第14話 赤と白
赤木さとるは、困っていた。
消防団の若手として、里の行事や防災訓練ではたいてい先頭に立つ。
声は大きい。
段取りも早い。
誰かが困っていれば、考えるより先に身体が動く。
そんな男が、ここ数日、まったく動けずにいた。
理由は一つ。
白崎玲奈だった。
アオの誕生日会の日。
公民館の広間で、少し離れたところにいた女性。
派手に話すわけでもない。
人の輪の中心に出てくるわけでもない。
アオに料理を渡すときも、急に近づかなかった。
話しかける声も静かだった。
アオが一口食べて「うまい」と言ったとき、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
その様子が、なぜか頭から離れない。
朝、消防団の倉庫を開けるときも。
昼、畑道を歩くときも。
夜、風呂で頭を洗うときも。
白崎玲奈のことを考えていた。
「……これは、まずい」
さとるは消防団の詰所で、一人腕を組んだ。
「完全に、好きだ」
独り言にしては、声が大きかった。
外から後輩の団員が顔を出す。
「さとるさん、何が好きなんすか?」
「……ホースの巻き方だ」
「急に消防愛すごいっすね」
「うるさい。訓練するぞ」
さとるは立ち上がった。
だが、胸の奥のもどかしさは消えなかった。
*
その日の夕方。
さとるは、ミナトとアオの暮らす古民家を訪ねた。
「ミナトくん、いるか!」
土間の板敷きでチラシを見ていたアオが顔を上げる。
「声が大きい」
「すまん!」
「さらに大きい」
奥からミナトが出てきた。
「さとるさん、どうしました?」
「聞きたいことがある」
いつになく真剣だった。
「何ですか」
「白崎玲奈さんって、どういう人なんだ」
ミナトは一瞬止まった。
それから、
「……ああ」
「その『ああ』は何だ」
「いや……なるほどな、と思って」
「何がなるほどなんだ」
横からアオが言った。
「赤木さとるは、白崎玲奈の前だけ声が小さかった」
さとるが固まった。
「アオ、それ今言わなくていい」
「なぜ」
「恥ずかしいからだ」
「恥ずかしい」
アオの爪が、開いて、閉じる。
「白崎玲奈の前では、声を小さくすると恥ずかしいのか」
「そういう意味じゃない」
ミナトは笑いをこらえていた。
「たぶん、さとるさん、白崎さんのこと気になってるんだよ」
「気になる」
「好き、に近い」
アオは少し考えた。
「魚肉ソーセージが好き、とは違う」
「かなり違う」
「難しい」
「人間関係の難しい分野だな」
「ミナトくん、説明はいい」
さとるは耳まで赤くなっていた。
「白崎さんのことを教えてくれ」
ミナトは笑うのをやめた。
「昔、アオが研究施設にいたとき、逃がしてくれた人です」
さとるの顔つきが変わった。
「あの人が?」
「はい」
さとるはアオを見る。
アオはしばらく黙っていた。
「白崎玲奈は、ありがとうの人間だ」
さとるも黙った。
それだけで、十分だった。
「……そっか」
少し間を置いてから、さとるが言う。
「ますます気になってしまった」
ミナトが吹き出した。
「でしょうね」
「笑うな」
「いや、応援してますよ」
アオは二人を見た。
「これは、恥ずかしいが、よいことか」
「だいたい合ってる」
ミナトが答える。
「胸の奥が、むずむずするのか」
さとるがアオを見る。
「なんでそれを知ってる」
「赤木さとるが、そういう顔をしている」
「顔で分かるのか……」
「分かる」
さとるは両手で顔を覆った。
ミナトは肩を震わせていた。
*
数日後。
ミナトは玲奈に連絡をした。
アオのことで、会って話をしてほしい人がいる。
そう伝えた。
「赤木さとる」の名前までは書かなかった。
返信はすぐに来た。
分かりました。
その一文のあとに、
アオさんは元気ですか。
と添えられていた。
ミナトは少し笑った。
「元気です、と」
隣でアオがのぞき込む。
「誰」
「白崎さん」
「何を書く」
「元気です、って」
「本当だ」
「うん」
ミナトは送信した。
*
約束の日。
里の小さな喫茶店は、昼下がりの静かな時間を迎えていた。
古い木のテーブル。
窓辺の小さな花瓶。
カウンターの向こうから、コーヒーの香りが漂っている。
玲奈が店に入った。
奥のテーブルに座っていた男が、勢いよく立ち上がった。
「白崎さん!」
声が大きい。
店の奥で、店主が少しだけ顔を上げた。
玲奈は足を止める。
「あの……赤木さん、ですよね」
「はい。赤木さとるです」
さとるは言ったあとで、急に声を落とした。
「……アオの誕生日会に、いました」
「覚えています」
その一言で、さとるの背筋が少し伸びた。
「本当ですか」
「はい。よく通る声の方でしたから」
「……すみません」
玲奈が少し笑った。
二人は向かい合って座った。
「ミナトさんから、アオさんのことで会ってほしい人がいる、と聞きました」
「はい」
さとるは一度、膝の上で手を握った。
「オレ、アオに命を助けられてるんです」
玲奈が顔を上げる。
「去年の豪雨のときに流されて」
「……そうだったんですね」
「だから、白崎さんに一度、ちゃんとお礼を言いたくて」
「私に?」
「アオを逃がしてくれたって、ミナトくんから聞きました」
玲奈の手が、カップのそばで止まった。
さとるは続ける。
「白崎さんがあいつを逃がしてくれなかったら、今のアオはいない」
言葉を選ぶように、一度息をついた。
「オレも、たぶんここにいません」
