第11話 「ありがとう」を渡す日
アオが過去の記憶を語った夜から、数日が過ぎた。
十一月に入り、佐辺の朝はずいぶん冷えるようになった。
畑へ向かう人の声。坂道を駆け下りる子どもたち。夕方、北岸の家々からただよってくる炊事の匂い。
里には、いつもの時間が戻っていた。
アオも川へ入り、魚を捕り、スーパーのチラシを眺めている。
けれど、白い作業着を見かけたとき。
消毒薬に似た匂いがしたとき。
遠くで雷が鳴ったとき。
背びれが、わずかに伏せることがあった。
話したからといって、何もかも消えるわけではない。
それでもアオは古民家へ戻り、ミナトの隣で文字の練習を続けた。
その日も、縁側の小さな机に紙を広げていた。
そこに何度も書かれている。
ありがとう
歪んだ文字。ひらがなの曲線に、妙に力が入っていて、ぎこちない。
それでも、最初に書いたときより少しだけ形になっている。
「まだ、渡せない」
アオが言った。
「いつかでいいよ」
「いつかは、どこにある」
「急に難しいこと聞くな」
「川の上か」
「たぶん、もうちょっと複雑だな」
アオはしばらく考えていた。
爪が、開いたり引っ込んだりする。
そのときだった。
「ミナトくん!」
庭のほうから、辰蔵の声がした。
*
辰蔵が持ってきたのは、一通の白い封筒だった。
「今日、公民館に届いた」
「公民館?」
「佐辺地区自治会宛てじゃ」
表には、
佐辺地区自治会 御中
と書かれている。
差出人の名前はない。
「わしが読んだ。これは、お前さんにも見せたほうがええと思ってな」
辰蔵から受け取り、封を開く。
中には数枚の便箋が入っていた。
*
突然のお手紙をお許しください。
今年六月の豪雨で、佐辺地区にも大きな被害があったことを報道で知りました。
私は、かつて水棲生物の研究に関わっていた者です。
その後、ネット上の記事で、濁流の中から人を救った存在が「川の神様」と呼ばれていることを知りました。
もちろん、記事の内容が事実かどうか、私には分かりません。
ただ、もしその存在が、かつて私が関わったことのある彼なのだとしたら。
そして今、彼が誰かと共に暮らしているのだとしたら。
どうしても、お伝えしたいことがあります。
*
ミナトの指が止まった。
「彼」。
その一文字が妙に心に残った。
続きを読む。
*
彼は、乾燥にとても弱い生き物です。
清潔で、わずかに流れのある水を好みます。長く陸上で過ごしたあとには、十分に体を水へ戻してあげてください。
食事は魚類や甲殻類を好みますが、それだけに偏らないほうがいいと思います。
また、雷の音や強い白色光には、ひどく怯えることがあります。
可能であれば、無理に慣れさせようとせず、落ち着ける場所を用意してあげてください。
彼は、危険な存在ではありません。
怖がりで、警戒心が強く、それでも人を傷つけることを好むような生き物ではありません。
どうか。
もし彼がそちらにいるのなら。
名前で呼んであげてください。
*
ミナトは、その一文をもう一度読んだ。
名前で呼んであげてください。
アオは少し離れたところから、こちらを見ていた。
「ミナト」
「何」
「悪い人間か」
ミナトは便箋を下ろした。
「分からない。でも、お前のことを知ってる」
「アオのことを」
「たぶん」
背びれが、少し低くなった。
「捕まえるのか」
「そうは思わない」
ミナトは手紙を見る。
「読んでいい?」
アオの鱗が、ほんのわずかに立った。
それでも、
「読む」
と答えた。
ミナトは最初から読んだ。
豪雨の記事。
川の神様。
水のこと。
食事のこと。
雷のこと。
そして、
名前で呼んでほしいという言葉。
読み終えると、アオはしばらく黙っていた。
「雷を、知っている」
「うん」
「白い光も」
「うん」
「乾くことも」
「うん」
アオの爪が、ゆっくり開いた。
また閉じる。
「知っている人間は、少ない」
「オレもそう思う」
