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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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21/21

第20話 花と影

 里山に春が近づいていた。


 朝晩の空気には、まだ冬の冷たさが残っている。


 古民家の縁側に出れば、吐く息が白くなる朝もある。


 それでも、冬の底はもう過ぎていた。


 山の斜面には梅の香りが漂い、雪解け水の流れ込む佐辺川は、少しだけ水量を増している。


 四月に入ると、川沿いに点々と立つ桜も、ようやくつぼみがふくらみ始めた。


「アオ先生!」


 遠くから子どもたちの声がした。


「今度、川の生き物見せてね!」


 川辺の岩陰から、アオが水面に目だけを出す。


「春は、声が増える」


 隣にいたミナトが笑った。


「人も増えるからな」


「人が増えるのは、よくない」


「そうだよな。早く、川でのびのび泳ぎたいよな」


 佐辺川の桜は、派手な観光名所というほどではない。


 それでも花が咲く頃になると、普段は見かけない人間が川沿いを歩くようになる。


 親子連れ。


 若い男女。


 カメラを持った人間。


 工事中の大橋を眺める者もいる。


 佐辺の人間なら、もうアオを見ても騒がない。


 だが、外から来た人間は違う。


 黒緑色の鱗。


 長い腕。


 鋭い爪。


 水かき。


 背びれ。


 首元のエラ。


 琥珀色の目。


 その姿だけを見れば、何が起こるか。


 アオは知っていた。


 石を投げられたこともある。


 叫ばれたこともある。


 そして、白い服の人間に捕らえられたこともある。


 冬の川は冷たかった。


 陸へ上がれば、身体が乾いた。


 けれど春には、冬とは違う面倒があった。


 隠れなければならない。


「春は、疲れるか」


 ミナトが聞いた。


 アオは、水面の下で長い指をゆっくり動かした。


「知らない人間が多い」


「うん」


「里の人間は、アオを見ても石を投げない」


「うん」


「外の人間は、分からない」


「そうだな」


 アオは少し黙った。


「隠れるのは、逃げることか」


 ミナトはすぐには答えなかった。


 春の川は、冬より明るい。


 それでも、水の底にはまだ冷たさが残っている。


「……違うと思う」


 ミナトは言った。


「隠れるのは、悪いことじゃない」


 アオがこちらを見る。


「本当か」


「本当。自分を守るために隠れることもあるし、騒ぎを起こさないために隠れることもある」


「アオは、怖がっている」


「怖がっていい」


 ミナトは静かに言った。


「怖くないふりして無理するほうが危ない」


 アオは水面を見つめた。


「ミナトも、隠れるか」


「オレ?」


「怖いとき」


 ミナトは少し笑い、川の先を見る。


「オレは隠れるの下手だからな」


「すぐ川に落ちる」


「それは……まあ……そうだけど」


「大人は、逃げてもよいのか」


「よい」


「半魚人もか」


「半魚人も……逃げていい」


 アオは少し考えた。


「なら、春は隠れる」


「うん」


「乾燥するから潜る、という言い訳もある」


「それ、気に入ってるな」


「便利だ」


「便利に使っていいよ」



  *


 桜は、まだ満開には少し早かった。


 その日の昼過ぎ。


 アオは佐辺川の深みに潜っていた。


 春の外気は乾く。


 けれど、水はもう真冬のように身体を刺さない。


 桜の根が水際まで伸びるあたりで、アオは岩陰に身を伏せていた。


 頭上の道を、二人の人間が歩いてくる。


 赤木さとると、白崎玲奈だった。


 さとるは、里では頼りにされている。


 消防団でも声が大きく、何かあれば真っ先に走る。


 けれど玲奈の前では、少し違う。


 声が小さくなる。


 動きがぎこちなくなる。


 言葉を選びすぎて、結局何を言いたいのか分からなくなる。


 アオは、そのことをよく知っていた。


 本人にも何度か言った。


 二人が川沿いで足を止める。


 水中まで、くぐもった声が届いた。


「し、白崎さん」


「はい」


「オ、オレ……その……」


 いつもの十分の一くらいの声だった。


 水の中で、アオの背びれがぴんと立った。


 赤木さとるの声ではない。


 また何かの病気かもしれない。


「ずっと、言いたいことがあって」


「はい」


「その、オレは……白崎さんといると、落ち着くというか、いや、落ち着かないというか、落ち着きたいけど落ち着けないというか」


 玲奈は微笑んでいた。


「はい」


「アオに言わせると、病気に近い状態で」


 水の中で、アオはうなずいた。


「でも、悪い病気ではないというか」


 さとるが懐から小さな箱を取り出した。


 手が震えている。


「オ、オレと」


 声がさらに小さくなる。


「けっ……」


 アオは耳を澄ませた。


「けっ……」


 さとるの顔は真っ赤だった。


 この世の終わりでも迎えるような顔をしている。


「けっ……結婚してください」


 玲奈は少し目を伏せた。


 そして静かに言った。


「はい」


 風が吹いた。


 咲き始めた桜が、かすかに揺れた。


 さとるは固まった。


「……え?」


「お願いします」


「え……あ、はい……いや、オレが言ったんですけど。え、ほんとに?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「夢では」


