第15話 先生の涙
「先生、さようならーっ!」
「さようなら。車に気をつけて帰るのよ」
「今日も、アオ先生に魚、見せてもらってくる!」
「川に入るなら、約束を守ること。深いところへは行かない。大人の見える場所で遊ぶ。いいわね」
「はーい!」
子どもたちの声が、佐辺小学校の廊下に明るく響いた。
緑川由紀子は、昇降口から駆け出していく子どもたちを見送った。
初夏の山は、濃い緑に包まれている。時折、吹き抜ける風が葉擦れの音を鳴らす。
校庭には白いラインが残り、坂道を下っていくランドセルが、その向こうで小さく揺れていた。
遠くから、川の音が聞こえる。
「アオ先生、今日いるかな!」
「いるよ、たぶん!」
「魚肉ソーセージ持っていこう!」
川と葉擦れの音にまぎれて、子どもたちのそんな声まで聞こえてきた。
由紀子は、思わず笑った。
一年前なら、この光景をこんな気持ちで見送ることはできなかった。
教師になって十年以上。
若手と呼ばれる時期はとうに過ぎた。
それでも、子どもたちから教えられることはある。
むしろ、自分が正しいと思っているときほど、不意に胸を突かれることがある。
由紀子には、忘れられない言葉があった。
*
前年、六月――佐辺川の氾濫後
豪雨による氾濫から、まだそれほど日が経っていなかった。
橋は流され、川辺には泥と流木が残り、里のあちこちに水害の爪痕が残された。
そんな中、子どもたちの間では、一つの名前が急速に広まっていた。
アオ。
濁流の中で人を助けた、異形の生き物。
「アオ先生、すごいんだよ!」
「川の中、めちゃくちゃ速い!」
「魚のいるところも知ってる!」
「背びれあるんだよ!」
休み時間になるたび、子どもたちは興奮した様子で話した。
由紀子は、そのたびに少し複雑な気持ちになった。
感謝はしていた。
里山の人の命を救ったことも知っている。
けれど、そのことと、子どもたちを安心して近づけてよいかどうかは別の話だった。
大きな身体。
水かきのついた長い手。
鋭い爪。
背びれ。
黒緑色の鱗。
由紀子には、どうしても警戒心を捨てきれなかった。遠目に見たアオの姿に、戦慄が走ったこともある。
アオに悪意がなくても、驚いた拍子に力が入るかもしれない。
川辺で何かが起きるかもしれない。
何かあってからでは遅い。
子どもの安全を守る。
教師として、それだけは譲れなかった。
「アオさんと会うのは構いません。でも、勝手に近づきすぎないこと」
「川へ入るときは、必ず大人に知らせること」
「アオさんを怒らせることをしないこと」
由紀子は何度も言った。
それでも、ある日、一人の男の子が不満そうに口を尖らせた。
「先生、アオ先生は僕らを傷つけたりしないよ」
「何かあってからでは遅いの」
由紀子の声が少し強くなった。
教室が静かになる。
男の子はうつむいた。
胸が痛んだ。
けれど、そのときの由紀子は、自分の言葉を間違いだとは思っていなかった。
子どもを守るため。
それが教師の役目だと信じていた。
その日の夕方。
家へ帰ると、父の辰蔵が縁側で茶を飲んでいた。
由紀子はこの里で生まれ育った。
県外へ出て教員免許を取り、再び故郷へ戻ってきた。
幼い頃から、父は口うるさかった。
嘘をつくな。
人を粗末にするな。
困っている者がいたら、自分にできることをしろ。
そんな父だった。
「今日も子どもらが、アオアオ言っとったぞ」
湯呑みを持ったまま、辰蔵が笑う。
「学校でも同じよ」
「人気者じゃな」
「お父さんは、ずいぶん信用してるのね」
「信用しとる」
迷いのない返事だった。
由紀子は少し眉を寄せた。
「人を助けたことは分かってる。でも、相手は人間じゃないのよ。子どもたちに何かあったら――」
辰蔵は茶を一口すすった。
「人間かどうかだけで、信用するかどうかを決めるんか」
