第10話 白い服の記憶
その夜、アオはうなされていた。
古民家の外では、細い雨が降っている。
屋根を静かに叩く雨音。遠くで続く、佐辺川の流れ。
里は寝静まっていた。
けれど、アオだけが心地よく眠れていなかった。
「……やめろ」
低い声が、暗がりに落ちた。
ミナトは布団の中で目を覚ました。
最初は、風の音かと思った。
だが、すぐに違うと分かった。
土間の板敷きで丸まるように眠っていたアオの呼吸が荒い。
背びれは低く伏せている。
深緑色の鱗は細かく逆立ち、エラ蓋が速く開閉していた。
のどの奥から、
グッ……グッ……
と、低い音が漏れている。
「アオ?」
ミナトは身を起こした。
アオは目を閉じたまま、何かから逃げるように腕を引いた。
「……そこは、嫌だ」
ミナトの胸が冷えた。
「アオ。起きろ。夢だ」
近づいて肩に触れようとした瞬間。
アオの腕が跳ねた。
鋭い爪が、空を裂く。
ミナトはとっさに身を引いた。
爪は頬のすぐ前を通り過ぎた。
「アオ!」
今度は強く、名前を呼んだ。
琥珀色の目が開く。
呼吸はまだ荒い。
アオはミナトを見た。
それから、自分の手を見る。
むき出しになっていた爪が、ゆっくり引っ込んだ。
「……ミナト」
「大丈夫。オレは無事」
「傷つけたか」
「傷ついてない」
「近づくな」
「近づく」
「だめだ」
「だめじゃない……そばにいる」
ミナトは、アオの目の前に座った。
急に触れない。
大きな声も出さない。
「夢を見た?」
アオは答えなかった。
雨の音だけが続く。
やがて、アオは低く言った。
「白い服の人間がいた」
ミナトは息をのんだ。
「昔、人間に捕まった」
*
それは、五年ほど前のことだった。
アオはまだ、人間の言葉をほとんど知らなかった。
その夜、アオはいつもの生息域を離れ、ダムより下流まで下っていた。
そこまで来ると、人家の明かりも増える。
川の近くには、夜なのに白く光る建物があった。
水の匂いに、薬品の匂いが混じっている。
近づくべきではないと分かっていた。
それでも魚を追って、人里に近い浅い支流へ入り込んだ。
そこで、網にかかった。
太く、硬い網だった。
もがくほど、身体に絡みつく。
アオは爪で裂こうとした。
そのとき、上から強い光が当たった。
「いたぞ」
「本当に存在したのか」
「傷をつけるな。生きたまま運べ」
言葉の意味は、ほとんど分からなかった。
けれど、一つだけ分かった。
この人間たちは、自分を助けようとしているのではない。
鉄の檻に入れられた。
狭い車の中で揺られた。
水のない時間が続いた。
身体が乾き、エラが痛み、息が浅くなった。
次に目を覚ましたとき。
そこには窓がなかった。
冷たい床。
分厚いガラス。
白い光。
大きな水槽。
中の水は、川の水ではなかった。
匂いが違う。
流れがない。
生き物の気配もない。
人間たちは、アオの周りを歩き回った。
体長を測る。
鱗の一部を採取する。
血を採る。
光への反応を調べる。
注射を打つ。
そのたびに、アオは暴れた。
暴れれば、さらに押さえつけられ、縛られた。
声を上げれば、記録された。
傷つけば、また観察された。
人間たちは、アオを名前で呼ばなかった。
「個体」
「標本」
「水棲型」
「変異体」
アオは、自分が何かの物になっていくような気がした。
生きているのに。
痛いのに。
怖いのに。
誰も、それを見なかった。
ただ一人を除いて。
*
彼女は、研究員の中で一番若かった。
大きな声で指示を出すこともなく、いつも記録用の端末を持って、部屋の隅にいた。
ある日。
注射のあと、アオは水槽の底で動けなくなっていた。
身体が重い。
息が苦しい。
川の音が聞こえない。
彼女が一人でやって来た。
アオは水の中から睨んだ。
白い服の人間。
敵。
彼女はガラス越しに、小さく言った。
「ごめんね」
アオは、その言葉を知らなかった。
意味は分からない。
ただ、声が違った。
硬くない。
冷たくない。
記録を取るときの声でもない。
それから彼女は、ときどき、誰もいない時間に水槽の前へ来るようになった。
水を少し替える。
照明を弱める。
乾いた腕に水をかける。
ときには、決められた「餌」ではない食べ物を、そっと水槽へ落とした。
そして、いつも小さく言った。
「ごめんね」
ある夜。
施設の中に警報音が鳴った。
外では強い雨が降っていた。
彼女が走ってきた。
白衣は乱れている。
手には鍵束と、小さな工具。
アオは水槽の隅で身構えた。
彼女が操作盤に触れる。
水槽の上部ロックが外れた。
重い音がした。
アオは動かなかった。
彼女は言った。
「逃げて。早く」
その言葉だけは、分かった。
逃げる。
アオは水槽から這い出した。
