Ⅸ 《隠者》 春を待つ灯火
最初の雪は、ライトの手の甲に落ちた。
白いものが触れたと思ったときには、もう水になっていた。顔を上げると、家々の軒の向こうを、小さな雪片が斜めに横切っていく。
ついさっきまで、石畳には乾いた葉が転がっていた。
「ルファ」
彼女も空を見ていた。青かった黄昏が、屋根の間で急速に色を失っていく。
石の家には鎧戸が下っていた。煙突からは煙の上がる気配もなかった。
二人は、いくつかの戸を叩いていた。
返事はなかった。呼び声のあとに残る静けさが、通りを一つ曲がるたびに深くなった。
町へ入った場所は、手帳に描いてある。欠けた石柱と、二階に丸窓のある家。その間に、カフェへ通じる境目が開いていた。ルファと一緒に場所を確かめ、そこから曲がった角も書き留めた。
まだ、遠くまでは来ていない。それなのに、夏の店先で聞いた蝉の声が、ひどく昔のものに思えた。
「上着を着ましょう。暗くなる前に」
軒下で荷物を下ろした。鞄の底から引き出した上着には、家の箪笥の匂いが残っていた。腕を通し、留め具を一つずつ掛ける。その間にも、雪は髪や肩に積もり始めている。ルファは襟を立て、通りの先を見た。
「あそこまで見て、人がいなければ戻りましょう」
家並みの切れ目に、空が見えていた。ライトは頷き、手袋をはめた。
町外れで、風の音が変わった。
足元から遠くまで、土地が大きく裂けていた。谷底は闇に沈み、向こう側には幾重もの山の稜線が重なっている。吹き上がる風が、雪を下から運んできた。ここが山の上にある町なのだと、そのとき初めてわかった。
谷へ突き出した崖の先に、城があった。
塔も、尖った屋根も、凍りついたように白かった。山肌を縫う細い道が、城のある岬まで続いている。その途中が、ときどき雪に隠れた。
「誰か、いるかな」
「窓はあるけれど……灯りが見えないわ」
ライトは道の先を見つめた。
あの城に父がいる、と考えたわけではない。ただ、閉じた戸ばかりの町を歩いたあとでは、何かを知る人間が一人でもいる場所へ近づきたかった。
風が強まった。ルファの外套の裾が、大きく膨らんだ。
「今は、やめよう」
ライトは言った。
「道の端が見えない」
ルファは城から視線を戻した。
「そうね」
二人が引き返そうとしたとき、雪の向こうで何かが動いた。
はじめは、枝だと思った。先の曲がった黒いものが、地面をゆっくり探っていた。その後ろから、深く頭巾を被った人影が現れた。
「灯りを、見なかったかね」
細い声だった。
老人が一人、杖をついて立っていた。肩から背中にかけて雪が積もり、手袋の指先は濡れて黒ずんでいる。
「ランタンじゃ。持っておったはずなんだが」
老人は、空いている左手を見下ろした。何もない指を、取っ手を握る形に曲げた。
*
探す場所を尋ねても、はっきりした答えは返らなかった。
水を汲みに出た。いつもの道を歩いた。ところが、気がつくと同じ石の前へ戻っていた。何度歩いても同じだった。灯りを高く掲げてみたことは覚えているが、そのあと、どこへ置いたのか分からないという。
「城へ帰りたいんじゃがな」
老人は、城のある方とは違う方角を見た。ライトは口を開きかけ、先にその腕を支えた。老人の膝が折れそうになっていた。
「少し、休みませんか」
「休むところなら、あそこにある」
杖の先が指したのは、道の脇の岩陰だった。近づいてみると、岩に寄り添うように小さな石小屋が建っていた。屋根は低く、入口の片側は崩れていたが、奥には風の届かない場所がある。壁際に短い薪が積まれ、床の中央には煤けた石が丸く並んでいた。
「道の手入れをする者が使う。薪は、使ったら足しておく決まりでな」
老人はそう言ってから、空の左手をまた眺めた。
ライトは壁際へ老人を座らせた。
