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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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第9話 文字、そして絆

 川底の撤去作業が一段落してから、佐辺には穏やかな時間が戻ってきた。


 旧大橋の周辺には何台かの重機が止まり、河川敷には土が盛られている。


 新しい大橋は、まだ形になっていない。


 それでも、南北に分かれた佐辺をもう一度つなぐための工事は、少しずつ動き始めていた。


 アオは、作業員がいない時間になると、大橋の建設予定地の近くまで泳いでいくようになった。


 ミナトは、自分が関わった場所だから気になるのだろうと思っていた。


 ある朝。


 川から戻ってきたアオが、ぽつりと言った。


「ミナト」


「何」


「川のそばに、変なアオがいる」


 ミナトは湯呑みを落としかけた。


「……見つけたか」


「見つけた」


「どうだった?」


「なぜ、アオが魚肉ソーセージを持っている」


「そこかよ」


 新大橋のたもとから少し外れた河川敷。


 そこには、小さな台座と、アオを描いた金属プレートが置かれている。


 目立たない。


 知らない人なら、意味も分からず通り過ぎる程度のものだ。


「まあ……里の人たちなりの愛情表現だな」


「愛情表現」


「たぶん」


「アオは、いつも持っていない」


「でも、魚肉ソーセージがあると、だいたい欲しそうにしてるだろ」


「見ているだけだ」


「そこは否定しないんだな」


 アオの爪が、開いたり、引っ込んだりしている。


「嫌だったか?」


 アオは少し考えた。


「分からない」


「分からない?」


「石を投げられたことはある。絵を描かれたことは、ない」


 ミナトは黙った。


「でも、あれは痛くない」


「そりゃ、プレートだからな」


「見ると、胸の奥が変になる」


「嬉しいんじゃないか?」


 アオのエラ蓋が、小さくぱたぱたと動いた。


「これが、うれしいか」


「たぶんな」


 アオはもう一度、その言葉を口にした。


「うれしい」


 少し間があった。


「難しい」


「感情は難しいよ」


「人間は、いつもこれをしているのか」


「してる。だいたい持て余してる」


「人間は、不便だ」


「そこは否定できない」


*


 その日の午後。


 ミナトは縁側に小さな机を出した。


 机の上には、古いノートと太めのマジック。


 それから、スーパーのチラシが数枚。


 アオは、チラシの中の魚肉ソーセージをすぐに見つけた。


「ソーセージ、いっぱいいる」


「まずそこか」


「群れではない」


「お、覚えたな」


「まとめ売り」


「完璧っ!」


 背びれの上部が、ぴくりと立った。


 ミナトはチラシの文字を指さした。


「今日は、文字を覚える日だ」


「文字」


「そう。読めるようになったら、特売が自分で分かる」


 アオがすぐに身を乗り出した。


「覚える」


「動機がまっすぐすぎるな」


「特売は、大事」


「まあ、大事だけど」


 ミナトは紙に大きく一文字を書いた。


 魚。


「これは、さかな」


「さかな」


「そう」


 アオはマジックを持った。


 長い指。


 鋭い爪。


 指の間には水かきがある。


 細い筆記具を扱うには、あまり向いていない手だった。


 アオは慎重に線を引く。


 力が入りすぎて、ペン先が少しへこんだ。


「強い」


「お前がな」


「弱くする」


「そう。魚捕まえる時より、もっと力抜いて」


「魚は逃げる」


「文字は逃げない」


 アオは少し考えた。


「文字は、えらい」


「そういうことかな」


 もう一度、書く。


 歪んではいる。四つの点の長さもバラバラだ。


 けれど、確かに「魚」に見える。


「これが、魚か」


「そう。お前が書いた魚」


「泳がない」


「字だからな」


 アオは紙をじっと見た。


「でも、分かる」


「それが文字だよ」


「声にしなくても?」


「残る」


 アオの指先が、自分の書いた文字に触れた。


「意味が、残る」


*


 次は、肉。


「これは、にく」


「魚肉ソーセージの肉」


「そう」


「重要だ」


「覚える基準が全部ソーセージなんだよ」


 次に、川。


「かわ」


 アオは文字を見た。


「流れている」


「そう見える?」


「水がある」


「なるほどな」


 次は、山。


「とがっている」


「山」


「家の後ろ」


「そう」


 アオはしばらく紙を見ていた。


「文字は、形を残すのか」


「そういう字もある」


 背びれの上部が、また少し立った。


*


 夕方になると、里の子どもたちがやって来た。


「アオ、勉強してる!」


「字、書けるの?」


「ぼくの名前書ける?」


「わたしも!」


 アオの爪が、開いたり引っ込んだりする。


「多い」


 ミナトが笑った。


「人気者は大変だな」


「練習中でも騒がしい」


 子どもたちは縁側に集まり、紙をのぞき込んだ。


「これ、魚?」


「上手!」


「ちょっと変な魚!」


「アオの魚、強そう!」


「強い魚」


「うん、強そう!」


 小さな女の子が、アオの横に座った。


「アオ、自分の名前書ける?」


 アオがミナトを見る。


