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アオとミナトの物語  作者: 西坂 隼


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19/19

第18話 橋に残る声

 石井久枝という名を聞けば、佐辺の者なら、たいていが少し笑う。


「ああ、あの久枝ばあさんか」


 そして、決まって誰かが昔話を始める。


 鍬を片手に、畑を荒らしたイノシシを追いかけた話。


 研究施設の職員がアオのことを探りに来たとき、ひ弱な老婆のふりをして近づき、次の瞬間には怒鳴り声で追い返した話。


 アオの誕生日には、誰よりも大量に料理を作り、


「若いもんは食べてなんぼだ」


 と笑っていた話。


 声が大きい。


 気が強い。


 笑い方が豪快。


 腰が痛いと言いながら、誰よりも早く畑へ出る。


 もう年だと言いながら、いざとなれば若い者より先に動く。


 アオにとっても、久枝は少し不思議な人間だった。


 初めて会ったとき、久枝はアオを見て目を丸くした。


 アオは身構えた。


 石を投げられると思った。


 叫ばれると思った。


 ところが久枝の第一声は、


「まあ、でっかいねえ」


 だった。


 腰に手を当てて、しばらくアオを眺める。


「見た目は怖いけど、その目は悪くないね。ほら、これ食べな」


 そう言って、おにぎりを差し出した。


 アオには、その人間がよく分からなかった。


 人間は怖い。


 人間はすぐ騒ぐ。


 人間はすぐ死ぬ。


 けれど久枝は、怖がらず、騒がず、むしろアオのほうをひるませる勢いで近づいてきた。


「アオ、もっと食べな。そんな図体して、遠慮なんか覚えなくていいよ」


 久枝の煮物を食べた。


 焼き魚も食べた。


 山菜のおひたしは少し苦かった。


 アオが何度も首を傾げていると、久枝は腹を抱えて笑った。


「川の主も、山菜には勝てんか」


「主ではない」


「ああ、そうだったね。アオだったね」


 そう言って、また笑った。


     *


 久枝の姿を見かけなくなったのは、秋が深まり始めたころだった。


 畑から聞こえていた大きな声が、いつの間にかしなくなっていた。


 縁側で魚肉ソーセージを食べていたアオの隣で、ミナトがぽつりと言った。


「最近、久枝さん見ないな」


 アオは、魚肉ソーセージを半分に折っていた手を止めた。


「久枝」


「うん。いつもなら集落のほうに行けば、畑から声が聞こえるんだけど」


「怒鳴る声か」


「まあ、だいたいそう」


 アオは耳を澄ませた。


 川の音。


 山から聞こえる虫の声。


 遠くで子どもが笑う声。


 久枝の声は、聞こえなかった。


「いない」


「……うん」


 その日の夕方、辰蔵が瀬川の家へやって来た。


 いつものように軽く笑ってはいたが、目の奥に沈んだものがあった。


 ミナトはすぐに気づいた。


「辰蔵さん。何かありましたか」


 辰蔵はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり腰を下ろした。


「久枝さんな」


 アオが顔を上げる。


「久枝が、どうした」


「具合が悪い」


「かぜか」


「風邪ではない」


 辰蔵は少し間を置いた。


「もう、あまり長くはないそうじゃ」


 ミナトの表情が固まった。


 アオは辰蔵を見る。


「あまり長くない」


「命が、じゃ」


 辰蔵の声は静かだった。


「医者にも言われとる。久枝さん本人も、分かっとる」


 アオはミナトを見た。


「命が長くないとは、何だ」


 ミナトは、すぐには答えられなかった。


 アオは死を知らないわけではない。


 川では魚が死ぬ。


 山では獣が死ぬ。


 施設にいたころ、水槽のなかで小さな生き物が動かなくなるのも見てきた。


 けれど、人間の死はまだ遠かった。


 会った人間が、もう会えなくなること。


 声が聞こえなくなること。


 昨日までそこにいた誰かが、どこにもいなくなること。


 ミナトは少し迷ってから、しかしはっきりと言った。


「久枝さんは……もうすぐ死ぬ」


 アオのエラが、わずかに動いた。


「死ぬ」


「うん」


「治らないのか」


「たぶん、もう」


「白崎玲奈でも」


「難しいと思う」


