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シュレディンガーはたぶん猫。  作者: 鰯野つみれ
第五章「蟲の女王、イオ=テ=ラ・ルエガ」
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第32話◇知らないはずの「俺」と片山の「蝉」の記憶

丸三日、俺は家から出なかった。

スマホには松岡と山瀬からかわるがわるメッセージが届いていたが、何も返すことはできなかった。


ただ。

松岡から届いたあるメッセージは、とても重要なものだった。

宮本、昨日の夕方に河川敷辺りにいた?と。


「すごく宮本にそっくりで、でも眼鏡はかけてなくて、でもカラコン?で瞳の色が赤くて、その上、蝶みたいな羽根が生えてるみたいに見えてさ。しかも、見たことがない大学生くらい女の人と腕組んで歩いてて。それも、ラブホ街がある方角に……。だからさ、もう、色んな意味で、そんなわけないじゃん、って」


怒涛のように流れてくるメッセージに、俺はこう返事する。


「……確かに、俺じゃないな。知ってるだろう?俺にコンタクトは無理だって」

「だよなぁぁ!!お前、潔癖の気あったからそういう年上のお姉さんとラブホなんて無理そうだし、結局自力でレンズ入れられなくて、それで常時眼鏡なんだもんな!!」


この連絡を受けたことで、俺は久々に、この家から出ることにした。


たぶん、また女性の失踪者が一人、出てしまった。

俺のせいで……。

俺じゃない、でも俺そっくりの奴が、赤い目と羽を持ってこの街で暗躍している。


その心当たりが、確実にある……。


ろくに食べてなくて胃の中は空っぽで、もたないと思ったけど、食べたい欲求はあまりなかった。

目についたクッキー状の栄養補助食品を二本だけ口の中に詰め込んで、牛乳で胃に流し込んだ。

最低限、動くためのカロリーは必要だと思った。


日曜日の早朝、という時間帯だったが、何となく無意識のうちに制服を着ていた。

そもそも休日という認識もなかったので、着てしまった後に曜日と時間を認識してから、私服でも良かったと気付いた。

日付の感覚が完全に飛んでいて、改めてスマホを見て「ああ、そうだったんだな」と知った。


そうして、家の玄関を出たところ、何でかそこに片山が立っていた。

片山も制服だった。

俺から与えられたダメージはそこそこ回復しているようで、一見、何事もなく平気そうに立っている。

ただ、首筋に大きめの絆創膏がひとつだけ貼られていて、そこだけは回復が遅れているらしかった。

その肩にかけられた通学かばんからは、黒い粒子で形作られたシュレの猫型の頭部が、ひょっこりとはみ出している。


『ミヤモト。そろそろ、最後の虫退治が必要らしい。始祖蝶の新たな次の変異が起こる前に、動かなければ』


どうやら、そのために奴らは揃って俺を迎えに来たようだった。

ただ、引きこもる俺を無理やり家から引きずり出す気持ちまではなかったらしくて、こうして自発的に出てくるまで待っていたらしい。

一体いつから待っていたんだろう。


「そう、か」


いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。

分かっている。

ちゃんと終わらせなくてはならない。


「片山、ごめん。始祖、隠れて育ててた。段々と育てるのが楽しくなって……どうしても殺せなかった。どうしてか分からない、でも、異様に楽しかったんだ」


俺はまず、片山に頭を下げる。

そうするのが当然と思ったから。

コイツは虫を観察したいと言い出した俺に対して、最初から「危ないから駄目だ」ってはっきり断言していたし、俺が食われないようにと、震えながらも必死にかばってくれもした。

