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シュレディンガーはたぶん猫。  作者: 鰯野つみれ
第三章「逸脱と共依存」
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第22話◇全ての肉体感覚と遠ざかる蝉の鳴き声

山瀬と松岡の情報は完璧で、俺たちは「そこそこ」程度の混雑に巻き込まれた程度で済んだ。

周辺のいくつかの店舗や出店を冷かして楽しむことができたし、波打ち際を裸足でちゃぷちゃぷ歩くこともできた。


ここでは、不思議と蝉の鳴き声が遠ざかっていた。

今、大きく聞こえるのは、小学生くらいの子供たち数人の無邪気な笑い声と、波の音ばかりだ。

濃い潮の匂いがする。


ざあぁぁぁぁん……。

音が響くたびに足の裏、砂の感触がサラサラと流れていく。


「なんか、すごい、気持ちいいな……海って」

「そうだな……」


ばしゃんと跳ねた波が、膝まで引き上げているはずの俺のジーンズの裾をすっかり濡らしてしまった。

布地が皮膚に張り付いたような感覚は、いつもの俺なら少し気持ち悪いと感じるはずだ。

なのに、それも悪くないような気がする。


全ての感触が、気持ち良かった。

視覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚も。

今日は久しぶりに、自分の肉体の感覚を強く味わっているような気がしている。


「冷たいもの欲しい。かき氷食べようぜ。オレンジのにする」

「ラムネは?」

「じゃあ、どっちも半分ずつな?」


お金を出し合って一つずつ買って、両方とも半分こする。


「やっぱ、宮本と半分こしたら、全部美味い」


片山は当然のように、全部を俺と半分こすることを喜んだ。

しゃくしゃくと片山がストローの先で氷を突き崩している音が、耳に心地いい。


俺の手の中のラムネのガラス瓶はキンと冷えていて、今日は本当に暑いから、結露でぐっしょりと手が濡れてしまう。

飲み込めば、冷えた炭酸が喉の奥でパチパチと弾けている感覚。

指から手首、肘にかけてを水滴がつーっと流れ落ちていって、ぽたぽたと砂地の地面に落ちて濡らした。

瓶を傾けるたびに、カラカラと涼し気にビー玉が鳴る。


「ほら。オレンジ色になってる?」


べ、と舌を出して、舌先がすっかり染まったのを、片山が見せてくる。

そういえば、あの最初の変異、左手に生えたオレンジの味の飴を食わせたのが、コイツへの最初の餌付けだった。


「……なってる、な」


それはたった今食べたかき氷由来の色のはずなのに、あの時からもうずっと、片山の舌はオレンジ色に染まってしまっている、そんな気が、段々としてくる。

俺がコイツをそうさせたんだ……。


「半分食べた。交換な」


言われるままにかき氷の紙カップとラムネの瓶を交換する。

同じように俺の舌もオレンジ色に染まったし、片山の右手も水滴でびちょびちょになった。


すっかり日が暮れて花火が始まるまでの時間は、主にそんな感じの流れで、食べたり飲んだりしているばっかりで、別に大した事件は起こらなかった。

電車の中の指切りの方がよっぽどドキリとする出来事だったと思う。


タオルで拭いたはずだった足は、真水でゆすいでないからか、少しかさついている。

花火が始まっても、ただ俺たちは大きな音を立てて打ちあがった時のその振動を、この全身で感じるだけだった。

視界いっぱいに広がる花火を映して、火花が散っていくバラバラという音を聞いた。

少しの煙たさとイカ焼きのソースの匂いとか、打ち上がるたびに歓声のような声が上がったり、誰かがスマホで写真を撮っているその音なんかを、ただ二人並んで斜め上を見上げながら、黙って味わっていた。


そんなふうに、高校三年の俺の夏休みは、ある意味とんでもなく充実して終わっていった。


日常の蝉しぐれの騒々しさは変わらず、九月になってもきつめの残暑。

しばらくは厳しい夏日が続いていくようだ、と天気の一カ月予報は伝えている。


だが、それでもここ最近は鳴き声の中に少しずつツクツクボウシが混じってきていて、蝉たちはゆるりと真夏の終わりを知らせていた。


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