放課後
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は小さくため息をついた。
窓の外は配置を変えたように、すっかり夕暮れ色に染まっている。ちらりと隣の席を見れば、赤い髪の転校生――ヴェル・ヴァルハードが、興味津々といった様子で日本の教科書をめくっていた。
「ねえ、鋭二。この『三角関数』というのは、結界の範囲を計算する数式の一種なのかい?」
「ただの数学だよ。お前、本当にその設定崩さないな……」
俺は苦笑しながらカバンを肩にかけた。
周囲のクラスメイトたちは、すでにヴェルの「異世界人ごっこ」に慣れっこになっており、「またヴェルが面白いこと言ってるよ」と遠巻きに笑っている。
だが、俺だけは知っていた。
ヴェルが時折見せる、手品にしては鮮やかすぎる消しゴムの浮遊。ドッジボールで見せた、人間の域を超えた超人的な身体能力。
そして何より、あの吸い込まれそうなほど純粋な瞳。
(本当にただのロールプレイなのか、それとも……)
そんな疑念を振り払うように、俺はヴェルの肩を軽く叩いた。
「ほら、行くぞ。昨日約束しただろ。『この世界の常識』を教えてやるって」
「うん! よろしく頼むよ、鋭二先生」
ヴェルは嬉しそうに目を輝かせ、俺の後ろをトコトコとついてきた。その姿がどこか大型犬のようで見慣れてしまい始めている自分に、俺は内心で苦笑する。
二人が向かったのは、駅前にある賑やかなゲームセンターだった。
一歩足を踏み入れると、大音量の電子音と色鮮やかなネオンの光が俺たちを出迎える。
「わあ……! なんて高密度の魔力……じゃなくて、光と音なんだ。これは何という結界だい?」
「結界じゃねえよ。ゲームセンター、略してゲーセンだ」
俺はポケットから百円玉をいくつか取り出し、クレーンゲームの前にヴェルを連れて行った。ガラスの向こうには、流行りのアニメキャラクターのぬいぐるみが大量に積まれている。
「いいか、こうやって金を入れボタンを押すと、あのアームが動く。タイミングよく操作して、あのぬいぐるみを落としたら勝ちだ」
「なるほど……。物理的な干渉だけであの獲物を捕らえるのだね。やってみてもいいかい?」
「おう、百円貸してやるからやってみろ」
ヴェルは真剣な面持ちでレバーを握った。その横顔は、まるで重大な任務に挑む騎士のようだ。
ウィィィン、とアームが動き出す。ヴェルは慎重に位置を合わせ、ボタンを押した。
アームが下降し、ぬいぐるみの頭を掴む。しかし、持ち上がった瞬間に、ぬいぐるみの重みでアームがスルリと滑り、元の場所に落ちてしまった。
「あ……落ちてしまった。すまない、鋭二。君の資産を無駄にしてしまったよ」
ヴェルが本当に申し訳なさそうに眉を下げた。
「気にするなよ、こういうのは簡単には取れないようにできてるんだ。じゃあ、次は俺の手本な」
俺は少し格好をつけたくて、別のクレーンゲームに百円玉を投入した。狙うのは、小さくて比較的取りやすそうな星型のキーホルダーだ。
慎重に位置を見極め、アームを動かす。ガッチリとアームが爪を掛け、見事に景品口へとキーホルダーが落ちた。
「よし、一発」
俺が自慢げにキーホルダーを取り出して見せると、ヴェルは「素晴らしい!」と手を叩いて喜んだ。
「すごいね、鋭二! まるで風の軌道が見えているかのようだ」
「ははっ、まあこれくらい余裕だし。……ほら、これお前にやるよ。常識先生からの初受講記念だ」
「えっ、僕に……?」
ヴェルは両手で大切そうにキーホルダーを受け取ると、胸元に抱きしめるようにして微笑んだ。
「ありがとう、鋭二。一生の宝物にするよ」
「大袈裟なんだよ……」
その真っ直ぐな笑顔に、俺は急に恥ずかしくなり、そっぽを向いた。心臓がトクンと小さく跳ねる。
ただの安いプラスチックの玩具なのに、そんなに嬉しそうにされたら、まるで自分が特別なものを贈ったような錯覚に陥ってしまう。
