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シュレディンガーはたぶん猫。  作者: 鰯野つみれ
第三章「逸脱と共依存」
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第23話◇その蟲の最上の僥倖と初めての「自覚」

蟲は既に死を覚悟していた。

しかしそのはずだったが、何故か一向にその時は訪れなかった。


未だ生きている。

蟲には訳が分からなかった。


子供たちさえ、大量に殺されている様子なのだ。

他のふたつの天敵たちと同様、目の前の監視者の素粒子体にもべったりと濃く染みついている、蟲特有の構成素粒子の残存。

それこそが滅殺者の証だった。


それなのに、当の始祖だけは何故か、全く傷つけられることなく生き永らえている。

ある時からは餌までもが与えられるようになり、そして蟲も「あえて生かされているのかもしれない」という事実をやがて悟る。


それは人に例えるなら、まるで暗殺者が並み居る彼の暗殺対象から「たったひとりだけ」を気まぐれに選び、彼の隠れ家で下僕のように尽くして、ひたすら丁重に熱心に優しく養っているかのような状況だった。


蟲にはそのような特異な人間の営みを理解することなどは全くできなかったが、しかし、「これが異質な状況である」という気配だけは確実に感じている。

なので、基本的に警戒自体は解いていない。


警戒。

警戒。

警戒。


しかし「檻」の中に餌の素粒子体が入れられるその時に限っては、蟲は何故か、それほど警戒音を強くは出せなかった。

その餌は蟲がかつて宇宙では遭遇したことがなかった、ひどく珍しい素粒子の塊であることが多く、差し入れられるたび、蟲はむしろそちらへの関心を強めてしまうことになった。


これらは、「良くない」のか、「良い」のか……?

