第18話 橋に残る声
石井久枝という名を聞けば、佐辺の者なら、たいていが少し笑う。
「ああ、あの久枝ばあさんか」
そして、決まって誰かが昔話を始める。
鍬を片手に、畑を荒らしたイノシシを追いかけた話。
研究施設の職員がアオのことを探りに来たとき、ひ弱な老婆のふりをして近づき、次の瞬間には怒鳴り声で追い返した話。
アオの誕生日には、誰よりも大量に料理を作り、
「若いもんは食べてなんぼだ」
と笑っていた話。
声が大きい。
気が強い。
笑い方が豪快。
腰が痛いと言いながら、誰よりも早く畑へ出る。
もう年だと言いながら、いざとなれば若い者より先に動く。
アオにとっても、久枝は少し不思議な人間だった。
初めて会ったとき、久枝はアオを見て目を丸くした。
アオは身構えた。
石を投げられると思った。
叫ばれると思った。
ところが久枝の第一声は、
「まあ、でっかいねえ」
だった。
腰に手を当てて、しばらくアオを眺める。
「見た目は怖いけど、その目は悪くないね。ほら、これ食べな」
そう言って、おにぎりを差し出した。
アオには、その人間がよく分からなかった。
人間は怖い。
人間はすぐ騒ぐ。
人間はすぐ死ぬ。
けれど久枝は、怖がらず、騒がず、むしろアオのほうをひるませる勢いで近づいてきた。
「アオ、もっと食べな。そんな図体して、遠慮なんか覚えなくていいよ」
久枝の煮物を食べた。
焼き魚も食べた。
山菜のおひたしは少し苦かった。
アオが何度も首を傾げていると、久枝は腹を抱えて笑った。
「川の主も、山菜には勝てんか」
「主ではない」
「ああ、そうだったね。アオだったね」
そう言って、また笑った。
*
久枝の姿を見かけなくなったのは、秋が深まり始めたころだった。
畑から聞こえていた大きな声が、いつの間にかしなくなっていた。
縁側で魚肉ソーセージを食べていたアオの隣で、ミナトがぽつりと言った。
「最近、久枝さん見ないな」
アオは、魚肉ソーセージを半分に折っていた手を止めた。
「久枝」
「うん。いつもなら集落のほうに行けば、畑から声が聞こえるんだけど」
「怒鳴る声か」
「まあ、だいたいそう」
アオは耳を澄ませた。
川の音。
山から聞こえる虫の声。
遠くで子どもが笑う声。
久枝の声は、聞こえなかった。
「いない」
「……うん」
その日の夕方、辰蔵が瀬川の家へやって来た。
いつものように軽く笑ってはいたが、目の奥に沈んだものがあった。
ミナトはすぐに気づいた。
「辰蔵さん。何かありましたか」
辰蔵はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり腰を下ろした。
「久枝さんな」
アオが顔を上げる。
「久枝が、どうした」
「具合が悪い」
「かぜか」
「風邪ではない」
辰蔵は少し間を置いた。
「もう、あまり長くはないそうじゃ」
ミナトの表情が固まった。
アオは辰蔵を見る。
「あまり長くない」
「命が、じゃ」
辰蔵の声は静かだった。
「医者にも言われとる。久枝さん本人も、分かっとる」
アオはミナトを見た。
「命が長くないとは、何だ」
ミナトは、すぐには答えられなかった。
アオは死を知らないわけではない。
川では魚が死ぬ。
山では獣が死ぬ。
施設にいたころ、水槽のなかで小さな生き物が動かなくなるのも見てきた。
けれど、人間の死はまだ遠かった。
会った人間が、もう会えなくなること。
声が聞こえなくなること。
昨日までそこにいた誰かが、どこにもいなくなること。
ミナトは少し迷ってから、しかしはっきりと言った。
「久枝さんは……もうすぐ死ぬ」
アオのエラが、わずかに動いた。
「死ぬ」
「うん」
「治らないのか」
「たぶん、もう」
「白崎玲奈でも」
「難しいと思う」
アオは黙った。
「ミナトも、いつか死ぬのか」
突然そう聞かれて、ミナトは一瞬言葉を失った。
「……いつかはな」
