第3話 唯一無二
家のうす暗い台所に、魚肉ソーセージが増えていった。
最初は数本だった。
それが五本になり、十本になり、いつの間にか棚の一角を占領するようになった。
ミナトはそれを見て、自分でも少しあきれて、笑った。
「……何やってんだろ、オレ」
もともと、相続した古民家の片づけに来ただけだった。
祖父母が亡くなってから放置されていた家を、少し掃除して、必要な手続きをして、気が済んだら都会へ戻るつもりだった。
それが今では、朝になると川べりへ行く。
魚肉ソーセージを持って。
まるで餌付けだ。
いや、そんな言い方をしたら怒られるかもしれない。
相手は、魚でも獣でもなかった。
人間でもなかった。
川に棲む、異形の半魚人。
アオ。
ミナトは、まだその存在に慣れたわけではなかった。
水面から琥珀色の目がのぞくたび、胸の奥がひやりとする。黒緑色の鱗が朝日に光るたび、背筋に緊張が走る。長い腕、水かきのある手、鋭い爪を見ると、本能的に逃げたくなる。
だが、ミナトは毎朝、川へ行った。
アオは、そこにいた。
水の中に半分身を沈めている日もあれば、岩陰から目だけを出している日もあった。姿を見せない日もある。それでも、ミナトが魚肉ソーセージを半分に折ると、だいたい水面が揺れた。
「いるなら出てこいよ」
ミナトが言う。
川の中から低い声がする。
「ミナトが死んでいないか、見ていた」
「毎朝それ確認するのやめろ」
「昨日も生きていた。今日も生きている」
「観察記録みたいに言うなって」
アオは水面から顔を出す。
そして、ミナトが差し出す半分の魚肉ソーセージを慎重に受け取る。
爪が指に触れないように。
その慎重さだけは、最初の夜から変わらなかった。
「うまい」
アオは毎回そう言う。
「昨日も言った」
「今日もうまい」
「まあ、それはそう……かな」
ミナトも残りの半分を食べる。
川辺の石に腰を下ろし、異形の半魚人と魚肉ソーセージを半分ずつ食べる。
その光景を誰かに見られたら、どう説明すればいいのか分からない。
幸い、瀬川の家がある南岸側には民家が少なかった。
対岸の集落からも少し離れていて、よほどの用事がなければ人が来ることはない。
だからミナトとアオは、しばらくの間、だれにも知られずに会うことができた。
*
ある日、ミナトが川辺へ行くと、岩の上に魚が三匹置かれていた。
「……またか」
ぴちぴちと動く川魚。
アオは水面から顔だけ出していた。
「食べろ」
「だから、生では食べないって」
「魚は、うまい」
「焼けばな」
アオのエラが小さく動いた。
「火か」
「うん。火で焼く」
アオの身体がわずかにこわばった。
ミナトはそれに気づいた。
火。
アオは、その言葉に敏感だった。
身体を固くし、いつでも水へ沈めるような姿勢になる。
ミナトは魚を見下ろした。
「……じゃあ、今からさ」
アオがこちらを見る。
「うちで焼いてみるか」
「人間の家に、入るのか」
「無理なら外でもいいけど」
「人間の家は、逃げ道が少ない」
「知ってる」
「火もある」
「火は魚に向ける。アオには向けない」
アオは黙った。
ミナトは無理に誘わなかった。
「嫌ならいい。オレが焼いて、外に持ってくる」
「ミナト」
「何」
「火は、魚を変えるのか」
「変える。うまくなる」
「魚は、そのままでもうまい」
「それはお前基準だろ」
「ミナトは、そのまま食べない」
「食べないな」
「弱いからか」
「弱いって言うなって言っただろ」
アオは一瞬黙った。
「……弱いとは、言わない」
「今言ったぞ」
「言ったあとに、思い出した」
ミナトは思わず笑った。
アオは真剣な顔をしている。
その真剣さが、かえっておかしかった。
「じゃあ、こう言え。人間の腹には合わない」
「人間の腹には合わない」
「そう」
「ミナトの腹は、不便だ」
「……結局ちょっと失礼だな」
*
その日の夕方、アオは家の裏手に現れた。
正確には、庭の向こうを通る水路から顔を出した。
竹や草に隠れるようにして流れる、幅一メートルあまりの浅い水路。
山側から流れてきた水は、家の裏を通り、やがて佐辺川へ注いでいる。
