第19話 スキンケアの落とし穴
石井久枝との別れから、二カ月。
山の葉が落ち、朝の佐辺川には白い霧が立つようになった。
古民家の柱は、冷え込む夜ごとに小さくきしむ。
佐辺の里山に、また冬が巡ってきた。
アオは、冬が苦手だった。
川は冷たすぎる。
陸へ上がれば、今度は乾く。
黒緑色の鱗は、いつもより少しくすみ、鱗と鱗の間が、ところどころ白いまだらを作っている。
首元のエラも、乾燥すると動きが少し鈍くなる。
アオは、以前より長く古民家の中で過ごすようになっていた。
土間の端。
台所から少し離れた板敷き。
いつの間にか、そこは完全にアオの場所になっている。
戸は少しだけ開けてある。
けれど最近は、そこから逃げ出すことより、台所から漂ってくる匂いを気にしている時間のほうが長い。
ミナトが味噌汁を作れば、湯気を眺める。
焼き魚を出せば、
「火の魚」
と言って食べる。
魚肉ソーセージは、相変わらず半分に折る。
ある夜。
アオは土間の端で、身体を少し丸めるように座っていた。
「アオ、寒くないか?」
「寒い」
「めずらしく素直だな」
「冬は、いやだ」
「川も冷たいもんな」
「水は冷たい。外は乾く」
「乾く?」
アオは自分の腕を見た。
鱗のすき間が、白っぽくかさついている。
ミナトは眉を寄せた。
「……それ、乾燥してんのか」
「かんそう」
「皮膚が乾いてるってこと。痛い?」
「少し」
「もっと早く言えよ」
「言っても、川は冷たい」
「いや、そうだけど」
ミナトはアオの腕をのぞき込んだ。
「ごめん。気づかなかった」
「なぜ謝る」
「気づかなかったから」
「ミナトは、鱗がないから仕方ない」
「まあ……そうなんだけどさ」
「ミナトも乾くのか」
「乾くよ」
ミナトは自分の手を見せた。
指先は少し荒れ、赤くなっている。
「オレも冬は手荒れする」
「人間の皮膚も、不便だ」
「お前の皮膚は、もっと繊細そうだけどな」
アオは少し考えた。
「皮膚は、難しい」
「哲学みたいに言うな」
*
その夜。
風呂から上がったミナトは、洗面所でハンドクリームを塗っていた。
チューブから白いクリームを出し、手の甲へ伸ばしていく。
その瞬間。
土間のほうで、アオがぴくりと反応した。
「いやな匂いがする」
「匂い?」
「薬の匂い」
「ああ、これか」
ミナトがチューブを見せる。
「ハンドクリーム」
「はんど」
「手」
「くりーむ」
「乾燥を防ぐための保湿クリームだよ」
「ほしつ」
「肌の水分が逃げないようにする」
アオの琥珀色の目が動いた。
「水分を、守る」
急に真剣になった。
ミナトはその顔を見て、少し考えた。
「……アオにも使えたら楽になるかもな」
「アオにも」
「でも、人間用だからな。勝手に塗るのは怖い」
「なぜ」
「成分が合わないかもしれない」
「せいぶん」
「中に何が入ってるかってこと」
「薬は、怖い」
「怖い薬じゃないんだけど……」
ミナトは笑いながらスマホを取り出した。
「玲奈さんに聞いてみるよ」
「白崎玲奈」
「こういうのは専門家に聞くのが一番」
市販の無香料・低刺激タイプをいくつか調べ、成分表示を玲奈へ送る。
玲奈に送る文章を打っている途中で、ミナトは自分で笑ってしまった。
――半魚人に使える保湿クリームはありますか。
人生で、こんな質問をするときがくるとは思わなかった。
「……これ読んだ白崎さん、どう思うかな」
「アオは、半魚人だ」
「そこは間違ってない」
「なら、正しい質問だ」
「正しいけど変なんだよ」
送信。
数十分後、玲奈から返事が来た。
早かった。
ミナトは画面を開く。
『成分表を確認しました。
この中なら、三枚目の無香料・低刺激タイプが比較的安全だと思います。
ただし、まず少量だけ使って様子を見てください。
かゆみ、痛み、赤みなどが出た場合は、すぐにぬるま湯で洗い流してください。
使用する場合も、薄く伸ばしてください。
特に――』
そこまで読んだときだった。
ぬちょ。
妙に嫌な音がした。
ミナトが顔を上げる。
「……アオ?」
ぬちょ。
ぬちょ。
アオがすでに、腕から手にかけて、ミナトの見よう見まねでクリームを塗っていた。
「何してんの!?」
「ほしつ」
「早い! まだ、安全かどうか確認してない!」
しかも、腕だけではない。
肩。
胸。
背中。