ルファが荷物から火口と小さな道具を出した。カフェの作業場で使うものだ。慣れた手つきで、細い木片に火を移す。火は何度か傾き、ようやく薪の表面を舐め始めた。煙が、天井近くの隙間へ吸われていった。
入口へ吹き込む雪を、ライトは割れた板で脇へ寄せた。崩れた壁と床の間に詰めると、風が少し弱まった。振り返ったときには、小さな火の周りに、三人が座れるだけの暖かさができていた。
「どんなランタンだったの?」
ルファが尋ねた。
「金色だったか……いや、銀かもしれん。煤で黒くなっておったから」
「同じものにはできないけれど、代わりなら作れるわ」
老人が顔を上げた。
ルファは膝に布を敷いた。両手の間へ、細い光が集まり始めた。光は幾筋にも分かれ、折れ曲がり、六角形の底を描いた。その角から柱が伸び、空いていた面に薄い色が満ちていく。
蜂蜜色の硝子だった。
下の方だけ、夜明け前の空に似た青が入っている。丸い取っ手と、煙を逃がす小さな屋根が最後についた。
ライトは、老人の横でそれを見ていた。何度見ても、出来上がる直前の一瞬には息を止めてしまう。ルファの手が離れると、光でしかなかったものに重みが生まれ、膝の布がわずかに沈んだ。
「蝋燭を入れれば使えるわ。少し短くしないと――」
「持つよ」
ライトは手袋を外し、差し出したランタンの底へ手を添えた。
指先が、温かくなった。
思わず肩が強張った。硝子の獅子が動いたときと同じ熱だった。指の腹から金色の線が伸び、青と蜂蜜色の継ぎ目を伝っていく。
「ルファ」
「見えているわ。床へ置ける?」
頷いた。
彼女が布を広げ直す。ライトは膝をつき、その中央へゆっくりとランタンを下ろした。早く手を離したかった。けれど、投げ出せば割れる。底が石に着いたのを確かめてから、指を一本ずつ開いた。
光の線が離れた。
硝子の内側で、それらは細い糸のように絡まっていた。上へ昇ってはほどけ、また集まる。やがて真ん中に、小さな炎の形が残った。
芯はなかった。蝋燭を入れるための皿の上で、金色だけが揺れていた。
三人は、しばらく何も言わなかった。
「手は?」
ライトは掌を返してみせた。赤くはなっていない。熱も引き始めていた。
ルファはランタンに顔を近づけ、蓋の上へ手をかざした。それから戸を開けて、中を確かめた。
「熱くはないわね」
「消えるかな」
「まだ、わからない」
彼女は戸を閉じた。中の光は、変わらず揺れていた。
老人が、ゆっくりと身を乗り出した。節くれだった指が取っ手に触れる。持ち上げると、床に六つの淡い色が落ちた。
「足元が、よう見える」
老人はそれを、自分の靴の前へ置いた。雪で濡れた革の皺まで、柔らかい光の中に浮かんだ。
ライトは、自分の掌を見た。昨日は、机に傷が残ったが、今日は老人が、両足の置き場所を確かめている。
「予備の蝋燭も、入れておきましょう」
ルファが言った。
「消えたら、こちらを使ってね」
*
火のそばで雪を落とすと、老人は少しずつ話すようになった。
城で鳥の世話をしていること。庭の枝を払うこと。夕方には水を汲み、それが済むと、城の灯りをつけて回ること。
「窓がな、きれいなんじゃよ」
老人はランタンを見つめていた。
「昼に外から見るのもいい。だが、夜に内側から灯りを入れるとな……」
そこで言葉が止まった。眉の間に深い皺が寄り、何かを思い出そうとする顔になった。
ルファは急かさなかった。火へ細い薪を足し、傾いていた一本を直した。
「……もう、灯りをつける時刻なのに」
老人は小さく言った。
ライトは入口の向こうを見た。白い筋が、闇の中を絶えず流れていた。
「雪は、いつもこんなに降るんですか」
「夜じゃからな」
老人は当然のように答えた。
「朝になれば、春になる」
薪が、乾いた音を立てた。
「雪がやむ、ということ?」
ルファが訊き返した。