「アオの、名前」


「あ……まだ書いてなかったな」


 ミナトは紙に、ゆっくり二文字を書いた。


アオ


「これがお前の名前」


 アオは、その二文字をじっと見た。


「これが、アオ」


「そう」


 指先で、そっと紙に触れる。


「紙の上に、アオがいる」


「まあ、そういうことだな」


 しばらく、誰もしゃべらなかった。


「書いてみるか?」


 アオはうなずいた。


 マジックを持つ。


 一文字目は歪んだ。


 二文字目は、少し大きすぎた。


 それでも、


アオ


 と読めた。


「書けた!」


「アオがアオって書いた!」


「すごい!」


 アオの琥珀色の目が、大きく開いた。


「これは、すごいのか」


「すごいよ」


「名前を書いただけだ」


「それでいいんだよ」


 アオは、自分の書いた文字を見る。


「アオは、ここにいる」


 ミナトは、すぐには返事ができなかった。


*


 その夜。


 子どもたちが帰ったあと、ミナトはもう一枚の紙を出した。


「最後に、もう少しだけやるか」


「やる」


 ミナトは一文字を書いた。


人


「これは、人」


「ひと」


「そう」


 アオは文字を見た。


「ミナトは、人だ」


「そう」


「辰蔵も、人だ」


「うん」


「里の子どもも、人だ」


「そう」


「この『人』は、だれのことだ」


「人間全部、ってことかな」


 アオは自分の手を見た。


 水かきのある指。


 鋭い爪。


 深緑色の鱗。


「アオは、人か」


 ミナトは答えなかった。


 軽く「人だよ」と言うこともできた。


 でも、それは違う気がした。


 少し考えてから、隣に座る。


「アオが人間かどうかは、オレには分からない」


 アオは黙って聞いている。


「でも、それより大事なことがある」


「大事なこと」


「アオは、オレの家族だ」


 アオのエラ蓋が、小さく動いた。


「家族」


「一緒に暮らして、飯食って、心配して。帰ってこなかったら探しに行く。そういう相手」


 アオは紙の「人」を見る。


 それから、自分の名前を見る。


「人ではなくても、家族か」


「うん」


「水かきがあっても」


「うん」


「川の中で寝ても」


「そこはまあ、ちょっと変わってるけど」


「魚肉ソーセージが好きでも」


「それはむしろアオらしい」


 アオは黙った。


 しばらくして、紙へ手を伸ばす。


「書く」


「何を?」


 まず、


アオ


 その横に、ミナトが手本を書く。


ミナト


「これがオレ」


「ミナト」


 さらに、もう一文字。


家


「これは、いえ」


「いえ」


「オレたちが暮らしてる場所」


 アオは、その字を見た。


「家」


 何度か書く。


 線は歪み、大きさもそろわない。


 それでも、紙の上には少しずつ言葉が増えていった。


アオ

ミナト

家


「これは、全部、残るのか」


「紙がなくならなければな」


「声は、消える」


「うん」


「文字は、残る」


「そう」


 アオは小さくうなずいた。


「なら、残したい」


「何を」


 アオは指で文字をなぞる。


「アオ。ミナト。家」


 ミナトは、少し笑った。


「それで十分伝わるな」


*


「じゃあ、もう一個」


 ミナトは紙の隅に書いた。


絆


 アオはしばらく見た。


「細かい。難しい」


「まあな、難しい字だよ」


「意味は」


「簡単には切れない、つながり」


 アオはミナトを見る。


「わいやー」


「似てるけど違う」


「橋」


「それも近い」


「魚肉ソーセージを半分にすること」


 ミナトは笑った。


「それは……かなり近いかもな」


 アオはうなずいた。


「なら、分かる」


「ほんとか?」


「半分にしても、つながっている」


 ミナトは笑いかけて、途中で止まった。


 「絆」の右側に「半」がある。


「……そうだな」


 アオもまた、「絆」の字を見る。


「きずな」


「そう」


「難しい」


「ゆっくり覚えればいい」


「ミナトと覚える」


「うん」


 アオはマジックを持ち直した。


 何度も書く。


 線が足りない。


 形が崩れる。


 それでも、やめない。


 ミナトは横からときどき手を添えた。


 夜が深くなった頃、アオはようやくマジックを置いた。


「疲れた?」


「少し」


「今日はここまでにしよう」


 紙の上には、不格好な文字が並んでいる。


魚

肉

川

守

人

家

アオ

ミナト

絆


 アオは、その中から「絆」を指さした。


「これは、まだ下手だ」


「最初はそんなもんだよ」


「でも、覚える」


「うん」


「大事だから」


 アオは紙を丁寧に折った。


「しまうの?」


「宝」


「チラシの次に?」


 少し考える。


「チラシより、大事」


 ミナトは黙った。


「ミナト」


「何」


「目が水だ」


「今日は湿気がある」


 アオが周囲を見る。


「家の中は乾いている」


「うるさいな」


 エラ蓋が、小さく動いた。


「きずな」


 ミナトが顔を上げる。


「アオとミナト。きずな」


 ミナトは笑った。


「そうだな」


 アオは折った紙を、大事そうに持ったまま、もう一度だけ言った。


「きずな」


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