「すぐか」
「すぐじゃない」
「人間はすぐ死ぬ」
「いつも言ってるけど、すぐじゃないよ」
ミナトは少し笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「でも、いつかは誰でも死ぬ」
アオは何も答えなかった。
その夜、魚肉ソーセージの半分が、食べられないまま皿に残っていた。
*
翌日。
ミナトとアオは、久枝の家を訪ねた。
集落の少し高い場所にある、小さな古い家だった。
畑の端には、もう秋の草が伸びている。
柿の木には、少し色づき始めた実が下がっていた。
玄関先には干された野菜。
軒下には古いかご。
縁側には、使い込まれた座布団。
いつもなら、家の中へ入る前から久枝の声が聞こえてきそうだった。
今日は静かだった。
久枝は、奥の部屋で布団に横になっていた。
身体が、以前よりずっと小さく見えた。
鍬を振り回していた人と同じ人物とは思えないほど、腕も細くなっている。
それでもアオを見ると、久枝はにやりと笑った。
「来たねえ、川の主」
「主ではない」
「知ってるよ。アオだろ」
声はかすれていた。
でも、笑い方は久枝のままだった。
ミナトが布団のそばに膝をつく。
「久枝さん、具合は」
「見ての通りさ。畑にも出られん。イノシシが来たら、今年は見逃してやるしかないねえ」
「イノシシのほうが安心してますよ」
「生意気言うんじゃないよ、ミナト」
久枝は笑った。
すぐに、少し咳き込む。
アオの背びれが、ぴくりと動いた。
「久枝」
「大丈夫だよ。ちょっと胸が鳴っただけさ」
「痛いのか」
「まあ、少しね」
「治るのか」
部屋が静かになった。
久枝はアオを見る。
「治らないねえ」
アオは動かなかった。
「なぜ」
「そういうときもあるのさ」
「薬は」
「飲んだよ」
「白崎玲奈は」
「玲奈ちゃんも会いに来てくれたよ」
「ミナトは」
「ミナトにだって、どうにもできないことはある」
アオはミナトを見る。
ミナトは、何も言えなかった。
久枝がアオに手招きをした。
「こっちへおいで」
アオは少し迷ってから、布団のそばまで寄った。
久枝は細くなった手を伸ばし、アオの手の甲に触れた。
黒緑色の鱗。
冷たい皮膚。
鋭い爪。
久枝の手は、乾いて温かかった。
「あんたは、本当に不思議な手をしてるねえ」
「怖いか」
「怖くないよ」
「なぜ」
「あたしはね、人を見る目には少し自信があるんだよ」
「アオは、人ではない」
「細かいことを言うんじゃないよ」
久枝は笑った。
「あんたは、この里を助けてくれた。子どもも守った。川もきれいにしてくれた。あたしらの飯もうまそうに食べた。それで十分さ」
アオは何も言わなかった。
久枝は目を細める。
「いい顔になったねえ、アオ」
「顔は怖いと、久枝が言った」
「怖いよ」
「やはり」
「でも、いい顔になった」
久枝の声が、少しだけやわらかくなる。
「最初に見たときより、ずっといい顔だ」
アオのエラ蓋が、小さく動いた。
その言葉の意味は、まだよく分からなかった。
*
帰り道。
アオはずっと黙っていた。
川沿いの道を歩く。
草の色は夏より少し落ち着き、川面には低くなった陽の光が散っていた。
「ミナト」
「うん」
「久枝は、死ぬのか」
ミナトは足を止めた。
「……うん」
「死ぬと、動かない」
「うん」
「話さない」
「うん」
「食べない」
「うん」
「もう、笑わない」
ミナトは少し息を吸った。
「そうだな」
アオは川を見る。
「なら、久枝は、いなくなる」
「そうだな」
「でも、辰蔵は久枝の話をする。由紀子もする。婆さんたちもする。ミナトもする」
「うん」
「いなくなるのに、話は残るのか」
ミナトは少し考えた。
「残るよ」
「なぜ」
「覚えてるから」
「覚えている」
「久枝さんが何を言ったか。何をしてくれたか。どんな顔で笑ったか。そういうのは残る」
「身体は、いなくなる」