辰蔵が腕を組んだ。
「手紙の最後に、連絡先が書いてある」
末尾にはメールアドレスだけが記されていた。
居場所を知りたいわけではないこと。返事は必要ないこと。必要なときだけ連絡してほしいこと。
それだけだった。
「連絡してみたい」
ミナトが言った。
アオの鱗が少し立った。
「危ない」
「だから、場所は教えない。オレと辰蔵さんだけでやり取りする」
辰蔵もうなずいた。
「わしも、そのほうがええと思う」
ミナトはアオを見る。
「もし、この人が――」
一度、言葉を切る。
「お前を逃がしてくれた人だったら」
エラ蓋が、小さく動いた。
アオは戸棚へ向かった。
中から、丁寧に折られた紙を取り出す。
そこには何度も練習した、
ありがとう
の文字。
「この人なら」
アオは紙を見た。
「渡したい」
「分かった」
*
その夜。
ミナトは何度も文章を書き直してから、メールを送った。
*
はじめまして。
佐辺地区宛てのお手紙を受け取りました。
あなたが書かれた「彼」は、今、川の音が聞こえる場所で暮らしています。
名前で呼ばれています。
詳しい場所については、今はお伝えできません。
ただ、あなたのお手紙には、彼のことを本当に知っている方でなければ書けない内容がありました。
一つだけ確認させてください。
あなたは以前、彼を地下の水槽から逃がした方ですか。
*
返信は、その日のうちに届いた。
*
ご連絡ありがとうございます。
場所を教えていただく必要はありません。
彼が生きていること。
そして、名前で呼ばれていること。
それを知ることができただけで十分です。
ご質問への答えですが、はい。
私は、あの夜、彼を地下水槽から逃がした者です。
白崎玲奈と申します。
*
ミナトは画面を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「アオ」
土間の板敷きにいたアオが振り向く。
「白崎玲奈さんだって」
「しらさき、れな」
「うん」
「逃がした人間か」
「そう」
アオは手の中の紙を見る。
爪が、開いて、閉じた。
もう一通、メールが来た。
*
私は、あの夜、規則を破って彼を逃がしました。
その後、研究施設を離れています。
彼に謝る資格があるとは思っていません。
それでも、もし彼が今、穏やかに暮らしているのなら、その暮らしを壊したくありません。
元気な顔を見たい、とは思いますが、会わないほうがいいでしょう。
無理だけはさせないでください。
*
「謝る資格がない、って何だ」
アオが聞いた。
「自分を責めてるんだと思う」
「なぜ」
「お前を逃がした。でも、それまで助けられなかったから」
アオは黙った。
「アオは、恨んでいない」
「うん」
「怖い。でも、恨んでいない」
しばらく沈黙が続いた。
「会う?」
ミナトが聞く。
アオの背びれが低くなる。
「怖い」
「うん」
「あの場所を思い出す」
「うん」
アオは、手の中の紙を見た。
「でも」
爪が、一度だけ開く。
「ありがとうを、自分で渡したい」
「オレも一緒に行く」
「ミナトも」
「当たり前だろ」
アオはしばらくミナトを見ていた。
「アオが渡す」
*
待ち合わせ場所は、何度かメールを交わして決めた。
佐辺から離れた、町外れの川沿い。
古い水門が一つ残る、人通りの少ない場所だった。
佐辺の正確な場所も、古民家の位置も玲奈には伝えなかった。
玲奈も、それを尋ねなかった。
当日の朝。
アオは何度も「ありがとう」と書かれた紙を開き、また折った。
アオが何枚も書いた「ありがとう」のなかから、いちばん上手く書けた一枚を、ミナトが選んだ。
「破れるぞ」
ミナトが言う。
アオの手が止まった。
「渡す前になくなったら困る」
「鞄に入れとく?」
「アオが持つ」
「そっか」
「自分で渡す」
辰蔵も見送りに来た。
「怖くなったら帰ってこい」
アオはうなずく。
「逃げてもよいか」
「もちろんじゃ」
