イチャイチャ
鋭二好きかーい?
翌朝、雨上がりの澄んだ青空が広がっていた。昨日あれだけ激しかった豪雨が嘘のように、路面のアスファルトはすっかり乾き始めている。
俺はいつもより少し早い電車に乗り、学校へと向かっていた。手元にあるカバンの中には、丁寧に畳んだ先生の家のジャージと、昨夜持ち帰ったあの不思議なパンの包みが入っている。
「……また明日、か」
昨夜、別れ際にヴェルが見せたあの弾けるような笑顔が、朝の満員電車の窓に映る自分の顔と重なる。自分で言った『ずっとここにいろよ』というセリフを思い出すたび、車内の冷房が効いているはずなのに、じわじわと身体が熱くなっていくのが分かった。あいつが本当に異世界から来た迷子なのだとしたら、俺がこの世界に繋ぎ止めるアンカーになってやりたい――そんな大それた、けれど本気の感情が、胸の奥で静かに、しかし力強く波打っていた。
ガラッと教室のドアを開けると、まだ数人しか登校していない静かな空間が広がっていた。だが、俺の席のすぐ隣には、すでにあの鮮やかな赤髪が座っていた。
「あっ、鋭二! おはよう!」
ヴェルは俺の姿を認めるなり、椅子から飛び上がる勢いでこちらを振り返った。その手には、昨日俺がクレーンゲームで取ってやったあの星型のキーホルダーが握られており、制服のスクールバッグにしっかりと付けられているのが見えた。
「おう、おはよ。お前、来るの早いな」
「うん! 鋭二に会いたくて、せんせいと一緒に早く家を出たんだ。はい、これ、昨日の制服だよ」
ヴェルが差し出してきた紙袋を受け取る。中には、綺麗に洗濯されてアイロンまでかけられた俺の制服が入っていた。ほのかに、先生の家の優しくて甘い洗剤の香りがする。
「ありがとな。……ほら、これ、借りてたジャージ」
「ありがとう。サイズ、少し大きかったみたいだけれど、鋭二によく似合っていたよ」
ヴェルは事もなげにそう言って微笑む。その言葉にまた不意を突かれ、俺はカバンを机にドサリと置いて、照れ隠しにそっぽを向いた。
「バカ、ダボダボだっただろ。……あ、そうだ。昨日の約束、覚えてるか?」
「約束……? あっ、お料理の常識のことかい!?」
ヴェルの瞳が、まるで宝物を見つけた子どものようにキラキラと輝きだす。
「そうだ。今日の放課後、また俺の家に来いよ。家庭科室を借りてもいいけど、あそこだと他の奴らに見つかるしな。うちのオフクロは今日パートで遅いから、キッチン使い放題だ」
「本当かい!? 鋭二にお料理を教えてもらえるなんて、すごく嬉しいな。僕、一生懸命覚えるよ!」
ヴェルは嬉しさのあまり、俺の手を両手で包み込むようにして握りしめた。
その瞬間、ガラガラと教室のドアが開き、他のクラスメイトたちが次々と入ってきた。
「お、なんだなんだ? 朝からまた二人でいちゃついてんのか?」
「狛枝、お前最近ヴェルに付きっきりじゃん。いたずら仕掛けるターゲット変えたのか?」
野次馬根性の同級生たちが、ニヤニヤしながら俺たちをからかってくる。いつもの俺なら「うるせえよ」と適当に聞き流すか、あるいはそいつらにタチの悪いお返しを仕掛けてやるところだった。
だけど、今の俺は、ヴェルの手を握り返したまま、真っ直ぐにそいつらを睨みつけた。
「悪かったな。俺はこいつの『常識先生』なんだよ。他の奴には邪魔させねえ」
その言葉に、クラスメイトたちは一瞬きょとんとした後、「うわー、独占欲強すぎ!」と大爆笑し始めた。
俺は顔が赤くなるのを自覚しながらも、握った手を離さなかった。隣でヴェルが、不思議そうに、だけどとても嬉しそうに俺の顔を見つめていた。
午後の授業がすべて終わり、放課後のチャイムが鳴ると同時に、俺たちは誰よりも早く教室を飛び出した。
夕方のスーパーマーケットの食品売り場は、主婦や会社員で賑わっている。自動ドアをくぐった瞬間から、ヴェルは再び「異世界モード」に突入していた。
「鋭二、見てごらん! あの透明な箱の中に、冷たい冷気が閉じ込められているよ。あれもこの世界の魔導具かい?」
「あれはただの冷蔵ショーケースだ。ほら、迷子になるから俺の後ろを離れるなよ」
「うん、分かった!」
ヴェルは俺の制服の裾を小さく掴みながら、ちょこちょことついてくる。その健気な仕草が周囲の買い物客の目を引いていたが、今の俺にはそれを気にする余裕はなかった。
「今日のメニューは何にするんだい?」
「お前、肉が好きそうだからな。日本の家庭料理の定番、『肉じゃが』ってやつを作ろうと思う。材料は、肉と、じゃがいもと、玉ねぎと人参だ」
俺たちはカゴに野菜や肉を放り込み、手早く会計を済ませて俺の家へと向かった。
実家の玄関を開け、「お邪魔します」と少し緊張した様子で入ってくるヴェルをキッチンへと案内する。
