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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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3/21

第2話 始まりの魚肉ソーセージ

 朝の光で目を覚ましたとき、ミナトはしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 古い天井。

 黒く太い梁《はり》。

 湿った畳の匂い。


 それから、身体のあちこちに走る鈍い痛みで、昨夜のことを思い出した。


 川に落ちた。

 濁流にのまれた。

 死ぬと思った。


 そして――助けられた。


 人間ではないものに。


 ミナトは布団の上でゆっくり身体を起こした。


「いっ……」


 肩と背中が痛む。

 足にも擦り傷がある。

 身体全体が、鉛《なまり》でも詰め込まれたように重かった。


 けれど、生きていた。


 濡れた服はいつの間にか脱いで、昨夜、自分でどうにか着替えたのを思い出す。

 記憶は少し曖昧だった。


 玄関先で、あの異形の半魚人と魚肉ソーセージを食べた。

 アオ、と名乗った。

 怖かった。

 どう見ても怖かった。


 けれど、乱暴ではなかった。


 ミナトを支える手は、冷たくて、大きくて、鋭い爪もあって、それでも慎重だった。


 ミナトは部屋を見回した。


「……アオ?」


 返事はない。


 台所。

 土間。

 玄関。


 どこにも、あの黒緑色の姿はなかった。


 当たり前だ、とも思った。


 あんな姿の生き物が、人間の家の中で朝まで待っているほうがおかしい。

 そもそもアオは、昨夜言っていた。


 人間の家は、逃げ道が少ない。


 あれは、ただの警戒ではなかった。

 もっと深く染みついた恐怖のように聞こえた。


 ミナトは布団の上で膝《ひざ》を抱えた。


 助けてもらった礼を、まだちゃんと言えていない。


 怖がって、悲鳴みたいな声を出した。

 身を引いた。

 アオが近づくたびに、身体がこわばった。


 命を助けてもらった相手に、失礼なことをしたのかもしれない。


 いや、失礼どころではない。


 アオは、ミナトが怖がるたびに、わずかに後ずさりし、距離をおこうとしていた。


 あれが、どんな感情だったのかは分からない。


 ミナトは小さく息を吐いた。


 それでも、どうしても忘れられない瞬間があった。


 魚肉ソーセージを差し出したとき。


 アオは最初、それを武器かと疑った。

 石か。火か。毒か。


 それだけ、人間から何かを向けられることに慣れていなかったのだ。


 けれど、アオは食べた。


 そして、言った。


 うまい。


 あの一言だけが、夜の恐怖の中で、妙にあたたかかった。


 怪物だと思った。

 でも、その怪物は魚肉ソーセージを食べて、うまいと言った。


 ミナトは立ち上がった。


 身体はまだ痛む。


 けれど、じっとしていられなかった。


 台所へ行き、買い物袋の中を探る。


 魚肉ソーセージは、まだ数本残っていた。


 ミナトはそれを二本つかんだ。


 一本では足りない気がした。

 いや、理由はそれだけではない。


 自分も食べたかった。


 あの異形の半魚人と同じものを、もう一度食べてみたかった。


*


 家の外に出ると、朝の里山は昨夜とはまるで違っていた。


 東の上流側から差し込む朝日が山の斜面を照らし、濡れた葉がきらきら光っている。

 鳥の声が聞こえる。

 遠くで軽トラックが走る音もした。


 それでも、佐辺《さなべ》川の音はまだ大きかった。


 雨のあとの水は多く、流れも速い。


 ミナトはゆっくり坂を下った。


 昨夜のことを思い出すと、足がすくみそうになる。


 それでも、川べりへ向かった。


 人から見たら、ひどく怪しい姿だっただろう。


 顔色の悪い青年が、魚肉ソーセージを握りしめ、よろよろと川へ向かっている。


 ミナトは河川敷まで下り、川の少し手前で立ち止まった。


「アオ」


 声を出してから、恥ずかしくなった。


 川に向かって呼びかけている。

 完全に怪しい。


 返事はなかった。


 ミナトはもう少し近づいた。


 水面が朝の光を反射している。

 昨夜よりおだやかに見えたが、それでも中央部には強い流れが残っていた。


「……昨日は、助けてくれてありがとう」


 ミナトは川に向かって言った。


 やっぱり怪しい。


 もし誰かに見られたら、昨日の水難事故で頭でも打ったと思われる。


「ちゃんと言えてなかったから」


 川は何も答えない。


 ミナトは少し肩を落とした。


 やっぱり、もういないのかもしれない。


 昨夜のことは、夢だった、ということにしたほうがいいのかもしれない。


