第1話 異形の半魚人
瀬川湊が、その古民家を相続すると決めたのは、ほとんど興味本位だった。
祖父母が亡くなってから、長く放置されていた家である。
山の斜面に寄り添うように建てられた、古い木造の家。瓦屋根はところどころ色が変わり、雨樋には枯れ葉が詰まり、庭には草が伸び放題になっていた。裏手には竹林が広がっている。
買い手はつかなかった。
町役場の人間にも、不動産屋にも、親戚にも言われた。
「正直、手放すのは難しいと思います」
管理するだけでも手間がかかる。都会に暮らすミナトにとって、縁もうすい里山の家を持つ意味など、普通に考えればほとんどなかった。
それでもミナトは、なぜかその家を手放せなかった。
幼い頃、何度かだけ訪れたことがある。
記憶は、ひどく曖昧だった。
畳の匂い。黒く光る太い柱。夜になると暗すぎる廊下。古くて、不気味で、少し怖い家。
そして、祖母がよくくれた魚肉ソーセージ。
「ほら、湊。これ食べんさい」
そう言って、祖母はいつも赤いビニールの包みを差し出した。
都会のスーパーでも買える、なんてことのない食べ物。けれど幼いミナトにとって、その魚肉ソーセージは、あの古い家の記憶そのものだった。
だからだろうか。
大人になったミナトは、半ば勢いでその家を相続した。
別に、田舎暮らしに憧れていたわけではない。古民家再生に詳しいわけでもない。ただ、誰も住まなくなった家を、完全に消してしまうのが少し惜しかった。
それくらいの気持ちだった。
数日かけて、ミナトは町役場で手続きを済ませた。そのついでに、家の片づけも始めた。
破れた障子を外し、使えなくなった家具を運び出し、庭の草を刈る。台所の水道はなんとか使えた。電気も通った。風呂は古すぎて、ひとまず近くの共同浴場に通うしかなかった。
簡単な掃除とリフォームだけで、身体はすっかり疲れ切った。
その夜、ミナトは家で初めて一人で眠ることにした。
布団を敷いた部屋は、祖父母がかつて寝室に使っていた部屋だった。壁には古い柱時計があり、止まったままの針が、夜の静けさを余計に深くしている。
電気を消すと、家は思った以上に暗かった。
都会の夜には、どこかに必ず光がある。車のライト。コンビニの看板。マンションの窓。少し先に見える信号。
けれど、この里山の夜には、そういうものがほとんどなかった。
あるのは、虫の声。風の音。そして、川の水音だった。
ごう、ごう。
坂を下った先を流れる佐辺川が、夜の中で低く鳴っている。
昼間に見たときは、石の間を澄んだ水が流れる、穏やかな川だった。しかし数日前から続いた雨で、水量はかなり増えているらしい。
百メートル以上離れているはずなのに、夜の静けさの中では、水音がすぐそばまで迫ってくるように聞こえた。
布団に入っても、その音が耳から離れなかった。
ごう、ごう。
まるで山の奥から、何か大きなものが近づいてくるような音だった。
ミナトは寝返りを打った。
「……うるさいな」
独り言が、暗い部屋に小さく落ちた。
ふと、幼い頃の記憶がかすかによみがえる。
祖父の声だった。
「夜に川へ近づくな」
低く、少し怖い声。
「雨のあとは特に駄目だ。あの川は、昼と夜で顔が変わる」
祖母も言っていた気がする。
「上流には行かんこと。立入禁止のロープがあるところは、絶対に入ったらいかんよ」
当時のミナトは、ただ怖がってうなずいていた。だが、大人になった今では、それをどこか田舎の古い言い伝えのように感じていた。
危ない場所に近づくな。子どもを脅すための、よくある注意。
ミナトは布団から起き上がった。
「ちょっと見るだけなら……」
自分で言ってから、少し笑った。
子どもみたいだ。
だが、眠れないのも事実だった。川の音が気になる。昼と夜で顔が変わる、という祖父の言葉も、逆に少しだけ興味をそそった。
町役場の人が言っていた。
