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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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2/20

第1話 異形の半魚人

 瀬川湊が、その古民家を相続すると決めたのは、ほとんど興味本位だった。


 祖父母が亡くなってから、長く放置されていた家である。


 山の斜面に寄り添うように建てられた、古い木造の家。瓦屋根はところどころ色が変わり、雨樋《あまどい》には枯れ葉が詰まり、庭には草が伸び放題になっていた。裏手には竹林が広がっている。


 買い手はつかなかった。


 町役場の人間にも、不動産屋にも、親戚にも言われた。


「正直、手放すのは難しいと思います」


 管理するだけでも手間がかかる。都会に暮らすミナトにとって、縁もうすい里山の家を持つ意味など、普通に考えればほとんどなかった。


 それでもミナトは、なぜかその家を手放せなかった。


 幼い頃、何度かだけ訪れたことがある。


 記憶は、ひどく曖昧だった。


 畳の匂い。黒く光る太い柱。夜になると暗すぎる廊下。古くて、不気味で、少し怖い家。


 そして、祖母がよくくれた魚肉ソーセージ。


「ほら、湊。これ食べんさい」


 そう言って、祖母はいつも赤いビニールの包みを差し出した。


 都会のスーパーでも買える、なんてことのない食べ物。けれど幼いミナトにとって、その魚肉ソーセージは、あの古い家の記憶そのものだった。


 だからだろうか。


 大人になったミナトは、半ば勢いでその家を相続した。


 別に、田舎暮らしに憧れていたわけではない。古民家再生に詳しいわけでもない。ただ、誰も住まなくなった家を、完全に消してしまうのが少し惜しかった。


 それくらいの気持ちだった。


 数日かけて、ミナトは町役場で手続きを済ませた。そのついでに、家の片づけも始めた。


 破れた障子を外し、使えなくなった家具を運び出し、庭の草を刈る。台所の水道はなんとか使えた。電気も通った。風呂は古すぎて、ひとまず近くの共同浴場に通うしかなかった。