 アオは黙った。


「ミナトも、いつか死ぬのか」


 突然そう聞かれて、ミナトは一瞬言葉を失った。


「……いつかはな」


「すぐか」


「すぐじゃない」


「人間はすぐ死ぬ」


「いつも言ってるけど、すぐじゃないよ」


 ミナトは少し笑おうとした。


 うまく笑えなかった。


「でも、いつかは誰でも死ぬ」


 アオは何も答えなかった。


 その夜、魚肉ソーセージの半分が、食べられないまま皿に残っていた。


     *


 翌日。


 ミナトとアオは、久枝の家を訪ねた。


 集落の少し高い場所にある、小さな古い家だった。


 畑の端には、もう秋の草が伸びている。


 柿の木には、少し色づき始めた実が下がっていた。


 玄関先には干された野菜。


 軒下には古いかご。


 縁側には、使い込まれた座布団。


 いつもなら、家の中へ入る前から久枝の声が聞こえてきそうだった。


 今日は静かだった。


 久枝は、奥の部屋で布団に横になっていた。


 身体が、以前よりずっと小さく見えた。


 鍬を振り回していた人と同じ人物とは思えないほど、腕も細くなっている。


 それでもアオを見ると、久枝はにやりと笑った。


「来たねえ、川の主」


「主ではない」


「知ってるよ。アオだろ」


 声はかすれていた。


 でも、笑い方は久枝のままだった。


 ミナトが布団のそばに膝をつく。


「久枝さん、具合は」


「見ての通りさ。畑にも出られん。イノシシが来たら、今年は見逃してやるしかないねえ」


「イノシシのほうが安心してますよ」


「生意気言うんじゃないよ、ミナト」


 久枝は笑った。


 すぐに、少し咳き込む。


 アオの背びれが、ぴくりと動いた。


「久枝」


「大丈夫だよ。ちょっと胸が鳴っただけさ」


「痛いのか」


「まあ、少しね」


「治るのか」


 部屋が静かになった。


 久枝はアオを見る。


「治らないねえ」


 アオは動かなかった。


「なぜ」


「そういうときもあるのさ」


「薬は」


「飲んだよ」


「白崎玲奈は」


「玲奈ちゃんも会いに来てくれたよ」


「ミナトは」


「ミナトにだって、どうにもできないことはある」


 アオはミナトを見る。


 ミナトは、何も言えなかった。


 久枝がアオに手招きをした。


「こっちへおいで」


 アオは少し迷ってから、布団のそばまで寄った。


 久枝は細くなった手を伸ばし、アオの手の甲に触れた。


 黒緑色の鱗。


 冷たい皮膚。


 鋭い爪。


 久枝の手は、乾いて温かかった。


「あんたは、本当に不思議な手をしてるねえ」


「怖いか」


「怖くないよ」


「なぜ」


「あたしはね、人を見る目には少し自信があるんだよ」


「アオは、人ではない」


「細かいことを言うんじゃないよ」


 久枝は笑った。


「あんたは、この里を助けてくれた。子どもも守った。川もきれいにしてくれた。あたしらの飯もうまそうに食べた。それで十分さ」


 アオは何も言わなかった。


 久枝は目を細める。


「いい顔になったねえ、アオ」


「顔は怖いと、久枝が言った」


「怖いよ」


「やはり」


「でも、いい顔になった」


 久枝の声が、少しだけやわらかくなる。


「最初に見たときより、ずっといい顔だ」


 アオのエラ蓋が、小さく動いた。


 その言葉の意味は、まだよく分からなかった。


     *


 帰り道。


 アオはずっと黙っていた。


 川沿いの道を歩く。


 草の色は夏より少し落ち着き、川面には低くなった陽の光が散っていた。


「ミナト」


「うん」


「久枝は、死ぬのか」


 ミナトは足を止めた。


「……うん」


「死ぬと、動かない」


「うん」


「話さない」


「うん」


「食べない」


「うん」


「もう、笑わない」


 ミナトは少し息を吸った。


「そうだな」


 アオは川を見る。


「なら、久枝は、いなくなる」


「そうだな」


「でも、辰蔵は久枝の話をする。由紀子もする。婆さんたちもする。ミナトもする」


「うん」


「いなくなるのに、話は残るのか」


 ミナトは少し考えた。


「残るよ」


「なぜ」


「覚えてるから」


「覚えている」


「久枝さんが何を言ったか。何をしてくれたか。どんな顔で笑ったか。そういうのは残る」


「身体は、いなくなる」