上流には、今は閉鎖された自然動植物研究所がある。さらにその奥には、使われなくなった古い砂防ダムも残っているらしい。
もちろん、途中から先は立入禁止区域だ。
ミナトはスマホのライトを確認した。長靴を履き、薄い上着を羽織る。
玄関を出る直前、台所に置いてあった買い物袋が目に入った。
昼間、町の小さな商店で買ったものだ。お茶。カロリーバー。軍手。そして、魚肉ソーセージ。
なんとなく懐かしくて買ったものだった。
ミナトは一本を手に取った。
「夜食にでもするか」
そうつぶやき、魚肉ソーセージをズボンのポケットに突っ込んだ。
それから、玄関を開けた。
夜の空気が、ひやりと身体に触れた。
*
外は、思った以上に暗かった。
雲の切れ間から、月がときおり顔を出す。その光が山の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。
川の音は、家の中で聞くよりもずっと大きかった。
ごう、ごう、ごう。
ミナトは坂を下った。
雨に濡れた草の匂い。土の匂い。足元のぬかるみ。
やがて、佐辺大橋が暗闇の中に姿を現した。
昼間に見れば、どうということもない田舎の橋だった。けれど、増水した川をまたぐ夜の橋は、妙に長く見えた。
ミナトは橋を渡った。
欄干の下を、黒い水が流れている。
立ち止まる気にはなれなかった。
橋を渡りきると、北岸の道を上流へ向かった。
昼間なら、川沿いを歩く地元の人もいるのだろう。しかし深夜の雨上がりでは、まるで別の場所だった。
足元はぬかるんでいる。草は濡れていて、長靴に冷たい水が跳ねる。
普通なら、すぐに引き返すべきだった。
しかしミナトは、まだ軽く考えていた。
都会の友人たちを呼んだら、ここはちょっとした肝試しに使えるかもしれない。古民家に泊まって、夜に山の奥まで歩く。写真を撮って、笑って、帰ってくる。
そんな馬鹿げた想像をしていた。
かなり歩いた頃、道の端に古い看板が見えた。
佐辺自然動植物研究所方面
この先 立入禁止
増水時 危険
文字の一部は錆びて読みにくくなっていた。だが、意味は十分に分かる。
木々の奥には、暗いコンクリートの建物らしきものが見えた。
使われなくなった研究所なのだろう。
ミナトは看板の前で立ち止まった。
川の音が一段大きくなる。
「……ちょっとだけ」
誰に言い訳するでもなく、そう言った。
そして、看板の脇を抜けた。
その瞬間から、道は急に荒れた。
人が日常的に通ることを前提にしていない山道だった。草が腰のあたりまで伸び、足元には濡れた落ち葉が積もっている。ところどころ、土が崩れていた。
スマホのライトを向けても、数メートル先しか見えない。
ミナトの胸に、ようやく不安が広がり始めた。
「……これ、やめたほうがいいな」
そう思ったときだった。
足元の地面が、水を含みすぎていた。
踏みしめたはずの場所が、ずるりと沈む。
ミナトは慌てて体勢を立て直そうとした。
だが、左足が滑った。
「あっ――」
身体が斜面へ投げ出された。
濡れた草。むき出しの根。足を奪う泥。
ミナトの身体は、山肌を転がり落ちた。
肩を打つ。背中を打つ。
スマホが手から離れ、暗闇の中へ消えた。
そして次の瞬間、全身を冷たい水が包んだ。
川だった。
増水し、深くなった佐辺川の流れに、ミナトは落ちた。
「っ、が……!」
息を吸おうとした口に、水が入る。
流れが強い。足がつかない。どちらが上かも分からない。
身体が岩にぶつかった。
肩に痛みが走る。
ミナトは必死にもがいた。だが、もがけばもがくほど、身体は水に引きずられる。
水の中は暗かった。
夜の川は、黒い。泥水が重い。
ただの水ではなかった。泥と木の枝と石を抱え込んだ、巨大な生き物のようだった。
息が続かない。
肺が焼けるように苦しい。
ミナトは、手を伸ばした。
何もつかめない。
視界が暗くなる。
祖父の声が聞こえた気がした。