ずっと守ってくれようとしていたのだ。


これはそういう優しさを裏切る行為で、怒られて当然だ。


けれども、何故か片山はうつむいて黙っていて。

むしろ片山の方が、俺よりもずっと深く落ち込んでいて、申し訳なさそうな表情をしていると分かった。


まだ早朝のはずなのに、蝉しぐれはもう昼間のように大きく響き渡っている。


「まだ俺の親が離婚してなくて、父さんと母さんと妹の四人家族だった頃、父さんと妹と一緒に山に蝉を取りに行ったんだ。俺はその頃、蝉がすごく好きで、観察したくて……」


どうして片山が急に過去のことを語り出したのか、俺には分からない。

ただ、それは片山にとってはとてつもなく深くて重い話題なのだと、その真剣みで察する。


「それで、力加減を間違えて、握ってしまって、殺した。蝉のことはまだ好きなままで、でももし触ったらまた殺しそうで、怖くて、観察したいのは我慢してた。今も、我慢してる」


わんわんと蝉が鳴いている。

どこか片山を責めるみたいに。


「本当は、ずっと、我慢してたんだ……!!俺は蝉が好きだった、本当はもっともっと、観察したかった!!あの時!!」


何故か、知りもしない、したこともないはずの「蝉を追っているイメージ」が、ふいに俺の中に浮かんでくる。

――ほら、あっち!!あっちにもいるよ、お父さん!!