そこから琥珀色の目だけが、じっとこちらを見ていた。
ミナトは土間の庭側にある細い引き戸を開けたところでそれを見つけ、持っていた魚を落としかけた。
「びっくりするだろ!」
「来た」
「分かってる。目だけ出すな、心臓に悪い」
「人間の心臓は、すぐ止まるのか」
「止まらないように気をつけてる」
アオは水路からゆっくり身体を起こし、庭へ上がった。
夕暮れの光の中でも、やはり怖い。
やはり異形だ。
けれど、ミナトはもう最初のようには後ずさらなかった。
アオは庭を横切り、土間の入口の前でぴたりと止まった。
開いた引き戸の向こうに、薄暗い土間がある。その先には台所。
人間の家。
アオの背びれが、わずかに低くなる。
「無理なら外で食べるぞ」
ミナトは言った。
アオは答えない。
ただ、土間の中を見ていた。
「入口はここ。嫌になったら、同じところから出ればいい」
ミナトは開け放した引き戸を示した。
「閉めないから」
アオはミナトを見る。
「閉じ込めないのか」
「閉じ込めない」
「網は」
「ない」
「白い服の人間は」
「いない」
ミナトは少しだけ声を落とした。
「オレだけだ」
長い沈黙のあと、アオは一歩だけ土間へ入った。
濡れた足から水が落ちる。
ぽた、ぽた。
ミナトはそれを見て、少し笑った。
「まあ、打ち水だと思えばいいか」
「床が濡れる」
「ここ土間だから。畳よりはマシ」
アオは入口に近い端へ座った。
背中を壁につけ、すぐ外へ出られる位置を選んでいる。
土間と台所には、はっきりした仕切りはなかった。
ミナトは数歩奥へ行き、台所で魚の下ごしらえを始めた。
炭火はまだ怖いだろうと思い、コンロを使う。
それでも、火がついた瞬間、アオの身体がびくりとこわばった。
「火だ」
「うん」
「小さい」
「小さい火」
「でも、火だ」
「近づけない。アオには向けない」
ミナトは魚を網にのせた。
じゅう、と音がした。
アオの目が魚に向かう。
「魚が鳴いた」
「焼ける音」
「死んでいる」
「もう死んでる」
「さらに死ぬのか」
「そういうんじゃない。焼いてるんだよ」
魚の皮が焼け、香ばしい匂いが広がる。
アオのエラが小さく動いた。
「匂いが変わった」
「いい匂いだろ」
「強くなった」
「魚が?」
「匂いが」
「まあ、そういうことにしとくか」
焼き上がった魚を皿にのせ、ミナトは土間の低い台へ置いた。
「熱いから気をつけろ」
アオは慎重に近づく。
火からは距離を取ったまま、焼き魚を見下ろした。
「黒いところがある」
「焦げ目。そこがうまい」
「黒いのに、うまいのか」
「食べてみろ」
アオは指先で少し触れ、熱さに驚いて手を引っ込めた。
「痛い」
「だから言っただろ。箸、使うか?」
「はし」
「これ」
ミナトは箸を渡した。
アオは箸を持ったが、すぐに一本を折った。
「あ……」
「折れた」
「力加減!」
「細い木だ」
「そうだけど!」
結局、ミナトが身をほぐして皿に分けた。
アオはそれを指でつまみ、口に入れた。
しばらく黙る。
ミナトは少し身構えた。
「どうだ?」
アオは、もう一口食べた。
首元のエラが、小さく動く。
「……うまい」
ミナトは笑った。
「だろ」
「魚が、変わった」
「焼くとうまくなるんだよ」
「火は、魚をうまくするのか」
「そういう火もある」
アオはその言葉を繰り返した。
「そういう火も、ある」
ミナトは何も言わなかった。
*
それから数日、アオはときどき、家の土間まで来るようになった。
家の奥へは入らない。
畳にも上がらない。
火には近づきすぎない。
それでも、土間の端には座るようになった。
ミナトも、それ以上を求めなかった。
ただ、食べ物だけは少しずつ増えていった。
「これは?」
アオが台の上の白いものを指さす。
「ご飯」
「白い」
「米を炊いたもの」
「味が薄い」
「まだ食ってないだろ」
アオは少しつまんで食べた。
「……味が薄い」
「魚とか味噌汁とかと一緒に食べるんだよ」
「魚を支える食べ物か」
「まあ、だいたい合ってる」
「白い支え」
