第13話 アオの誕生日
佐辺川沿いの桜は、ちょっとした観光スポットだ。
桜の時期、アオは観光客を避け、日中の川にはほとんど出られなかった。
佐辺の里山は、初夏の緑に包まれ始めている。
川辺には小さな虫が飛び、畑には夏野菜の苗が並んでいた。
アオが川にいられる時間も、少しずつ長くなっていた。
水も、冬ほど冷たくない。
「アオ先生ーっ!」
河川敷から子どもの声が飛ぶ。
川の中から、長い腕が一本だけ上がった。
「今日はスルメあるで!」
今度は畑のおばあさんだった。
アオは水から顔だけを出した。
「あとで行く」
「ちゃんと来るんやで!」
建設中の大橋を見上げた消防団の若者が、アオに声をかける。
「あのとき、アオが頑張ってくれたおかげだな」
アオは川の中から、その男を見た。
「人間は騒がしい」
少し離れたところで、ミナトが笑った。
「人気者だからな」
「アオか」
「そう。アオが」
「まだ慣れない」
「そのままでいいんじゃない?」
少し間があいて、アオが答えた。
「人間の前で虫を食べるのはやめる」
ミナトはもう一度笑った。
*
その日の午後。
二人は古民家の縁側に並んでいた。
アオが魚肉ソーセージを半分に折る。
「半分」
「ありがと」
ミナトは受け取った。
アオと、この家で暮らし始めてから、もうすぐ一年になる。
去年の五月十五日だった。
「なあ、アオ」
「何」
「誕生日って分かる?」
「たんじょうび」
「自分が生まれた日」
「生まれた日」
「そう。その日を祝うんだ。おめでとうって言ったり、何か食べたり、プレゼント渡したり」
アオは魚肉ソーセージを食べながら考えた。
「なぜ」
「生まれてきてくれて、よかったっていう日だから」
アオの爪が、少し開いた。
「アオは、生まれた日を知らない」
「だろうな。お前が知らなきゃ、オレにも分からん」
「なら、誕生日はない」
「んー……」
ミナトはアオを見た。
ふと、思いついた。
「まあ、そのうち考えよう」
「今ではないのか」
「今じゃない」
アオの爪が、開いて、閉じた。
「ミナトは、何か考えている」
「考えてない」
「考えている」
「なんで分かるんだよ」
「特売を見つけたときのアオに似ている」
「それはお前だろ」
ミナトは笑ってごまかした。
*
その日の夕方。
ミナトは辰蔵の家へ行った。
「誕生日を作る?」
辰蔵は縁側で茶をすすりながら、ミナトの話を聞いていた。
「はい。アオ、自分の誕生日を知らないんです」
「まあ、そうじゃろうな」
「だから、一緒に暮らし始めた日を誕生日にしようと思って」
辰蔵は湯呑みを置いた。
「ええ日じゃ」
「大げさじゃなくていいんです。ちょっとだけ、みんなで祝えたら」
辰蔵がミナトを見る。
「本人には内緒で?」
「できれば」
辰蔵は、にやりと笑った。
「面白い」
そこへ話を聞いたさとるも加わった。
「で、どうやって連れてくる?」
「普通に来てって言ったら怪しむと思います」
「アオ、変なところで勘が鋭いからな」
三人は少し黙った。
やがて、さとるが言った。
「魚肉ソーセージ」
ミナトも言った。
「魚肉ソーセージですね」
辰蔵がうなずいた。
「魚肉ソーセージじゃな」
三人の意見は、すぐに一致した。
*
数日後。
辰蔵の家には、ミナトとさとるが集まっていた。
さとるは腕を組んで、紙を前にしている。
「つまり、アオに内緒で公民館に連れてきて、みんなで祝うわけやな」
「そうです。大げさじゃなくていいんですけど」
「料理は?」
「おばあさんたちが手伝ってくれるそうです」
「飾りは?」
「子どもたちと、小学校の先生にお願いできれば」
「よし」
さとるは紙を引き寄せた。
「作戦名は?」
「作戦名いるんですか」
「いる。気合いが違う」
辰蔵が茶をすすりながら言った。
「魚肉ソーセージ大作戦でええじゃろ」
「そのまますぎます」
さとるは少し考えた。
「アオ極秘誘導作戦」
「急に物々しいな」
三人の間に、少し笑いが起きた。
「アオを連れ出す算段は」
さとるが紙に書く。
魚肉ソーセージ無料配布会
午後二時 公民館
お一人様 たくさんまで
「……最後、何ですか」
「分かりやすいやろ」
「お一人様一袋、とかじゃないんですか」
「それではアオが来んかもしれん」