由紀子は言葉に詰まった。
「そういう話じゃないわ」
「なら、ちゃんと見て決めりゃええ」
辰蔵はそれ以上言わなかった。
由紀子は少し苛立った。
父までアオの味方をする。
里全体が、一つの空気に流されているようにも見えた。
だからこそ、自分だけは冷静でいなければならない。
そう思っていた。
*
前年、九月――佐辺小学校の教室
二学期が始まって間もない頃。
休み時間の教室で、小さな騒ぎが起きた。
顔に生まれつき小さな痣のある女子児童を、何人かの男子がからかっていた。
「そこ、なんで色違うの?」
「変なの」
女子児童は机の端を握り、うつむいている。
由紀子はすぐに男子児童たちを呼んだ。
「今の言い方はよくありません」
教室の空気が張りつめる。
「人の見た目のことを悪く言うのは、絶対にいけません。見た目だけで、その人の中身や心は分からないでしょう?」
男子児童たちは黙った。
由紀子が続けようとした、そのとき。
教室のどこかから、ぽつりと声がした。
「……先生も、アオ先生の見た目だけで、怖いって言うじゃん」
教室が静まり返った。
由紀子は、すぐに言葉を返せなかった。
私はあなたたちを守るために言っている。
そう答えようとした。
けれど、のどの奥で止まった。
今、自分は何と言った。
見た目だけで、その人の中身や心は分からない。
では、自分は。
アオの中身を見ようとしたことがあっただろうか。
鋭い爪。
水かき。
鱗。
背びれ。
それらばかりを見てはいなかったか。
由紀子は静かに息を吸った。
「……今の言葉、先生はちゃんと考えます」
誰も何も言わなかった。
「でも、川が危ないことは変わりません。約束を守ることも必要です」
何人かが小さくうなずいた。
「そのことと、先生がアオさんをどう見ていたのかは……別に考えます」
それ以上は言えなかった。
その日の授業は、いつも通り進んだ。
けれど、さっきの声は、一日中由紀子の中に残った。
*
放課後。
由紀子はいつもの道を外れ、川のほうへ向かった。
大橋の建設に向けて、川辺の片づけが進められている場所だった。
少し前まで、大きな流木や瓦礫が折り重なっていた。
人の手では動かしにくいものも多かった。
そこへ何日も川へ入り、撤去作業を手伝ったのがアオだった。
今は、泥に覆われていた河岸が少しずつ姿を取り戻している。
夕日が川面に細長く伸びていた。
由紀子は足元に気をつけながら歩いた。
ふと、湿った土の上で何かが光った。
しゃがみ込む。
深緑色の、薄い欠片。
魚の鱗よりずっと大きい。
手に取ると硬く、光の角度によって青にも緑にも見えた。
少し先にも一枚。
さらに、石の隙間にも。
何枚かは、端が欠けていた。
川辺には、まだ曲がった鉄材や、傷のついた岩が残っている。
由紀子は手のひらの鱗を見た。
それから、川を見た。
「……私は」
声が漏れた。
「何を見てたんだろう」
あの爪を。
あの腕を。
あの身体を。
ずっと、危険かもしれないものとして見ていた。
けれど、アオは、文字通り、その身を削って、川の深いところへ潜り、流木を運び、鉄くずを拾った。
この里山のために――
由紀子は、それを見ようとしていなかった。
怖がることと、決めつけることは同じではない。
子どもを守ることと、誰かを遠ざけることも。
由紀子は鱗をハンカチに包んだ。
そっと鞄にしまった。
*
それから、由紀子の言葉は少しずつ変わった。
ある日の帰りの会。
「先生、今日アオ先生のところ行っていい?」
いつもの言葉がのどまで出かかった。
距離を取りなさい。
近づきすぎないように。
由紀子は一度、息を吸った。
「川へ行くなら、約束を守ること」
「はーい」
「それから」
子どもたちが振り返る。
「アオ先生に、よろしくね」
一瞬、静かになった。