夜に川へ近づくな。
祖母の声も。
上流には行かんこと。
遅かった。
ミナトは、暗い水の中で思った。
死ぬ。
そのときだった。
黒緑色の大きな影が、水の奥から近づいてきた。
音もなかった。
人間ではない。魚でもない。獣でもない。
長い腕のようなものが見えた。背中に、ひれのような輪郭が見えた。琥珀色の目が、闇の中で鈍く光った。
夢か、現実か、分からなかった。
ミナトにはもう、それを考える力もなかった。
ただ、意識が消える直前。
水の底から響くような低い声を聞いた気がした。
「暴れるな。沈む」
それが、ミナトの覚えている最後の音だった。
*
目を覚ましたとき、ミナトは激しく咳き込んだ。
「げほっ、げほっ……!」
のどが焼けるように痛い。
のどの奥に残った水を吐き出すように、何度も咳をした。
身体が重い。寒い。
ミナトは、うつ伏せのまま、しばらく動けなかった。
手の下にあるのは、濡れた砂利だった。どうやら川岸にいるらしい。
辺りは暗い。
だが、完全な闇ではなかった。雲が切れ、月明かりが川面をぼんやり照らしている。
ミナトはゆっくり顔を上げた。
川の音が聞こえる。
ごう、ごう。
自分は、生きている。
その事実を理解するまでに、少し時間がかかった。
「……なんで」
声がかすれた。
そのときだった。
「なぜ、ここに来た」
低い声がした。
ミナトの身体が凍りついた。
人の声に似ている。だが、どこか違う。
水の中で聞いた声と同じだった。
ミナトはゆっくり顔を向けた。
少し離れた岩の上に、何かが座っていた。
最初、それは大きな影にしか見えなかった。
しかし、月明かりが雲の切れ間から差し込んだ瞬間、その姿が浮かび上がった。
長い腕。人間よりも大きな手。指の間には水かきがあり、その先には鋭い爪が伸びている。濡れた身体には、黒緑色の鱗がびっしりと並び、月の光を受けて鈍く光っていた。背中には、古代の爬虫類を思わせる背びれ。首元には、ゆっくり開閉するエラ。顔には、かすかに人間の面影がある。
だが、人間ではない。
琥珀色の目が、ミナトを見ていた。
「ひっ……」
悲鳴にならない声がのどから漏れた。
ミナトは後ずさろうとした。
だが身体が動かない。全身が打ち身だらけで、力が入らなかった。
殺される。
そう思った。
濁流から生き延びたのに、今度は怪物に殺される。
月明かりを浴びた半魚人は、静かにミナトを見下ろしていた。
口が開く。のどの奥から、グッ……グッ……という低い音が、漏れた。
「なぜ、人間がここにいる」
ミナトは答えられなかった。
歯が鳴る。全身がおののく。寒さなのか、恐怖なのか分からない。
半魚人は近づいてこない。
ただ、待っている。
ミナトはのどを鳴らし、ようやく声を絞り出した。
「……さ、散歩」
半魚人は少しだけ目を細めた。
「散歩」
ミナトはうなずくこともできず、ただ固まっていた。
半魚人はしばらく沈黙したあと、低く言った。
「散歩なら、昼にしろ」
「……え」
「そして、もっと下流を歩け」
ミナトはまばたきをした。
思っていた言葉と違った。
襲いかかってくるでもない。意味の分からない叫びを上げるでもない。
まともに返事をしてきた。
会話が成立している。
ミナトは混乱したまま、半魚人を見た。
助けられたのか。
自分は、この異形の存在に。
そう思った瞬間、恐怖の中に別の感情が混じった。
理解できない。怖い。けれど、この半魚人は自分を殺していない。むしろ、川から引き上げたのではないか。
ミナトは震える声で言った。
「……あんたが、助けてくれたのか」
半魚人は答えなかった。
ただ、川のほうを見た。
「人間は、水の中で弱い」
「……」
「すぐ沈む」
それは答えのようでもあった。
ミナトは、濡れた服の胸元を握りしめた。
「なんで」
半魚人がこちらを見る。
「なんで、助けたんだ」
