第2章 存在しなかった一枚
王立学院には、写真に似た《写景板》という魔道具が存在していた。
貴重品ではあるが、王族や上位貴族であれば珍しいものではない。術者が見ている風景を薄い魔法板へ焼き付けることで、その瞬間を画像として残す。
写景板は本来、記録した後から別の画像を書き込むことができない。魔力の痕跡も残るため、人々は写景板に映ったものを疑わなかった。
術者が絵を描くわけではない。
現実を、そのまま光として記録する。
だからこそ、記録された光景は証言以上に信用されていた。
ミレーユはそこに目をつけた。
自室で一枚の画像を生成する。
――王立学院、西庭園。午後。エレノア・グランフェルト公爵令嬢が、ミレーユ・ヴァルデン男爵令嬢へ赤葡萄酒をかけている。
初めて作った画像では、エレノアの右手の指が六本あった。
ミレーユは顔をしかめた。
「指は五本。右手。杯を持つ。私の顔へではなく、ドレスへ葡萄酒をかける」
命令を修正する。
二度目。
今度はエレノアの髪飾りが左右逆だった。
三度目。
背景に存在しない噴水が現れた。
四度目。
ようやく満足できるものが出来上がった。
さらに数週間の試行錯誤の末、ミレーユは《画像生成AI》の魔力を直接流し込み、生成した画像を写景板へ偽装転写する方法を見つけた。本来なら不可能なはずの書き換えだったが、彼女の恩寵そのものが未知の系統であるため、既存の検査術は異常を示さなかった。
翌日の昼。
彼女は学院の西庭園で、本当に自分のドレスへ葡萄酒をこぼした。
「あっ」
白い制服の胸元へ赤い染みが広がる。
近くにいた令嬢たちが振り返った。
「ミレーユ様?」
「大丈夫です」
震える声で答えながら、彼女は周囲を見回した。
エレノアは、少し離れた場所にいる。
昨日計算したとおりだった。
「どうしたの?」
エレノア本人が近づいてくる。
ミレーユは一歩後退した。
意識的に怯えた顔を作った。
「……いえ」
「その染み、葡萄酒でしょう。すぐ洗わないと取れなくなるわ」
「近づかないでください」
周囲が静まり返った。
エレノアが目を見開く。
「ミレーユ嬢?」
「申し訳ありません。ただ……今は……」
それ以上言わず、ミレーユは走り去った。
噂は、その日の夕方には学院中へ広まった。
そして夜。
ミレーユは親しい伯爵令嬢リゼットへ、用意しておいた写景板を見せた。
「誰にも言わないでください」
「これは……」
リゼットの顔色が変わった。
画像の中では、エレノアが明らかにミレーユへ葡萄酒を浴びせていた。
「誰が記録したの?」
「分かりません。部屋の前に置かれていました」
「でも……これ、エレノア様よね」
ミレーユは黙って俯いた。
否定も肯定もしない。
それが最も効果的だった。
翌朝には、画像の存在を十人以上が知っていた。
三日後には、アドリアンの耳にも入った。
「ミレーユ嬢」
授業後、回廊で呼び止められた。
振り返ると、アドリアンが一人で立っている。
「エレノアが君へ嫌がらせをしたという話を聞いた」
「誤解かもしれません」
「画像があるそうだが」
「……ございます」
「見せてもらえるか」
ミレーユは躊躇するふりをしてから、写景板を差し出した。
アドリアンは長い時間、画像を見つめていた。
「本人には確認したのですか」
ミレーユが尋ねる。
「ああ。身に覚えがないと言っている」
「では、きっと何かの間違いです」
「君はそう思うのか」
「エレノア様は公爵家のご令嬢です。私などを傷つけても何の得もございませんから」
慎ましく聞こえるよう、慎重に言葉を選ぶ。
アドリアンの眉間に皺が寄った。
「身分は関係ない。したことが事実なら、謝罪するべきだ」
ミレーユは胸の内で笑った。
画像一枚。
ただ、それだけだった。
証人はいない。
実際には何も起きていない。
それなのにアドリアンの心には、すでに小さな疑念が生まれている。
その夜、ミレーユは新しい画像を作った。
――エレノア・グランフェルトが、人気のない回廊でミレーユを睨みつけている。
今度は一度で、ほぼ完璧だった。
ミレーユは画像を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
人は言葉を疑う。
記憶も疑う。
証言者の利害さえ調べる。
けれど、自分の目で見たものについては驚くほど無防備だった。
そのことを、ミレーユは初めて理解した。
「……簡単じゃない」
王太子妃への道など、存在しないと思っていた。
だが今は違う。
自分には、道を作る力がある。
たとえその道が、初めから存在しなかったとしても。