「先生、今アオ先生って言った?」
「言いました」
「アオさんじゃなくて?」
「アオ先生です」
「やったー!」
子どもたちが笑う。
「先生も分かってきた!」
「調子に乗らない」
由紀子は少し厳しい顔を作った。
けれど、口元には笑いが残った。
別の日には、
「川で遊ぶなら、アオ先生から危ない場所をよく教えてもらいなさい」
と伝えた。
「川を知っている人の話を聞くことも、大切な勉強です」
「はい!」
子どもたちの返事が響いた。
警戒しなくなったわけではない。
川は危険だ。
アオの力も、人間とは違う。
だから約束は必要だった。
けれど、それだけを理由にアオを遠ざける必要はない。
由紀子はようやく、その二つを分けて考えられるようになっていた。
*
その頃。
河川敷に、アオの働きを小さな形で残そうという話が持ち上がった。記念碑、とまで呼べるものではない。
新しい大橋のたもとに近い場所。
通行の邪魔にならない、小さな台座に金属のプレートを置く。草の茂みに隠れるように、ひっそりと、目立たず。
その話を辰蔵から聞いた夜、由紀子は縁側へ出た。
「お父さん」
「何じゃ」
「そのプレートの絵、私に描かせて」
辰蔵が湯呑みを置いた。
「お前が?」
「うん」
しばらく娘を見てから、辰蔵が言った。
「前は、あれほど警戒しとったのに」
「だから描きたいの」
由紀子は鞄から、ハンカチに包んだ鱗を取り出した。
「川辺で見つけた」
辰蔵は手に取らず、じっと見た。
「アオのか」
「たぶん」
「そうか」
「私、ちゃんと見てなかった」
由紀子は鱗を見つめた。
「子どもたちを守りたい気持ちは、今も変わらない。でも、それとアオさんを決めつけることは違った」
辰蔵は黙って聞いていた。
「だから今度は、ちゃんと見て描きたい」
少しの間があった。
辰蔵がふっと笑う。
「ええ顔になったな」
「何よ、それ」
「先生の顔じゃ」
「前から先生よ」
「そういう意味じゃない」
由紀子は少しむっとした。
辰蔵は楽しそうに茶をすすった。
「頼むわ」
*
由紀子は何日も絵を描いた。
放課後の教室で。
自宅の机で。
子どもたちのプリントを丸つけしたあとにも、紙を広げた。
最初に描いたアオは、ひどく恐ろしかった。
鋭い爪。
大きな背びれ。
長い腕。
由紀子は鉛筆を止めた。
一枚目を横へ置いた。
二枚目は、逆に可愛らしくしすぎた。
身体を丸くし、爪を小さくして、異形らしさを薄めた。
それも、違った。
由紀子は二枚目も横へ置いた。
夜が深くなった。
窓の外では虫が鳴いている。
机の隅には、ハンカチに包んだ深緑色の鱗。
由紀子はもう一度、鉛筆を握った。
爪は、そのまま。
背びれも、そのまま。
長い腕も、水かきも消さない。
そして、魚肉ソーセージを一本持たせた。
少し不機嫌そうなアオ。
由紀子はしばらく眺めた。
「……うん」
ようやく、鉛筆を置いた。
その絵は後に、由紀子が望んだとおり、川辺に置かれる小さな金属プレートの図案になった。
*
今年、五月十五日――佐辺の公民館
アオの誕生日会の日。
由紀子は、子どもたちと一緒に公民館の飾りつけをしていた。
「先生、魚肉ソーセージの絵、ここでいい?」
「少し曲がってる」
「いいの!」
「いいの?」
「アオ先生だから!」
「理由になってません」
子どもたちが笑った。
壁には、
アオ たんじょうび おめでとう
いつもありがとう
色紙で作った文字が並んでいる。
魚。
川。
山。
魚肉ソーセージ。
子どもたちの描いたものが、壁のあちこちに増えていった。
由紀子も手伝いながら、不思議な気持ちになった。
一年前。
アオに近づきすぎるなと、子どもたちへ繰り返していた。
今はその子どもたちと一緒に、アオを迎える準備をしている。
やがて、アオがやって来た。
公民館へ一歩入ったところで止まる。