脚。
手の水かきの間。
首まわり。
黒緑色の鱗が、てらてらと光っている。
美しいような。
怪しいような。
妙に高級感があるような。
いや、やっぱり怪しい。
「お前、玲奈さんの注意、守れよ! 最初は少しだけ使って、様子を見ろって……」
「ミナトが、使えるかもしれないと言った」
「“かもしれない”って言った!」
「水分を守る」
「その量で守ったら、要塞レベルだよ!」
アオは自分の腕を見る。
「少し楽だ」
「え?」
「痛いのが減った」
「……ほんとか?」
「うん」
アオのエラ蓋が、小さくぱたぱたと動いた。
喉の奥から、ギュルギュル……と満足そうな音が漏れる。
ミナトはその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。
怒るタイミングを失った。
「まあ……異変があったら、すぐ洗い流せよ」
「分かった」
「かゆいとか、痛いとか」
「分かった」
「ほんとに?」
「かんぺき」
アオは真剣にうなずいた。
全身つやつやになり、白っぽく乾燥したまだら状の部分は、ほとんど見えなくなっていた。
ミナトは、スマホを机に置いたまま、パタパタと動くアオのエラ蓋を、あきれたように眺めていた。
*
翌朝。
「身体、痛くない」
「ほんとか」
「乾かない」
「おお」
「この薬は、悪くない」
「保湿クリーム」
「ほしつクリーム」
アオは新しい言葉を覚えた。
そして、すっかり気に入ってしまった。
それからというもの、夜になると自分で保湿クリームを取り出して塗るようになった。
「薄くでいいんだぞ」
「薄いと、不安だ」
「なんで」
「水分を守る。強いほうがいい」
「保湿に強いも弱いもない」
それでもアオは塗る。
ぬちょ。
ぬちょ。
「塗りすぎ」
「まだ乾いている」
「それ、お前の感覚だろ」
「アオの身体だから、正しい」
「そう言われると、反論しづらいな……」
人間なら一か月以上使えそうなクリームが、あっという間になくなっていった。
ある夜。
ミナトが、ぺらぺらの紙のように薄くなったチューブを手に取る。
「……もう?」
「なくなった」
「一週間くらいしか経ってないぞ」
「全身に使った」
「そりゃなくなるわ」
「また増やせるのか」
「買うんだよ」
「特売はあるか」
「保湿クリームの特売を探す半魚人、嫌だな」
「冬は、ほしつが必要だ」
「覚えた言葉、使いたくて仕方ないな」
とはいえ、効果はあった。
白くかさついていた鱗は落ち着き、乾燥による痛みも減ったらしい。
土間で過ごしているときも、以前より身体が楽そうだった。
ミナトも安心し始めていた。
少なくとも、そのときまでは――
*
よく晴れた冬の日だった。
空は青く、日差しだけなら少し暖かい。
アオとミナトは佐辺川沿いを歩いていた。
日陰にはまだ霜が残っている。
川の水は澄みきり、底の石まで見えた。
「今日も光ってるな」
ミナトが言った。
アオの鱗は、今日もつやつやと光沢を放っている。
「乾かない」
「それはいいけど、ちょっと塗りすぎじゃないか?」
「ほしつは、大事だ」
「便利な言葉になってるな」
そのとき。
アオがぴたりと足を止めた。
川を見る。
琥珀色の目が鋭くなる。
「いる」
「何が?」
「大きい魚」
ミナトも川を覗いた。
岸から数メートル離れた先、深い流れの底で、大きな魚影がゆっくり動いた。
「ほんとだ」
「捕る」
「待て待て。冬の川だぞ」
「大きい」
「それは見れば分かる」
アオの身体が前へ傾く。
「アオ、待――」
ざぶん。
水しぶきが上がった。
「……本能に正直すぎるだろ」
ミナトはため息をついた。
だが。
すぐに眉をひそめた。
水面が妙に騒がしい。水しぶきが派手に立つ。
いつものアオなら、川へ入った瞬間に姿が消える。
水と一体になるように音もなく潜り、気づけば、背びれがずっと先の水面に現れる。
しかし、今日は様子が違った。
ばしゃっ。
水面から腕が出る。
背びれが水面で、8の字を描くように激しくのたうっている。
「……アオ?」
バシャバシャと水音を立てながら、もがいているようだ。
「アオ!」
水面から顔が出た。
アオは明らかに苦しんでいた。
グッ……グッ……グッ……とアオの苦しそうな唸り声が聞こえてくる。
「ミナト!」