「……あっけなく来るでしょうね。一袋でも、たくさん、でも。」
「絶対?」
「……来ますね」
悔しいが、来る。
「これ、偽チラシですよ」
「アオを喜ばせるための善意の偽造や」
「言い方で罪が軽くなると思わないでください」
辰蔵が言った。
「魚肉ソーセージは、本当に配るんじゃろ?」
「配ります」
「なら嘘ではない」
ミナトは額を押さえた。
「この里、魚肉ソーセージが絡むと急に理屈が雑になるな……」
*
準備は、思ったより早く進んだ。
公民館を使わせてもらえることになり、子どもたちは飾りや絵を作ることになった。
「アオ先生の誕生日!」
「魚の絵、描く!」
「魚肉ソーセージも描く!」
「それ絶対いるの?」
「いる!」
ミナトは押し切られた。
おばあさんたちは、料理の相談を始めた。
「握り飯はいるじゃろ」
「煮物もいるな」
「焼き魚も出そう」
「スルメ忘れたらいかんで」
「魚肉ソーセージは?」
「箱で買う」
ミナトが振り向いた。
「箱?」
「誕生日じゃろ」
「いや、まあ……そうですけど」
「足らんか?」
「多いくらいです」
さとるは、その横で人数を数えたり、机の配置を考えたりしていた。
準備の話が一段落してから、ミナトはもう一人、呼びたい人に連絡を入れた。
白崎玲奈。
返信はすぐに来た。
ぜひ参加させてください。
白い服は避けます。
魚肉ソーセージ以外にも、アオが食べやすそうなものを少し持っていきます。
最後に、もう一文あった。
彼が祝われる日を迎えられることが、本当にうれしいです。
ミナトは、その一文をしばらく見つめていた。
*
五月十五日。
朝。
ミナトは何気ない顔で、例のチラシを机の上に置いた。あくまでも、さりげなく。
アオはすぐに見つけた。
「ミナト」
「何」
「これ」
「ん?」
「魚肉ソーセージ」
「ああ」
アオは両手で紙を持った。
「魚、肉、ソーセージ」
指が文字を追う。
「この字は?」
「無料」
「むりょう」
「お金を払わなくても、もらえるって意味」
アオのエラ蓋が、ぱたぱたと動いた。
「無料は、ただ」
「うん」
「強い言葉だ」
「何が」
「強すぎる」
「日本人、だいたい弱いからな、それ」
「行く」
「まだ朝だぞ」
「何時」
「二時」
アオは紙を見る。
「遅い」
「普通だよ」
「無料は、なくなる」
「なくならない」
「なぜ分かる」
「……たぶん」
アオはチラシを手放さなかった。
*
午後二時。
公民館の広間は、妙に静かだった。
正確には、静かにしようとしていた。
辰蔵。
さとる。
近所のおばあさんたち。
子どもたちが数人。
その手伝いに来た小学校の先生。
そして、白崎玲奈。
みんな、戸口のほうを気にしながら声を潜めている。
壁には、子どもたちが作った色紙の飾りが貼られていた。
アオ たんじょうび おめでとう
いつもありがとう
魚肉ソーセージはここです
「最後のやつ、絶対いる?」
ミナトが聞くと、子どもが胸を張った。
「いる!」
「そっか」
長机の上には、おにぎり、焼き魚、煮物。
柑橘、りんご、バナナ。
スルメ。
そして、魚肉ソーセージ。
白や茶色の料理の間に、橙、赤、黄色が並んでいる。
玲奈は、小さな包みを膝の上に置いていた。
さとるが戸口をのぞく。
「来たぞ」
外から足音が近づいた。
「ミナト」
「何」
「魚肉ソーセージの匂いがする」
広間の中で、子どもたちが笑いをこらえる。
「鼻いいな、お前」
戸が開いた。
アオが中へ入る。
一歩。
そこで止まった。
琥珀色の目が大きく開く。
鱗がわずかに立ち、爪が開いて、また引っ込む。
ミナトはすぐ横に立った。
「大丈夫。知ってる人ばっかりだから」
アオはゆっくり広間を見渡した。
辰蔵。
さとる。
子どもたち。
おばあさんたち。
小学校の先生。
少し離れたところに、玲奈もいる。
誰かが小さく息を吸った。
それから、
「アオ、誕生日おめでとう!」
声が重なった。
アオのエラ蓋が、忙しく動いた。
「……これは」
「誕生日パーティー」
ミナトが言った。
「今日?」
「今日」
「アオの誕生日を決めた?」
「そう」
「もう祝うのか」
「もう祝う」
「人間は早い」
「今日はそういう日ってことで」
子どもたちが待ちきれずに近づいてきた。
「アオ先生、おめでとう!」
