第12話 落雷の夜
その日は、朝から空が重かった。
山の上には黒い雲が覆いかぶさり、風は湿っている。
佐辺川の水も、いつもより淀み、濁っていた。
古民家では、朝からミナトが動き回っていた。気づけばもう夕暮れどきだ。
土間と寝所のすきま風を塞ぐ。
古い毛布を日に当てる。
湯たんぽを出す。
乾燥しすぎないよう、洗った布を室内に掛ける。
アオと過ごす初めての冬だった。
寒さには強いのか。
乾燥が、どれほど身体に響くのか。
人間のように風邪をひくのか。
何も分からない。
白崎玲奈からもらった資料も、夜遅くまで読み返した。
昨夜、何時に眠ったのかも覚えていない。
ミナトはまた、こめかみを押さえた。
「ミナト」
「何」
土間の板敷きで、アオがスーパーのチラシを広げていた。
「魚肉ソーセージが安い」
「……またか」
「特売」
「主婦みたいだな、お前」
ミナトは毛布を畳みながら答えた。
アオは気にする様子もなく、チラシへ目を戻す。
最近は、読める文字も増えた。
魚。
肉。
川。
家。
人。
絆。
そして、特売。
「ミナト」
「今度は何」
「これなら、一人でも分かる」
ミナトの手が止まった。
「何が?」
「特売」
「……ああ」
「店も分かる」
「そうだな」
「アオでも買える」
アオの背びれの上部が、ぴくりと立った。
「できることが増えた」
「……そっか」
普段なら、ミナトも笑ったはずだった。
成長したな、と。
けれど、その日は違った。
朝から何時間も、アオが冬を無事に越せるように動き回っている。
気温。
乾燥。
食事。
風邪予防。
考えているのは、ずっとアオのことだった。
なのに本人は、魚肉ソーセージの特売を見ながら、
一人でもできる。
そう言っている。
「便利になったな」
ミナトが言った。
「うん」
「オレがいなくても平気そうだな」
アオがチラシから目を上げた。
「何が」
「何でもない」
ミナトは毛布を抱えて立ち上がる。
「ミナト」
「だから何でもないって」
「怒っている」
「怒ってない」
「声が違う」
「……分かるんじゃん」
アオの爪が、開いて、閉じた。
「何が嫌だった」
ミナトは返事をしなかった。
外で、遠く雷が鳴った。
アオの背びれが、わずかに伏せる。
「寒くないか」
「寒くない」
「乾燥してないか」
「していない」
「昨日、川に何時間いた?」
「分からない」
「食事は?」
「食べた」
「何を」
「魚」
「それだけ?」
「うん」
ミナトは、大きく息を吐いた。
「なあ。ちょっとは自分でも気にしてくれよ」
「気にしている」
「ほんとか?」
「本当だ」
「オレ、ずっとお前のこと考えてんだぞ」
アオは黙った。
「寒くないか、乾いてないか、ちゃんと食ってるか、具合悪くないか。玲奈さんの資料だって毎晩読んでる」
「ミナト」
「何」
「アオは頼んでいない」
ミナトの手が止まった。
雨が、ぽつぽつと屋根を叩き始めた。
「……そうだよな」
「ミナトが疲れるなら、しなくていい」
「は?」
「アオはできることが増えた」
「だから?」
「ミナトが全部しなくてもいい」
本当は、気遣いだった。
ミナトが苦しいなら、無理をしなくていい。
ただ、それだけだった。
でも、その日のミナトには、そう聞こえなかった。
「じゃあ、オレ、いらないじゃん」
「ミナトは、いる」
「一人でできるんだろ」
「できることが増えた、と言った」
「頼んでないんだろ」
「頼んでいない」
「じゃあ何でオレ、こんな必死になってんだよ」
アオの鱗が、少し立った。
「分からない」
「……分からない?」
「ミナトが、なぜ怒っているか」
その一言で、ミナトの中の何かが切れた。