「雪もやむ。草も出る。昼には暑くなるから、その上着は脱いだ方がいい。夕方には葉が落ちて、また夜が来る」
ライトは、軒を横切った最初の雪を思い出した。 あのとき石畳を転がっていた枯れ葉は、靴で踏めば砕けそうなほど乾いていた。今、その同じ石畳に雪が積もっている。
「まさか、一日で、四つとも?」
老人は頷いた。
「お前さんたちのところは、違うのかね」
「ずいぶん違うわ」
ルファの声は静かだったが、膝の上の手は止まっていた。
「ここは、何という場所なの」
「冥界と呼ぶ者もおる」
ライトは老人の顔を見た。頭巾の下に、薄い白髪が覗いている。鼻の頭は寒さで赤く、火にかざした指先が、ゆっくり開いたり閉じたりしていた。
冥界。
口の中でその言葉を繰り返すと、父の名前まで一緒に冷えていく気がした。
「ここへ来るのは、死んだ人だけですか」
老人は首を傾げた。
「そうとばかりは言えん。お前さんたちも、来たろう」
それから、ルファを見た。
「前にも、よそから来た女がおった。赤い髪のな。同じように、城のことを訊いた」
ライトの手が、膝から浮いた。
「エマ、という名前では」
自分の声が大きくなったのがわかった。老人は目を細め、唇だけで何かを繰り返した。
「名前は、覚えておらん」
「いつ、会ったんですか」
「三週間ほど前だったか」
三週間。
ライトはルファを見た。エマが海へ向かったのは、父が姿を消すよりも前だと聞いている。赤い髪の女性が、ほかにもいたのかもしれない。それでも、胸の内側が忙しく脈打った。
「その人は、城へ?」
「どうじゃったか」
「男の人を見ませんでしたか。ジンという……硝子細工をする人です」
老人は長く考えた。その間、ライトは火を見ていた。顔を見つめていたら、答えを急がせてしまいそうだった。
「すまんな。わからん」
「……いえ」
握っていた指をほどいた。
「教えてくれて、ありがとうございます」
老人は、申し訳なさそうに頷いた。
*
風が弱まるころには、入口の外に雪の壁ができていた。
ライトはパンを三つに分けた。アディーが厚く切ってくれたものだった。火に近づけると、冷えて硬くなった皮から、少しずつ麦の匂いが戻ってきた。
母の包みには、薄く切った干し肉と、小さな袋に分けた塩が入っていた。袋の口は、紐が輪になるように結んである。手がかじかんでいても解けるように。母が食卓でこれを結んでいた姿を、ライトは見ていない。彼が眠ってから、用意したのだろう。
ルファの小鍋で湯を沸かし、干し肉を少し入れた。塩を落とすと、ただの湯だったものに食べ物の匂いが生まれた。
老人は杯を両手で包み、ひと口ずつ飲んだ。パンの欠片を膝へこぼし、拾って口に入れる。その仕草を見ているうちに、ライトの空腹もようやくはっきりしてきた。
「助かった」
老人が言った。
「灯りも、飯も」
「こちらこそ。ここを知らなかったら、まだ外にいたもの」
ルファが答えた。
食べ終えると、老人は立ち上がった。さっきまでより、腰が伸びていた。杖をつき、ランタンを持ち上げ、入口から道を眺めた。
「ああ。ここか」
聞き取れるかどうかの声だった。
「道が、わかるんですか」
「あの岩を回れば、石の手すりがある。あとはそれを辿ればいい。やっと帰れる」
ライトも外へ出た。風に流される雪の間から、低い石の縁が見えていた。城へ続く道だった。
「俺たちも――」
言いかけて、足元を見た。すぐ先で、道と谷の境目が雪に埋まっていた。
「初めてなら、明るくなってからにしなさい」
老人が言った。
「雪の下の石は、動くものもある」
ルファが、ライトの隣に立った。
「私たちは、朝、城へ行きましょう。それで手がかりがなければ、町へ戻る」
ライトはしばらく道を見てから、頷いた。
老人はランタンを少し掲げた。