「ありません」


 玲奈が少し笑った。


 その時だった。


 川面が、ぽこりと揺れた。


 黒緑色の頭が、水の中からひょっこり出た。


 琥珀色の目。


 濡れた鱗。


 首元のエラ。


 無表情。


 アオだった。


「けっこんとは?」


「うわああああああ!」


 さとるが悲鳴を上げた。


 玲奈も、さすがに一歩後ろへ下がった。


「あ、アオ! そんなところで盗み聞きすんなって!」


 アオは解せない顔をした。


「春は隠れていなければならない」


「隠れ方にも場所があるだろ!」


「ここは水が深い。隠れやすい」


「そういうことじゃない!」


 玲奈が片手で口元を押さえている。


 笑いをこらえているのか、恥ずかしいのか。


 たぶん両方だった。


「けっこんとは?」


「聞くな!」


「なぜ」


「今は……今は聞くな!」


 玲奈も頬を赤くして言った。


「アオ、あとで説明しますから」


「今では駄目か」


「今は……少し恥ずかしいです」


 アオは二人を見た。


「恥ずかしいが、喜ばしいことか」


 さとるが頭を抱えた。


「……ほぼそれで合ってる」


「問題ない」


「いや、最初にアオに聞かれたってのが……」


 アオは水面から肩まで出した。


「赤木さとる」


「何だ」


「白崎玲奈と、けっこんするのか」


 さとるの顔が、また赤くなった。


「……その、まあ、そういうことに、なりました」


 玲奈も小さくうなずく。


「よいことか」


 さとるは一度息を整えた。


「うん。オレにとっては、すごく」


 玲奈も静かに言った。


「私にとっても、とても大切なことです」


 アオはうなずいた。


「なら、よい」


 さとるはほっと息を吐く。


 だが、すぐアオを指さした。


「ただし! 誰にも言うなよ!」


「なぜ」


「まだ、ちゃんとみんなに話してないんだ」


「赤木さとると白崎玲奈は、けっこんする」


「復唱するな!」


「喜ばしいことではないのか」


「今は広める情報じゃない!」


 アオは少し考えた。


「佐辺の情報は早い」


「そうだけど!」


「半魚人が保湿クリームで溺れそうになったことも、すぐ知られた」


「それは……まあ……そうだけど」


 玲奈が小さく笑った。


「アオ、今回はできれば秘密にしてください」


「秘密」


「はい」


「秘密は、難しい」


「難しいですか」


「ミナトには言う」


 さとるが絶望した顔をした。


「そこから広がる!」


「ミナトは、アオの唯一だ」


「唯一経由で広がるのが一番まずいんだよ!」


 アオは真剣に言った。


「秘密は、ミナトと半分こする」


「半分こしないでくれ!」



  *


 三日後。


 佐辺では、赤木さとると白崎玲奈の婚約をかなりの人間が知っていた。


 最初にアオがミナトへ言った。


「赤木さとると白崎玲奈は、けっこんする」


 ミナトは味噌汁を吹き出しかけた。


「は!? どこで聞いた!?」


「川の中」


「どういう状況だよ」


 そしてミナトが辰蔵へ。


「まだ内緒っぽいんですけど」


 辰蔵から由紀子へ。


「まだ内緒らしいんじゃがな」


 そこから先は早かった。


 大きな声では言えない話ほど、不思議とよく広がる。


 翌日、畑仕事をしていた老婆が、さとるに声をかけた。


「おめでとう。赤飯炊くかい?」


 さとるは、その場で膝から崩れ落ちた。


「アオ……!」


 その頃。


 川の中で、アオはくしゃみをした。


「誰かが、アオを呼んだ」


 隣でミナトが笑いをこらえる。


「たぶん、さとるさんだな」


「怒っているか」


「たぶん」


「なぜ」


「お前が秘密を水流に乗せたから」


「ミナトが辰蔵に話した」


「オレも悪い」


「半分こだ」


「失敗を半分こするなって言っただろ」



  *


 それでも、婚約は誰にとっても嬉しい知らせだった。


 久枝との別れ。


 冬。


 そして、春。


 佐辺にも少しずつ、明るい空気が戻っていた。