「うん」
「でも、覚えている」
「そう」
アオは、自分の胸に手を当てた。
「ここか」
「たぶん、そこ」
しばらく歩く。
やがてアオが言った。
「アオは、久枝に何かしたい」
「うん」
「何をすればいい」
ミナトは考えた。
「久枝さんが喜ぶこと、かな」
「何を喜ぶ」
「食べることは好きだったな」
「魚肉ソーセージか」
「たぶん違う」
「なぜ」
「あの人、鮎が好きだったんだよ。辰蔵さんから聞いたことある。若いころから鮎の塩焼きが好きだったって」
アオが足を止めた。
「鮎」
「うん」
アオは川を見た。
「捕る」
「今から?」
「捕る」
「時期はもう遅いぞ」
「いる」
「まあ……アオがそう言うならいるんだろうけど」
アオは川へ向かった。
「たくさんじゃなくていいからな」
「分かった」
ざぶん、と水音がした。
夏なら、アオは鮎をすぐに見つける。
けれど今は、十月も半ばを過ぎている。
水温も下がり、夏のように簡単には見つからない。
アオは何度も潜った。
流れを読み、岩の陰を探り、深い場所まで進む。
いつもより時間がかかった。
それでも、やめなかった。
やがて、水面から顔を出した。
手には二匹の鮎。
夏のものより少し細い。
けれど、銀色の身体はまだきれいだった。
「これが、よい」
ミナトは鮎を見た。
それからアオを見る。
「うん。きっと喜ぶ」
*
その日の夕方。
久枝の家の庭先に、小さな火が起こされた。
大きな宴ではない。
にぎやかな祭りでもない。
辰蔵と由紀子。
玲奈。
さとる。
ミナト。
それから、近所の婆さんたちが何人か。
久枝は縁側に座らせてもらっていた。
背中には座布団。
膝には薄い毛布。
顔色はよくない。
それでも、目は明るかった。
アオが鮎を差し出す。
「久枝」
「なんだい」
「鮎だ」
「見れば分かるよ」
「よい鮎だ」
「そうかい」
「久枝が好きだと、ミナトが言った」
久枝がミナトを見る。
「余計なことを言ったねえ」
「すみません」
「いいんだよ」
久枝は鮎を見た。
少し細くなった銀色の身体。
川の匂い。
久枝の表情が、ほんの少しだけ若返ったように見えた。
「ああ……いい鮎だ」
さとるが火を見て、辰蔵が串を打った。
由紀子が塩を振る。
玲奈は、久枝が食べやすいよう、焼き上がったら身をほぐすことにした。
鮎がゆっくり焼けていく。
脂が火に落ちる。
ぱちり、と音がする。
香ばしい匂いが庭に広がった。
久枝は目を閉じて、それを吸い込んだ。
「秋だけど……夏の匂いがするねえ」
誰も、すぐには答えなかった。
アオは火から少し離れた場所で、鮎を見ていた。
少し前にも、みんなで鮎を焼いた。
あの日は、笑い声がずっと続いていた。
今日は、静かだった。
でも、久枝の顔は穏やかだった。
焼けた身を玲奈が少しほぐし、久枝へ渡した。
久枝は箸で小さく取る。
一口。
ゆっくり噛む。
そして笑った。
「うまい」
アオのエラ蓋が震えた。
「本当か」
「本当だよ」
「もっと食べるか」
「そんなに食べたら、あの世まで腹いっぱいになっちまう」
婆さんたちが笑った。
少しだけ、目元をぬぐう者もいた。
久枝はもう一口食べた。
「アオ」
「何だ」
「ありがとうね」
アオは首を傾けた。
「鮎を捕っただけだ」
「それが嬉しいんだよ」
「鮎は、川にいる」
「そうだねえ。でも、あんたが捕って、ここまで持ってきてくれた。それが嬉しいんだ」
アオは黙った。
久枝は、もう一口だけ食べた。
それから箸を置いた。
「もう十分だ」
「まだある」
「十分だよ」
「足りているのか」
「足りてる」
久枝はゆっくり息を吐いた。
「思い残すことは、もうないねえ」
「思い残す」
「やり残して、気になることだよ」
「ないのか」
「ない」
久枝は庭先を見渡した。
「この里は、なんとかなる。橋もそのうちできる。子どもらは笑ってる。アオもいる」
にやりと笑う。