 そう思いかけたときだった。


 水面《みなも》に、小さな波紋が広がった。


 ミナトの身体が固まる。


 川の中央より少し上流側。

 川底から突き出た岩の陰。


 そこから、琥珀色の目がこちらを見ていた。


 顔の半分だけを水面から出して、アオがいた。


 ミナトの背筋に、冷たいものが走った。


 朝の光の下で見ても、やはり怖い。


 むしろ、昨夜よりはっきり見えるぶん、その異形ぶりは増していた。


 水に濡れた黒緑色の鱗《うろこ》。

 首元で静かに開閉するエラ。

 人間に似ているようで、どこか違う顔。

 水面の下に沈む、大きな身体。


 ミナトの本能が言っていた。


 近づくな。

 これは人間ではない。

 これは危ないものだ。


 けれど同時に、別の記憶もあった。


 冷たい手で、壊さないように支えてくれた。

 魚肉ソーセージを慎重に受け取った。

 うまい、と言った。


 ミナトはのどを鳴らした。


「……おはよう……アオ」


 アオは水面から目だけを出したまま、しばらく黙っていた。


 やがて、低い声がした。


「生きていた」


「勝手に殺すな」


「人間は、夜を越えると死ぬことがある」


「そんな頻繁《ひんぱん》にはない」


「ミナトは、昨日死にかけた」


「それはそうだけど」


 アオは水面の下で少し動いた。


 波が小さく揺れる。


「なぜ名前を呼んだ」


「……お礼を言いに」


「昨日、言った」


「ちゃんとは言ってない」


「同じだ」


「同じじゃない」


 ミナトは少し息を吸った。


「助けてくれてありがとう。ほんとに。アオがいなかったら、オレは死んでた」


 アオは黙った。


 水面から出ている琥珀色の目が、じっとミナトを見ている。


 ミナトは続けた。


「あと、昨日は……怖がって悪かった」


 アオのエラが、かすかに動いた。


「怖いのだろう」


「怖い」


 ミナトは正直に言った。


 嘘をついても仕方がない。


「今も、ちょっと怖い」


「ちょっとか」


「かなり」


「正直だ」


「でも」


 ミナトは手に持っていた魚肉ソーセージを見た。


「怖いだけじゃない」


 アオは何も言わなかった。


 ミナトは魚肉ソーセージを持ち上げた。


「おなか、すかない?」


 川に向かって魚肉ソーセージを差し出す自分を、ミナトは少しだけ客観的に想像した。


 かなり怪しい。


 けれど、アオの目がほんの少し動いた。


「それは」


「昨日のやつ」


「ぎょにくソーセージ」


「そう」


「まだ、あるのか」


「ある。昨日、買ってた」


「人間は、よくこれを持っているのか」


「いや、いつも持ってるわけじゃない」


「なぜ持っていた」


「……懐かしくて」


 アオは首を傾けた。


「なつかしい」


「子どもの頃、ここの家に来たとき、祖母がよくくれたんだ」


「祖母」


「おばあちゃん」


「ミナトの、古い人間か」


「言い方は変だけど、まあ、そう」


 アオの背びれが小さく左右に揺れる。


「古い人間が、ミナトに魚肉ソーセージをくれた」


「うん」


「ミナトが、アオにくれた」


「うん」


「では、魚肉ソーセージは、古い人間から来たのか」


「壮大だな……そんな外れてないけど……」


 ミナトは少し笑った。


 笑うと胸が痛んだ。


 アオは、水面からゆっくり上がってきた。


 川岸までは来ない。

 水の中に身体を残したまま、上半身だけを岩に預ける。


 やはり大きい。


 ミナトは無意識に一歩下がりかけた。


 アオはそれに気づいたらしく、動きを止めた。


「怖いなら、置け」


「え?」


「そこに置け。アオが取る」


 ミナトは手元の魚肉ソーセージを見た。


 少し迷った。


 近づくのは怖い。

 でも、ただ置いて離れるように渡すのも、何か違う気がした。


 ミナトは川辺の平たい石の上に腰を下ろした。


 そして、魚肉ソーセージの包みを剥いた。


「半分にする」


 アオの目が細くなる。


「半分」


「一本を二つに分けること」


「なぜ」


「オレも食べるから」


「ミナトの食べ物なのか」


「オレのでもあるし、アオのでもある」


 ミナトは魚肉ソーセージを半分に折った。


 ぱき、と小さな音がした。


 アオの目が、その動きを追う。


 ミナトは片方を自分の口に入れた。


 もう片方を、少し震える手で差し出した。


「はい」


 アオは動かない。


「毒ではない」


「昨日も言ったろ」


「昨日は、ミナトが先に食べた」


「今も食べた」


「半分」


「そう。半分こ」


 アオは初めて聞く言葉のように、それを繰り返した。


「はんぶんこ」


「そう。分けること」


「なぜ分ける」


「……一緒に食べたいから」


