を嫌っているわけではなかった。
けれど、近づきたいとも思っていない。
「人は、騒ぐ」
ある夜、アオは台所の火を少し離れたところから眺めながら言った。
「怖がる。追う。石を投げる。火を向ける」
「……そうだな」
「ミナトも、最初、怖がった」
「それは、まあ……お前、初対面でだいぶ迫力あったからな」
アオは少しだけ首を傾けた。
「今は」
ミナトは笑った。
「今は、魚肉ソーセージを勝手に探す同居人だと思ってる」
「探してない」
「昨日、棚をじっと見てた」
「確認した」
「何を」
「あるか」
「探してるやんけ」
アオは黙った。
エラが、小さく動いた。
そんな暮らしだった。
静かで、不器用で、誰にも知られない。
それでも二人には、確かに家と呼べる場所になり始めていた。
*
その雨は、夜明け前から降り始めた。
昼までは、屋根を叩く細い音だった。
それが夕刻になる頃には、家全体を包み込むような重い雨音に変わっていた。川は、ごう、ごう、と滝のような音をとどろかせている。
ミナトは土間の引き戸から外を見て、顔をしかめた。
「……まずいな」
庭の土はすでに水を吸いきっていた。
竹林の根元から濁った水が染み出し、裏の水路は普段の表情を失っている。
いつもならアオが身体を沈められる程度の流れしかない場所を、茶色い水が激しく走っていた。
アオも土間の奥から出てきた。
まだ外へ出てもいないのに、すでに何かを感じ取っているらしい。
「上の川が、怒っている」
「怒ってる?」
「水が、速い。重い」
ミナトは、買い替えたばかりのスマホを開いた。
ミナトが川へ転落した夜、前の端末は完全に水没して使えなくなった。
画面には、次々と通知が表示されていた。
土砂災害警戒情報。
河川氾濫のおそれ。
避難指示。
そしてまもなく、北岸の集落付近で佐辺川があふれ、複数人が流された可能性があるという情報が入った。
ミナトは画面を見つめた。
「……嘘だろ」
そこは、何度も買い物へ行った場所だった。
野菜を分けてくれた老人がいる。
道端で挨拶してくれる子どもがいる。
軽トラックですれ違うたび、手を上げてくれる人もいる。
「人の被害が……出始めてる」
アオが、ミナトの横に立った。
「流されたのか」
「ああ……まだ、見つかってない人がいる」
雨音が強くなる。
ミナトは何も言えなかった。
うすうす考えていた。
アオなら、動けるかもしれない。
人間が入れない濁流の中でも……。
けれど同時に、別の恐怖が胸を締めつけた。
アオが庭へ向かった。
「行く」
ミナトは振り返った。
「待て」
「人が、流された」
「分かってる!」
「なら、行く」
アオの声は静かだった。
迷いはなかった。
ミナトはその腕をつかんだ。
「ダメだ」
アオが振り返る。
「なぜ」
「お前が見つかったら、どうなると思ってるんだ」
ミナトの声が強くなる。
「助けたって分かってもらえるとは限らない。怖がられるかもしれない。追われるかもしれない。捕まるかもしれない。ここにいられなくなるかもしれないんだぞ!」
アオは、ミナトを見ていた。
琥珀色の目が、うす暗い土間の中で静かに光っている。
「ミナトは、そう思うか」
ミナトは言葉に詰まった。
「オレは……」
「アオは、怖いか」
「ちがう」
「違うなら、いい」
「よくない!」
ミナトは必死だった。
アオを失うことが怖かった。
アオが拒まれることが怖かった。
この暮らしが壊れることが怖かった。
アオは、つかまれた腕をそっと外した。
爪がミナトの手に触れないように。
「ミナト」
「行くな」
「人は、すぐ死ぬ」
「知ってるよ!」
「人が死ぬなら、行く」
それだけ言うと、アオは雨の中へ出た。
「アオっ!」
振り返らない。
庭を横切り、坂を下る。
黒緑色の身体は、雨と薄闇の中へすぐに溶けた。
