朝光(あさかげ)の教室と、二人の約束
爽やかな朝のエピソードです。
駅の改札へと消えていくヴェルの後ろ姿をしばらく見つめた後、俺はゆっくりと Uターンして家路についた。
さっきまでヴェルと繋いでいた右手が、夜風に晒されて急に冷たく感じられる。ポケットに手を突っ込むと、指先に触れたレム・パンの感触が、ちょっとまであいつが俺のすぐ隣にいたことを無言で主張していた。
「……ま、明日も会うんだけどな」
誰もいない夜道でポツリと呟き、俺は小さく笑った。
かつてあれほど退屈で、どうやって時間を潰そうかとばかり考えていた毎日が、今では「明日」を待ち遠しく思う日々に変わっている。その事実が、なんだかひどく歯痒くて、俺はわざと足早に歩いた。
家に戻ると、まだオフクロは帰っていなかった。静まり返ったキッチンには、かすかに肉じゃがの甘辛い香りが残っている。
俺は自分の部屋に戻り、カバンを床に置くと、ベッドに大の字になって寝転んだ。天井をぼんやりと見上げていると、今日のヴェルの言葉が、まるで部屋の隅から囁きかけるように脳裏に蘇ってくる。
『僕の居場所は、もうここにあるんだよ』
『誰かをこんなに愛おしいと思う気持ちを知ったことなんだ』
「あいつ、本当にずるいわ……」
枕に顔を押し付け、声を殺して呻く。
あんな風に一点の曇りもない瞳で真っ直ぐに見つめられたら、どんなに斜に構えて生きようとしてきた人間だって、白旗を上げるしかない。俺のいたずらなんて、あいつの持つ圧倒的な純粋さの前では、ただの子供のダダこねみたいなものだった。
気づけば、俺はポケットからあの乾燥したハーブ――ヴェルがくれた『リア・ファル』を取り出していた。指先でそっと撫でると、独特の清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。
この世界にやってきて、一人で雨の中に立っていたというヴェル。
その時のあいつの孤独や恐怖は、俺なんかには想像もつかないものだろう。だけど、もし俺がその手を握り続けることで、あいつが二度とそんな思いをせずに済むのだとしたら。この世界の綺麗なものや、楽しいものを、全部俺が隣で見せてやりたい。
「……絶対、離さねえよ」
誰に誓うでもなくそう呟き、俺はハーブを机の引き出しの、一番大切なものをしまう場所にそっと仕舞い込んだ。
翌朝、俺はいつもより早く目が覚めた。寝不足だった昨日とは違い、驚くほど頭が冴えている。
鏡の前で制服の襟を整えながら、ふと、カバンに付けられたヴェルの星型キーホルダーを思い出した。あいつ、本当に嬉しそうに付けてたな……。
「よし」
何が「よし」なのか自分でもよく分からなかったが、俺は家を出た。
初夏の朝の空気はひんやりとしていて心地いい。駅までの道を歩きながら、自然と足取りが軽くなる。電車の中でも、窓の外を流れる見慣れた景色が、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。
学校に到着し、下駄箱で靴を履き替えて教室へと向かう。
ガラッとドアを開けると、まだ数人しかいない教室内で、ひときわ目を引くあの鮮やかな赤い髪が、窓際で朝日に照らされていた。ヴェルは俺の足音に気づくと、弾かれたようにこちらを振り返る。
「鋭二! おはよう!」
その弾けるような笑顔。昨日と何一つ変わらない、俺の大好きな笑顔だった。
「おう、おはよ」
俺は努めて冷静を装いながら、自分の席にカバンを置いた。
「鋭二、今日はなんだか顔色がいいね。よく眠れたかい?」
「まぁな。お前のおかげで、変な悪霊の呪い(?)は解けたみたいだわ」
「本当かい!? よかった。僕の祝福がちゃんと効いたんだね」
ヴェルは嬉しそうに胸を張る。その胸元では、やはりあの星型のキーホルダーがキラキラと揺れていた。
「なぁ、ヴェル。今日の放課後なんだけどさ」
「うん? 今日も何か常識を教えてくれるのかい?」
期待に満ちた目を向けてくるヴェルに、俺は少しだけ真面目なトーンで言った。
「今日は、常識っていうか……俺の『お気に入りの場所』に連れてってやるよ。お前がまだ見たことのない、この世界の景色だ」
「鋭二のお気に入りの場所……! うん、僕、どこへでもついていくよ!」
ヴェルはそう言って、机の下でそっと俺の制服の袖を引いた。その指先の温もりに、俺の心臓はまた新しく、心地よい鼓動を刻み始めた。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
夜の別れから翌朝の再会までを描いた今回のエピソードでは、鋭二の独占欲やヴェルを守りたいという決意がより一層固まる回となりました。
机の下でこっそり袖を引くヴェルの健気さと、それを受け止める鋭二の優しさに、二人の確かな絆の深まりを感じていただければ幸いです。次回の「鋭二のお気に入りの場所」でのエピソードもどうぞお楽しみに!