「うん」


「でも、覚えている」


「そう」


 アオは、自分の胸に手を当てた。


「ここか」


「たぶん、そこ」


 しばらく歩く。


 やがてアオが言った。


「アオは、久枝に何かしたい」


「うん」


「何をすればいい」


 ミナトは考えた。


「久枝さんが喜ぶこと、かな」


「何を喜ぶ」


「食べることは好きだったな」


「魚肉ソーセージか」


「たぶん違う」


「なぜ」


「あの人、鮎が好きだったんだよ。辰蔵さんから聞いたことある。若いころから鮎の塩焼きが好きだったって」


 アオが足を止めた。


「鮎」


「うん」


 アオは川を見た。


「捕る」


「今から?」


「捕る」


「時期はもう遅いぞ」


「いる」


「まあ……アオがそう言うならいるんだろうけど」


 アオは川へ向かった。


「たくさんじゃなくていいからな」


「分かった」


 ざぶん、と水音がした。


 夏なら、アオは鮎をすぐに見つける。


 けれど今は、十月も半ばを過ぎている。


 水温も下がり、夏のように簡単には見つからない。


 アオは何度も潜った。


 流れを読み、岩の陰を探り、深い場所まで進む。


 いつもより時間がかかった。


 それでも、やめなかった。


 やがて、水面から顔を出した。


 手には二匹の鮎。


 夏のものより少し細い。


 けれど、銀色の身体はまだきれいだった。


「これが、よい」


 ミナトは鮎を見た。


 それからアオを見る。


「うん。きっと喜ぶ」


     *


 その日の夕方。


 久枝の家の庭先に、小さな火が起こされた。


 大きな宴ではない。


 にぎやかな祭りでもない。


 辰蔵と由紀子。


 玲奈。


 さとる。


 ミナト。


 それから、近所の婆さんたちが何人か。


 久枝は縁側に座らせてもらっていた。


 背中には座布団。


 膝には薄い毛布。


 顔色はよくない。


 それでも、目は明るかった。


 アオが鮎を差し出す。


「久枝」


「なんだい」


「鮎だ」


「見れば分かるよ」


「よい鮎だ」


「そうかい」


「久枝が好きだと、ミナトが言った」


 久枝がミナトを見る。


「余計なことを言ったねえ」


「すみません」


「いいんだよ」


 久枝は鮎を見た。


 少し細くなった銀色の身体。


 川の匂い。


 久枝の表情が、ほんの少しだけ若返ったように見えた。


「ああ……いい鮎だ」


 さとるが火を見て、辰蔵が串を打った。


 由紀子が塩を振る。


 玲奈は、久枝が食べやすいよう、焼き上がったら身をほぐすことにした。


 鮎がゆっくり焼けていく。


 脂が火に落ちる。


 ぱちり、と音がする。


 香ばしい匂いが庭に広がった。


 久枝は目を閉じて、それを吸い込んだ。


「秋だけど……夏の匂いがするねえ」


 誰も、すぐには答えなかった。


 アオは火から少し離れた場所で、鮎を見ていた。


 少し前にも、みんなで鮎を焼いた。


 あの日は、笑い声がずっと続いていた。


 今日は、静かだった。


 でも、久枝の顔は穏やかだった。


 焼けた身を玲奈が少しほぐし、久枝へ渡した。


 久枝は箸で小さく取る。


 一口。


 ゆっくり噛む。


 そして笑った。


「うまい」


 アオのエラ蓋が震えた。


「本当か」


「本当だよ」


「もっと食べるか」


「そんなに食べたら、あの世まで腹いっぱいになっちまう」


 婆さんたちが笑った。


 少しだけ、目元をぬぐう者もいた。


 久枝はもう一口食べた。


「アオ」


「何だ」


「ありがとうね」


 アオは首を傾けた。


「鮎を捕っただけだ」


「それが嬉しいんだよ」


「鮎は、川にいる」


「そうだねえ。でも、あんたが捕って、ここまで持ってきてくれた。それが嬉しいんだ」


 アオは黙った。


 久枝は、もう一口だけ食べた。


 それから箸を置いた。


「もう十分だ」


「まだある」


「十分だよ」


「足りているのか」


「足りてる」


 久枝はゆっくり息を吐いた。


「思い残すことは、もうないねえ」


「思い残す」


「やり残して、気になることだよ」


「ないのか」


「ない」


 久枝は庭先を見渡した。


「この里は、なんとかなる。橋もそのうちできる。子どもらは笑ってる。アオもいる」