身体は重かった。
うまく動けない。
それでも彼女は、アオに触れなかった。
押さえつけなかった。
引き止めなかった。
ただ、通路の奥を指さした。
「排水路。そこから川に出られる」
アオは彼女を見た。
なぜ逃がすのか。
分からなかった。
「あなたは、ここにいちゃいけない」
アオは走った。
何度も転び、壁にぶつかった。
背後から怒鳴り声が聞こえる。
「何をした!」
「戻れ!」
「その個体を逃がすな!」
最後に振り返ったとき。
彼女は通路の向こうで、他の研究員たちに囲まれていた。
それでも、アオを見ていた。
口だけが動いた。
逃げて。
アオは排水路へ飛び込んだ。
暗い水路を抜ける。
泥水にまみれる。
傷だらけのまま、川へ戻った。
川の水は冷たかった。
濁っていた。
それでも、流れていた。
*
「それから、アオは人間を避けた」
古民家の暗がりで、アオが言った。
「白い服の人間を見ると、身体が固まる」
少し間を置く。
「あの場所の匂いも、嫌だ」
「薬品の匂い?」
アオは小さくうなずいた。
「注射は?」
背びれが、さらに低く伏せた。
「嫌だ」
ミナトは、それ以上聞かなかった。
少しだけ手を伸ばす。
触れていいか、待つ。
アオはすぐには動かなかった。
やがて、手を引かなかった。
ミナトは、その冷たい手に触れた。
「話してくれてありがとう」
アオは黙った。
「弱い話だ」
「違う」
「アオは、逃げた」
「逃げてよかった」
ミナトはすぐに答えた。
「そんな場所からは、逃げてよかった。逃げて、生きて、ここまで来てくれてよかった」
アオは何も言わない。
「その女の人が、逃がしてくれたんだな」
小さくうなずく。
「名前は?」
「知らない」
「そっか」
「聞けなかった」
「うん」
少し間があった。
「言えなかったことがある」
雨の音がした。
ミナトはしばらく黙っていた。
それから言った。
「じゃあ、いつか言おう」
アオが見る。
「いつか?」
「生きてたら、探せるかもしれない」
「また捕まるかもしれない」
「そのときは、オレが逃がす」
アオは黙った。
「オレだけじゃない。辰蔵さんも、里の人たちもいる」
エラ蓋が、小さく動く。
「一人では、ない」
「そう」
ミナトは手を離さなかった。
「ここは、檻じゃない」
アオが、土間の板敷きに触れる。
「水槽でもない」
チラシをしまった戸棚。
自分の名前を書いた紙。
半分に分けた魚肉ソーセージの包み。
外から聞こえる川の音。
「ここは、アオの家だよ」
アオはしばらく黙っていた。
「家」
「うん」
「ミナトがいる」
「いる」
「川もある」
「ある」
「鉄の檻は、ない」
「ない」
「白い服の人間も、いない」
「いない」
アオは、長く息を吐いた。
雨はまだ降っていた。
けれど、もう夢の中の雨ではなかった。
*
翌朝。
ミナトは古いノートを出した。
「今日は文字、休む?」
「覚える」
「無理しなくていい」
「覚える」
アオは短く言った。
「忘れたくないことがある」
ミナトはマジックを渡した。
「何を書く?」
アオは少し考えた。
「逃がしてくれた人間」
「名前は、分からないんだよな」
「分からない」
ミナトは少し考えて、紙に書いた。
ありがとう
アオは、その文字を見た。
「これは」
「感謝するときの言葉」
「ありがとう」
「そう」
アオは、もう一度言った。
「ありがとう」
マジックを握る。
一文字ずつ。
ゆっくり。
何度も書いた。
ありがとう
線は歪んだ。
大きさも形もバラバラだ。
それでも、やめなかった。
やがて、アオは紙を丁寧に折った。
「宝にする?」
ミナトが聞く。
アオは首を横に振った。
「違う」
「じゃあ?」
「いつか、渡す」
ミナトは笑った。
「そうだな」
アオは折った紙を手にしたまま、川を見る。
「あの人間は、アオを逃がした」
「うん」
「ミナトは、アオに家をくれた」
「そんな大げさな」
「大げさではない」
少し間を置く。
「アオは、今、生きている」
ミナトは答えなかった。
朝の光が、雨上がりの庭へ差し込んでいる。
竹の葉から、水滴が落ちた。
「アオ」
「何」
「いつか、その人に会えたら、一緒に言いに行こう」
「何を」
「ありがとう、って」
アオはうなずいた。
「ミナトも、言うのか」
「言うよ」
「なぜ」
「その人がアオを逃がしてくれたから、オレはお前に会えた」
アオの爪が、開いたり引っ込んだりした。
「人間は、変だ」
「よく言うな」
「でも」
アオは、折った紙を両手で包んだ。
「あたたかい人間も、いる」
「いるよ」
川は静かに流れていた。
アオはその音を聞いた。
「もう、檻には戻らない」
ミナトは答えた。
「戻さないよ」