玲奈はすぐには答えなかった。
「だから、ありがとうございます」
さとるは頭を下げた。
玲奈はしばらく彼を見ていた。
「そんなふうに言っていただけるとは、思っていませんでした」
「本当のことです」
「私は、決まりを破っただけです」
「それでもです」
さとるはすぐに答えた。
玲奈はカップへ視線を落とした。
「……ありがとうございます」
しばらくしてから、二人はアオの話をした。
最近は子どもたちに川の危ない場所を教えていること。
「あげる」と言われたスルメを、あとで必ず取りに行くこと。
魚肉ソーセージの特売だけでなく、他の文字も、以前よりたくさん読めるようになったこと。
話しているうちに、さとるの声はいつもの大きさへ戻りかけた。
玲奈が少し笑う。
「さっきより、声が戻ってきましたね」
さとるは固まった。
「……気づいてました?」
「少し」
また声が小さくなった。
玲奈は笑った。
さとるも、つられて笑った。
それから少し沈黙した。
さとるには、言いたいことがあった。
けれど、まだ言えなかった。
「あの、白崎さん」
「はい」
「また……会ってもらえませんか」
玲奈は少しだけ驚いた。
さとるは慌てて続ける。
「アオのことじゃなくても……普通に」
玲奈はしばらく黙った。
それから、
「はい」
と答えた。
その一言で、さとるの顔が一気に明るくなった。
「ありがとうございます!」
声が戻った。
店主がまた顔を上げた。
玲奈はおだやかに笑った。
*
二人が店を出ると、夕方の風が吹いていた。
しばらく並んで歩く。
さとるは、さっきより少しだけ落ち着いていた。しかし、まだ核心の言葉は玲奈に言えていない。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「また連絡してもいいですか」
「はい」
そのとき、前からミナトとアオが歩いてきた。
アオは川から上がったばかりらしく、肩から水を滴らせている。
ミナトはタオルを持っていた。
「あ」
ミナトが二人を見る。
さとるも止まる。
玲奈は少し笑った。
「アオ、ミナトさん」
アオは二人を見る。
さとる。
玲奈。
二人きり。
喫茶店の前。
少し考える。
「赤木さとる」
「何だ」
「玲奈に好きだと言ったのか」
さとるの動きが止まった。
ミナトは硬直した。
「アオ」
「何」
「それは……今言わなくていいんだって」
「なぜ」
「とにかく、しーっ!」
さとるは顔を赤くしている。
玲奈はさとるを見た。
「赤木さん」
「はい」
「今のは……」
さとるは目を閉じた。
しばらくしてから、諦めたように息を吐く。
「本当です」
玲奈は何も言わずに待った。
「誕生日会の日から、ずっと気になってました」
さとるの声は、また小さくなっていた。
「今日話して、もっと知りたいと思いました」
玲奈は少しだけ視線を下げた。
「……そうだったんですね」
「はい」
「それで、また会いたい、と」
「はい」
玲奈は少し間を置いた。
「私も、またお話ししたいです」
さとるは固まった。
「……本当に?」
「はい」
さとるは大きく息を吸った。
「ありがとうございます!」
近くの木から鳥が飛び立った。
アオは鳥の飛んだほうを見る。
「鳥も祝った」
「逃げたんだよ、声でかいから」
ミナトが頭を抱えた。
玲奈が声を出して笑った。
さとるは顔を赤くしたまま、少し笑った。
アオは二人を見た。
「これで、胸のむずむずは治るのか」
「たぶん、まだ治らん」
さとるが答える。
「悪化か」
玲奈が笑う。
「でも、悪いものではないと思います」
アオはしばらく二人を見た。
「人間は、難しい」
「それはほんとにそう」
ミナトが言った。
*
その日の夜。
ミナトが買い物袋を持って帰ってきた。
「今日はちょっと特別」
アオの鼻がひくひくと動いた。
袋からはみ出しているものを見て、背びれの上部がぴくりと立った。
「でかい」
「だろ」
大きなカニだった。
アオは甲羅を指で軽く叩く。
「川のカニより、でかい」
「海のカニだからな」
「硬い」
「中はうまいぞ」
「知っている。小さいのは食べた」
「やっぱ食ってたか」
ミナトが殻を割る。
白い身が出てきた。
アオは少しだけ身を乗り出した。
「食う?」
「食う」
一口。
エラ蓋が、ぱたぱたと動く。
「うまい」
「だろ」
「川のより多い」
「身がな」
アオは次の脚を手に取った。
「これは高いのか」
「まあ、ちょっと」
ちょっと、どころではない。
「魚肉ソーセージで言うと」
「……その換算やめろって」
「何本」
「言わない」
「高いな」
「分かってんじゃん」
アオは器用に殻を割った。
しばらく食べてから、ふと聞く。
「ミナト」
「何」
「好きは、言わないと分からないのか」
ミナトは少し考えた。
「分からないことも多いな」
「赤木さとるは、言えなかった」
「そうだな」
「白崎玲奈は、待っていた」
「そう見えたな」
アオはカニの脚を持ったまま黙った。
「難しい」
「難しいよ」
「でも、言ったら少し分かった」
「うん」
アオは小さくうなずいた。
それから、またカニを食べ始めた。
「ミナト」
「今度は何」
「特売の日に、また買え」
「無茶言うな」
「無料配布は」
「ない」
「では、特売」
「だから高いんだって」
アオは聞いているのかいないのか、次の脚を割った。
夜の古民家に、川の音とカニの殻が割れる音が響いていた。