半魚人は少し黙った。
「死ぬと思った」
「だから?」
「死ぬと、川が騒がしくなる」
ミナトには、その意味が分からなかった。
けれど、半魚人はそれ以上説明しなかった。
そのとき、半魚人の視線がミナトの腰のあたりへ落ちた。
ミナトもつられて見る。
ズボンのポケットから、赤いビニールの包みが半分はみ出していた。
魚肉ソーセージだった。
濡れてはいるが、包装は破れていない。
半魚人が低く尋ねた。
「それは、武器か」
ミナトは一瞬、何のことか分からなかった。
だが、半魚人の視線の先を見て、ようやく気づく。
「……これ?」
「赤い。長い」
「武器じゃない」
「火か」
「違う」
「石か」
「違う」
「では、何だ」
ミナトは震える手で、魚肉ソーセージをポケットから取り出した。
指先がうまく動かない。濡れていて、包みがなかなか剥がれなかった。
半魚人は、じっと見ている。
距離はある。だが、その目は鋭い。
ミナトはようやく端を破り、中身を少し出した。
薄いピンク色の魚肉ソーセージ。
包みが開いた瞬間、半魚人のエラがかすかに動いた。
鼻先がわずかに上がる。
匂いを嗅いでいるのだと、ミナトは分かった。
ミナトは、なぜ自分がそんなことをしたのか分からなかった。
助けてもらった礼をしたかったのか。敵意がないことを示したかったのか。ただ、恐怖の中で何かを差し出さずにはいられなかったのか。
震える手で、魚肉ソーセージを差し出した。
「……食べてみる?」
半魚人は動かない。
琥珀色の目が、ミナトと魚肉ソーセージを交互に見た。
「毒か」
「違う」
「人間は、嘘をつく」
「……そうかもしれないけど」
ミナトは少しだけ息を吸った。
それから、自分で魚肉ソーセージの端をかじった。
飲み込む。
「……ほら。毒じゃない」
半魚人は、じっとその様子を見ていた。
ミナトはもう一度、差し出した。
「礼になるか分からないけど……これしかない」
半魚人は、ゆっくりと動いた。
水気を含んだ大きな身体が、月明かりの中で揺れる。
ミナトは思わず身を固くした。
怖い。
近づくと、さらに異形だった。
長い腕。鋭い爪。濡れた鱗。人間ならありえない角度で開く指。
半魚人は、ミナトの手から魚肉ソーセージを受け取った。
その動きは、意外なほど慎重だった。
爪がミナトの指に触れないように、そっとつまんだ。
それは、彼が初めて、人間と言葉を交わして受け取った、小さな贈り物だった。
半魚人は匂いを嗅ぎ、少しだけ警戒するように目を細めた。
それから、かじった。
静かな川岸に、小さな音がした。
半魚人は動きを止めた。
ミナトは息を呑んだ。
まずかったのか。怒らせたのか。
半魚人は、もう一口かじった。
そして、低く言った。
「……うまい」
ミナトは、力が抜けた。
半魚人は魚肉ソーセージを見つめていた。
「赤い。長い。魚の肉」
「魚肉ソーセージっていうんだ」
「ぎょにく」
「魚の肉って意味」
「ソーセージ」
「そうか」
半魚人は、言葉を確かめるように繰り返した。
「ぎょにく、ソーセージ」
そして、残りを大事そうに食べた。
その様子を見て、ミナトの中の恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。
怪物。
そう思った。
けれど、目の前の異形は、魚肉ソーセージを食べて「うまい」と言った。
それがあまりに奇妙で、あまりに現実的で、ミナトはどう反応していいのか分からなかった。
半魚人は食べ終えると、ミナトを見た。
「お前」
「……何」
「名は」
ミナトは少し迷った。
だが、答えた。
「瀬川湊」
「ミナト」
「うん」
半魚人は、ミナトの名をゆっくり発音した。
「ミナト」
その声は、水の底から浮かび上がるようだった。
ミナトは、逆に尋ねた。
「……あんたは?」
半魚人は黙った。
長い沈黙。
川の音だけが二人の間を流れた。