 簡単な掃除とリフォームだけで、身体はすっかり疲れ切った。


 その夜、ミナトは家で初めて一人で眠ることにした。


 布団を敷いた部屋は、祖父母がかつて寝室に使っていた部屋だった。壁には古い柱時計があり、止まったままの針が、夜の静けさを余計に深くしている。


 電気を消すと、家は思った以上に暗かった。


 都会の夜には、どこかに必ず光がある。車のライト。コンビニの看板。マンションの窓。少し先に見える信号。


 けれど、この里山の夜には、そういうものがほとんどなかった。


 あるのは、虫の声。風の音。そして、川の水音だった。


 ごう、ごう。


 坂を下った先を流れる佐辺《さなべ》川が、夜の中で低く鳴っている。


 昼間に見たときは、石の間を澄んだ水が流れる、穏やかな川だった。しかし数日前から続いた雨で、水量はかなり増えているらしい。


 百メートル以上離れているはずなのに、夜の静けさの中では、水音がすぐそばまで迫ってくるように聞こえた。


 布団に入っても、その音が耳から離れなかった。


 ごう、ごう。


 まるで山の奥から、何か大きなものが近づいてくるような音だった。


 ミナトは寝返りを打った。


「……うるさいな」


 独り言が、暗い部屋に小さく落ちた。


 ふと、幼い頃の記憶がかすかによみがえる。


 祖父の声だった。


「夜に川へ近づくな」


 低く、少し怖い声。


「雨のあとは特に駄目だ。あの川は、昼と夜で顔が変わる」


 祖母も言っていた気がする。


「上流には行かんこと。立入禁止のロープがあるところは、絶対に入ったらいかんよ」


 当時のミナトは、ただ怖がってうなずいていた。だが、大人になった今では、それをどこか田舎の古い言い伝えのように感じていた。


 危ない場所に近づくな。子どもを脅すための、よくある注意。


 ミナトは布団から起き上がった。


「ちょっと見るだけなら……」


 自分で言ってから、少し笑った。


 子どもみたいだ。


 だが、眠れないのも事実だった。川の音が気になる。昼と夜で顔が変わる、という祖父の言葉も、逆に少しだけ興味をそそった。


 町役場の人が言っていた。


 上流には、今は閉鎖された自然動植物研究所がある。さらにその奥には、使われなくなった古い砂防ダムも残っているらしい。


 もちろん、途中から先は立入禁止区域だ。


 ミナトはスマホのライトを確認した。長靴を履き、薄い上着を羽織る。


 玄関を出る直前、台所に置いてあった買い物袋が目に入った。


 昼間、町の小さな商店で買ったものだ。お茶。カロリーバー。軍手。そして、魚肉ソーセージ。


 なんとなく懐かしくて買ったものだった。


 ミナトは一本を手に取った。


「夜食にでもするか」


 そうつぶやき、魚肉ソーセージをズボンのポケットに突っ込んだ。


 それから、玄関を開けた。


 夜の空気が、ひやりと身体に触れた。


*


 外は、思った以上に暗かった。


 雲の切れ間から、月がときおり顔を出す。その光が山の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。


 川の音は、家の中で聞くよりもずっと大きかった。


 ごう、ごう、ごう。


 ミナトは坂を下った。


 雨に濡れた草の匂い。土の匂い。足元のぬかるみ。


 やがて、佐辺大橋が暗闇の中に姿を現した。


 昼間に見れば、どうということもない田舎の橋だった。けれど、増水した川をまたぐ夜の橋は、妙に長く見えた。


 ミナトは橋を渡った。


 欄干の下を、黒い水が流れている。


 立ち止まる気にはなれなかった。


 橋を渡りきると、北岸の道を上流へ向かった。


 昼間なら、川沿いを歩く地元の人もいるのだろう。しかし深夜の雨上がりでは、まるで別の場所だった。


 足元はぬかるんでいる。草は濡れていて、長靴に冷たい水が跳ねる。


 普通なら、すぐに引き返すべきだった。


 しかしミナトは、まだ軽く考えていた。


 都会の友人たちを呼んだら、ここはちょっとした肝試しに使えるかもしれない。古民家に泊まって、夜に山の奥まで歩く。写真を撮って、笑って、帰ってくる。


 そんな馬鹿げた想像をしていた。


 かなり歩いた頃、道の端に古い看板が見えた。


 佐辺《さなべ》自然動植物研究所方面

 この先 立入禁止