その先には、佐辺川がある。
アオなら、川へ入ってそのまま下流へ向かえる。
ミナトは上着をつかみ、あとを追った。
*
坂を下ったときには、佐辺川はすでに別の川になっていた。
普段なら河川敷が見える場所まで、濁った水が迫っている。
水面には枝や木材が浮かび、ときおり、大きな流木が、岩にぶつかりながら、激しい音を立てて下っていく。
ミナトは、五百メートルほど下流の佐辺大橋へ走った。
橋の下では、濁流が橋脚に激しくぶつかっていた。
古い橋全体が、低く震えている。
錆びた欄干には、流木や瓦礫が絡みつき、路面の一部には水が跳ね上がっていた。
「……やばい」
北岸の向こうに、消防車の赤色灯が見える。
救助隊の明かりが、雨の中で滲んでいた。
ミナトは橋へ足を踏み入れた。
一歩。
また一歩。
足元から、橋の振動が伝わってくる。
途中で立ち止まるほうが怖かった。
ミナトは走った。
北岸へ渡り切った、その直後だった。
背後で、金属のきしむ不快な音がした。
続いて、低く大きな破裂音。
ミナトが振り返る。
一本の橋脚が大きく傾いていた。
橋桁の中央が沈む。
欄干がぐにゃりとゆがみ、路面の一部が折れた。
次の瞬間、流木や瓦礫の巨大な塊を飲み込んだ濁流が橋の側面へ激突した。
ピシピシ、バリバリと音が響く。
佐辺大橋の中央部が崩れ落ちる。
破片が茶色い水へ飲み込まれ、そのまま下流へ流されていった。
ミナトは立ち尽くした。
けれど、すぐ近くから怒鳴り声が飛んできた。
「危ない! そこから離れろ!」
ミナトは我に返り、北岸の高い道路へ駆け上がった。
*
集落の川沿いは、混乱していた。
水際には消防団と救助隊。
その後方には車両が並び、強い投光器が濁流を照らしている。
さらに離れた高い道路脇には、避難してきた住民や、行方不明者の家族が集まっていた。
川へ向かって、我が子の名前を呼ぶ母親の泣き叫ぶ悲痛な声が、その場の空気を重く、苦しいものにしていた。
規制線が張られ、一般の人間はそれより前へ出られない。
「下流も確認!」
「流木来るぞ!」
「ロープ離すな!」
白い投光器の光が、雨を斜めに切っている。
濁流だけが、その下で異様な速さで動いていた。
ミナトは息を切らしながら、人垣の中から川を見る。
そのときだった。
「何かいる!」
救助隊員の一人が叫んだ。
投光器が動く。
濁流の中。
流木の向こうに、黒いものが浮かんだ。
一瞬だけ、深緑の背びれが光を反射する。
「魚か?」
「違う……人?」
「何だ、あれ……」
ミナトの胸が凍った。
アオだった。
アオは流れに逆らうように泳いでいた。
岩に爪をかけ、流木をかわし、水中へ潜る。
しばらく姿が消える。
そして再び、水面が割れた。
その腕には、小学生くらいの子どもが抱えられていた。
「子どもだ!」
救助隊員が水際までロープを伸ばす。
アオは岸へ上がらない。
浅瀬ぎりぎりまで子どもを運び、腕を伸ばした。
アオが隊員に託すように、ぐったりした子どもを渡す。
隊員二人が子どもをつかむ。
子どもは、後方の担架に乗せられた。
「呼吸あり! ……反応も!」
高い道路の向こうで、女性の泣き声が上がった。
規制線の後ろにいた母親らしい女性が、救助された子どものほうへ駆け寄ろうとして、周囲に支えられている。
アオは、その様子を見なかった。
すぐに濁流へ戻った。あっという間に、アオの背びれが、はるか遠くの下流へ消えていく。
「アオ……」
ミナトはつぶやいた。
投光器が川を追う。
次にアオが水面に現れたときには、高齢の男性を片腕で支えていた。
老人は力が残っていないのか、ほとんどアオへ身体を預けている。
再び救助隊が受け取る。
今度は、人々のざわめきが変わった。
「助けてる……」
「あれが?」
「何なんだ……」
「化け物……?」
「南無阿弥陀仏……」