 アオはしばらく黙った。


 それから、ゆっくり手を伸ばした。


 水かきのある大きな手。

 鋭い爪。


 ミナトの指は震えた。


 アオは、それに気づいていた。


 だから、爪が触れないように、昨日と同じように慎重に魚肉ソーセージを受け取った。


 アオは匂いを嗅ぎ、ひと口で食べた。


 エラが静かに動く。


「うまい」


 ミナトは少し笑った。


「そんなに好きなの?」


「うまい」


「……語彙が」


「うまいものは、うまい」


「それは……そっか」


 アオは、ミナトが持っている残りの半分を見た。


「ミナトも、うまいか」


「うまいよ」


「うまいなら、よい」


 ミナトは少し意外だった。


「アオが全部食べたいって言うかと思った」


「全部」


「一本全部」


 アオは少し考えた。


「全部も、うまい」


「だろうな」


「でも、半分は、ミナトも食べる」


「うん」


「ミナトが食べると、アオも見る」


「見る?」


「ミナトが死んでいないと分かる」


 ミナトは言葉に詰まった。


「……オレが食べてたら、生きてるって分かるってことか」


「そうだ」


「じゃあ、今は生きてるな」


「生きている」


 アオは低く言った。


「昨日より、少しましだ」


「……いい評価、ありがとう」


*


 ミナトは、アオと少しでも話していたかった。


 しかし、話すには、やや微妙な位置関係だ。ミナトは川岸に座り、アオは水の中にいる。


 そして、人間と半魚人の会話は、ずいぶん奇妙だった。


 ミナトは、アオに聞いた。


「ずっとこの川にいるのか」


 アオは答えなかった。


 ただ、上流のほうを見た。


「上のほう。静かな川。誰も来ない」


「奥佐辺《おくさなべ》? ダムよりも上流?」


「もっと上」


「そこにいるのか」


「いる」


「家みたいなもの?」


 アオは少し考えた。


「家ではない」


「じゃあ、寝床?」


「隠れて生きる場所」


 その言い方に、ミナトは少し黙った。


 隠れて生きる場所。


 昨夜の言葉を思い出す。


 人間の家は、逃げ道が少ない。


「人間が怖いのか」


 聞いてから、少し後悔した。


 アオの目が、ゆっくりミナトを向いた。


「怖い」


 短い答えだった。


 アオほどの身体。

 鋭い爪。

 水の中では圧倒的な力。


 そんな存在が、人間を怖いと言った。


「人間は、石を投げる」


 アオは続けた。


「火を向ける。棒で突く。網で捕る」


 ミナトは何も言えなかった。


「白い服の人間は、もっと怖い」


「白い服?」


 アオは答えなかった。


 ただ、水面に視線を落とした。


 朝の光が、川に揺れている。


 ミナトは、それ以上聞かなかった。


 まだ早い気がした。


「オレは、石を投げない」


 ミナトは言った。


 アオがこちらを見る。


「火も向けない。網も、たぶん持ってない」


「たぶん」


「網も持ってない。訂正する」


 アオはじっとミナトを見ていた。


 ミナトは少し照れくさくなり、視線を外した。


「まあ、怖いのは怖いけど」


「ミナトは、正直だ」


「嘘ついてもバレそうだし」


「怖がっているのは分かる」


「匂いで?」


「汗が変わる、目も動く」


「怖い能力だな」


 アオは少しだけ首を傾けた。


「怖いか」


「便利だけど怖い」


「人間は、よく怖がる」


「アオが言うと重いな」


 ミナトはひざを抱えた。


 川辺の石は冷たかった。


「じゃあ、アオは昨日、なんでオレを助けてくれたんだ?」


 アオはすぐには答えなかった。


 水面を見つめる。


 長い沈黙のあと、低く言った。


「人間の匂いがした」


「うん」


「引き返そうと思った」


「うん」


「叫び声が聞こえて、川に落ちた」


「うん」


「死ぬと思った」


 ミナトは、アオを見た。


 アオは続けた。


「人間は怖い。でも、死なれても面倒だ」


 ミナトは一瞬、言葉を失った。


「……面倒?」


「人間が川で死ぬと、人間がたくさん来る」


「ああ……」


「川を探す。山を歩く。騒ぐ」


「なるほど」


 アオは、それ以上説明しなかった。


 ミナトは小さく息を吐いた。


「そっか」


 少し間を置く。


「でも、助けてくれたんだな」


 アオは答えなかった。


「ありがとう」


「二回目だ」


「何回言ってもいいだろ」


「魚肉ソーセージも二回目だった」


「……魚肉ソーセージも、何回でもいい」


 アオの目が少し動いた。


「あるのか」


「ある」


「なら、欲しい」


「素直だな」


「うまいから」


 アオの口から、ギュルギュル……と、聞いたことのない声が漏れた。


 ミナトは笑った。うれしい……のだろうか?