やがて、半魚人は短く言った。
「アオ」
「アオ?」
「そう呼ばれた」
「誰に?」
アオは答えなかった。
ただ、川の暗がりへ目を向けた。
その目には、一瞬だけ深い影が差した。
ミナトは、それ以上聞けなかった。
アオは立ち上がった。
「ここは危ない」
「……うん」
「人間は、すぐ死ぬ」
「それ、さっきからひどくないか」
「間違ってない」
ミナトは言い返せなかった。
実際、ついさっき死にかけたばかりだった。
アオは川の上流を見た。
「夜に来るな」
「……分かった」
「雨のあとも来るな」
「分かった」
「一人で来るな」
「分かった」
ミナトは小さくうなずいた。
アオはしばらくミナトを見ていた。
そして、少しだけ低い声で言った。
「帰れるか」
ミナトは立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らず、その場に膝をついた。
「っ……」
アオが一歩近づく。
ミナトは反射的に身を引いた。
アオは止まった。
「怖いか」
ミナトは答えられなかった。
怖かった。
目の前にいるのは、どう見ても人間ではない。夜の川から現れた異形の半魚人。
助けられたと分かっても、身体は勝手に震えた。
ミナトは正直に言った。
「……怖い」
アオは黙った。
少しだけ、エラが震えた。
「石は、投げないのか」
ミナトは驚いた。
「投げない」
「火は」
「向けない」
「叫ばないのか」
「……叫ぶ体力がない」
アオは、ほんの少しだけ首を傾けた。
ミナトは弱く笑った。
その笑いは、すぐに咳に変わった。
「げほっ、げほっ……」
アオは再び近づいた。
今度はミナトも逃げなかった。
アオは長い腕を伸ばし、ミナトの身体を支えた。
冷たい手だった。
けれど、不思議と乱暴ではなかった。
「下流へ運ぶ」
「……ありがとう……助かる」
「歩くな。沈む」
「もう沈んでない」
「人間は、陸でも倒れる」
「……否定できないな」
アオはミナトを支え、川岸をゆっくり進み始めた。
月明かりの中、異形の半魚人と、ずぶ濡れの人間が並ぶ。
川はまだ、ごうごうと鳴っていた。
ミナトは、痛む身体をアオに預けながら、ぼんやりと思った。
祖父母の家を、興味本位で相続した。夜の川を、軽い気持ちで見に行った。立入禁止の看板を無視した。
その結果、川に落ち、死にかけた。
そして、異形の半魚人に助けられた。
あまりに現実離れしている。
けれど、ポケットに残った赤い包装だけが、妙に現実的だった。
アオがふと立ち止まった。
「ミナト」
「何」
「ぎょにくソーセージは、まだあるか」
ミナトは思わず、小さく笑いそうになった。
こんな状況で、それを聞くのか。
「家にある」
アオの目が、わずかに動いた。
「家」
「オレが泊まってる古い家」
「下流か」
「うん」
アオは少し考えた。
「なら、そこまで運ぶ」
「魚肉ソーセージ目当てか?」
「ミナトは、すぐ死ぬ」
「そっちが理由だと思いたいけどな」
「魚肉ソーセージも、ある」
「正直だな」
アオはそれ以上言わなかった。
ただ、ミナトの身体を支え直し、暗い道を進んだ。
佐辺大橋を渡る頃には、雨雲の切れ間が少し広がっていた。
橋の下を、黒い川が流れている。
今度はミナトも、欄干の向こうを見ようとはしなかった。
坂を上り始めると、川の音が少しずつ遠ざかっていった。
ミナトは、隣を歩くアオを横目で見た。
怖い。まだ怖い。
けれど、さっきより少しだけ、その怖さの中に違うものが混じっていた。
助けてくれた。会話をした。魚肉ソーセージを食べて、うまいと言った。石を投げないのか、と聞いた。
この異形の半魚人は、いったい何者なのだろう。
どうして、この佐辺川にいるのだろう。
ミナトには何も分からなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