 工事中の大橋も、形を整え始めている。


 両岸の橋台はすでにできていた。


 川の中には新しい橋脚が立ち、その上をつなぐ工事も少しずつ進んでいる。


 まだ完成には遠い。


 それでも、以前よりずっと「橋らしい」姿になっていた。


 春のある夕方。


 アオ、ミナト、辰蔵、由紀子、さとる、玲奈は、大橋から少し上流へ離れた河原に集まった。


 川岸には、桜が数本まとまって咲いている。


 道路から少し下った場所にあり、昼間でも観光客がわざわざ入ってくることは少ない。


 まして、日が傾き始めたこの時間には、川沿いを歩いていた人間の姿もほとんどなくなっていた。


 辰蔵たちは周囲を確認してから、敷物を広げた。


 アオは川にいちばん近い端に座った。


 何かあれば、すぐ水へ入れる場所だった。


 夕方の光の中で、川辺の影は少しずつ深くなっていく。


 満開には、まだ少し早い。


 それでも咲き始めた桜は、夕暮れの中で淡く浮かんでいた。


 それぞれが思い思いの場所に腰を下ろした。


 由紀子は重箱を並べた。


 ミナトは温かい味噌汁の入ったポットを持ってきている。


 さとるは玲奈の隣に座り、まだ少し照れくさそうだった。


 玲奈は穏やかに笑っている。


「春は、花を見るのか」


 アオが言った。


 由紀子がうなずく。


「そうですね。花を見ながら、みんなで食べたり、話したりします」


「花は、食べないのか」


「見るだけ、ですね」


「効率が悪い」


「また出たな」


 ミナトが笑った。


 辰蔵が茶を飲みながら言う。


「効率が悪いから、ええんじゃ」


 アオは少し考えた。


「待つ時間の味か」


「お。鮎のときのやつ、覚えとるんか」


「覚えた」


 さとるが魚肉ソーセージを一本、アオへ差し出した。


「ほら。婚約祝いのおすそ分けだ」


「赤木さとるが祝われるのに、アオがもらうのか」


「いいんだよ。アオにも色々世話になったからな」


「秘密も広めた」


「それは忘れろ」


 アオは魚肉ソーセージを受け取り、いつものように半分に折った。


 片方をミナトへ差し出す。


「半分こ」


「婚約祝いまで半分こか」


「よい知らせは、半分にしても減らない」


 一瞬、みんなが黙った。


 玲奈が柔らかく微笑んだ。


「アオ、とてもいいことを言いますね」


 アオは少しだけ目をそらした。


「ミナトが、そういう顔をした」


「照れてるのか?」


 ミナトが言うと、アオは魚肉ソーセージをかじった。


「うまい」


「逃げたな」


 さとるが玲奈を見る。


「白崎さん」


「はい」


「その、式のことなんですが」


 また声が小さくなった。


 由紀子がそこで手を打った。


「そうだ。結婚式のことなんですけど」


 二人が同時に由紀子を見る。


「大橋の完成セレモニーと合わせるのはどうでしょう」


「え?」


 玲奈が驚いた声を出す。


 由紀子は少し照れたように続けた。


「完成したばかりの大橋を、バージンロードにするんです。里のみんなで見守って。大橋の完成と、お二人の門出を一緒に祝うんです」


 さとるは言葉を失った。


 玲奈も目を見開いている。


 辰蔵がにやりと笑った。


「ええじゃろ。佐辺らしい」


 ミナトもうなずく。


「それ、すごくいいと思います」


 アオは首を傾けた。


「ばーじんろーどとは」


 さとるが慌てた。


「そこは今聞かなくていい!」


 玲奈は頬を赤くしながら、静かに言った。


「でも……素敵ですね」


 さとるは玲奈の横顔を見た。


 その顔が、今度は真剣になる。


「オレも、そうしたいです」


 由紀子の表情が明るくなった。


「では、決まりですね」


 辰蔵が笑う。


「忙しくなるぞ」


「お父さんも手伝ってくださいね」


「もちろんじゃ」


 さとるは深く頭を下げた。


「みなさん、本当にありがとうございます」


 玲奈も、その隣で頭を下げる。


 春の風が吹いた。


 咲き始めた桜の枝が揺れる。


 アオは、その光景を見ていた。


 人間は、よく集まる。


 よく泣く。