「詩みたいだな」
別の日。
「これは?」
「ゆで卵」
「石か」
「卵」
「鳥の子か」
「言い方が生々しい」
「命か」
「その言い回しで食べづらくするな」
アオは殻をつまんだ。
力を入れすぎて、卵が少し潰れた。
「割れた」
「殻をむくんだよ。握り潰すな」
「中が白い」
「黄身もある」
アオはゆで卵をじっと見て、慎重に食べた。
「魚ではない」
「そりゃそう」
「でも、うまい」
「気に入った?」
「これは、何の魚だ」
「鳥だって……だから魚から離れろよ」
また別の日。
ミナトは味噌汁を作った。
正確には、インスタントの味噌汁に豆腐とわかめを少し足しただけだった。
しかしアオにとっては、それでも十分に未知のものだった。
湯気が立つ椀を見て、アオは警戒した。
「これは、川か」
「味噌汁」
「あたたかい川」
「違う」
「水だ」
「水だけど」
「中に、草がいる」
「わかめ」
「白いものもいる」
「豆腐」
アオは椀を両手で持った。
熱さに一瞬手を止め、それからミナトの真似をして慎重に息を吹きかける。
「ふーふー」
「そう。熱いときはふーふー」
アオはひと口飲んだ。
エラが、かすかに動いた。
「……体の中が、静かになる」
ミナトは少し目を丸くした。
「これは、悪くない」
「そっか」
「魚肉ソーセージとは違う」
「まあ、違うな」
「魚肉ソーセージは、うまい」
「うん」
「味噌汁は、静かだ」
ミナトは少し笑った。
「いい表現だな」
「味噌汁は、あたたかい川だ」
「それはまだ言うんだな」
アオはゆっくり味噌汁を飲んだ。
その夜、土間の空気は少しだけやわらかかった。
*
ただ、アオの存在は、誰にも知られてはいけない。
ミナトはそう思っていた。
佐辺の人々が悪い人ばかりではないことは分かっている。
商店のおばあさんも、役場の職員も、たまに近所を通る老人も、みな親切だった。
けれど、アオの姿を見たらどうなるか分からない。
叫ばれるかもしれない。
警察を呼ばれるかもしれない。
町の噂になるかもしれない。
そして、アオが口にした「白い服の人間」が本当にいるのなら――
誰かに知られることは、アオにとって危険だった。
だからミナトは、買い物に行くときも少し気をつけた。
魚肉ソーセージを一度に買いすぎない。
米や味噌汁なら、自分が食べると言えばそれで済む。
店のおばあさんに聞かれたことがある。
「一人であんな山の家に住んで、寂しくないかい?」
ミナトは笑ってごまかした。
「まあ、慣れれば」
「夜は怖いだろう」
「川の音にはまだ慣れませんね」
「無理せんことだよ。何かあったら下りておいで」
「ありがとうございます」
優しい言葉だった。
一人ではない。
でも、それを言うことはできない。
家へ戻る坂道で、ミナトは買い物袋を下げながら川のほうを見た。
アオは、ずっとこうしていたのだろうか。
誰にも知られず。
姿を隠して。
家へ戻ると、裏の水路から声がした。
「ミナト」
「うわ、びっくりした」
「生きている」
「ただいま、くらい言わせろ」
「ただいま」
「お前が言うのか」
「違うのか」
「いや、まあ……合ってなくもない」
ミナトは少し笑った。
そして、自分が今、安心したことに気づいた。
*
その夜、山のほうで獣の鳴き声がした。
低く、荒い声。
ミナトは布団の中で目を開けた。
古い家は、夜になるとやはり怖い。
柱がきしむ。
風が戸を揺らす。
川の音が遠くから響く。
ミナトの寝床は、土間のすぐ隣の小さな部屋にあった。
土間との境は、半分ほどが古い板壁。
残りは建具もない開口部になっている。
昼間なら台所から土間、寝床まで人の気配がそのままつながるような、曖昧な間取りだった。
都会の部屋なら、壁一枚隔てて誰かがいる。
隣人。
車。
コンビニ。
ここには、それがない。
布団の中でじっとしていると、庭のほうで何かが動いた。
草を踏む音。
何かが鼻を鳴らす音。
ミナトは身体を起こした。
「……鹿か?」
そう言い聞かせる。
だが、また音がした。
土間の向こう。
庭側だ。
ミナトは懐中電灯をつかんだ。