「分からないよな」
「ミナト」
「お前には、人の気持ちなんか分からないんだよな」
いらだちを含んだ大きな声が出た。
アオのエラ蓋が速くなる。
「その声は、嫌だ」
「オレだって嫌だよ」
ミナトは止まれなかった。
「誰が毎日お前のこと考えてると思ってるんだ。誰が心配して、誰が何とかしようとしてると思ってるんだ」
「アオも、ミナトのことを考える」
「本当かよ」
「本当だ」
「だったら、もうちょっと分かれよ!」
「何を」
「そういうところだよ!」
雨脚が強くなる。
遠くで雷が鳴った。
アオの背びれがさらに伏せる。
「そういうところ、が分からない」
その言葉で、ミナトのストッパーが外れた。
「……そっか」
声が低くなる。
「お前は人じゃないからな」
アオの動きが止まった。
「人には、なれないもんな」
雨音だけが残った。
ミナトは、自分が何を言ったのか、すぐに分かった。
「アオ、今のは――」
「そうだ」
アオの声は低かった。
「アオは、人ではない」
背びれが、ゆっくり伏せる。
爪が開いたまま、止まっていた。
エラ蓋だけが、速く動く。
「人には、なれない」
「違う、そういう意味じゃ――」
「でも、ミナトのそばにいた」
「アオ」
「家にいた」
雷が鳴った。
今度は近かった。
白い閃光が、室内を一瞬だけ照らす。
アオの鱗が一斉に逆立った。
背びれが低く伏せる。
エラ蓋が大きく開閉する。
のどの奥から、
グッ……グッ……
と低い音が漏れた。
「アオ、大丈夫だ」
ミナトが一歩近づく。
「来るな」
アオの腕が上がった。
鋭い爪が、ミナトのほうへ向いた。
振り下ろしてはいない。
ただ、向けただけだった。
それでも、ミナトの息が止まった。
アオも、自分の手を見た。
開いた爪。
ミナトへ向いた腕。
爪が、一本ずつ引っ込んでいく。
「……違う」
アオが一歩下がった。
「アオは――」
ミナトの胸に、恐怖と罪悪感が一気に押し寄せた。
それでも、口から出た言葉は最悪だった。
「……出ていけよ」
アオが動きを止めた。
「お前と一緒になんか……いられない」
言った瞬間、後悔した。
でも、もう戻らない。
アオは何も言わなかった。
戸を開ける。
「アオ!」
呼び止めるより早く、アオは大雨の中へ飛び出していった。
戸が閉まった。
古民家には、雨音と雷だけが残った。
*
ミナトは、しばらくその場から動けなかった。
「……なんで」
声に出した。
土間には、何枚もの白い紙が散らばっていた。
ありがとう
魚
絆
ミナトは、一枚を拾い上げた。
み な と
たどたどしい文字だった。
ひらがなの丸みを帯びた部分が、まだ少し角ばっている。
文字と文字の間隔もばらばらだ。
その下に、
あ りが と う、み なと
と書いてある。
アオは、これをいつ書いたのだろう。
「……あいつ、ちゃんと、言ってくれてたんだな……」
ミナトは土間の上り框に座ったまま、外を見た。
降り止まない、冷たい冬の雨。
雷が鳴っている。
白い光が、障子を照らす。
白崎玲奈の手紙を思い出した。
雷を怖がること。
強い白色光を嫌うこと。
落ち着ける場所をつくること。
「……何やってんだよ、オレ」
アオは今、外にいる。
雷の中に。
ミナトは立ち上がった。
懐中電灯をつかみ、戸を開ける。
風と雨が、一気に吹き込んだ。
「アオ!」
返事はない。
庭はぬかるみ、坂道には水が流れている。
ミナトは何度も足を滑らせながら、名前を呼んだ。
「アオ!」
雷が鳴る。
近い。
ミナトは川のほうへ走った。
アオが普段、よく通る場所をたどっていく。
河川敷にはいなかった。
ぬかるみに、大きな二足の足跡が残っていた。