琥珀色の目が大きく開く。
爪が、開いて、閉じる。
ミナトが隣で何かを言った。
子どもたちは待ちきれず、次々に絵を差し出した。
「アオ先生、これ!」
「僕のも!」
「魚肉ソーセージも描いた!」
アオは一枚ずつ受け取った。
「多い」
「全部持って帰ってね!」
アオは絵を見る。
「全部」
「うん!」
少し間を置いて、アオはミナトを見た。
「絵、持って帰る」
「ああ、ちゃんと持って帰ろう」
「全部」
「全部な」
ミナトの声がした。
由紀子は、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。
その後、子どもたちが作ったカードが渡された。
大きく書かれた文字。
アオ うまれてきてくれて ありがとう
その周りには、魚や川や山。
魚肉ソーセージ。
水かきのついた長い手。
アオは指先で、文字をゆっくり追った。
長い間、カードを見ていた。
由紀子の胸が少し詰まった。
最後に、さとるに促され、アオが短く話した。
「今日は、食べ物が多い」
笑いが起きた。
「人間も多い」
また笑う声。
「声も多い」
由紀子も笑った。
アオは少し黙った。
「でも」
広間が静かになる。
「嫌ではない」
ミナトが何か返し、また小さな笑いが起きた。
そしてアオは言った。
「今日は、嬉しい」
由紀子の目から、突然涙がこぼれた。
慌ててうつむく。
泣くつもりなどなかった。
けれど、一度出た涙は、なかなか止まらなかった。
「どうぞ」
横から、ハンカチが差し出された。
顔を上げると、白崎玲奈が立っていた。
「……ありがとうございます」
由紀子は受け取った。
玲奈もアオを見ていた。
「不思議ですね」
「え?」
「アオは」
玲奈は少し考えてから続けた。
「こっちが見ようとしなかったものまで、見せてくれることがあります」
由紀子は、アオへ視線を戻した。
「……はい」
「私も、たくさんありました」
玲奈の声は静かだった。
由紀子はハンカチで目元を押さえた。
それ以上、二人とも何も言わなかった。
公民館では、子どもたちがまたアオを呼んでいた。
*
今年、六月――佐辺小学校
図画工作の時間。
窓の外には濃い緑が広がり、初夏の日差しが教室の床まで差し込んでいた。
「今日は、先生からテーマを出します」
「何?」
「魚?」
「自由じゃないの?」
由紀子は黒板に大きく書いた。
アオ先生を描こう
一瞬。
次の瞬間、歓声が上がった。
「やったー!」
「魚肉ソーセージ描く!」
「背びれも!」
「川も描いていい?」
「もちろん」
「先生、アオ先生に見せる?」
由紀子は笑った。
「放課後、持っていきましょうか」
「やった!」
子どもたちは一斉に画用紙へ向かった。
川の中のアオ。
魚を持つアオ。
子どもたちのそばに立つアオ。
魚肉ソーセージを三本も持ったアオ。
由紀子は机の間を歩いていく。
「この川、きれいね」
「アオ先生の背びれ、ずいぶん大きいね」
「だってかっこいいもん」
「魚肉ソーセージ、アオさんより大きくない?」
「いっぱい食べるから」
「そこまでではありません」
笑い声が広がった。
しばらくして、一人の子どもが画用紙から顔を上げた。
「先生」
「なあに」
「先生、アオ先生のこと、もう怖くない?」
由紀子は足を止めた。
少し考えてから答える。
「怖くない、とは言わないかな」
子どもが首を傾げる。
「アオさんは私たちよりずっと力が強いし、川も危ない。だから、気をつけることは今でも必要です」
「うん」
「でも」
由紀子は教室を見渡した。
「怖いかもしれないからって、その人のことを全部決めつけるのは違う。先生は前、それを一緒にしてたの」
子どもたちは静かに聞いていた。
「先生も間違うんだ」
一人の男の子が言った。
「間違います」
「先生なのに?」
