其之六 みつ、襲来
黒金屋の中を一通り案内し終えた宗一は、最後に帳場の位置や、奉公人たちの動きについて簡単に説明していた。
表向きは大店の商家。
だが、その裏には、この宿場町で生きていくための複雑な仕組みが張り巡らされている。
一之進は宗一の話に耳を傾けながら、店の中を行き交う人々を眺めていた。
その時だった。
――バンッ!
店先の戸が勢いよく開け放たれた。
朝の静かな空気を吹き飛ばすような声が、黒金屋の中へ響き渡る。
「黒金屋ー! おるかー!」
一之進が思わずそちらへ顔を向ける。
店内にいた奉公人たちも、一斉に動きを止めた。
宗一だけは違った。
声を聞いた瞬間、露骨に眉間へ皺を寄せる。
「……またですか」
「また?」
一之進が尋ねると、宗一は苦々しい顔のまま入口へ視線を向けた。
「ええ……まあ、その……」
言葉を濁す。
そして、ほんの一瞬だけ一之進の顔を見た。
その目には、明らかに何かを訴える色があった。
――先生、どうかお願いします。
そんな声が聞こえてきそうな視線だった。
「…………」
一之進は無言で宗一を見る。
宗一は何も言わない。
ただ、ほんの僅かに頭を下げた。
「……なるほど」
何がなるほどなのか、自分でも分からなかった。
しかし、少なくとも宗一が歓迎していない客であることだけは理解できた。
やがて、入口から一人の女がずかずかと入ってくる。
栗色の髪を後ろでまとめ、道場帰りを思わせる凛とした姿。
腰には打刀。
その歩みに迷いはなく、店内を見回す目には強い警戒心が宿っていた。
そして、その手が刀の柄へ添えられる。
「黒金屋喜兵衛はどこや!」
店内の空気が、さらに張り詰めた。
「……お客様、店内でそのような大声は――」
「うるさい!」
宗一の言葉を遮り、女は一歩前へ出る。
「ここの黒金屋が、裏で人を売り買いしとるっちゅう噂を聞いたんや!」
「…………」
宗一が額を押さえた。
「またその話ですか……」
「また?」
一之進が小さく呟く。
どうやら宗一には心当たりがあるらしい。
女はさらに一之進へ視線を向けた。
その瞬間、鋭い目が細められる。
「……なんや、お前」
「私ですか?」
「その腰の刀……」
女の視線が、一之進の腰へ落ちる。
「あんた!黒金屋の用心棒やろ!」
「いやいや、昨日こちらの方にご厄介にな――」
「やっぱりや!」
女の声が一段大きくなった。
「怪しいと思っとったんや! 黒金屋が人を売っとるっちゅう噂、やっぱり本当なんやな!」
――話を聞いてくれない…
「いやいやいや!」
一之進は思わず手を振った。
「話が飛躍しすぎでは?」
「黙っとれ!」
女の手が、刀の柄を強く握る。
鯉口が、ほんの僅かに開いた。
その気配だけで、店内の奉公人たちが息を呑む。
一之進は反射的に姿勢を正した。
――これは、冗談で済ませる気配ではない。
だが、こちらから刀へ手を伸ばすつもりはない。
「お待ちください」
「なんや!」
「まず、私はこの店に来たばかりです」
「……は?」
「黒金屋の内情についても、あなたより知らないくらいですよ」
「…………」
女の動きが止まった。
一之進は苦笑する。
「それに、人身売買という話も初耳です」
「……嘘やないやろな?」
「嘘をつく理由がありません」
「…………」
女はじっと一之進を睨みつける。
その横で、宗一が小さくため息を吐いた。
「一条さん」
「なんや」
「せめて刀から手を離していただけませんか」
「嫌や」
「即答ですか……」
宗一の肩が落ちる。
一之進は思わず宗一を見た。
宗一は困り果てた顔で一之進を見る。
そして、またほんの少しだけ頭を下げた。
――どうか、この方を止めてください。
今度はさすがに、そういう意味だと分かった。
「……一条さん、と仰いましたね」
「そうや。
一条一刀流、道場師範代 一条みつや」
名乗った女――一条みつは、まだ警戒を解かない。