「前は、逃げた」
「それで生きとる」
辰蔵は笑った。
「逃げるのも、生き物の大事な仕事じゃ」
アオは少し考えた。
「逃げるのも、仕事」
「そうじゃ」
*
古い水門の近くには、細い川が流れていた。
水は澄み、浅瀬の石が透けて見える。
待ち合わせの時刻より少し早く着いた。
アオは橋の陰に立っていた。
大きめの上着を羽織り、背びれが目立たないよう布を掛けている。
「大丈夫?」
「分からない」
「帰る?」
「まだ」
手には、折った紙。
やがて、一人の女性が土手を下りてきた。
白衣ではない。
灰色のカーディガン。
歩きやすそうな靴。
肩には古い鞄。
女性は数歩手前で立ち止まった。
「白崎玲奈さんですか」
ミナトが聞く。
「はい」
女性はうなずいた。
「白崎です」
声を聞いた瞬間。
アオの背びれが低く伏せた。
鱗がわずかに逆立つ。
エラ蓋が速くなる。
のどの奥で、
グッ……
と、一度だけ低い音が鳴った。
玲奈は動かなかった。
近づかない。
手も伸ばさない。
ただ、アオを見ていた。
「……生きてた……よかった」
その声は、ほとんど息だった。
アオが一歩下がる。
ミナトは動かなかった。
玲奈は、その場で深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
アオの爪が開いた。
「あなたを、あそこからもっと早く出してあげられなくて、ごめんなさい」
川の音が続いていた。
「顔を上げろ」
玲奈がゆっくり顔を上げる。
アオはしばらく彼女を見た。
「覚えている」
玲奈の呼吸が止まった。
「水槽の前にいた」
「……はい」
「白い服だった」
「はい」
「いつも、ごめんね、と言った」
玲奈はうなずいた。
「逃げろ、と言った」
「はい」
アオは、手の中の紙を見た。
「アオは、あのとき、言えなかった」
それから、ミナトを見る。
「名前」
「ん?」
「この人の名前を、書きたい」
ミナトは一瞬だけ驚いたが、すぐに自分のノートを出した。
大きく書く。
しらさき れな
「漢字はまだ難しいから、今日はこっちでいい」
アオはうなずいた。
折っていた紙を開く。
すでに書かれている、
ありがとう
その下に、ゆっくりとマジックを走らせた。
水かきのある手では、細かな線がまだ難しい。
一文字ずつ。
何度も手本を見る。
そして、
しらさき れな
と書いた。
アオは紙を見る。
それから玲奈へ差し出した。
「これ」
玲奈は両手で受け取った。
紙を開く。
歪んだ「ありがとう」。
その下にある、不格好な自分の名前。
玲奈はしばらく動かなかった。
やがて、頬を一筋だけ涙が落ちた。
折り目のついた紙を、そっと両手で持つ。
歪んだ文字には、触れなかった。
「……私が、もらっていいんですか」
「アオは、そのために来た」
玲奈が紙を見る。
「ありがとうを、渡しに来た」
もう一筋、涙が落ちた。
アオの爪が、開いたり、引っ込んだりした。
「ミナト」
「何」
「泣いている」
「うん」
「悲しいのか」
「たぶん、違う」
「難しい」
「かなり難しい」
玲奈は小さく首を振った。
「私が、言われていい言葉じゃないと思っていました」
「違う」
玲奈がアオを見る。
「アオは、今、生きている」
ゆっくりと続ける。
「川に戻った」
「……はい」
「ミナトに会った」
玲奈がミナトを見る。
「里の人間にも会った」
「はい」
「魚肉ソーセージも食べた」
ミナトは一瞬だけ目を閉じた。
玲奈の口元が、ほんの少し緩んだ。
「魚肉ソーセージ……」
「好きなんです。異常に」
「異常ではない」
「今だけ黙ってろ」
玲奈は紙を見た。
アオが言う。
「あの日、逃げなければ、なかった」
玲奈は、静かにうなずいた。
「……ありがとう」
アオのエラ蓋が、小さく動いた。
*
三人は少し離れて川辺に座った。
玲奈はアオとの距離を詰めようとしなかった。
アオも、自分から近づかなかった。