「あたしがいなくても、十分うるさそうだ」
辰蔵が鼻をすすった。
「何を言うとる。久枝さんがおらんと、静かすぎるわ」
「あんたが騒げばいいだろう、辰蔵」
「わしは久枝さんほど声が出ん」
「嘘おっしゃい」
小さな笑いが起きた。
アオは久枝を見ていた。
胸の奥が、変だった。
痛いわけではない。
息ができないわけでもない。
けれど、重かった。
川底に沈んだ石のようなものが、胸の中にある。
琥珀色の目が、わずかに濡れた。
久枝が気づいた。
「泣くんじゃないよ。鮎がしょっぱくなる」
アオは瞬きをした。
「泣いていない」
「泣いてるじゃないか」
「水だ」
「それを泣くって言うんだよ」
久枝は細い手を伸ばした。
ミナトがそっと支える。
指先が、アオの頬に触れた。
「アオ。あんたは顔が怖いんだから、泣いたらもっと怖いよ」
アオは固まった。
ミナトは笑いそうになって、こらえた。
久枝は、そのままアオを見つめた。
「いい顔になった……」
アオは何も言えなかった。
その言葉だけが、焚き火の煙と一緒に、秋の空へ上っていった。
*
三日後。
石井久枝は、静かに息を引き取った。
よく晴れた朝だった。
風も強くなかった。
障子から差し込む光の中で、眠るように逝ったという。
久枝の家には、朝から人が絶えなかった。
「昔、畑を手伝わされたなあ」
「漬物を山ほど持たされたわ」
「あの人に怒られた回数なんか、数えられん」
「でも最後は必ず飯を食わせてくれた」
笑いながら泣く者がいた。
泣きながら笑う者もいた。
アオは、家から少し離れたところに立っていた。
中へ入っていいのか、分からなかった。
ミナトが隣に立つ。
「入るか?」
「久枝は、もういない」
「うん」
「中にいるのは、久枝ではないのか」
ミナトは少し迷った。
「久枝さんの身体はある。でも、話したり、笑ったり、怒ったりする久枝さんは、もういない」
アオは静かに聞いた。
「難しい」
「うん。難しい」
「三日前に鮎を食べた」
「うん」
「流されたのでもない」
「うん」
「でも、いなくなった」
「……うん」
アオは家を見る。
「久枝の声が、まだ聞こえる」
ミナトも久枝の家を見た。
「それが、覚えてるってことだよ」
アオは胸に手を当てた。
「ここにある」
「うん」
「痛い」
「うん」
「痛いけど、捨てたくない」
ミナトは小さくうなずいた。
「捨てなくていい」
*
久枝の葬儀は、静かなものだった。
大きな飾りはない。
けれど、花がたくさんあった。
畑の花。
山の花。
子どもたちが摘んできた、小さな花。
由紀子は子どもたちと手紙を書いた。
さとるは消防団の仲間と道の整理をした。
玲奈は、久枝が最後に食べた鮎のことを思い出していた。
辰蔵は、いつもより口数が少なかった。
ただ一度だけ、
「久枝さんには、最後まで勝てんかったなあ」
とつぶやいた。
ミナトは何も聞き返さなかった。
アオは、葬儀のあいだ少し離れた木陰にいた。
人が多い。
泣く人も多い。
線香の匂いがする。
それでも、逃げなかった。
久枝が、最初に自分を見ても逃げなかったように。
アオも、そこにいた。
*
葬儀のあと、久枝の家から一通の手紙が見つかった。
封筒には、力強い字で、
「里の者へ」
と書かれていた。
亡くなる少し前に、久枝自身が書いたものだった。
その日の夕暮れ。
辰蔵は、人のいなくなった建設途中の佐辺大橋のたもとに、皆を呼んだ。
河川敷には、佐辺の者たちだけが集まっていた。
大橋の工事は、一年前よりずっと進んでいる。
両岸の橋台はすでに形になり、川の中には新しい橋脚が立っていた。
まだ橋桁は完全にはつながっていない。
完成までは、もう少し時間がかかる。
アオとミナトは、皆から少し離れた、こちら側の橋台近くに立っていた。
川べりには、由紀子が描いたアオの小さなプレートの台座も見えている。
辰蔵が封筒を持ち上げた。
