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シュレディンガーはたぶん猫。  作者: 鰯野つみれ
第四章「パソコン室の黒い幽霊、変異の件」
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第31話◇始祖蝶との離別と、赤い羽の全裸の少年

帰宅した俺は、今日も鍵をかけて自室にたてこもる。

ここ数日ずっとそうだから、もう家族は誰も何も言ってこない。


俺は自分の通学かばんを漁ると、中から虫かごをひとつ取り出した。

あの始祖蝶入りのものだ。


ずっと習慣のようにこうして持ち歩いていて、今日も自然とそうして。

また家まで持ち帰ってきた。


その虫かごを、俺は俺自身の意志で壊して、完全に消してしまう。

蝶はふうわりと飛んで、この指先の素粒子体にとまった。

羽を開いたり閉じたりするたびに、構造色の赤がぬらりときらめく。

とても綺麗だと、やっぱり思ってしまう。


けれども。もう、今までのようには飼えない……。

それでいて、殺したくもない。

本当は、もう何も、誰も殺したくない。

殺せない。


「逃げろ。俺から。なるべく遠くに行くんだ」


言い聞かせるように呟いて。

俺はすっとその羽の表面を撫でる。

素粒子体の右手の人差し指を押し当てると、光の加減がその部分だけ変わるようで、模様みたいに赤くきらめく。


やっぱり、綺麗だ。

俺が本気で育てた虫は。

本当はこのままずっと飼っていたい。

だけど、今日でお別れだ。


「次に会ったら、きっと殺してしまうから」


次だ、と俺は決めてしまった。

今、この瞬間でなく、次だと。


完全なる悪あがきの先延ばし。

馬鹿げてる。


また人的被害が出るかもしれないというのに。

倫理的には絶対に正しくない。

分かる。

でも。


「……そんな時が、来なければいいな……」


勝手な希望を呟いてから、俺はベッドに寝そべった。

虫はしばらくそんな俺の周囲を飛び回っていた。


不思議と始祖蝶は俺を食おうとはせず。

そして虫かごももう存在しないのに、何でか、しばらく俺から離れることなく留まっていた。

まるで俺の素粒子体を、止まり木だとでも思っているかのように。


……こっちは、いっそ食い殺される展開でも、全然よかったのに。


なので、俺は自分を包むようにバリアーを張る。

もう俺のことを止まり木にはできないようにと。


蝶は諦めずにしばらく俺の周辺にいたが、やがて拒否の状況を受け入れたようで、ゆらりと飛び立った。

そうして、ガラス窓をすり抜けるようにして、外へと去っていった。


――行った、か。


注意深く確かめて、改めて、ベッドの上で丸くなった。

虫から自身を守る機能のはずのバリアーは、実際に虫がいなくとも俺の身を守ってくれているようで、少しほっとする。


微動だにせず、俺はベッドに横たわり続ける。

全く、何もする気にならなかった。

何もせず、ただ横になっていた。


しばらくして、シュレが俺の部屋に入ってきた。

その気配が、背中越しに確かにいると、振り向かなくても分かった。


『何をやってるんだ。お前たちは。揃ってふ抜けおって』

「シュレ……」


振り向いていないし、そもそも奴に表情なんてものはないわけだが、すっかり呆れているのだとさすがに分かった。


『吾輩の目を誤魔化して逃がせるとでも、思ったのか?よくもまあ、あの始祖をあそこまで育て上げたものだな?』


完全に全部が全部、バレてしまっていたらしい。

ものすごい恨み節だった。

けれど、きっとシュレも結局は見逃したのだろう。

次、ということにして。


『即刻殺すべきだった。こんな先延ばしなど、意味がない』

「そう、だな……」


殺すんじゃなかったのか、とブツブツと繰り返すから、ひとまず相槌を打つ。

シュレが愚痴るたびに。


『愚かだ』

「うん……でも、どうしてもキラキラして綺麗で、可愛い気がして、殺せなかったんだ……」

『馬鹿だ、お前は。それも、宇宙一の馬鹿者だ』

「うん……知ってる」


ぱたぱたとその尻尾?を動かして滅茶苦茶に文句を言いながらも、シュレはずっと一緒にいてくれた。

なので、やっぱりこの宇宙生物?は心優しいのだと思う。


「片山も、見てきたんだろ。どうだった……?」


一応、俺は訊いた。

奴のその後が、ひどく気になる状況ではあった。

心身ともに、色んな意味で。


『まぁ、お前とそれほど変わらんな』

「そっか……」


ふと見ると、シャツの襟のところに血がついていた。

苦し紛れに、素粒子体だけでなく肉体の方でも片山の首筋を強めに噛んだ。

その時の血だと、思い出した。


――加減は、できなかった、と思う。

全く。


相手が屈強な片山だったからこそ、ブレーキは欠片もきかなかった。

全力の暴力をもってしても壊れない相手には、どこまでも深い安心しかなかった。


酷く重い気分なのに、「その欲求の部分」だけはすっきりとしている。

生まれて初めて、満足している。


コレを分かち合えてここまで依存できる相手は「片山くらいしかいない」のだと、俺は知ってしまった。





「どうしよう、遅くなっちゃったよぉ~!!飲み過ぎたぁ!!」


河川敷横の道を、一人の女子大生が早足に通り抜けていく。


今日は彼女が所属しているサークル・テニス同好会の飲みの日だった。

同じサークル内でカップルになった男女がいて、焦れ焦れする恋話状態でとっても素敵で、自然とお祝いムードになっていた。

それを彼女は心から祝福はしたけれど、「でも私はいまだに一人身なんだよねぇ……」と内心では切ないものも感じている。


「わぁん、どっかにいい男、落ちてないのかなぁぁ~!!私だって幸せになりたいいぃぃぃ!!」


遅い時間帯になったことで他に通行人がいないのをいいことに、彼女は酔っぱらった女全開の欲望を独り言として垂れ流す。

そして――河川敷の斜めになった土手にさしかかった彼女は、そこで膝を抱えるようにして小さくなって座っている少年を、見つけてしまった。


「ほえっ……!?まって、何であの子何も着てないのっ!?」


少年は、全裸だった。

年齢は、高校生くらいだろうか。


ただ、その瞳は赤みを帯びていて、背中にも赤いものがくっついている。


あれは、羽……?

えっと、等身大の妖精かなんか……?


えっ、いやまさか。

でもそうじゃないなら、トラブルに遭遇して身ぐるみはがされて川に捨てられてる、かわいそうな男の子だったりする?


「えっ、と……。君、だいじょうぶ……?なんかあったの?」


そろりと近づいて、彼女は少年に問いかける。


赤い瞳が、ふっと動いて、お互いの目が合った。

彼女の存在を認識した少年は、少し首を傾げて、ニコリと笑う。


え、顔がいい……。

頭良さそう。

だけど、なんかエロい……。


「あの、服くらいなら、貸せるけど……うちに来る?」


確か置いて行かれた元カレの服がまだあったっけ、なんてことを彼女は算段する。

もうその人との縁は切れてしまったし、捨てるのも踏ん切りがつかず、困って置いていたものだから、この子に譲るぐらいわけはない。


彼女は元々困っている人を放っておけない優しい性格の持ち主で、そしてこの時は、とても、酔っていた。

この状況の異様さを瞬時に認識できないくらいには。


そして、同じくらい、人肌に飢えてもいた。


これにて第四章終了です。


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