「それで、先生さん。あんたは何者や?」
「先生さん……?」
一之進は眉を上げた。
「黒金屋の用心棒なんやろ?」
「用心棒というか…、一晩世話になった―」
話し終える前にみつが口を挟む
「なら話は早い」
みつが一歩踏み出す。
「黒金屋の悪事に加担しとるんやったら、あんたにも話を聞かせてもらわんとな」
「…………」
取り合えず、話は聞くつもりらしい…すぐ口挟んでくるけど。
一之進は、みつの顔を見る。
真っ直ぐな目だった。
疑ってはいる。
だが、そこにあるのは悪意というより、噂を聞いて放っておけなくなった者の顔だった。
――なるほど。
厄介そうではある。
しかし、悪人には見えない。
「ところで、一条さん」
「なんや」
「その噂……どなたから聞いたんです?」
「それは――」
みつが言葉を止めた。
「……町で聞いたんや」
「町で?」
「そうや」
「誰から?」
「……誰やったかな」
「…………」
しばしの沈黙。
宗一が目を閉じる。
一之進も、何とも言えない顔になった。
「つまり」
一之進はゆっくりと言葉を選んだ。
「出所の分からない噂を聞いて、黒金屋へ乗り込んできた、と」
「……そういうことや」
「なるほど」
一之進は小さく頷いた。
そして心の中で、盛大にため息を吐く。
――ちょっと待て
この人、勢いだけでここまで来たのか。
しかも初対面の俺を見て、いきなり用心棒認定。
なかなかの脳筋娘だな…
その時、宗一がぼそりと呟いた。
「……この通り、一条さんは、話を聞く前に突っ走る方なので」
「宗一はん!」
「はい」
「余計なこと言わんといて!」
みつが睨みつける。
宗一は慣れた様子で肩をすくめた。
一之進は二人のやり取りを眺めながら、ふと思う。
どうやら――
今日一日は、静かには終わらないらしい。
一之進は、みつの腰元へ視線を落とした。
先ほどから刀の柄に置かれた手。
構えそのものは荒い。
だが――素人の手つきではない。
柄の握り方。
足の置き方。
そして、こちらを警戒する視線。
さすがに師範代を名乗るだけあって、剣の心得はあるらしい。
――ならば。
一之進は、ふと師匠の教えを思い出した。
「……一条さん」
「なんや?」
「剣を扱われるのであれば、一つだけ」
一之進はそう言って、静かにみつの目を見る。
「その刀、収めていただけませんか」
「なんでや」
「抜く必要がありませんから」
「必要があるかどうかは、こっちが決めることやろ」
みつは不満そうに眉を寄せる。
一之進は、しばし黙ってみつを見た。
そして、師匠から教わった言葉を、必要な分だけ口にする。
一之進の声は穏やかだった。
「剣は、抜くため だけにあるものではない」
「…………」
「怒りに任せて抜くのではなく、本当に抜かなければならない時なのかを見極めるべきでは」
みつの指が、柄の上で僅かに動いた。
「刀を抜くのは簡単です」
一之進は続ける。
「ですが――収めるには、自分で決めなければならない」
「…………」
「相手が悪そうだから抜くのか」
みつの眉が僅かに下がる。
「自分が腹を立てているから抜くのか」
「…………」
「それとも、本当に抜く必要があるのか」
一之進はそこで言葉を切った。
「そこを見定めるのも、剣を扱う者の務めだと思います」
店内が静まり返る。
みつは何も言わなかった。
ただ、一之進の言葉を聞いていた。
やがて、その視線が自分の刀へ落ちる。
先ほどまで勢いに任せて握っていた柄。
だが今は、その手に僅かな迷いがあった。
「…………」
一之進は急かさなかった。
ただ、静かに待つ。
みつはしばらく刀を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……そやな」
「……」
「確かに、うちは噂を聞いただけや」
先ほどまでの威勢の良さが、ほんの少しだけ消えていた。
「黒金屋が人を売っとるっちゅう証拠も……まだない」