 笑うと、やはり身体が痛む。


 アオはそれを見た。


「痛いのか」


「打ち身だよ。昨日あれだけ流されたし」


「骨は」


「折れてはなさそう」


「人間の骨は細い」


「まあ、アオと比べたらな」


「弱い」


「昨日からずっと弱い弱い言うな」


「事実だ」


「事実でも傷つくことはある……だろ」


 アオは少し黙った。


 それから、低く言った。


「では、弱いと言わない」


 ミナトは少し驚いた。


「……いや、別にそこまで気を遣わなくても」


「傷つくなら、言わない」


 ミナトは、アオを見た。


 アオは本当に、そのまま受け取ったらしい。


「アオ」


「何だ」


「お前、いいやつだな」


 アオは固まった。


 水面が少し揺れる。


「いいやつ」


「うん」


「アオは、いいやつなのか」


「たぶん」


「たぶん」


「まだ会ったばっかだから」


 アオは少し考えた。


「ミナトも、たぶんいいやつだ」


 ミナトは笑った。


「たぶんか」


「アオと呼んでくれる」


「……当たり前だろ、名前なんだから」


 二人の間に、少しだけ軽い空気が流れた。


*


 午後になり、身体の痛みが少し落ち着いてから、ミナトは町へ下りた。


 本当は、まだ休んでいたほうがいい。


 それでも、買い物が必要だった。


 家には最低限の食料しかない。

 それに、魚肉ソーセージも追加しておきたかった。


 町の小さな商店に入ると、店のおばあさんが声をかけた。


「あら、あんた瀬川さんとこのお孫さんかい?」


「はい。湊です」


「顔色悪いねえ。大丈夫かい」


「ちょっと昨日、転んで」


「山道かい? 雨のあとは気をつけんと。あの川は怖いよ」


 ミナトはぎくりとした。


「はい。気をつけます」


 店内を回りながら、ミナトは魚肉ソーセージをかごに入れた。


 一本。

 二本。

 三本。


 少し考えて、さらに何本か入れた。


 店のおばあさんが笑った。


「好きなんだねえ」


「あ、はい。昔、祖母がよくくれて」


「そうかい。あそこのおばあちゃん、孫に何でも食べさせたがる人だったからねえ」


 ミナトは少しだけ微笑んだ。


 魚肉ソーセージを買う理由が、今はもう一つ増えていることは言わなかった。


 会計を済ませ、家へ戻る。


 夕方、再び川べりへ行くと、アオの姿は見えなかった。


 まあ、そうだよな……人間に見つかりたくないだろうし。


 ふと、足元の先を見ると、川岸の岩の上に、小さな魚が二匹置かれていた。


「……え」


 ぴちぴちと、まだ少し動いている。


 ミナトは辺りを見回した。


 川の中から、琥珀色の目がのぞいた。


「食べろ」


 アオの声がした。


「これ、オレに?」


「人間は食べる」


「魚を?」


「そうだ」


「いや、食べるけど、生ではちょっと」


 アオが首を傾ける。


「焼くのか」


「焼く。火で」


 アオの身体がわずかに強ばった。


 ミナトはそれに気づいた。


「火、怖いのか」


 アオは答えなかった。


 ミナトは魚を見た。


「じゃあ、今日は焼かない。持って帰って、あとで考える」


「魚は、うまい」


「うん。ありがとう」


 アオは少しだけ水に沈んだ。


 ミナトは買い物袋から魚肉ソーセージを一本取り出した。


「こっちもある」


 アオの目が水面から出た。


「増えた」


「買ってきた」


「人間は、魚肉ソーセージを増やせるのか」