口を大きく開けたアオが、やっとのことで声を出す。
水をかく。
けれど、いつもの力強さがない。
「どうした?」
「息が……」
「息?」
「水が……通らない」
ミナトの表情が変わった。
「岸に来い!」
アオは岸のほうへ向かって必死に泳いだ。
何度か身体が沈みかける。
ミナトは浅瀬へ走った。
「アオ! こっち!」
ようやく伸びてきた大きな手をつかむ。
ミナトは全身で引いた。
「うおっ……!」
アオが浅瀬へ転がり込む。
しばらく二人とも動けなかった。
アオは激しく息をしていた。
首元のエラが何度も開閉する。
「大丈夫か」
「……苦しい。息ができなかった」
「何があった」
「分からない」
「どっかぶつけた?」
「違う」
「冷たすぎた?」
「違う」
「じゃあ何で……」
アオも分からない。
ミナトも分からない。
ただ、いつものように水がエラを通らなかった。
「ちょっと見せろ」
ミナトが首元を見る。
エラの周辺が、妙につやつやしていた。
濡れているからだけではない。
触る。
ぬるっ。
ミナトの手が止まった。
「……これ」
「何だ」
「……クリーム?」
アオも首元に触る。
「ほしつ」
「お前、ここにも塗ってたのか?」
「体じゅう」
「体じゅう……全身……」
ミナトの頭に、何かが引っかかった。
白崎玲奈。
メール。
『特に――』
「……ちょっと待て」
ミナトはあわててスマホを取り出した。
あの日のメールを開き、続きを読む。
『特に、エラおよびその周辺には使用しないでください。
油分などによって水の通りが妨げられる可能性があります。
エラは呼吸に関わるため、保湿剤を直接使用するのは避けてください。』
ミナトは画面を見た。
アオを見る。
もう一度、画面を見る。
「……書いてある」
「何が」
「エラには塗るなって」
「いつから」
「最初から」
アオは黙った。
ミナトも黙った。
川の音だけがする。
「ミナト」
「はい」
「人間は、最後まで読め」
「……おっしゃる通りです」
「アオも、勝手に塗った」
「そこは認めるんだな」
「半分こだ」
「……失敗を半分こするな」
アオは首元を押さえた。
「まだ苦しい」
「ごめん。家戻ろう。白崎さんにもすぐ電話する」
立ち上がろうとしたアオが、少しふらつく。
ミナトが支えた。
アオは川を振り返った。
「魚が逃げた」
「魚どころじゃない」
「大きかった」
「命のほうが大事だろ?」
「半魚人が、おぼれそうになった」
ミナトは一瞬黙り、それから、思わず吹き出した。
「……笑うな」
「ごめん。いや、ごめんなんだけど」
「笑っている」
「だって、無事だったから」
「アオは怖かった」
「オレも怖かったよ」
「でも笑っている」
「保湿クリーム塗っておぼれかけた半魚人なんて、どうリアクションすればいいんだよ」
アオは真剣に言った。
「冬のほしつには、罠がある」
「コスメの広告みたいに言うな」
*
古民家へ戻ると、ミナトはすぐ玲奈へ電話した。
「エラに塗ってしまったんですか?」
電話の向こうで、玲奈の声が一段高くなった。
「はい……」
「すぐにぬるま湯で洗い流してください。強くこすらないで。呼吸が戻るか確認してください」
「分かりました」
ミナトはぬるま湯を用意する。
「アオ、こっち」
アオは土間に座った。
ミナトが慎重にエラの周りを洗う。
白っぽい油膜が少しずつ流れていく。
「痛くない?」
「大丈夫」
「水、通る?」
「まだ少し」
もう一度、ゆっくり洗う。
しばらくすると、エラの動きが少しずつ落ち着いてきた。
「どうだ?」
アオは何度か呼吸した。
「水が、通る」
「よかった……」
ミナトはその場に座り込んだ。
心底ほっとした。
電話の向こうから玲奈の声。
「アオ、大丈夫そうですか?」
「会話できてます」
するとアオが電話に向かって言った。
「白崎玲奈」
「はい」
「人間の保湿は怖い」
一瞬、沈黙。
玲奈の声が、少しだけ笑いをこらえたものになった。
「エラには塗らないでくださいね」
「今、覚えた」
「次からは必ず」
「次は、エラを避ける」
「それから、薄く」
アオは少し黙った。
「……薄く」
「そこ、不満そうに言わないでください」
ミナトが笑った。
*
「ミナト」
「何」
「アオは、半魚人だ」
「うん」
「でも、おぼれかけた」
「うん」