「ええ」
「それなのに、いきなり刀抜こうとしとったんは……」
みつはそこで言葉を止めた。
頬が、ほんのり赤くなる。
「……ちょっと、先走りすぎたかもしれんな」
「そう思っていただけるなら――」
「やっぱり今のなし!」
「え?」
みつは顔を背けた。
「……忘れて」
「いや、もう聞いてしまいましたが」
「忘れろ言うとるやろ!」
顔が赤くなっている。
どうやら、自分から非を認めたことが相当恥ずかしいらしい。
一之進は思わず苦笑した。
――なるほど。
頭ごなしに言われたら反発するが、筋の通った話ならちゃんと考える。
思っていたより、ずっと真っ直ぐな人なのかもしれない。
「……すまん」
みつが、ぼそりと呟いた。
「はい?」
「聞こえんかったんか!」
「いえ、聞こえましたが……」
「……その、なんや」
みつは頬を赤くしたまま、ちらりと一之進を見る。
「ちょっと、熱くなりすぎた。……悪かった」
それだけ言うと、照れ隠しのようにぷいっと顔を背ける。
そして――
ゆっくりと刀から手を離した。
カチリ。
鯉口が、静かに戻る。
「……今日は抜かん」
一之進は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「別に……あんたに言われたからやないで」
「そうですか?」
「……師範代として、自分でも考えた結果や」
「なるほど」
「そこ、素直に納得するんかい!」
「では、どう返せば?」
「知らん!」
みつは再び顔を背ける。
しかし、その口元にはほんの僅かに照れたような笑みが浮かんでいた。
宗一が、その様子を見てほっと息を吐く。
「……よかった」
「宗一はん」
「はい?」
「なんや、その安心した顔は」
「いえ、いつもより穏便に済んだな、と」
「いつもよりってなんや!」
「…………」
宗一は黙った。
一之進も黙った。
みつだけが、しばし二人を睨む。
「……まあ、ええわ」
みつは小さく息を吐いた。
「今日は刀を抜かん。それでええやろ」
「はい」
「ただし――」
みつが一之進を見る。
今度の目には、先ほどまでの剣呑さはなかった。
「黒金屋がほんまに悪事を働いとると分かったら、その時はちゃんと話を聞かせてもらうで」
「それは構いません」
「……あんたにも、な」
「私にも?」
「黒金屋の用心棒なんやろ?」
「…………」
一之進は、ゆっくりと目を閉じた。
「……だから、昨日こちらに一晩お世話になっただけなんですが」
「うん」
「はい?」
「それでも用心棒なんやろ?」
「なぜそうなるんですか……」
みつは首を傾げる。
「刀差して、黒金屋におって、しかも先生さんなんやろ?」
「その三つだけで用心棒にされるんですか?」
「十分やろ」
「十分ではありません」
「まあ、細かいことはええやん」
「細かくないです」
一之進は、とうとう大きなため息をついた。
――駄目だ。
どうやらこの人の中では、すでに俺は黒金屋の用心棒で確定しているらしい。
訂正するのは、もう諦めたほうがいいのかもしれない。
みつはそんな一之進の様子を見て、少しだけ笑った。
「……まあ、今日はうちも悪かった」
「それが分かっていただけたなら十分です」
「せやから、次に会う時はちゃんと話を聞いたる」
「次に会う時、ですか?」
「もちろんや」
みつは胸を張る。
「黒金屋の用心棒さん♪」
「…………」
一之進は、もう一度だけため息をついた。
――訂正するのは、やはり諦めよう。
少なくとも今日は。
そんな一条みつとの出会いは、こうして思いのほか穏やかに――
……いや。
「宗一はん!」
「はい」
「なんでうちが来るたびに、そんな顔するんや!」
「……それはですね」
「なんや!」
「今から説明しますので、少々落ち着いてください」
「落ち着いとるわ!」
――訂正。
やっぱり、少し騒がしい出会いだった。