「先生でも」
「じゃあ先生も勉強中?」
由紀子は笑った。
「そうです」
「アオ先生にも教えてもらう?」
「教えてもらいます」
「じゃあ先生もアオ先生の生徒じゃん!」
教室中が笑った。
「そうかもしれませんね」
由紀子も笑った。
*
放課後。
子どもたちは絵を抱えて川辺へ向かった。
由紀子も一緒だった。
「走らない!」
「はーい!」
返事だけは立派だった。
川辺では、アオとミナトが並んで座っていた。
ミナトが何かを話している。
アオは魚肉ソーセージを食べながら、半分くらいしか聞いていないようだった。
「アオ先生ー!」
子どもたちが声を上げる。
アオが振り向く。
大量の画用紙を抱えた子どもたちを見て、爪が少し開いた。
「多い」
ミナトが笑う。
「人気者は大変だな」
「毎回言うな」
「事実だろ」
「アオ先生、見て!」
「これ僕の!」
「魚も描いた!」
アオは次々に渡される絵を見ていた。
「アオが多い」
「アオ先生の絵だから!」
「全部アオ」
「そうだよ!」
何枚目かを見終えたところで、アオが由紀子を見る。
「これは、持って帰るのか」
「今日は見てもらうだけです」
由紀子が答えた。
「この絵は学校に飾って、そのあと大切にしまっておきます」
アオは画用紙の束を見る。
「学校の宝か」
由紀子は少し笑った。
「そうですね。学校の宝です」
子どもたちが嬉しそうに顔を見合わせた。
「学校の宝だって!」
「ちゃんと飾ってよ、先生!」
「はいはい。約束します」
ミナトが由紀子に、軽く頭を下げた。
「由紀子先生、ありがとうございます」
「いえ、子どもたちも大喜びで」
アオも由紀子を見る。
「先生か」
「アオさん」
「子どもが、アオをたくさん描いた」
「今日の図工です」
「なぜ」
由紀子は子どもたちを見た。
「みんなが見ているアオさんを、絵にしたかったんです」
アオは手元の一枚を見る。
川の中に立つ大きなアオ。
その周りで遊ぶ子どもたち。
「形にした」
「はい」
由紀子は鞄を開けた。
「それから、私も一枚持ってきました」
取り出した紙を、アオへ差し出す。
金属プレートの元になった原画だった。
魚肉ソーセージを手に持つ、少し不機嫌そうなアオ。
アオの琥珀色の目が大きく開いた。
「これは」
「川のそばにあるプレートの、元の絵です」
アオは原画と由紀子を交互に見る。
「先生が描いたのか」
「はい」
ミナトも横から覗き込んだ。
「由紀子先生のデザインだったんですね」
「内緒にしていました」
アオは絵を見つめる。
「なぜ、魚肉ソーセージを持っている」
ミナトが吹き出した。
由紀子も笑った。
「アオさんらしいと思ったからです」
「アオは、いつも持っていない」
「でも好きでしょう?」
「好きだ」
「なら、少しくらい」
アオはしばらく考えた。
「分かった」
由紀子は少し息を吸った。
「アオさん」
「何」
「謝りたいことがあります」
子どもたちの声が少し静かになった。
ミナトも黙って由紀子を見る。
「前の私は、あなたのことを怖いと決めつけていました」
アオは動かなかった。
「もちろん、子どもたちを守りたい気持ちは本当でした。今でも、川では気をつけなさいと言います」
「うん」
「でも、それだけじゃなかった」
由紀子は、原画を持つアオの手を見る。
鋭い爪が、紙を傷つけないようにわずかに浮いている。
「あなたがどんな人なのかを知る前に、見た目だけで決めていたところがありました」
声が少し震えた。
「ごめんなさい」
アオの爪が、ゆっくり開いて、閉じた。
しばらく沈黙したあと、アオが言う。
「先生は、子どもを守る」
由紀子は顔を上げた。
「はい」
「だから、アオが怖かった」
「……はい。それも、本当です」
由紀子は一度、息をついた。