「絵描いた!」
「これアオ!」
「これは魚!」
「これ、魚肉ソーセージ!」
「最後のだけ妙に上手いな」
ミナトが言う。
アオは渡された紙を一枚ずつ見た。
爪が、開いて、閉じる。
「多い」
「嫌?」
「……分からない」
「そっか」
アオはもう一度、絵を見る。
「でも、置いていくな」
「ちゃんと持って帰るよ」
「全部」
「全部な」
その返事を聞いて、エラ蓋がまた少し動いた。
辰蔵が前へ出た。
「アオ」
「何」
「今日は、あんたがここにいてくれることを、みんなで祝う日じゃ」
「いるだけだ」
「それでええんじゃ」
アオは黙った。
今度は、さとるが箱を持ってきた。
「そして、これ」
ふたを開ける。
魚肉ソーセージがぎっしり詰まっていた。
アオの背びれの上部が、ぴくりと立つ。
「群れ」
「群れじゃない。贈り物や」
「全部、アオのか」
「そう」
「正しく得た?」
「ちゃんと買った」
「特売?」
さとるが胸を張った。
「もちろん特売や」
アオは深くうなずいた。
「赤木さとるは、仕事ができる」
「そこなんやな」
広間に笑いが広がった。
*
料理を囲むと、アオは長机の上を見回した。
「これは、全部アオのか」
「みんなで食べるんだよ」
ミナトが答えた。
「みんなも誕生日か」
「いや、そうじゃないけど……アオの誕生日を、みんなで食べて祝うんだ」
「祝うとは、食べ物を集めることか」
「それもある」
「よい仕組みだ」
「そこだけ理解早いな」
玲奈は、少し離れたところに立っていた。
白い服ではない。
アオが彼女に気づく。
「白崎玲奈」
「こんにちは、アオ」
「来たのか」
「来ました」
玲奈は小さな包みを差し出した。
「これ、よかったら」
「何」
「魚と野菜で作った、やわらかい団子です」
アオが受け取る。
「注射ではない」
「違います」
「白い光も出ない」
「出ません」
「なら、食べる」
ひと口。
アオはゆっくり噛んだ。
「うまい」
玲奈の視線が、一瞬だけ下がった。
「……よかった」
「魚肉ソーセージとは違う」
「それは、そうですね」
「体によい味がする」
ミナトが吹き出した。
「分かるのかよ」
「分かる」
「たぶん雰囲気だろ」
玲奈は小さく笑った。
*
それからは、みんなで食べた。
辰蔵が昔の川の話をし、おばあさんたちは料理が減るたびに皿をアオのほうへ寄せた。
「もっと食べなさい」
「食べている」
「まだあるで」
「多い」
「誕生日じゃから」
理由になっているのか、アオにはよく分からなかった。
水かきのついた手で、焼き魚も、煮物も、りんごも、包み込むように持ち、アオは次々と口に運ぶ。
「全部うまい」
アオの言葉に、辰蔵もおばあさんたちも、目を細めた。
さとるは魚肉ソーセージを一本多く取って、すぐに見つかった。
「赤木さとる」
「何や」
「それは二本目だ」
「よう見とるな……」
子どもたちはアオの隣に座って、川で見つけた生き物の話をした。
「この前の石の下におったやつ、何?」
「カワゲラ」
「食べられる?」
アオが聞く。
「そこ聞くの!?」
「食べられる」
「食べたことあるの!?」
「よくある」
子どもたちがいっせいに騒いだ。
少し離れたところで、ミナトが笑っている。
アオは、朝の自分の言葉を思い出したのかどうか。
それ以上、カワゲラの食べ方については話さなかった。
*
食事が一段落すると、子どもたちがアオの前に並んだ。
一人が、少し緊張しながら紙を持つ。
「アオ先生へ。川で遊ぶとき、危ないところを教えてくれてありがとう。魚を見せてくれてありがとう」
別の子が続けた。
「背びれをさわらせてくれなくても、アオ先生が好きです」
「背びれは、だめだ」
「分かってる!」
広間に笑いが起きる。
もう一人の子が言った。
「雷が鳴ったら、ぼくも怖いから、今度一緒に隠れようね」
アオの爪が、開いて、閉じた。
ミナトは何も言わなかった。
最後に、子どもたちが一枚の大きな紙を持ち上げた。
中央に、太い字で書かれている。
アオ うまれてきてくれて ありがとう
周りには、小さな絵がたくさん描かれていた。
魚。
川。
山。
魚肉ソーセージ。
水かきのついた長い手。
アオは動かなかった。
ただ、紙を見ている。
「読める?」