ゲーセンを出る頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
二人は並んで駅へ向かう夜道を歩いていた。街灯が二人の影を長く地面に落としている。
「どうだった? 今日の常識講習は」
「とても楽しかったよ。この世界の人々は、あんなに高度な技術をただ『楽しむため』に使っているんだね。僕の世界では、技術や魔法は生き残るためのものだったから……なんだか、とても平和で優しい世界だと改めて思ったよ」
ヴェルの言葉には、嘘偽りのない実感がこもっているように聞こえた。
俺はふと足を止め、隣を歩くヴェルを見つめた。
「なぁ、ヴェル」
「なに? 鋭二」
「お前、本当に異世界から来たのか?」
ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた疑問が、口をついて出た。
いつもなら「設定乙」と笑い飛ばすところだが、今夜のヴェルの横顔は、どこか遠くの星を見つめているように寂しげで、どうしても冗談には思えなかったのだ。
ヴェルは足を止め、俺と向き合った。
街灯の光が、彼の赤い髪を淡く照らす。
「信じて、くれるかい?」
「……わからない。けど、お前が嘘をついているようには見えないんだ」
ヴェルは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「本当に、僕はあの街の召喚陣からこの世界にやってきたんだ。前の世界には家族もいなくて、毎日戦ってばかりだった。だから、この世界にきて、鋭二に出会えて……本当によかったと思っているよ」
そう言って、ヴェルは一歩、俺に近づいた。
夜の冷たい空気の中で、ヴェルの体温がほんのりと伝わってくる。
「鋭二が僕にこの世界の常識を教えてくれるように、僕も鋭二に、僕の世界のことをもっと知ってほしいんだ」
「お前の世界のこと……?」
「うん。例えば……」
ヴェルは俺の手をそっと取り、自分の胸元に引き寄せた。先ほど俺が贈った星のキーホルダーが、二人の手の間で小さな金属音を立てる。
「僕の世界では、大切な人に贈り物をするとき、その人の幸せを願う魔法をかけるんだ。この星にも、僕の精一杯の祝福を込めたよ。鋭二が、ずっと笑顔でいられますようにって」
ヴェルの細い指が、俺の手を包み込む。冷たいはずの夜風の中で、ヴェルの手だけが驚くほど温かかった。
「っ……」
俺の顔が、一気にカッと熱くなった。
心臓が警報のような速さで脈打ち始める。
(な、何なんだよ、こいつ……!)
ただの友達に対する言葉にしては、あまりにも甘く、あまりにも真剣すぎる。
ドッジボールのときに押し倒してしまったときの、あの吐息が触れ合うほどの距離感が脳裏に蘇る。あのとき感じた、胸の奥のモヤモヤとした、けれど愛おしいような感情が、今度こそはっきりと形を成していくのがわかった。
「お前……そういうの、反則だろ」
俺は蚊の鳴くような声で呟き、握られた手を解かないまま、帽子を目深にかぶって顔を隠した。
「反則? 何か僕、間違った常識を使ってしまったかい?」
ヴェルが不思議そうに顔を覗き込んでくる。その顔がまた無防備で、整いすぎていて、俺の理性を激しく揺さぶる。
「間違ってねえよ……。ただ、俺の心臓に悪いだけだ」
「心臓に悪い? どこか痛むのかい? 回復魔法を――」
「違う! 違うから、もう帰るぞ!」
俺は真っ赤になった顔を隠しながら、ヴェルの手を引いて早足で歩き出した。
ヴェルは引っ張られながらも、繋がれた手を嬉しそうに握り返し、鈴が転がるような声で笑った。
「うん、帰ろう、鋭二。明日は何を教えてくれる?」
「明日は……もう何もしねえ!」
「そんなこと言わずに、また僕を連れ出してよ」
赤髪の転校生がもたらした、予測不能で、少しだけ不器用な日常。
俺は繋いだ手の温もりを感じながら、この退屈だったはずの毎日が、もう二度と元には戻らないことを確信していた。そして、その変化が、決して嫌ではないということも。