アオは、また水へ潜った。
ミナトは拳を握る。
もうやめろ……もういいだろ……
そう思う。
けれど、声にできない。
濁流の中から、誰かが叫んだ。
「赤木がまだだ!」
「さとる!」
消防団員の一人が身を乗り出す。
「赤木さとるが見つかってない!」
その名前を聞いた直後、水面の下で大きな影が動いた。
アオだった。
そのすぐ上流から、大きな流木が迫っていた。
「危ない!」
ミナトが叫んだ。
アオは逃げなかった。
水中へ腕を伸ばしている。
次の瞬間、流木がアオの肩を打った。
黒緑色の身体が濁流へ沈む。
「アオ!」
ミナトは規制線へ駆け寄った。
「下がって!」
隊員に腕を止められる。
「離してください! あいつが……!」
数秒。
水面には何も見えなかった。
やがて、少し下流のほうで、水が割れた。
アオが浮かび上がる。
片腕で、一人の青年を抱えていた。
「赤木!」
消防団員たちが声を上げた。赤木、と呼ばれた男は、地元青年団の中心的存在のようだ。
アオは岩へ爪をかけながら岸へ近づき、青年の身体を押し出した。
隊員が受け取る。
「さとる! 聞こえるか!」
救助された青年が激しくせき込んだ。
周囲から安堵の声が上がる。
アオはその場で膝をついた。
岸寄りの浅瀬。
雨に打たれながら、荒く息をしている。
肩の鱗が裂けていた。
傷口から出た血は、水に濡れた黒緑色の鱗の上で、ほとんど黒く見えた。
エラが激しく開閉している。
それでも、アオは動かなかった。いや、動けなかった。
*
救助が終わった。
投光器の白い光の中で、ずぶ濡れになった人々が、夜の闇よりも黒く浮かび上がるアオを遠巻きに見ていた。
なおも、呼吸が荒く、鱗の逆立った肩が激しく上下している。アオは、地面に膝をついたまま、顔を上げようとしなかった。
さっきまで濁流の中を泳いでいた存在。
人間に似ている。
けれど、人間ではない。
水かき。
鋭い爪。
黒緑色の鱗。
背びれ。
誰も、すぐには声を出さなかった。
恐怖で固まっているのか。
驚きで声を失っているのか。
消防団員の一人が、足元に落ちていた長い棒を拾った。
その動きにつられるように、周囲の男たちの表情が固くなる。
アオの背びれが、ゆっくりと伏せた。
鱗がわずかに立つ。グッ……グッ……という声が、のどの奥から低く漏れる。
一歩。
棒を手にした消防団員が慎重に近づく。
もう一歩。
「……近づくな」
アオが低く言った。
ミナトは、その声を聞いた瞬間に動いた。
規制線の前へ出る。
「待ってください!」
アオと人々の間に立ち、両腕を広げた。
声が震える。
「こいつは、人を襲うようなやつじゃありません」
誰も答えない。
「ずっと隠れて暮らしてました。人間を怖がってたんです。でも、流された人がいるって聞いて……それでも助けに来たんです」
ミナトは振り返った。
アオは傷だらけだった。
肩の傷。
震える腕。
速く動くエラ。
グッ……グッ……という、恐怖とも威嚇ともとれないアオの声はまだ続いている。
それでも、琥珀色の目だけは、まっすぐにミナトを見ている。
ミナトはもう一度、人々に向き直った。
「怖いのは分かります……オレも最初は怖かった」
声が少しかすれる。
「でも、こいつは今日、みんなを助けたんです」
沈黙。
雨の音。
川の轟音。
そのときだった。
後方から、女性の声が上がった。
「あ……ありがとうございました!」
救助された子どもの母親だった。
規制線の向こうから、深く頭を下げている。
「本当に……ありがとうございました!」
アオの、のどの奥から絞り出されるような、低い声が止まった。
続いて、高齢の男性の家族も頭を下げた。
消防団の仲間に支えられていた赤木さとるが、咳き込みながら顔を上げた。
まだ立つこともできない。
それでも、アオを見て、小さく頭を下げた。