そのとき、外から低い声が聞こえた。
「行け」
アオの声だった。
次の瞬間、獣が地面を蹴り、裏山のほうへ走り去る音がした。
ミナトは布団を抜け出し、土間へ向かった。
庭側の引き戸を開ける。
月明かりの中に、アオが立っていた。
濡れた鱗が青黒く光っている。
長い腕を下ろし、竹林のほうを見ていた。
「アオ」
「イノシシ」
「え」
「畑を荒らす。人間の家にも来る」
「追い払ってくれたのか」
「ミナトは、寝ていた」
「……ありがとう」
アオは山のほうへ視線を戻した。
「ここは、弱い」
「家が?」
「古い。隙間が多い。獣が来る」
「まあ、古い家だからな」
「ミナトも弱い」
「それは言わない約束では」
「これは必要な情報だ」
「情報扱いなら許されると思うな」
ミナトは土間の上がり框に腰を下ろした。
アオはまだ庭に立ったままだ。
「毎晩、見張ってたのか?」
「ときどき」
「なんで」
「ミナトは、すぐ死ぬ。怖がりだ」
「いつものやつか」
「夜は、危ない」
アオは山を見たまま言った。
「川も、獣も、人間も」
「人間も?」
「人間も」
ミナトは黙った。
夜の空気が冷たい。
しばらくして、ミナトは言った。
「ここで頼れるの、アオくらいだな」
アオがゆっくり振り向いた。
「ミナトは、アオを頼るのか」
ミナトは少しだけ言葉に詰まった。
まだ怖い。
分からないことも多い。
アオが何者なのかも知らない。
それでも、ミナトは小さくうなずいた。
「今はな」
アオは黙った。
「アオも」
やがて、低い声がした。
「アオも、ミナトを頼る」
ミナトは驚いた。
「オレを?」
「魚肉ソーセージの場所が分からない」
「そこかよ」
「火の魚も、作れない」
「焼き魚な」
「あたたかい川も、作れない」
「味噌汁な」
「白い支えも、作れない」
「ご飯」
「卵も」
「鳥の子! ……あっ、ははっ」
ミナトは思わず笑った。
卵で合っている。
アオは真剣だった。
「人間の家は怖い。でも、ミナトがいると少し怖くない」
ミナトの笑いが止まった。
アオの背びれは、まだわずかに伏せたままだった。
「火も怖い。でも、ミナトの火は魚をうまくする」
「……うん」
「人間は怖い。でも、ミナトは石を投げない」
「投げない」
「火も向けない」
「向けない」
「半分にする」
ミナトは少しだけ息を吐いた。
「魚肉ソーセージを、な」
「半分こ」
「うん」
アオは庭から一歩、土間の入口へ近づいた。
「ミナト」
「何」
「アオは、ここにいてもよいか」
ミナトは、すぐには答えなかった。
庭と土間の境に立つ、大きな黒緑色の身体を見る。
怖い。
やはり怖い。
けれど、もうただの怪物には見えなかった。
「いいよ」
アオのエラが、小さく動いた。
「ここにいていい」
「ミナトの家だ」
「オレの家っていうより、もともとは、祖父母の家だけどな」
「では、ミナトの古い人間の家」
「……言い方」
「そこに、アオもいてよいか」
「いい」
ミナトの声に力がこもった。そして、少し笑った。
「ただし、畳は濡らすな」
「畳」
「土間の向こう。上がるなら足を拭く」
「足を拭く」
「あと、魚を家の中に置くな」
「なぜ」
「びっくりするから」
「食べ物だ」
「分かるけど、起きて横に魚がいたら怖い」
アオは少し考えた。
「では、土間に置く」
「そうしてくれ」
「魚肉ソーセージは」
「台所の棚」
「棚」
「勝手に全部食うなよ」
アオは黙った。
「アオ」
「全部は食べない」
「今、少し怪しかったぞ」
「半分こする」
ミナトは笑った。
「そう。それならいい」
*
翌朝、家には少しだけ新しい生活の気配があった。
土間の端に、アオが座る場所ができた。
古い座布団はすぐ濡れてしまいそうだったので、ミナトは納屋から板を持ってきた。
その上に、使い古した布を敷く。
アオはそれをじっと見ていた。
「巣か」
「アオが座る場所」
「ミナトが作った」
「たいしたものじゃないけど」
「アオの場所か」
「そう」
アオはしばらく、その板を見つめていた。
そして慎重にそこへ座った。
大きな身体には、少し小さい。