「店で買うんだよ」


「店」


「……また説明する」


 ミナトは包みをはがし、半分に折った。


 片方をアオへ。


 片方を自分へ。


「半分こ」


 アオは、その言葉を覚えたように小さく繰り返した。


「半分こ」


 二人は川辺で魚肉ソーセージを食べた。


 ミナトは岸に座り、アオは水の中にいた。


 距離はまだある。

 怖さもまだある。

 分からないことばかりだった。


 それでも、昨日よりは少し近かった。


 アオが言った。


「ミナト」


「何」


「明日も、来るか」


 ミナトは少し驚いた。


 アオの顔は変わらない。


「来るよ」


「逃げないのか」


「逃げたい気持ちはまだある」


 アオのエラが小さく動いた。


 ミナトは続けた。


「でも、来る」


「なぜ」


「助けてもらった礼もあるし」


「もう言った」


「魚のお礼もあるし」


「魚は、捕れる」


「それに」


 ミナトは、手元の魚肉ソーセージの包みを見た。


「半分こする相手がいると、ちょっとうれしい味がするから」


 アオは首を傾けた。


「うれしい味」


「オレにもよく分からない」


「変だ」


「人間は変なんだろ」


「そうだった」


 アオは少しだけ琥珀色の目を細めた。


 それが笑ったようにも見えた。


「アオは、ここにいる」


「明日も?」


「たぶん」


「じゃあ、明日も来る」


 アオはうなずいた。


「ミナト」


「うん」


「夜は来るな」


「分かってる」


「雨のあとも来るな」


「分かってる」


「一人で川に入るな」


「分かってる」


「人間は、すぐ死ぬ」


「それはまだ言うんだな」


「大事だ」


 ミナトは笑った。


「じゃあ、死なないようにする」


「そうしろ」


 アオは水の中へ少し沈んだ。


 けれど完全には去らなかった。


 琥珀色の目だけが、水面からミナトを見ている。


 ミナトもまた、すぐには立ち上がらなかった。


 川の音を聞きながら、二人はしばらく静かにそこにいた。


 昨日まで、ミナトにとって佐辺川は、ただの危険な場所だった。


 恐ろしく、暗く、人を飲み込む場所。


 けれど今は、その川の中にアオがいる。


 怖い。


 それは変わらない。


 でも、怖いだけではなくなっていた。


 ミナトは立ち上がり、空になった魚肉ソーセージの包みを丁寧にポケットへしまった。


「また明日」


 アオは少し遅れて言った。


「また、明日」


 その言葉が、川の音の中に溶けていった。


 ミナトは家へ戻りながら、ふと振り返った。


 川面《かわも》にはもう、アオの姿はない。


 けれど、岩の上にはまだ、アオが置いた魚が二匹残っている。


 ミナトはそれを見て、苦笑した。


「……魚肉ソーセージのお返しかよ」


 その日から、川辺の石の上には、ときどき魚が置かれるようになった。


 そして、家の台所の棚には、魚肉ソーセージの買い置きが少しずつ増えていった。


 それは、まだ名前のつかない関係だった。


 友人と呼ぶには早すぎる。

 家族と呼ぶには遠すぎる。

 命の恩人と言うには、少し奇妙すぎる。


 赤くて、長くて、魚の肉の味がするもの。


 それを半分に分けて食べる時間。


 下流の空に傾いた夕日が、佐辺川の水面を柔らかなオレンジ色に染めていた。

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