 にやりと笑う。


「あたしがいなくても、十分うるさそうだ」


 辰蔵が鼻をすすった。


「何を言うとる。久枝さんがおらんと、静かすぎるわ」


「あんたが騒げばいいだろう、辰蔵」


「わしは久枝さんほど声が出ん」


「嘘おっしゃい」


 小さな笑いが起きた。


 アオは久枝を見ていた。


 胸の奥が、変だった。


 痛いわけではない。


 息ができないわけでもない。


 けれど、重かった。


 川底に沈んだ石のようなものが、胸の中にある。


 琥珀色の目が、わずかに濡れた。


 久枝が気づいた。


「泣くんじゃないよ。鮎がしょっぱくなる」


 アオは瞬きをした。


「泣いていない」


「泣いてるじゃないか」


「水だ」


「それを泣くって言うんだよ」


 久枝は細い手を伸ばした。


 ミナトがそっと支える。


 指先が、アオの頬に触れた。


「アオ。あんたは顔が怖いんだから、泣いたらもっと怖いよ」


 アオは固まった。


 ミナトは笑いそうになって、こらえた。


 久枝は、そのままアオを見つめた。


「いい顔になった……」


 アオは何も言えなかった。


 その言葉だけが、焚き火の煙と一緒に、秋の空へ上っていった。


     *


 三日後。


 石井久枝は、静かに息を引き取った。


 よく晴れた朝だった。


 風も強くなかった。


 障子から差し込む光の中で、眠るように逝ったという。


 久枝の家には、朝から人が絶えなかった。


「昔、畑を手伝わされたなあ」


「漬物を山ほど持たされたわ」


「あの人に怒られた回数なんか、数えられん」


「でも最後は必ず飯を食わせてくれた」


 笑いながら泣く者がいた。


 泣きながら笑う者もいた。


 アオは、家から少し離れたところに立っていた。


 中へ入っていいのか、分からなかった。


 ミナトが隣に立つ。


「入るか?」


「久枝は、もういない」


「うん」


「中にいるのは、久枝ではないのか」


 ミナトは少し迷った。


「久枝さんの身体はある。でも、話したり、笑ったり、怒ったりする久枝さんは、もういない」


 アオは静かに聞いた。


「難しい」


「うん。難しい」


「三日前に鮎を食べた」


「うん」


「流されたのでもない」


「うん」


「でも、いなくなった」


「……うん」


 アオは家を見る。


「久枝の声が、まだ聞こえる」


 ミナトも久枝の家を見た。


「それが、覚えてるってことだよ」


 アオは胸に手を当てた。


「ここにある」


「うん」


「痛い」


「うん」


「痛いけど、捨てたくない」


 ミナトは小さくうなずいた。


「捨てなくていい」


     *


 久枝の葬儀は、静かなものだった。


 大きな飾りはない。


 けれど、花がたくさんあった。


 畑の花。


 山の花。


 子どもたちが摘んできた、小さな花。


 由紀子は子どもたちと手紙を書いた。


 さとるは消防団の仲間と道の整理をした。


 玲奈は、久枝が最後に食べた鮎のことを思い出していた。


 辰蔵は、いつもより口数が少なかった。


 ただ一度だけ、


「久枝さんには、最後まで勝てんかったなあ」


 とつぶやいた。


 ミナトは何も聞き返さなかった。


 アオは、葬儀のあいだ少し離れた木陰にいた。


 人が多い。


 泣く人も多い。


 線香の匂いがする。


 それでも、逃げなかった。


 久枝が、最初に自分を見ても逃げなかったように。


 アオも、そこにいた。


     *


 葬儀のあと、久枝の家から一通の手紙が見つかった。


 封筒には、力強い字で、


「里の者へ」


 と書かれていた。


 亡くなる少し前に、久枝自身が書いたものだった。


 その日の夕暮れ。


 辰蔵は、人のいなくなった建設途中の佐辺大橋のたもとに、皆を呼んだ。


 河川敷には、佐辺の者たちだけが集まっていた。


 大橋の工事は、一年前よりずっと進んでいる。


 両岸の橋台はすでに形になり、川の中には新しい橋脚が立っていた。


 まだ橋桁は完全にはつながっていない。


 完成までは、もう少し時間がかかる。


 アオとミナトは、皆から少し離れた、こちら側の橋台近くに立っていた。


 川べりには、由紀子が描いたアオの小さなプレートの台座も見えている。


 辰蔵が封筒を持ち上げた。


「久枝さんの手紙じゃ。ここで読むのがええと思った」