子どもが聞いた。
アオの指が、文字を追った。
「アオ」
「うん」
「うまれてきてくれて」
少し時間がかかる。
「ありがとう」
「そう!」
アオは黙った。
爪が、ゆっくり開く。
また閉じる。
「これは」
「うん」
ミナトが待つ。
「嬉しい、か」
ミナトはすぐには答えなかった。
「たぶんな」
「たぶん」
「今、アオが、ここに来てよかった、と思ってんのなら、それが、嬉しいっていう気持ち」
アオはもう一度、カードを見た。
*
しばらくして、さとるがアオを見る。
「最後に、主役からひと言」
「ひとこと」
「何か言うんや」
「何を」
「何でもええ」
「何でもは、難しい」
広間に少し笑いが起きた。
アオは、しばらく黙った。
「今日は、食べ物が多い」
「うん」
「人間も多い」
「うん」
「声も多い」
今度は、おばあさんたちが笑った。
アオの爪が、開いて、閉じる。
「でも」
少し間があった。
「嫌ではない」
ミナトが笑った。
「それ、かなり褒めてる?」
「たぶん」
アオは子どもたちのカードを見る。
「これは、食べられない」
「うん」
「でも、大切だ」
ミナトは少し待ってから答えた。
「うん。食べ物でなくても、大切なものって、あるだろ?」
アオはもう一度、カードを見る。
「なら」
エラ蓋が、ぱたぱたと動いた。
「今日は、嬉しい。大切なものも得た」
広間が少しだけ静かになった。
そのとき、アオののどの奥で、
ギュルギュル……
と小さな音が漏れた。
アオはすぐに口を閉じた。
ミナトは、アオが満ち足りたときに漏らす、その音に気づいた。
けれど、何も言わなかった。
*
帰り道。
空はすっかり暗くなっていた。
田のほうから蛙の声が聞こえる。
アオは、魚肉ソーセージの箱を抱えて歩いていた。
その上には、子どもたちの絵と誕生日のカードが載っている。
「重くない? 持ってやろうか」
「重くない。自分で持つ」
「ほんとか」
「魚肉ソーセージは、これくらい持てる」
「カードの心配しろよ」
「している」
古民家へ戻ると、アオはもらったものを土間の板敷きに並べた。
一枚ずつ。
向きを揃えて。
「宝、増えたな」
ミナトが言った。
「増えた」
土間の隅には、ふたのない小さな菓子箱が置いてある。
アオの宝箱だ。
魚肉ソーセージの包装袋。
特売のチラシ。
文字を書いた紙。
そこへ今日、子どもたちの絵が加わった。
アオは最後に、誕生日のカードを手に取った。
アオ うまれてきてくれて ありがとう
しばらく見つめてから、ほかの宝物と一緒に、そっと箱へ入れた。
「ミナト」
「何」
「アオは、生まれた日を知らない」
「うん」
「でも、今日、誕生日ができた」
「うん」
「五月十五日」
「そう」
「覚える」
ミナトは笑った。
「来年もやる?」
「またか」
「誕生日って毎年来るんだよ」
アオは少し考える。
「毎年、魚肉ソーセージがもらえるか」
「そこは保証しない」
「大切」
「そこじゃない」
少し間があった。
「ミナト」
「何」
「ミナトの誕生日は、いつ」
「なんで」
「祝う」
ミナトがアオを見る。
「オレのも?」
「ミナトも、生まれた」
「まあな」
「なら、祝う」
「そっか」
「ミナトが生まれていなければ、アオは魚肉ソーセージをもらえなかった」
「理由そこかよ」
「ミナトにも、会えなかった」
ミナトは言葉を止めた。
「……そっちを先に言え」
「順番が難しい」
「ほんとにな」
アオは箱から魚肉ソーセージを一本取り出した。
いつものように半分に折る。
「ミナト」
「ん?」
「半分」
差し出された片方を、ミナトは受け取った。
「今日くらい一本食えばいいのに」
「今日は、半分がいい」
「なんで?」
アオは少し黙った。
「一人で食べると、ただうまい」
ミナトの手が止まる。
あの雨の夜、川辺で聞いた言葉だった。
「ミナトと食べると」
アオは続けた。
「二人の味がする」
「……そっか」
二人は、土間の板敷きに並んで座った。
魚肉ソーセージを食べる。
そのそばには、少しだけいっぱいになった宝箱がある。
しばらくして、アオが言った。
「五月十五日」
「うん」
「忘れない」
ミナトは魚肉ソーセージをかじった。
「オレも」
古民家の外では、佐辺川が静かに流れていた。