「白崎さんは、今は?」
ミナトが聞く。
「水辺の環境調査に関わる仕事をしています」
「研究施設には?」
「戻っていません」
玲奈は川を見る。
「研究そのものが嫌いになったわけではありません。でも、あの場所には戻れませんでした」
少し間を置く。
「あの夜、彼を逃がしたことは規律違反でした」
アオが玲奈を見る。
「でも」
玲奈は続けた。
「もう一度同じ夜に戻っても、たぶん同じことをします」
アオは何も言わなかった。
「人間は、怖い」
「はい」
「今も怖い」
「はい」
「白い光も、薬の匂いも、注射も怖い」
「……はい」
「でも、ミナトは怖くない」
「お、おう」
「辰蔵も、怖くない」
「うん」
「子どもは騒がしい。でも、怖くない」
玲奈は静かに聞いている。
アオの爪が、少し開いた。
「白崎玲奈は」
玲奈の肩がわずかに固くなる。
「まだ、少し怖い」
玲奈はうなずいた。
「はい」
「でも」
アオは、玲奈が持つ紙を見る。
「ありがとうの人間だ」
玲奈は目を閉じた。
頬をまた一筋、涙が伝った。
アオがミナトを見る。
「また泣いた」
「今日はしゃあない」
「人間は、水分が多い」
「……言い方」
*
帰る前。
玲奈は一つの封筒をミナトへ渡した。
「彼の体について、私が覚えている範囲でまとめました」
「体調管理ですか」
「はい。乾燥したときの対処や、食事、水の状態についてです」
ミナトは受け取った。
「ありがとうございます」
「ただ」
玲奈はアオを見た。
「彼を管理するためには使わないでください」
「分かってます」
「彼が自由に生きるための助けにしてください」
「はい」
アオは玲奈を見る。
「しらさきれな」
玲奈が一瞬、動きを止めた。
アオが初めて、彼女の名前を呼んだ。
「はい」
「また会ってもよいか」
「……もちろん」
「次も、白い服ではない」
玲奈の口元が、少し緩んだ。
「着ません」
「強い光も、いらない」
「使いません」
「注射も」
「持ってきません」
「なら、よい」
ミナトが笑った。
「条件多いな」
「大事だ」
「そうだな」
玲奈は、両手に持った紙を見た。
「これは、大切にします」
「宝か」
「はい」
玲奈はうなずいた。
「宝です」
アオの爪が、少し開いて、また引っ込んだ。
*
帰り道。
アオは、いつもより静かだった。
ミナトも、しばらく何も聞かなかった。
秋の日は短い。
川沿いの道には、もう夕方の影が伸び始めている。
「ミナト」
「何」
「ありがとうを、渡した」
「うん」
「でも、まだ胸が痛い」
「そっか」
「なぜ」
ミナトは少し考えた。
「今日だけで、全部は終わらないもんな」
「終わらない」
「うん」
アオはしばらく歩いた。
「難しい」
「そうだな」
「でも」
少し間がある。
「前より、少し軽い」
「なら、今日はそれでいいよ」
アオはうなずいた。
しばらくして、
「白崎玲奈は、泣いた」
「泣いてたな」
「ミナトも、少し目が水だった」
「夕日が……まぶしかったから」
「まだ夕日は出ていなかった」
「お前、こういうときの言い方、うまくなったな」
*
古民家に戻ると、辰蔵が待っていた。
「どうじゃった」
アオは少し考えた。
「ありがとう、を渡した」
「そうか」
「白崎玲奈に」
辰蔵がうなずく。
「名前も分かったか」
「分かった」
アオは土間へ上がると、机の上に紙を出した。
「また勉強?」
ミナトが聞く。
「名前」
ミナトが、新しい紙に手本を書く。
しらさき れな
アオも、その下へ書いた。
しらさき れな
少し歪んだ。
二度目は、一文字が大きくなった。
三度目は「れ」と「な」の間が広く空いた。
それでもアオは、何度も書いた。
「そんなに練習するの?」
「する」
「なんで」
アオは紙を見た。
「忘れない」
ミナトは、それ以上何も言わなかった。
その夜、アオは久しぶりに深く眠った。
古民家の外では、佐辺川が静かに流れていた。