「でも、怖いと思うことと、決めつけることは違いました。それは、愚かな偏見だったんだって……」
アオは少し考える。
「へんけん」
ミナトが隣から言った。
「見た目とか、思い込みだけで、その人を決めちゃうこと」
アオは川を見る。
「アオも、人間は怖いと思っていた」
由紀子は息を止めた。
「白い服の人間。石を投げる人間。火を向ける人間」
アオの背びれが、わずかに低くなる。
「人間は怖いと思っていた」
そして、ミナトを見る。
子どもたちを見る。
由紀子を見る。
「でも、違う人間もいた、たくさん」
由紀子の目の奥が、熱くなった。
アオが彼女を見る。
「先生も、今は違う」
由紀子は唇を結んだ。
「……ありがとう」
アオは少し落ち着かないように、爪を開いたり引っ込めたりした。
「この絵は、アオの居場所だ」
「居場所?」
ミナトがはっと何かを思い出した。
「由紀子先生、オレがアオとケンカして、出て行け、って言っちゃった日、こいつ、このプレートのところにいたんです」
「この絵は、アオがここにいていい、と言っている気がした」
由紀子は、無意識のうちに、指でそっと目頭を押さえた。
「先生の目が少し水だ」
ミナトが小さく笑う。
「がんばってこらえてるんだよ」
由紀子も、鼻をすすって笑った。
アオはもう一度、原画へ目を落とした。
「これは、もらってよいか」
「もちろんです」
「宝にする」
由紀子は一瞬、言葉を失った。
それから、胸の奥がじんと温かくなるのを感じながら笑った。
「……ありがとうございます」
「先生の絵、宝だって!」
「すごい!」
「よかったね!」
「ちょっと、みんな静かに」
由紀子は笑いながら子どもたちを制した。
「はい。とても嬉しいです」
*
夕方。
子どもたちは、自分たちの絵を由紀子へ返し終えた。
「先生、ちゃんと学校に飾ってね!」
「分かっています」
「なくさないでよ!」
「なくしません」
由紀子は画用紙の束を抱え直した。
やがて子どもたちは、それぞれの家へ帰っていった。
川辺には、由紀子とアオ、ミナトが残った。
アオの手元には、由紀子が描いた原画だけがある。
紙の端を傷つけないよう、爪を少し浮かせて持っていた。
「宝、また増えたな」
ミナトが言う。
「増えた」
「そろそろ箱じゃ足りないだろ」
「家が狭い」
「そこなんだ」
由紀子は、学校へ持ち帰る絵を抱えたまま笑った。
帰ろうとしたとき、アオが呼んだ。
「先生」
「はい」
「子どもに、川は危ないと教えろ」
由紀子は少し驚いた。
「はい」
「深いところもある。雨のあとは、もっと危ない」
「そうですね」
アオは川面を見る。
「でも」
少し間を置く。
「川は、怖いだけではないとも教えろ」
夕日が水面で揺れていた。
由紀子は、ゆっくりうなずいた。
「はい」
「アオも教える」
「一緒に?」
「一緒に」
由紀子の胸が温かくなった。
「お願いします、アオ先生」
アオの琥珀色の目が少し大きくなる。
「先生が、二人になった」
ミナトが笑う。
「いいじゃん。由紀子先生とアオ先生」
「人間の先生は、たくさんしゃべる」
「アオ先生は?」
「短い」
「ちょうどいいな」
由紀子が笑った。
少しして、アオが手元の原画を見る。
「ミナト」
「何」
「プレートのアオも、魚肉ソーセージを持っている」
「うん」
「先生の絵も持っている」
「元の絵だからな」
アオは少し考えた。
「同じ一本か」
「そこ気になる?」
「大事だ」
由紀子はまた笑った。
アオが振り返る。
「先生は、今は水を出さない」
「はい」
由紀子は、笑った。
「今は笑っています」
アオは目を細めた。
「よいことだ」
由紀子の腕の中には、子どもたちが描いた何枚ものアオがあった。
夕暮れの里に、心地よい風が吹き抜ける。佐辺川のせせらぎと、木々の葉擦れの音が、小さく鳴っていた。