はしゃいだ声を上げながら虫網を振り回す、男の子。

その後ろから、女の子を抱き上げた状態で、父親らしい男の人がついていく、そういう、幸せそうな家族の休日の……。


「そんな俺が、今は宮本に混じってしまってる。だから、たぶん宮本は悪くなくて、悪い感じで宮本に影響を及ぼしたのは、俺の欲望にまみれた素粒子なんだと思う……ごめん」


片山はすっかりうなだれて、地面を見つめていた。

握った両手がぶるぶる震えていて、本当に、まるで小学生の子が怖がっているかのような怯えようだった。


「始祖蝶は、宮本の素粒子を取り込んでる、って聞いた。似た姿で街をうろついてるって。俺はまた、今から虫を、宮本の姿の虫を、殺す。それも、ごめん……」


身構えるように体に力を入れていることが察せられて、俺は頭を横に振る。


以前、素粒子体の動きは、意志の力に依存していると、シュレから聞いた。

けれど、たとえそうなのだとしても……。


「違う、片山。俺が俺の意志で、あの虫を観察したかったんだよ……。一人でやろうって、思ってしまったんだ……」


もしかしたら。もし、始祖蝶を二人で一緒に観察できていれば、こうはならなかったのかもしれない。

俺は片山と、何でも、半分にしてきた。

でも、始祖蝶のことだけは、ほぼ独断で動いてしまった。


「だからこれは、きっと、片山のせいだけじゃない。俺も悪かったんだ……」


耳の奥、「また殺すのか」と抗議のように聞こえてくる蝉しぐれの激しさ。

強く恐れる片山の気持ちに同調するかのように、俺も小さく息を吐き出す。


「俺も、今から俺の顔をした虫を殺しに行くんだ、片山。だから、一緒に、行こう。俺も、一人は、怖いんだ……」


俺は片山と手を繋いで、ゆっくりと歩き出す。

そんな俺たちを、シュレは何も言わずに見守ってくれていた。


ふたりと一匹で連れ立って、河川敷に向かう。

早朝八時過ぎの河川敷には、走っている人や体操する人、散歩している人なんかがまばらにいた。

まだ早い時間帯なのに、もう既にじわりと汗が滲む感覚がある。

蒸し暑かった。


ジイィィィィィィ――


アブラゼミが鳴いている。

激しく。


そこに座っている、俺そっくりの存在のことを、俺はきっと、とても良く知っている。

殺さなくて済むように、どこかずっと遠くに行っていてほしいと願って放したはずだった。


「……そこに、いたのか」


蝶の形で俺の部屋から出て以降、コイツは一体、どうしていたのだろう。

いつのまにか人の形を得て、俺のものではない少し小ぎれいな服まで身に着けている。


誰かに拾われていたのか。

そう、たとえば、松岡が見たと言っていた、女子大生の人とかに……。


戦いたくはない。

でも。

逃がしたとしてもいつかこういうふうに対峙することになるかもって、最初から知っていたような気もする……。


ざわ、と熱をはらんだ空気がうねる。

シュレが俺たち当事者のみを包む形で結界らしきものを張ったらしい。


いつの間にか、ジョギングや散歩をしていた一般の人々は視界から消えていた。

まるで広がる結界の外に段々と追い出されるように。

何か振動音のようなものが小さく鳴り響いていて、それを聞いていると、自然と俺もここから立ち去りたくなる。

そんな地球の生き物にとって「とても嫌な音」が小さく鳴り響いていた。


いつの間にか、蝉が生み出す喧噪も消え去っている。

水面には朝日が輝いて、キラキラと光っていた。


キラキラした、水面の光だと思っていた。

そこにあるのは。

ただ、オレンジ色の朝日が反射しているのだと。


けれども――違う。

血の赤だ。

オレンジ色の向こうに、紛れるように赤いキラキラが確かにある。


それまでずっと動かずにいた始祖蝶が、羽を動かして、ふわりと宙に移動した。

見た目は人の形をしているが、紛れもなく、それは虫の挙動だった。


そしてソイツは、俺と全く同じ姿をしていた。

まるで双子か、クローンか。

そう思えるほどにそっくりそのままだった。

血のような深い紅色の、瞳と羽以外は。


『――オレは、イオ=テ=ラ・ルエガ。我ら全ての虫たちの始祖であり、女王』


まるで虫自身から教わったかのように。

そして人間には絶対に発音できない「宇宙的な虫特有の声色」を獲得したかのように。

とても正確に、ソイツは虫の女王の名を自称する。


コイツ、話せるのか……。

知能が、ある……。


「何故、俺の顔と声帯を模してるんだ」


まるで鏡写しのように立ちふさがり、俺は対峙する。


『お前がオレにくれた。お前の、ニンゲンのカタチを』

「俺が……?」


覚えはない。

が、餌は与えていた。

餌やりの時にニンゲンの構成式、つまり俺の素粒子情報を含むものを、一緒に与えてしまった可能性があるってことだ。


髪か、皮膚か、爪か……そういうものを。

酷いミスだ。


水面に紛れた赤の奥から大量の蝶型の虫が現れて、始祖蝶の全身を包み込んだ。

目を閉じて、それを完全に受け入れるように伸ばされた四肢。

取りついた虫たちは、始祖蝶自身の素粒子体と一体となって、ピシリと電気的に弾けた音を立たせた。

赤いキラキラの鱗粉を振りまくようにして形を変えながら、背中の女王の羽へと取り込まれて、大きく変異していく。


確認するかのように羽を大きく羽ばたかせて薄く目を開けた、俺とそっくりの始祖の、強い、殺意。

それは俺に対して、本気の敵意を表明している。


やっぱり、俺は俺が育てた始祖蝶を憎めない。

でも殺さなきゃならないのに。

けれども、俺はまだろくに動けずにいる。

すると、女王は再び目を閉じて唱えた。


『ドッペルベンガー』


瞬間、女王から別れる形で虫が大量に現れて、俺そっくりの影を大量に作り出す。

影は俺の形を保ったまま、ラ・ルエガらしく透けていた。

その影が割って入るようにして俺と片山の間を引き離す。


『あのな。カタヤマ。本当はずっと思ってたんだ。邪魔』


ニコッ、とそれは笑って片山に言った。

以後、俺と片山を引き離すポジションを取って影は動く。

俺は片山とシュレに声をかける。


「始祖蝶の相手は、俺がする。俺には、責任があると思う……」


殺すとしても、他の誰にも任せたくない気持ちだった。


「そっか」

『やれるのだな?』

「ああ。……俺も片山も負けたその時は、シュレに全部任せる。俺ごと全部の虫を、消してくれてもいい」

『いいだろう。その時までは被害の縮小化に集中しよう』

「なら、そっちは任せた」


シュレは結界の強化に集中し、片山は影に取り掛かるために背を向けた。

俺は改めて始祖蝶に相対する。


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