今夜、自分は死ぬはずだった。
そして、その死を止めたのは、人間ではないものだった。
家の灯りが、遠くに小さく見え始めた。
アオはそれを見て、低くつぶやいた。
「明るい」
「家の電気だよ」
「人間の巣か」
「……言い方」
ミナトは小さく笑い、また咳き込んだ。
アオはミナトを見る。
「すぐ死ぬ」
「死なない」
「今は、分からない」
「分かるよ。たぶん」
「人間は、自分が死ぬときも分からない」
ミナトは返せなかった。
家の前まで来ると、アオは足を止めた。
玄関の灯りが、二人を照らす。
そこで初めて、ミナトはアオの姿をはっきり見た。
やはり、恐ろしい姿だった。
黒緑色の鱗。濡れた皮膚。長い腕。鋭い爪。背中のひれ。首元のエラ。琥珀色の目。
怪物と呼ばれても、おかしくない姿。
けれど、その手は、ミナトを壊さないように慎重に支えていた。
ミナトは玄関に手をかけた。
「……入るか?」
自分で言ってから、驚いた。
アオもまた、ミナトを見た。
「入っていいのか」
「外、寒いだろ」
「アオは、濡れている」
「見れば分かる」
「床が濡れる」
「今さらだよ。オレもずぶ濡れだし」
アオは玄関の奥を見た。
暗い土間。古い柱。畳の匂い。
人間の家。
アオはしばらく動かなかった。
「どうした?」
ミナトが聞くと、アオは小さく言った。
「人間の家は、逃げ道が少ない」
ミナトは黙った。
ただの警戒ではない。
もっと重く、深い恐怖があるように思えた。
「無理には入らなくていい」
ミナトは言った。
「魚肉ソーセージ、取ってくる」
アオはミナトを見た。
「逃げるのか」
「逃げたい気持ちはある」
ミナトは正直に言った。
「でも、助けてもらったし」
少し間を置く。
「石は投げない」
アオのエラが、かすかに震えた。
ミナトは玄関に腰を下ろし、なんとか長靴を脱いだ。ふらつきながら台所へ向かい、買い物袋から魚肉ソーセージを二本持って戻ってきた。
アオは、まだ玄関の外にいた。
月明かりの中で、静かに待っていた。
ミナトは一本を差し出した。
「ほら」
アオは慎重に受け取った。
警戒はしていた。だが、さっきより少しだけ早く包みに手を伸ばした。
ミナトはもう一本を自分で開けた。
玄関に座り、二人は黙って魚肉ソーセージを食べた。
濡れた服。痛む身体。遠くの川の音。月明かりの中の半魚人。
ありえない夜だった。
アオが食べ終えて、低く言った。
「うまい」
ミナトは小さくうなずいた。
「うん」
「人間は、これを作るのか」
「そうだな」
「人間は、変だ」
「……それも否定できない」
アオは、赤い包装をしばらく見つめていた。
「ミナトは、石を投げなかった」
「投げないよ」
「魚の肉をくれた」
「魚肉ソーセージな」
アオは少しだけ目を伏せた。
「覚えた」
ミナトは、その言葉の意味をまだ知らなかった。
アオは赤い包装を、もう一度見た。
それから、ミナトを見る。
ミナトは玄関に座ったまま、疲れ切って目を閉じかけていた。
「寝るな」
「眠い」
「濡れている。冷える。死ぬ」
「また死ぬ話か……」
「着替えろ」
「分かってる」
ミナトは立ち上がろうとして、ふらついた。
アオが咄嗟に腕を伸ばす。
ミナトの身体を支える。
今度は、ミナトは逃げなかった。
アオはそのことに気づいた。
ミナトも、気づいた。
ほんの少しだけ、二人の間にあった恐怖の形が変わった。
ミナトは低く言った。
「アオ……ありがとう」
アオは黙っていた。
やがて、短く答えた。
「死ぬな」
ミナトは苦笑した。
「努力してみる」
川の音は、まだ遠くで鳴っていた。
夜は深い。山は暗い。家は古く、半魚人は恐ろしい姿をしている。
それでも、玄関先には小さな灯りがあった。
その灯りのそばで、人間と異形の半魚人が、同じ魚肉ソーセージを食べていた。
それが、すべての始まりだった。