ミナトは笑った。
「狭いな」
「でも、アオの場所だ」
「うん」
首元のエラが、小さく動いた。
昼、ミナトは町へ買い物に出た。
帰ってくると、土間に魚が置かれていた。
今度は、ちゃんと台の上に。
「お、学習してる」
庭の向こうの水路から声がした。
「家の床ではない」
「えらい」
「台の上に置いた」
「うん、えらい」
「焼くか」
「焼く」
「火の魚」
「焼き魚」
「火の魚」
「まあ、今日はそれでいいか」
夕方、二人は土間で食事をした。
焼き魚。
ご飯。
味噌汁。
ゆで卵。
そして、魚肉ソーセージ。
ミナトはご飯をよそい、アオには焼き魚と味噌汁を多めに置いた。
魚肉ソーセージは、いつものように半分に折った。
「半分こ」
アオが言う。
「うん」
二人はそれを受け取る。
アオは先に食べた。
エラが、小さく二度動いた。
「うまい」
「知ってる」
「火の魚もうまい」
「よかった」
「白い支えは、魚と食べるとうまい」
「米な」
「卵は、魚ではないがうまい」
「だいぶ学んできたな」
「味噌汁は、静かだ」
ミナトは少し笑った。
「それ、けっこう好きだな」
「体の中が、静かになる」
「そうか」
「ミナト」
「何」
「一人で食べるより、半分こはうまい」
ミナトは手を止めた。
アオは、いつもと同じ調子で言っただけだった。
「……そうだな」
ミナトは自分の手元の半分を見る。
「半分こは、うまいな」
アオはうなずいた。
「ミナトと食べると、うまい」
ミナトは少し照れくさくなって、味噌汁をすすった。
「急にいいこと言うな」
「いいことか」
「たぶん」
「ミナトも、たぶんいいやつだ」
「まだ、たぶんなんだな」
「まだ全部は知らない」
「それはそう」
アオは少し考えた。
「でも、ミナトは唯一だ」
ミナトは顔を上げた。
「唯一?」
「今、アオに魚肉ソーセージをくれる人間」
「うん」
「石を投げない」
「うん」
「火を向けない」
「うん」
「アオって呼ぶ」
ミナトは何も言わなかった。
「ミナトだけだ」
アオは言った。
「だから、唯一だ」
土間の向こうで、夜の虫が鳴いている。
ミナトは静かに笑った。
「じゃあ、オレにとってもアオは唯一だな」
「なぜ」
「オレを川から助けた半魚人」
「うん」
「魚を皿に置けるようになった半魚人」
「うん」
「味噌汁をあたたかい川って言う半魚人」
「うん」
「夜にイノシシを追い払ってくれる半魚人」
「うん」
「あと、魚肉ソーセージを半分こする相手」
アオは黙った。
エラが、かすかに動いた。
「アオは、唯一か」
「うん」
ミナトははっきり言った。
「唯一だよ」
アオはしばらく何も言わなかった。
ただ、手元の赤い包みを見ていた。
やがて、低く言った。
「覚えた」
「また覚えたのか」
「大事だから」
*
その夜、二人はいつもより少し長く土間にいた。あれこれと絶え間なく語り合うわけではない。二人の間に、ただ静かな時間が流れる。
やがてミナトは、土間の隣にある小さな部屋へ戻った。
布団に横になる。
土間との間には仕切りがほぼない。
だから、土間にいるアオの気配はすぐそこにあった。
庭側の引き戸は、少し開けたままにしてある。
逃げ道のために。
けれど、アオはすぐには出ていかなかった。
川の音が聞こえる。
山の虫の声が聞こえる。
古い家が小さくきしむ。
「アオ」
ミナトが布団の中から呼ぶ。
すぐ横の土間から、低い声が返った。
「何だ」
「そこにいる?」
「いる」
それだけで、ミナトは目を閉じた。
少しして、今度は土間から声がした。
「ミナト」
「ん?」
「明日も、いるか」
ミナトは少し笑った。
「いるよ」
「逃げないか」
「逃げない」
「死なないか」
「……努力する」
「努力では足りない」
「じゃあ、かなり努力する」
少し間があった。
「それなら、死なない」
ミナトは布団のなかで笑った。
もう一度、目を閉じる。
「おやすみ、アオ」
土間の暗がりから、少し遅れて声が返った。
「おやすみ、ミナト」
家の中には、二つの呼吸があった。
庭側の引き戸は、まだ少し開いていた。