水かきの跡まで分かる。
それは下流、新しい大橋のほうへ続いている。
ミナトは迷わず、工事現場へ向かった。
工事はまだ途中だった。
河川敷には資材が置かれ、工事柵の向こうに橋の骨組みが伸びている。
そのたもとから少し外れた場所。
小さな台座。
アオのプレート。
閃光が走った。
白い光の中で、人影が見えた。
「アオ!」
アオは、台座のそばにうずくまっていた。
大きな身体を小さく折り、腕で頭を抱えている。
鱗は逆立ち、背びれは伏せたまま。
エラ蓋が速く動く。
震える指が、金属プレートの縁に触れていた。
魚肉ソーセージを持った、少し不機嫌そうなアオ。
その小さな絵から、指を離さなかった。
「アオ!」
アオが振り向く。
「ミナト」
小さな声だった。
ミナトは斜面を下りた。
「ごめん! ……オレが……オレが……バカ、で」
雨で息が苦しい。
「あんなこと、言っちゃいけなかった。ごめん……アオ」
アオは動かない。
「お前が人かどうかなんて関係ない。オレは――」
ぬかるんだ土へ足を踏み出した。
ミナトは、川べりに自分が立っていることを忘れていた。
その瞬間。
足元が崩れた。
「あっ」
身体が傾く。
「ミナト!」
ミナトは、そのまま増水した川へ落ちた。
冷たい水が全身を包む。
上下が分からない。
息ができない。
手を伸ばしても、何もつかめない。
濁った水の中で、何かが動いた。
強い腕が、ミナトの身体を抱えた。
アオだった。
迷いはなかった。
片腕でミナトの胸を支え、もう片方の手で川底を探る。
雷が鳴る。
それでも、離さない。
ミナトの顔が水面へ出た。
「げほっ、はっ……!」
「息をしろ」
アオの声。
「暴れるな。沈む」
初めて会ったときと同じ言葉だった。
ミナトは咳き込みながら、アオの腕につかまった。
アオは流れを避け、浅い岸辺までミナトを引き上げた。
二人は、その場に座り込んだ。
雨はまだ降っている。
雷も、遠くで鳴っている。
*
しばらく、どちらも何も言わなかった。
アオのエラ蓋はまだ速く動いている。
雷が鳴るたび、鱗が小さく立つ。
それでも、アオはミナトのそばにいた。
「ミナトは、よく川に落ちる」
低い声だった。
「……うん」
「水に落ちるな」
「ごめん」
「足元を見ろ」
「ごめん」
「雨の日は、川に近づくな」
「……そうだな」
ミナトは額にはりつく髪をぬぐった。
「アオ……ごめん……ごめん……」
アオは黙っている。
「最低なこと言った」
「痛かった」
「うん」
「人じゃない、と言った」
「うん」
「家にいたのに」
ミナトののどが詰まった。
「ごめん」
アオの爪が、開いた。
また引っ込む。
「アオも、爪を向けた」
「オレは、気にしてない」
「ミナトを傷つけようとした」
「でも、傷つけてない」
「でも、向けた」
「オレも、ひどい言葉を向けた」
二人は黙った。
川の音が大きい。
雨が、プレートの金属面を細かく叩いている。
「アオ」
「何」
「オレ、魚肉ソーセージに嫉妬したのかな」
アオがミナトを見る。
「しっと」
「オレよりも、魚肉ソーセージのほうが大事なのかな……って」
「魚肉ソーセージに」
「うん」
「ミナトは、弱い」
「今それ言う?」
「でも、少し分かる」
「何が」
アオはしばらく考えた。
「ミナトは、アオに必要と言われたかったのか」
ミナトは答えられなかった。
「魚肉ソーセージは、一人でも食べられる」
「……うん」
「でも」
アオは、少し間を置いた。
「一人で食べる魚肉ソーセージは、ただうまい」
ミナトが見る。
「ミナトと食べると、二人の味がする」
ミナトは顔を覆った。
「それを先に言えよ……」