蟲には全く理解できなかった。


与えられるもの全てが、謎の素粒子群だった。

分からない。

知らない。


だが、食わなければ自ら死を選ぶことになるため、「とにかく与えられる全てを残さず食う」という選択肢しか蟲には存在しなかった。

そんな蟲を、観察者はいつも執拗に見ている。


「よかった、ちゃんと食ってるな……」


観察者から出てくるそんな振動音は、不思議と不快ではなかった。

途中で餌を奪われたり危害を加えられたりすることも全くなく、蟲はその間、ただ確実に餌を素粒子体内に取り入れることのみに集中できる。

まるで蟲がそうして生き続けることをあくまでも許し、肯定するかのように。


何故。

何故。


目的は不明だったが、しかし、今や死が完全に遠ざかったのを、この日々が今後も比較的長く継続していくだろうことを、蟲はやがて受け入れることになる。

いずれ命の危機があるとしても、それは決して「今」ではないらしい――と。

そしてついに、蟲は警戒音を発することを止めた。


「あれ?お前、ちょっと育ってないか?もしかして、シュレが言ってた、変異が起こる直前の『成熟期』が近いのか?」


そんな、いっそ友好的と認識するほどの振動音を毎度のように発しながらも、逆に染みつくほどに同胞たちを殺すことも同時並行している、この「新しい種類の天敵」。


毎度宇宙を漂う時同様の自然さで常に狩ってくる生粋の天敵や、純然なる殺意のみを向けてくる天敵のことなら、「良くない」なりに、蟲にも既に対応策が存在する。

だが、この新しい「良くない」は、全くもって分からない。


何故。

何故。

何故。


分からないまま時が過ぎたある日。

また新たな餌が差し入れられる。

短冊状の形状のそれはひらりひらりと「檻」の上から降ってきて、底へと落ちた。


また蟲には理解が及ばない謎の素粒子群だったが、一部の人間はそれを「売上スリップ」と呼んでいる。

本を買った時に挟まれていることがある、短冊状の紙だ。

よくよく見るとその表面には「理科が苦手な高校生でもちゃんと分かる、素粒子のはなし」などという題名が記載されていたが、当然その意味が蟲に理解できるはずもなかった。


蟲はいつもの通りにそれを分解して食う。

しかし、その横に意外なものが一緒に落ちてきたことに気が付いた。


黒い線状のもの。

それは目の前の謎の存在、「天敵混じりの食べるととても良い」の構成素粒子の一部だった。


蟲は「髪の毛」という単語こそ理解していないが、それが餌として「非常に稀有な素粒子群」である事実は、すぐに理解した。

ここ最近は決して与えられなかった「地球の星の生物由来」の餌であり、また「数千光年の天敵の一部が混入したもの」でもある。


何故。


蟲はいつも出す警戒音とは少し違う振動をあえて繰り返すことで、その強い動揺を表す。

ここにきて初めて、与えられたものをすぐに食うことはせずに、ためらうことになる。


「飴の個装といい、紙といい、本当に人間が食わないものでも何でも食うよなぁ、コイツ。これもメモっとこう……」


観察者は、紙を食った先ほどの行動に満足したようで、今は蟲を見ていない。

そこにそれが一本だけ、うっかり一緒に落ちてしまったことも、全く気が付いていない。


蟲は激しい動揺を示したが、しかし、そうは言ってもこの餌を食わないという選択肢を選ぶことはなく、稀有の極みのそれを余すところなく取り込んだ。

危険も飲み込む形で。


これを食うことで、この憎き「檻」から、逃れられる変異が得られるかもしれない、その一心で。


だが、やがて蟲に訪れたのは、これまでとは全く違う種類の、その上、かつて経験したことがなかった大きすぎる衝動の激変だった。

完全に意識に反したコントロール不能の形で突然に始まった変異に、蟲は抗おうとするも、奔流のようなその勢いに結局は押し流される。


そうして、蟲は初めて、鞘状に編まれた素粒子でできた薄青い色の繭の中に、その身を包まれることになった。

この星に苦心の末辿り着き、得難き繁殖の場をたまたま発見した時の、あの感動的な震え。

それ以上の発見が、その繭にはあった。


溶解。


蟲は種の発生以来、初めてのそれをじっくりと味わう。

「とても良い」ものとして。

喜びの振動の電気刺激に、すっかり溶けた素粒子体の全てが揺れている。


僥倖。

最上の僥倖。


蟲はとろりとまどろんで、まだ見ぬ「我らの女王」の夢を見る。

発生以来待ち望み続けている、最強の女王の誕生を。


女王は「イオ=テ=ラ・ルエガ」と呼ばれている。

それは宇宙の言葉で「ラ・ルエガの、偉大なる、女王」を表す。


もしも望み通りに「檻」から抜け出せて、この身と死を免れた子供たちの素粒子体を、一匹に収束できたなら、きっとその顕現も叶うだろうか。


いつの間にか意識は途切れた。

次に気が付いたその時、蟲は自らが全くこれまでとは全く違う変異を果たしていることを自覚した。

繭が裂け、そこを抜け出したところで、辺りに柔らかくぬくみがある光が満ちていることを悟る。

そのぬくみを味わいながら、蟲はしばらくそこで「待つ」ことにした。

この何とも表せない動きにくさは、そのように時を過ごせばましになるという事実を、何故か蟲は自然と知っていた。


そうして休んでいるうちに、ふわ、と蟲はその背に何か新しいものが存在している事実を悟る。

ゆうるりとそれを動かしてみると、まるで宇宙を漂う時と同様の、ふわりと浮く気配がその身にある。

元々空間を捕らえて飛べていたが、それがあることで格段に機動性が確保できた事実を、蟲は悟った。


そして。

蟲はすぐそこに、件の「天敵の観察者」がいることに気が付いた。


その強烈な熱が乗っかった視線に、蟲はつい、熱波を浴びたかのように身じろぐ。


「……綺麗だ。こんな、蝶みたいになるなんて……」


観察者の振動音が虫の身にも響いた。

それから、天敵は歓迎するかのように蟲を囲う「檻」を消して、それよりもっと大きな「檻」を、蟲と自らを覆うような大きな形で形成した。


足場がなくなった蟲は自然と背中のそれを動かして、宙を舞うことになる。

ひらひらと。


「お前、綺麗だな。羽の構造色の赤、キラキラしてる……」


振動音と共に差し出された足場は天敵の素粒子体の一部であり、蟲はためらったが、しかし妙に「悪くない」足場にも見えたため、恐る恐る蟲はそこに留まることにする。


「虫、ちゃんと育てられた……俺にも」


また振動音が発された。

喜びに満ちた振動音だと、蟲にも完全に理解できた。


一体、何故、そんなに嬉しそうにする……?


蟲はそう「考えた」ことを「自覚」して。

そしてこの素粒子体内部の振動を「嬉しい」などという「とても良い」状態を示すものと知った。


そうして、またその「嬉しい」の振動が自らに向けて、何故か目の前の「天敵混じりのとても良い」からも強めに発生してきている事実を、「悪くはない」と蟲自身が感じていることも、理解した。


何故。

理解はしたが、やはりどうしても、それは分からなかった。


ただ、蟲はもう一つの悟りを得る。

この「天敵」を取り込む、もしくは、この「天敵」に寄生できるかもしれない――と、素粒子が示していた。



これにて第三章終了です。


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