 増水時 危険


 文字の一部は錆びて読みにくくなっていた。だが、意味は十分に分かる。


 木々の奥には、暗いコンクリートの建物らしきものが見えた。


 使われなくなった研究所なのだろう。


 ミナトは看板の前で立ち止まった。


 川の音が一段大きくなる。


「……ちょっとだけ」


 誰に言い訳するでもなく、そう言った。


 そして、看板の脇を抜けた。


 その瞬間から、道は急に荒れた。


 人が日常的に通ることを前提にしていない山道だった。草が腰のあたりまで伸び、足元には濡れた落ち葉が積もっている。ところどころ、土が崩れていた。


 スマホのライトを向けても、数メートル先しか見えない。


 ミナトの胸に、ようやく不安が広がり始めた。


「……これ、やめたほうがいいな」


 そう思ったときだった。


 足元の地面が、水を含みすぎていた。


 踏みしめたはずの場所が、ずるりと沈む。


 ミナトは慌てて体勢を立て直そうとした。


 だが、左足が滑った。


「あっ――」


 身体が斜面へ投げ出された。


 濡れた草。むき出しの根。足を奪う泥。


 ミナトの身体は、山肌を転がり落ちた。


 肩を打つ。背中を打つ。


 スマホが手から離れ、暗闇の中へ消えた。


 そして次の瞬間、全身を冷たい水が包んだ。


 川だった。


 増水し、深くなった佐辺川の流れに、ミナトは落ちた。


「っ、が……!」


 息を吸おうとした口に、水が入る。


 流れが強い。足がつかない。どちらが上かも分からない。


 身体が岩にぶつかった。


 肩に痛みが走る。


 ミナトは必死にもがいた。だが、もがけばもがくほど、身体は水に引きずられる。


 水の中は暗かった。


 夜の川は、黒い。泥水が重い。


 ただの水ではなかった。泥と木の枝と石を抱え込んだ、巨大な生き物のようだった。


 息が続かない。


 肺が焼けるように苦しい。


 ミナトは、手を伸ばした。


 何もつかめない。


 視界が暗くなる。


 祖父の声が聞こえた気がした。


 夜に川へ近づくな。


 祖母の声も。


 上流には行かんこと。


 遅かった。


 ミナトは、暗い水の中で思った。


 死ぬ。


 そのときだった。


 黒緑色の大きな影が、水の奥から近づいてきた。


 音もなかった。


 人間ではない。魚でもない。獣でもない。


 長い腕のようなものが見えた。背中に、ひれのような輪郭が見えた。琥珀色の目が、闇の中で鈍く光った。


 夢か、現実か、分からなかった。


 ミナトにはもう、それを考える力もなかった。


 ただ、意識が消える直前。


 水の底から響くような低い声を聞いた気がした。


「暴れるな。沈む」


 それが、ミナトの覚えている最後の音だった。


*


 目を覚ましたとき、ミナトは激しく咳き込んだ。


「げほっ、げほっ……!」


 のどが焼けるように痛い。


 のどの奥に残った水を吐き出すように、何度も咳《せき》をした。


 身体が重い。寒い。


 ミナトは、うつ伏せのまま、しばらく動けなかった。


 手の下にあるのは、濡れた砂利だった。どうやら川岸にいるらしい。


 辺りは暗い。


 だが、完全な闇ではなかった。雲が切れ、月明かりが川面をぼんやり照らしている。


 ミナトはゆっくり顔を上げた。


 川の音が聞こえる。


 ごう、ごう。


 自分は、生きている。


 その事実を理解するまでに、少し時間がかかった。


「……なんで」


 声がかすれた。


 そのときだった。


「なぜ、ここに来た」


 低い声がした。


 ミナトの身体が凍りついた。


 人の声に似ている。だが、どこか違う。


 水の中で聞いた声と同じだった。


 ミナトはゆっくり顔を向けた。


 少し離れた岩の上に、何かが座っていた。


 最初、それは大きな影にしか見えなかった。


 しかし、月明かりが雲の切れ間から差し込んだ瞬間、その姿が浮かび上がった。


 長い腕。人間よりも大きな手。指の間には水かきがあり、その先には鋭い爪が伸びている。濡れた身体には、黒緑色の鱗《うろこ》がびっしりと並び、月の光を受けて鈍く光っていた。背中には、古代の爬虫類を思わせる背びれ。首元には、ゆっくり開閉するエラ。顔には、かすかに人間の面影がある。