「……助かった」
その声は、雨に消えそうなほど小さかった。
棒を持っていた消防団員の腕から、少しだけ力が抜けた。
誰も、石など投げなかった。
*
場の空気が少しやわらいだあと、人垣の後ろから一人の老人が出てきた。
「辰蔵さん、まだ近づかんほうが」
誰かが止める。
「分かっとる」
老人――緑川辰蔵は、アオから十分に距離を取ったところで立ち止まった。
ミナトも、何度か集落で顔を合わせたことがある。
気さくなおじいさんで、里のことなら何でも知っているような老人だった。
辰蔵はアオをしばらく見た。
「あんたが何者かは、わしらには分からん」
アオの身体が少し固くなる。
辰蔵は続けた。
「でも、今日、里の者を助けてくれた。それは分かる」
そして、深く頭を下げた。
「この里は、恩を忘れん」
アオは黙っていた。
長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「石は、投げないのか」
辰蔵は顔を上げた。
少し驚いたようにアオを見る。
それから、静かに首を横へ振った。
「投げんよ」
アオのエラが、小さく震えた。
ミナトは、それを見ていた。
「……ほらな」
アオがミナトを見る。
「何が」
「人間も、たまには悪くないだろ」
アオは少し考えた。
「……騒がしい」
「まあ、それは否定できない」
「すぐ泣く」
「今日は泣いていい日だ」
「すぐ、礼を言う」
「それは慣れろ」
「慣れない」
ミナトは苦笑した。
「これから慣れればいい」
*
その夜、佐辺大橋は残っていた部分も濁流に耐えきれず、ほとんど流された。
ミナトは北岸から家へ戻れなくなり、集落の避難所で一夜を過ごした。
アオは川へ戻った。
翌朝、ミナトは遠く下流にある県道の橋を回り、二時間ほどかけて南岸へ戻った。
傷を負ったアオが心配だった。
家へ着くと、土間には誰もいなかった。
「アオ?」
返事はない。
ミナトは庭へ出る。
裏の水路を見る。
黒緑色の背中が、水の中に沈んでいた。
「……いた」
アオが顔を上げる。
「ミナト」
「オレは、生きてるよ」
「知っている」
「お前もな……アオ」
アオは何も言わなかった。
肩には、まだ傷が残っていた。
*
数日後。
家の縁側や玄関先に、野菜や米、干し魚が置かれるようになった。
誰が置いていくのか、最初は分からなかった。
けれど、ある朝、小さな包みが置かれていた。
中には、魚肉ソーセージが何本も入っている。
紙が一枚、添えられていた。
『川の神様へ。ありがとう』
ミナトは、それを読んで吹き出しそうになった。
「アオ。川の神様だって」
土間の奥から、アオが顔を出す。
「神ではない」
「知ってる」
「魚肉ソーセージは」
「そこは気になるんだな」
ミナトは包みを差し出した。
アオは両手で受け取る。
爪が紙を破らないよう、慎重に。
「人間が、くれた」
「そうだな」
「アオに」
「そうだよ」
アオは、しばらく包みを見ていた。
「……うまいな」
「まだ食ってないだろ」
「たぶん、うまい」
ミナトは笑った。
雨上がりの朝だった。
佐辺川にはまだ濁りが残っている。
北岸へ渡っていた佐辺大橋は、もうない。
その向こうに、落ち着きを取り戻した集落が見えた。
アオは縁側の影に腰を下ろし、魚肉ソーセージを一本、ゆっくりとかじった。
「どうだ」
ミナトが聞く。
アオはしばらく黙った。
「前のと、違う」
「味が?」
「違う」
アオは、川の向こうを見た。
「怖がられなかった味がする」
ミナトは何も言わなかった。
少しして、アオが言った。
「ミナト」
「何」
「里の人間は、魚肉ソーセージを持っているのか」
「……感動の流れを食欲で着地させるなって」
アオのエラが、小さく動いた。
佐辺の朝に、静かな風が吹いた。