 アオは、建設途中の橋を見上げた。


 久枝は、この橋の完成を見ることができなかった。


 辰蔵が封筒を開いた。


「読むぞ」


 川の音だけが静かに鳴っている。


     *


 里の者へ。


 この手紙が読まれるころには、私はもう畑にも台所にもおらんでしょう。


 私の声が聞こえんようになって、ほっとしている者もいるかもしれんね。


 けれど、そう簡単に静かにしてやる気はないので、最後に少しだけ言い残します。


 この里は、川に生かされてきました。


 ときには川に泣かされ、ときには川に食わせてもらい、ときには川に子どもらの笑い声を預けてきました。


 その川に、アオがいました。


 最初に見たときは、そりゃあ怖い顔だと思いました。


 今でも怖い顔です。


 でも、あの子の目は悪くありませんでした。


 私にとってアオは、佐辺川の守り神です。


 本人はきっと、神ではないと言うでしょう。


 それでいい。


 神でなくても、守り神です。


 アオは、この里の人を助け、子どもらを守りました。


 人間を怖がっていたくせに、それでも何度も人間へ手を伸ばしました。


 生きているうちに、アオに出会えてよかった。


 これから先、完成した大橋を渡るたびに、忘れないでください。


 この橋の工事が進むように、川のがれきを片付けてくれた手があったこと。


 その手が、人間の手ではなかったこと。


 その手が、誰よりもあたたかい手だったこと。


 アオに感謝する気持ちを、忘れないでください。


 そして、アオ。


 あんたは顔が怖い。


 けれど、いい顔になった。


 ミナトのそばにいて、里の者に囲まれて、ちゃんといい顔になった。


 よく食べなさい。


 よく怒りなさい。


 困ったら人を呼びなさい。


 泣くときは、まあ、少しだけ泣きなさい。


 その代わり、泣きすぎたら鮎がしょっぱくなるから気をつけなさい。


 石井久枝


     *


 辰蔵は読み終えた。


 すぐには、誰も声を出さなかった。


 由紀子が目元をぬぐう。


 さとるは、ぐっと口を結んでいた。


 玲奈の頬を、静かに涙が伝っている。


 ミナトはアオを見た。


 アオは動かなかった。


 夕方の風が、川面を渡ってくる。


 しばらくして、アオはすぐそばの橋台へ手を伸ばした。


 冷たいコンクリートの壁に、手のひらを置く。


 この橋台がやがて、佐辺の北と南をつなぐ大橋を支える土台となる。


「久枝は、いない」


 ミナトが近くまで歩いてくる。


「うん」


「でも、声がある」


「うん」


 アオは、自分の手の下にある壁を見た。


「ここにある」


 それから、胸に手を当てる。


「ここにもある」


「うん」


「死ぬと、全部消えるのではないのか」


「全部は消えないよ」


「少し、残る」


「残る」


 アオの目から、水が落ちた。


 一粒。


 もう一粒。


 アオは慌てて頬をこする。


「水だ」


「うん」


「アオは、壊れたか」


「壊れてない」


「これは、何だ」


 ミナトは少しだけ笑った。


「久枝さんを覚えてる水だよ」


 アオは川のほうを向いた。


 背びれを皆へ向ける。


 喉の奥から、低い音が漏れた。


「グッ……グッ……」


 言葉にはならなかった。


 ただ、涙が落ちた。


 川の音に混じって、久枝の声が聞こえた気がした。


『泣くときは、まあ、少しだけ泣きなさい』


 辰蔵が鼻をすすった。


「久枝さんは、ほんまに最後まで久枝さんじゃったな」


 由紀子が小さくうなずいた。


「ええ」


 さとるが目元をぬぐう。


「……鮎がしょっぱくなりますね」


 玲奈が、涙のまま少し笑った。


「そうですね」


 ミナトも笑った。


 アオは、もう一度、橋台の冷たいコンクリートに手を置いた。


「久枝」


 川の音が流れていく。


「アオは、忘れない」


 誰も何も言わなかった。


 夕暮れの中、建設途中の橋が川の上へ伸びている。


 まだ、対岸まではつながっていない。


 アオはその橋に触れたまま、静かに目を閉じた。


 久枝の声を探すように。


「いい顔に、なる」


 ミナトは隣で、静かにうなずいた。


 

 

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