 だが、人間ではない。


 琥珀色の目が、ミナトを見ていた。


「ひっ……」


 悲鳴にならない声がのどから漏れた。


 ミナトは後ずさろうとした。


 だが身体が動かない。全身が打ち身だらけで、力が入らなかった。


 殺される。


 そう思った。


 濁流から生き延びたのに、今度は怪物に殺される。


 月明かりを浴びた半魚人は、静かにミナトを見下ろしていた。


 口が開く。のどの奥から、グッ……グッ……という低い音が、漏れた。


「なぜ、人間がここにいる」


 ミナトは答えられなかった。


 歯が鳴る。全身がおののく。寒さなのか、恐怖なのか分からない。


 半魚人は近づいてこない。


 ただ、待っている。


 ミナトはのどを鳴らし、ようやく声を絞り出した。


「……さ、散歩」


 半魚人は少しだけ目を細めた。


「散歩」


 ミナトはうなずくこともできず、ただ固まっていた。


 半魚人はしばらく沈黙したあと、低く言った。


「散歩なら、昼にしろ」


「……え」


「そして、もっと下流を歩け」


 ミナトはまばたきをした。


 思っていた言葉と違った。


 襲いかかってくるでもない。意味の分からない叫びを上げるでもない。


 まともに返事をしてきた。


 会話が成立している。


 ミナトは混乱したまま、半魚人を見た。


 助けられたのか。


 自分は、この異形の存在に。


 そう思った瞬間、恐怖の中に別の感情が混じった。


 理解できない。怖い。けれど、この半魚人は自分を殺していない。むしろ、川から引き上げたのではないか。


 ミナトは震える声で言った。


「……あんたが、助けてくれたのか」


 半魚人は答えなかった。


 ただ、川のほうを見た。


「人間は、水の中で弱い」


「……」


「すぐ沈む」


 それは答えのようでもあった。


 ミナトは、濡れた服の胸元を握りしめた。


「なんで」


 半魚人がこちらを見る。


「なんで、助けたんだ」


 半魚人は少し黙った。


「死ぬと思った」


「だから?」


「死ぬと、川が騒がしくなる」


 ミナトには、その意味が分からなかった。


 けれど、半魚人はそれ以上説明しなかった。


 そのとき、半魚人の視線がミナトの腰のあたりへ落ちた。


 ミナトもつられて見る。


 ズボンのポケットから、赤いビニールの包みが半分はみ出していた。


 魚肉ソーセージだった。


 濡れてはいるが、包装は破れていない。


 半魚人が低く尋ねた。


「それは、武器か」


 ミナトは一瞬、何のことか分からなかった。


 だが、半魚人の視線の先を見て、ようやく気づく。


「……これ?」


「赤い。長い」


「武器じゃない」


「火か」


「違う」


「石か」


「違う」


「では、何だ」


 ミナトは震える手で、魚肉ソーセージをポケットから取り出した。


 指先がうまく動かない。濡れていて、包みがなかなか剥がれなかった。


 半魚人は、じっと見ている。


 距離はある。だが、その目は鋭い。


 ミナトはようやく端を破り、中身を少し出した。


 薄いピンク色の魚肉ソーセージ。


 包みが開いた瞬間、半魚人のエラがかすかに動いた。


 鼻先がわずかに上がる。


 匂いを嗅いでいるのだと、ミナトは分かった。


 ミナトは、なぜ自分がそんなことをしたのか分からなかった。


 助けてもらった礼をしたかったのか。敵意がないことを示したかったのか。ただ、恐怖の中で何かを差し出さずにはいられなかったのか。


 震える手で、魚肉ソーセージを差し出した。


「……食べてみる?」


 半魚人は動かない。


 琥珀色の目が、ミナトと魚肉ソーセージを交互に見た。


「毒か」


「違う」


「人間は、嘘をつく」


「……そうかもしれないけど」


 ミナトは少しだけ息を吸った。


 それから、自分で魚肉ソーセージの端をかじった。


 飲み込む。


「……ほら。毒じゃない」


 半魚人は、じっとその様子を見ていた。


 ミナトはもう一度、差し出した。


「礼になるか分からないけど……これしかない」


 半魚人は、ゆっくりと動いた。


 水気を含んだ大きな身体が、月明かりの中で揺れる。


 ミナトは思わず身を固くした。


 怖い。


 近づくと、さらに異形だった。


 長い腕。鋭い爪。濡れた鱗。人間ならありえない角度で開く指。


 半魚人は、ミナトの手から魚肉ソーセージを受け取った。


 その動きは、意外なほど慎重だった。


 爪がミナトの指に触れないように、そっとつまんだ。


 それは、彼が初めて、人間と言葉を交わして受け取った、小さな贈り物だった。


 半魚人は匂いを嗅ぎ、少しだけ警戒するように目を細めた。


 それから、かじった。


 静かな川岸に、小さな音がした。


 半魚人は動きを止めた。


 ミナトは息を呑んだ。


 まずかったのか。怒らせたのか。