 よく笑う。


 よく食べる。


 そして、何かを祝う。


 効率は悪い。


 けれど、悪くない。


 その時だった。


 アオの琥珀色の目が、何かをとらえた。


 少し離れた桜の木。


 その陰に、人影があった。


 男だった。


 帽子をかぶり、首からカメラを下げている。


 いつからそこにいたのか。


 分からない。


 桜を見に来ただけかもしれない。


 写真を撮りに来ただけかもしれない。


 春の佐辺なら、それ自体は不自然ではない。


 けれど。


 男は、桜を見ていなかった。


 川でもない。


 工事中の大橋でもない。


 こちらを見ていた。


 カメラのレンズが、一瞬だけ敷物の方へ向いた。


 アオの鱗が、わずかに立った。


「アオ?」


 ミナトが気づいた。


 アオは男から目を離さない。


 次の瞬間。


 男が桜の陰へ下がった。


 アオは立ち上がった。


「乾燥するから潜る」


 ミナトがアオを見る。


 昼間なら、便利な言い訳だった。


 けれど今は違う。


「……分かった」


 ミナトは静かに答えた。


 アオは川へ入った。


 ほとんど音を立てず、水の中へ沈む。


 もう一度、桜の方を見る。


 男の姿はなかった。



  *


 その夜。


 古民家の土間には、春先の冷たさが残っていた。


 ミナトは湯を沸かし、味噌汁を作った。


 ふきのとうを少し入れてある。


 アオはひと口飲んだ。一瞬、琥珀色の目が大きくなる。


「苦い川だ」


「春の味だよ」


「春は苦いのか」


「そういうこともある」


 アオはもうひと口飲んだ。


 それから黙った。


 ミナトは向かいから、その様子を見ていた。


「アオ」


「何だ」


「夕方、何か見たんだろ」


 少し間があった。


 川の音が聞こえる。


「人間がいた」


「花見客?」


「たぶん」


「たぶん?」


「カメラを持っていた」


「この時期なら珍しくないな」


「でも、桜を見ていなかった」


 ミナトの顔から笑いが消えた。


「こっちを?」


「アオを、見ていたかもしれない」


 土間に沈黙が落ちた。


「写真、撮られたと思うか」


「分からない」


「里の人じゃない?」


「知らない匂いだった」


 ミナトは腕を組んだ。


 アオは椀を見つめている。


「春は、人が増える」


「うん」


「隠れるのは、悪いことではない」


「そう言ったな」


「でも、隠れても、見られることがある」


「……そうだな」


 アオは少し黙った。


「アオは、騒がなかった」


「うん」


「玲奈と赤木さとるが、よい顔をしていた」


 ミナトはアオを見た。


「壊したくなかった」


「……そっか」


 それ以上、ミナトは何も言わなかった。


 しばらくしてから口を開く。


「明日、辰蔵さんたちにも話そう。白崎さんにも」


「騒ぎにするのか」


「逆。騒ぎにならないように、先に共有する」


「佐辺の情報は早い」


「今回は早くていい情報だ」


「秘密ではないのか」


「これは半分こじゃなくて、みんなで持つやつ」


 アオが顔を上げた。


「みんなで持つ」


「一人よりは軽いだろ」


 アオは少し考えた。


「……たぶん」


「たぶんかよ」


「ミナトも持つか」


「持つよ」


「なら、よい」


 ミナトは魚肉ソーセージを一本取り出した。


 無言で半分に折る。


 片方をアオへ差し出した。


「半分こ」


 アオは受け取った。


「怖さもか」


「怖さも」


「春もか」


「春も」


 アオは魚肉ソーセージをかじった。


 土間の外では、佐辺川が流れている。


 穏やかな水音。


 けれど、その向こうに、知らない人間の気配が残っていた。


 川沿いの桜は、もうすぐ満開を迎える。里山は、新芽と桜でやわらかく彩られる。


 その春が何を連れてくるのか。


 まだ、誰にも分からなかった。

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