「難しい」
「難しいな」
「でも、覚える」
ミナトはうなずいた。
「オレも覚える。ひどい言葉で怒らない」
アオが見る。
「アオも、爪を向けない」
「うん」
「怖くなったら、言う」
「何て?」
雷が遠くで鳴った。
アオの背びれが少し伏せる。
「雷が怖い」
ミナトは小さく息を吐いた。
「うん。そう言ってくれ」
アオの爪が、開いて、閉じる。
「今も、怖い」
「そっか」
ミナトは、アオの隣へ少し近づいた。
触れない。
でも、離れない。
「オレ、ここにいる」
「出ていけと言った」
「取り消す」
「言葉は、戻るのか」
「戻らない」
ミナトは答えた。
「でも、謝れる。もう一回、選び直せる」
「選び直す」
「うん」
ミナトはアオを見る。
「ここにいてくれ」
アオは黙った。
「オレといてくれ」
遠くで雷が鳴る。
さっきより、少し小さい。
「ミナト」
「何」
「アオは、人ではない」
「うん」
「でも、ミナトのそばにいたい」
「うん」
「人になれなくても、よいか」
「いい」
「アオのままで」
「アオのままでいい」
エラ蓋が、ゆっくり動いた。
「なら、いる」
ミナトは笑った。
「ありがとう」
「今日は、ミナトの目が水だ」
「うるさい」
*
しばらくして、ミナトは上着のポケットを探った。
「あ」
「何」
「これ」
取り出したのは、一本の魚肉ソーセージだった。
包装は濡れている。
中身は無事だった。
アオの背びれの上部が、ぴくりと立った。
「なぜ持っている」
「お前を探しに出るとき、なんとなく」
「なんとなく」
「お守りみたいなもん」
ミナトは包装をむいた。
「今日は、一本全部食えよ」
「半分ではない」
「うん」
「ミナトは」
「今日はお前が食え」
アオは受け取らない。
「半分がいい」
「今日はいいんだよ」
「なぜ」
ミナトは魚肉ソーセージを見る。
「最初に会った日も、一本全部お前が食っただろ」
「腹が減っていた」
「知ってる」
「うまかった」
「うん」
ミナトは少し笑う。
「あの一本から、なんだかんだ始まったんだよな」
アオはしばらく魚肉ソーセージを見る。
「今日は、何の味だ」
「仲直りの味」
「なかなおり」
「ケンカして、傷つけ合って、それでも戻ってくること」
「難しい」
「でも大事」
アオはうなずいた。
「大事」
魚肉ソーセージを受け取る。
今日は、半分には折らなかった。
一口。
二口。
食べ終える。
「うまい」
「よかった」
「でも」
「何」
「次は、半分がいい」
ミナトは笑った。
「うん。次は半分な」
*
雨は、少しずつ弱まっていった。
雷も遠ざかっている。
二人はしばらく、河川敷に並んで座っていた。
アオは、小さなプレートを見る。
「さっき、これを見ていた」
「うん」
「雷が怖かった」
「うん」
「でも、これを見ると、里にいる気がした」
ミナトは黙って聞いた。
「ミナトに出ていけと言われた」
「……ごめん」
「もう聞いた」
「でも言わせて」
「何度も、いらない」
アオはプレートを指でなぞる。
「でも、このアオは、ここにいた」
ミナトは何も言えなかった。
しばらくして、アオが聞く。
「仲直りも、絆か」
「うん」
ミナトは少し考えた。
「たぶん……いや、そのとおり、かな」
「なかなおり。きずな」
アオは、その言葉を覚えるように繰り返した。
雲の切れ間から、一つだけ星が見えた。
「帰ろうか」
ミナトが言った。
アオは立ち上がる。
「家に」
「うん。家に」
歩き出す前に、アオはプレートを一度振り返った。
「また来る」
「どこに?」
「ここにいるアオ」
ミナトは少し笑った。
二人は、古民家へ向かって歩き出した。