 半魚人は、もう一口かじった。


 そして、低く言った。


「……うまい」


 ミナトは、力が抜けた。


 半魚人は魚肉ソーセージを見つめていた。


「赤い。長い。魚の肉」


「魚肉ソーセージっていうんだ」


「ぎょにく」


「魚の肉って意味」


「ソーセージ」


「そうか」


 半魚人は、言葉を確かめるように繰り返した。


「ぎょにく、ソーセージ」


 そして、残りを大事そうに食べた。


 その様子を見て、ミナトの中の恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。


 怪物。


 そう思った。


 けれど、目の前の異形は、魚肉ソーセージを食べて「うまい」と言った。


 それがあまりに奇妙で、あまりに現実的で、ミナトはどう反応していいのか分からなかった。


 半魚人は食べ終えると、ミナトを見た。


「お前」


「……何」


「名は」


 ミナトは少し迷った。


 だが、答えた。


「瀬川湊」


「ミナト」


「うん」


 半魚人は、ミナトの名をゆっくり発音した。


「ミナト」


 その声は、水の底から浮かび上がるようだった。


 ミナトは、逆に尋ねた。


「……あんたは?」


 半魚人は黙った。


 長い沈黙。


 川の音だけが二人の間を流れた。


 やがて、半魚人は短く言った。


「アオ」


「アオ?」


「そう呼ばれた」


「誰に?」


 アオは答えなかった。


 ただ、川の暗がりへ目を向けた。


 その目には、一瞬だけ深い影が差した。


 ミナトは、それ以上聞けなかった。


 アオは立ち上がった。


「ここは危ない」


「……うん」


「人間は、すぐ死ぬ」


「それ、さっきからひどくないか」


「間違ってない」


 ミナトは言い返せなかった。


 実際、ついさっき死にかけたばかりだった。


 アオは川の上流を見た。


「夜に来るな」


「……分かった」


「雨のあとも来るな」


「分かった」


「一人で来るな」


「分かった」


 ミナトは小さくうなずいた。


 アオはしばらくミナトを見ていた。


 そして、少しだけ低い声で言った。


「帰れるか」


 ミナトは立ち上がろうとした。


 だが、足に力が入らず、その場に膝《ひざ》をついた。


「っ……」


 アオが一歩近づく。


 ミナトは反射的に身を引いた。


 アオは止まった。


「怖いか」


 ミナトは答えられなかった。


 怖かった。


 目の前にいるのは、どう見ても人間ではない。夜の川から現れた異形の半魚人。


 助けられたと分かっても、身体は勝手に震えた。


 ミナトは正直に言った。


「……怖い」


 アオは黙った。


 少しだけ、エラが震えた。


「石は、投げないのか」


 ミナトは驚いた。


「投げない」


「火は」


「向けない」


「叫ばないのか」


「……叫ぶ体力がない」


 アオは、ほんの少しだけ首を傾けた。


 ミナトは弱く笑った。


 その笑いは、すぐに咳に変わった。


「げほっ、げほっ……」


 アオは再び近づいた。


 今度はミナトも逃げなかった。


 アオは長い腕を伸ばし、ミナトの身体を支えた。


 冷たい手だった。


 けれど、不思議と乱暴ではなかった。


「下流へ運ぶ」


「……ありがとう……助かる」


「歩くな。沈む」


「もう沈んでない」


「人間は、陸でも倒れる」


「……否定できないな」


 アオはミナトを支え、川岸をゆっくり進み始めた。


 月明かりの中、異形の半魚人と、ずぶ濡れの人間が並ぶ。


 川はまだ、ごうごうと鳴っていた。


 ミナトは、痛む身体をアオに預けながら、ぼんやりと思った。


 祖父母の家を、興味本位で相続した。夜の川を、軽い気持ちで見に行った。立入禁止の看板を無視した。


 その結果、川に落ち、死にかけた。


 そして、異形の半魚人に助けられた。


 あまりに現実離れしている。


 けれど、ポケットに残った赤い包装だけが、妙に現実的だった。


 アオがふと立ち止まった。


「ミナト」


「何」


「ぎょにくソーセージは、まだあるか」


 ミナトは思わず、小さく笑いそうになった。


 こんな状況で、それを聞くのか。


「家にある」


 アオの目が、わずかに動いた。


「家」


「オレが泊まってる古い家」


「下流か」


「うん」


 アオは少し考えた。


「なら、そこまで運ぶ」


「魚肉ソーセージ目当てか?」


「ミナトは、すぐ死ぬ」


「そっちが理由だと思いたいけどな」


「魚肉ソーセージも、ある」


「正直だな」


 アオはそれ以上言わなかった。


 ただ、ミナトの身体を支え直し、暗い道を進んだ。


 佐辺大橋を渡る頃には、雨雲の切れ間が少し広がっていた。


 橋の下を、黒い川が流れている。


 今度はミナトも、欄干《らんかん》の向こうを見ようとはしなかった。