「このことは、言うな」
「誰に?」
「赤木さとる」
「絶対笑うな」
「辰蔵にも」
「辰蔵さんも笑う」
「由紀子にも」
「先生は笑いながら注意するだろうな」
「白崎玲奈は、もう知っている」
「そうだな」
アオは少し考えた。
「なら、これ以上は知られない」
ミナトは目をそらした。
「……それは無理だと思う」
「なぜ」
「白崎さん、心配したらたぶん様子見に来るだろ。さとるさんもついてくるかもしれない」
「なぜ赤木さとるが来る」
「……知らん」
「由紀子も来るか」
「可能性はある」
「辰蔵も」
「来そう」
アオは喉の奥で、グッ……グッ……と鳴いた。
「人間の情報は、流れるのが速い」
「特に佐辺はな」
「川より速い」
「それはある」
*
翌日。
白崎玲奈が古民家へやって来た。
赤木さとるも一緒だった。
少し遅れて、由紀子と辰蔵まで現れた。
ミナトは玄関先で頭を抱えた。
「ほんとに勢ぞろいじゃないですか」
さとるは真剣な顔でアオを見る。
「アオ、大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「エラに保湿クリーム塗ったって聞いたぞ」
「言うな」
「いや、心配で」
「笑っている」
「笑ってない」
口元は、明らかに笑っている。
由紀子が腕を組んだ。
完全に先生の顔だった。
「アオさん」
「何だ」
「注意事項は、最後まで確認しましょう」
「ミナトが読む係だ」
「瀬川さんもです」
「はい……」
「それから、返事が来る前に勝手に全身へ塗らない」
「ほしつは大事だ」
「大事です。でも、使い方も大事です」
辰蔵がアオの腕を見た。
「しかし、えらい光っとるのう」
「辰蔵」
「半魚人にも手入れが要るんじゃなあ」
「笑うな」
「笑っとらん」
「口が笑っている」
「いや、ほんまに無事でよかったんじゃ」
辰蔵はそう言いながら、肩を震わせていた。
「ただまあ……半魚人がおぼれかけるとは」
「辰蔵」
「すまん、すまん」
さとるも耐えきれずに吹き出した。
玲奈は口元を押さえている。
由紀子まで目をそらした。
「笑うな」
アオが言った。
ミナトも笑った。
「無事だったから笑えるんだよ」
「人間は、無事だと笑う」
「そういうときもある」
「覚えた」
玲奈が表情を整える。
「改めて説明しますね。保湿自体は悪くありません」
アオが真剣に聞く。
「乾燥している腕や背中などに、薄く」
「薄く」
「薄く」
「分かった」
「エラには?」
「塗らない」
「エラの周りにも?」
「塗らない」
「異変があったら?」
「洗う」
「分からないときは?」
「白崎玲奈に聞く」
「はい」
由紀子が思わず言った。
「よくできました」
ミナトが吹き出す。
「授業になってる」
「必要でしょう」
「スキンケア教室かよ」
「必要じゃな」
辰蔵がうなずく。
「里山の守り神向けのな」
アオがぼそりとつぶやいた。
「守り神は、手間がかかる」
「……自分で言うな」
*
玲奈は帰る前に、一枚の紙を残した。
大きな字で書かれている。
一、薄く塗る
二、乾燥したところだけ
三、エラには絶対に塗らない
四、異変があればすぐ洗う
五、分からないときは勝手に試さない
アオはそれを、土間の壁に貼った。
看病メモの隣だった。
ミナトは二枚を見比べる。
「……うち、アオ用の注意書き増えてきたな」
「大事だ」
「まあ、大事だけど」
アオは自分の腕を見る。
今日は、昨日ほど光っていない。
「薄い」
「それでいい」
「弱そうだ。少し不安だ」
「慣れろ」
「エラは塗らない」
「そう」
「魚を見ても、すぐ川へ飛び込まない」
「それが一番大事」
アオは少し考えた。
「たぶん」
「そこは絶対って言え」
アオの背びれの上部が、ぴくりと動いた。
「冬のほしつは、難しい」
「お前が難しくしてるんだよ」
ミナトは笑った。
アオは魚肉ソーセージを取り出し、いつものように半分に折った。
「半分」
「はいはい」
ミナトは受け取った。
土間の壁には、二枚の注意書き。
その下で、少しだけつやの戻った半魚人が魚肉ソーセージを食べている。
古民家の外では、冬の佐辺川が静かに流れ、時折名も知らぬ鳥の鳴き声が、澄んだ空気を裂くように響く。
アオは今日も、少しだけつやつやしていた。エラの周りをのぞいて――。