「久枝さんの手紙じゃ。ここで読むのがええと思った」
アオは、建設途中の橋を見上げた。
久枝は、この橋の完成を見ることができなかった。
辰蔵が封筒を開いた。
「読むぞ」
川の音だけが静かに鳴っている。
*
里の者へ。
この手紙が読まれるころには、私はもう畑にも台所にもおらんでしょう。
私の声が聞こえんようになって、ほっとしている者もいるかもしれんね。
けれど、そう簡単に静かにしてやる気はないので、最後に少しだけ言い残します。
この里は、川に生かされてきました。
ときには川に泣かされ、ときには川に食わせてもらい、ときには川に子どもらの笑い声を預けてきました。
その川に、アオがいました。
最初に見たときは、そりゃあ怖い顔だと思いました。
今でも怖い顔です。
でも、あの子の目は悪くありませんでした。
私にとってアオは、佐辺川の守り神です。
本人はきっと、神ではないと言うでしょう。
それでいい。
神でなくても、守り神です。
アオは、この里の人を助け、子どもらを守りました。
人間を怖がっていたくせに、それでも何度も人間へ手を伸ばしました。
生きているうちに、アオに出会えてよかった。
これから先、完成した大橋を渡るたびに、忘れないでください。
この橋の工事が進むように、川のがれきを片付けてくれた手があったこと。
その手が、人間の手ではなかったこと。
その手が、誰よりもあたたかい手だったこと。
アオに感謝する気持ちを、忘れないでください。
そして、アオ。
あんたは顔が怖い。
けれど、いい顔になった。
ミナトのそばにいて、里の者に囲まれて、ちゃんといい顔になった。
よく食べなさい。
よく怒りなさい。
困ったら人を呼びなさい。
泣くときは、まあ、少しだけ泣きなさい。
その代わり、泣きすぎたら鮎がしょっぱくなるから気をつけなさい。
石井久枝
*
辰蔵は読み終えた。
すぐには、誰も声を出さなかった。
由紀子が目元をぬぐう。
さとるは、ぐっと口を結んでいた。
玲奈の頬を、静かに涙が伝っている。
ミナトはアオを見た。
アオは動かなかった。
夕方の風が、川面を渡ってくる。
しばらくして、アオはすぐそばの橋台へ手を伸ばした。
冷たいコンクリートの壁に、手のひらを置く。
この橋台がやがて、佐辺の北と南をつなぐ大橋を支える土台となる。
「久枝は、いない」
ミナトが近くまで歩いてくる。
「うん」
「でも、声がある」
「うん」
アオは、自分の手の下にある壁を見た。
「ここにある」
それから、胸に手を当てる。
「ここにもある」
「うん」
「死ぬと、全部消えるのではないのか」
「全部は消えないよ」
「少し、残る」
「残る」
アオの目から、水が落ちた。
一粒。
もう一粒。
アオは慌てて頬をこする。
「水だ」
「うん」
「アオは、壊れたか」
「壊れてない」
「これは、何だ」
ミナトは少しだけ笑った。
「久枝さんを覚えてる水だよ」
アオは川のほうを向いた。
背びれを皆へ向ける。
喉の奥から、低い音が漏れた。
「グッ……グッ……」
言葉にはならなかった。
ただ、涙が落ちた。
川の音に混じって、久枝の声が聞こえた気がした。
『泣くときは、まあ、少しだけ泣きなさい』
辰蔵が鼻をすすった。
「久枝さんは、ほんまに最後まで久枝さんじゃったな」
由紀子が小さくうなずいた。
「ええ」
さとるが目元をぬぐう。
「……鮎がしょっぱくなりますね」
玲奈が、涙のまま少し笑った。
「そうですね」
ミナトも笑った。
アオは、もう一度、橋台の冷たいコンクリートに手を置いた。
「久枝」
川の音が流れていく。
「アオは、忘れない」
誰も何も言わなかった。
夕暮れの中、建設途中の橋が川の上へ伸びている。
まだ、対岸まではつながっていない。
アオはその橋に触れたまま、静かに目を閉じた。
久枝の声を探すように。
「いい顔に、なる」
ミナトは隣で、静かにうなずいた。