俺は自分のカバンを置き、エプロンを二枚用意した。一枚は母親のピンク色のもので、それをヴェルに手渡す。
「ほら、これ着ろ。服が汚れるからな」
「ありがとう、鋭二。……こうかい?」
ヴェルが不器用そうにリボンを結ぼうと苦戦しているので、俺はため息をつきながら彼の背後に回った。
「貸してみろ」
ヴェルの腰に手を回し、エプロンの紐をキュッと結ぶ。その瞬間、ヴェルの甘い体温と、首筋から漂うハーブのような香りが鼻腔をくすぐり、俺の手が一瞬止まった。ヴェルの背中が、俺の胸元にほんの少しだけ触れている。
「……よし、できた」
「ありがとう、鋭二。なんだか、少し照れくさいね」
ヴェルが振り返り、はにかむように笑う。俺は自分の心臓の音を無視するように、まな板と包丁をトントンと並べた。
「よし、まずは野菜の皮剥きからだ。いいか、包丁を持つときは、刃の根元をしっかり握って……」
俺はヴェルの手の上に自分の手を重ね、包丁の正しい持ち方を教えた。ヴェルの手は細くて柔らかいけれど、剣を握っていたという過去のせいか、指先にはかすかな硬さがある。そのギャップが、なぜか愛おしかった。
「まずはじゃがいもを一口大に切る。こうやって、左手は猫の手にするんだ。指を伸ばしてると切るからな」
「猫の手……? こういうことかい?」
ヴェルが両手を丸めて、本当に猫のようなポーズをとってみせる。
「あ、いや、ポーズじゃなくて、食材を押さえる形のことだよ!」
俺がツッコミを入れると、ヴェルは「あはは、そうだよね」と楽しそうに笑った。その笑顔を見ているだけで、部屋の空気が一気に温かくなっていくのが分かる。
不器用ながらも、ヴェルは俺の指示を真剣に聞き、一生懸命に野菜を切っていった。時折、包丁の軌道が危うくなると、俺が後ろから手を添えて一緒に刃を動かす。そのたびに、互いの吐息が触れ合うほど顔が近づき、俺の理性を激しく揺さぶった。
「次は炒めて、出汁と調味料で煮込む。これが日本の『和食』の基本、醤油とみりんと砂糖だ」
「甘くて、少ししょっぱい香りだね。僕の世界の宮廷料理でも、こんなに奥深い香りはなかったよ」
鍋から立ち上る湯気を浴びながら、ヴェルは感心したように目を細めている。
煮込んでいる間の数十分間、俺たちはキッチンの床に並んで座り込み、鍋の様子を見守っていた。
「なぁ、ヴェル。お前、元の世界に戻りたいって思うこと、あるのか?」
ふと、胸の中にあった一番の不安を口にしていた。
もし、いつか召喚の魔法が解けて、あいつが突然目の前から消えてしまったら。そう思うだけで、胸が引き裂かれるような恐怖が襲ってくる。
ヴェルは膝を抱えたまま、しばらくじっと鍋の湯気を見つめていた。そして、ゆっくりと首を振った。
「ううん。あっちの世界には、僕を待ってくれている人は誰もいないんだ。毎日、魔獣と戦って、生き延びるためだけに息をしていた。でも、この世界に来て、せんせいに優しくされて……何より、鋭二が僕に『ここにいろ』って言ってくれた」
ヴェルは顔を上げ、濡れたような瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
「僕の居場所は、もうここにあるんだよ。鋭二の隣が、僕の新しい世界なんだ」
その言葉は、昨夜の雨の音よりも深く、俺の心の最深部へと染み渡っていった。
俺はもう、自分の気持ちに嘘をつくのをやめた。いたずらで周囲をからかっていたひねくれ者の俺は、この赤髪の異世界人に、とっくに骨抜きにされていたんだ。
「……そうかよ。なら、ずっと俺が面倒見てやる」
俺はそっと手を伸ばし、ヴェルの赤髪を優しく撫でた。ヴェルは嬉しそうに目を細め、俺の手のひらに自分の頬を寄せてきた。その温もりは、どんな魔法よりも確かで、温かかった。
「あ、そろそろ出来上がったみたいだね」
鍋からパチパチと良い音が響き、醤油の香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
俺たちは立ち上がり、出来上がった肉じゃがをお皿に盛り付けた。
「できたぞ。お前が初めて作った、この世界の料理だ」
「うん! いただきます!」
二人で食卓に並び、箸を動かす。ヴェルが自分で切った歪な形のじゃがいもを口に運び、目を丸くした。
「おいしい……! 味がすごく染み込んでいるよ、鋭二!」
「だろ? 時間をかけて煮込んだからな。……ほら、肉も食え」
俺たちは笑い合いながら、手作りの夕食を囲んだ。
外はすっかり夜の闇に包まれて、静かな時間が流れている。
日常の退屈を壊してくれた、真っ赤な髪の転校生。
あいつがどこから来て、どんな過去を持っていようが、もう関係ない。俺たちが紡いでいくこの新しい『常識』は、これから先もずっと、二人だけの特別な物語として続いていくんだ。
ヴェル好き?