 坂を上り始めると、川の音が少しずつ遠ざかっていった。


 ミナトは、隣を歩くアオを横目で見た。


 怖い。まだ怖い。


 けれど、さっきより少しだけ、その怖さの中に違うものが混じっていた。


 助けてくれた。会話をした。魚肉ソーセージを食べて、うまいと言った。石を投げないのか、と聞いた。


 この異形の半魚人は、いったい何者なのだろう。


 どうして、この佐辺川にいるのだろう。


 ミナトには何も分からなかった。


 ただ一つだけ分かっていた。


 今夜、自分は死ぬはずだった。


 そして、その死を止めたのは、人間ではないものだった。


 家の灯りが、遠くに小さく見え始めた。


 アオはそれを見て、低くつぶやいた。


「明るい」


「家の電気だよ」


「人間の巣か」


「……言い方」


 ミナトは小さく笑い、また咳き込んだ。


 アオはミナトを見る。


「すぐ死ぬ」


「死なない」


「今は、分からない」


「分かるよ。たぶん」


「人間は、自分が死ぬときも分からない」


 ミナトは返せなかった。


 家の前まで来ると、アオは足を止めた。


 玄関の灯りが、二人を照らす。


 そこで初めて、ミナトはアオの姿をはっきり見た。


 やはり、恐ろしい姿だった。


 黒緑色の鱗。濡れた皮膚。長い腕。鋭い爪。背中のひれ。首元のエラ。琥珀色の目。


 怪物と呼ばれても、おかしくない姿。


 けれど、その手は、ミナトを壊さないように慎重に支えていた。


 ミナトは玄関に手をかけた。


「……入るか?」


 自分で言ってから、驚いた。


 アオもまた、ミナトを見た。


「入っていいのか」


「外、寒いだろ」


「アオは、濡れている」


「見れば分かる」


「床が濡れる」


「今さらだよ。オレもずぶ濡れだし」


 アオは玄関の奥を見た。


 暗い土間。古い柱。畳の匂い。


 人間の家。


 アオはしばらく動かなかった。


「どうした?」


 ミナトが聞くと、アオは小さく言った。


「人間の家は、逃げ道が少ない」


 ミナトは黙った。


 ただの警戒ではない。


 もっと重く、深い恐怖があるように思えた。


「無理には入らなくていい」


 ミナトは言った。


「魚肉ソーセージ、取ってくる」


 アオはミナトを見た。


「逃げるのか」


「逃げたい気持ちはある」


 ミナトは正直に言った。


「でも、助けてもらったし」


 少し間を置く。


「石は投げない」


 アオのエラが、かすかに震えた。


 ミナトは玄関に腰を下ろし、なんとか長靴を脱いだ。ふらつきながら台所へ向かい、買い物袋から魚肉ソーセージを二本持って戻ってきた。


 アオは、まだ玄関の外にいた。


 月明かりの中で、静かに待っていた。


 ミナトは一本を差し出した。


「ほら」


 アオは慎重に受け取った。


 警戒はしていた。だが、さっきより少しだけ早く包みに手を伸ばした。


 ミナトはもう一本を自分で開けた。


 玄関に座り、二人は黙って魚肉ソーセージを食べた。


 濡れた服。痛む身体。遠くの川の音。月明かりの中の半魚人。


 ありえない夜だった。


 アオが食べ終えて、低く言った。


「うまい」


 ミナトは小さくうなずいた。


「うん」


「人間は、これを作るのか」


「そうだな」


「人間は、変だ」


「……それも否定できない」


 アオは、赤い包装をしばらく見つめていた。


「ミナトは、石を投げなかった」


「投げないよ」


「魚の肉をくれた」


「魚肉ソーセージな」


 アオは少しだけ目を伏せた。


「覚えた」


 ミナトは、その言葉の意味をまだ知らなかった。


 アオは赤い包装を、もう一度見た。


 それから、ミナトを見る。


 ミナトは玄関に座ったまま、疲れ切って目を閉じかけていた。


「寝るな」


「眠い」


「濡れている。冷える。死ぬ」


「また死ぬ話か……」


「着替えろ」


「分かってる」


 ミナトは立ち上がろうとして、ふらついた。


 アオが咄嗟に腕を伸ばす。


 ミナトの身体を支える。


 今度は、ミナトは逃げなかった。


 アオはそのことに気づいた。


 ミナトも、気づいた。


 ほんの少しだけ、二人の間にあった恐怖の形が変わった。


 ミナトは低く言った。


「アオ……ありがとう」


 アオは黙っていた。


 やがて、短く答えた。


「死ぬな」


 ミナトは苦笑した。


「努力してみる」


 川の音は、まだ遠くで鳴っていた。


 夜は深い。山は暗い。家は古く、半魚人は恐ろしい姿をしている。


 それでも、玄関先には小さな灯りがあった。


 その灯りのそばで、人間と異形の半魚人が、同じ魚肉ソーセージを食べていた。


 それが、すべての始まりだった。




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