「女王様なら、わしよりいろいろご存じじゃ。帰り道のことも、お訊きするといい」
「城に、女王が?」
「ああ。……帰るところがあるなら、長居はせん方がいい」
ライトは老人を見た。
「なぜですか」
老人は答えかけ、口を閉じた。それから、ランタンの取っ手を握り直した。
「よその時間のことは、わしにはようわからん。女王様に訊きなさい。間違うといかんからな」
ライトはルファと目を合わせた。城で訊くべきことが、一つ増えた。
老人は礼を言い、歩き出した。今度は、同じところを探る足取りではなかった。杖の先で雪の下を確かめながら、一歩ずつ城へ向かっていく。青と蜂蜜色の灯りが、その靴先を照らしていた。
二人は、岩の向こうへ老人の姿が隠れるまで見送った。
*
老人がいなくなると、小屋は急に広くなった。
ライトは残った湯を温め直した。薪は一晩を越せるだけありそうだった。入口の雪を整え、荷物を濡れないところへ移す。それらが済むと、次にすることが見つからなくなった。
座ると、膝の裏が鈍く痛んだ。
「思ったより、疲れていたんだな」
「慣れない道だったもの」
ルファは手袋を裏返し、火のそばへ置いた。指先が赤かった。ランタンを作ったときから、何度も素手を出していた。
ライトは、温めた杯を彼女へ渡した。
「先に」
彼女は受け取り、両手で包んだ。ひと口飲むと、眉がわずかに動いた。
「塩、多かった?」
「少し」
ライトも飲んだ。たしかに、さっきより濃くなっていた。
「煮詰まったのか」
「パンを浸すと、ちょうどいいわ」
ルファはそうして食べた。ライトも真似をした。硬い皮が柔らかくなり、干し肉の脂が口に広がった。
食べながら、二人とも少し笑った。笑うと、強張っていた頬が痛んだ。
ルクルの包みには、砂糖をまぶした果物が入っていた。二人で一切れずつ食べた。酸味が、舌に残った塩を洗った。残りを包み直すルファの指が、もう震えていないのを、ライトは確かめた。
「さっきの光」
彼は言った。
「まだ、勝手に出るんだな」
ルファは顔を上げた。
「ええ。触れたときに何が違うのか、調べないと」
「ちゃんと置けて、よかった」
「私も、そう思った」
その答えを聞いてから、ライトは壁に背を預けた。役に立ったことよりも、慌てて壊さずに済んだことに、今はほっとしていた。老人の靴先を照らす色を、もう一度思い浮かべた。
しばらく、薪の燃える音を聞いていた。
ルファが目を伏せている。眠ったのかと思ったが、火の傾きに気づいて薪を動かした。
「ルファも、休んで」
「もう少ししたら」
「それ、店でも言う」
彼女がこちらを見た。
「片づけてから、って。結局、最後まで起きてる」
ルファは火へ戻しかけた手を止めた。ライトは薪を一本取り、彼女の代わりに置いた。
「最初は俺が起きてる。眠くなったら、起こすから」
彼女は何か言いかけた。けれど、口を閉じ、肩から外套を少し緩めた。
「……お願い」
その声が、いつもの彼女より小さく聞こえた。
ライトは火を見た。頼まれ事を、うまく受け取った気がした。
*
雪がやんだのは、それから間もなくだった。
入口の外が、ほのかに明るい。月が出たのかと思って覗いたライトは、顔を上げたまま動けなくなった。
空に、緑の光が流れていた。
薄い絹を幾重にも垂らしたような光が、星々の間でゆっくりとひだを変えている。裾にはかすかな紫が滲み、その下を白い星が一つ、短く滑った。
振り返ると、ルファは目を閉じていた。起こすのをためらった。けれど、もう一度空を見てから、彼女の名を呼んだ。
「少しだけ、外を見て」
ルファは眠りの浅い顔で目を開けた。ライトの隣へ来て、同じように言葉を失った。
二人は小屋の入口に並んだ。外へ一歩出ると寒さが頬に触れたが、もう風は強くなかった。
光は、端から端まで同じ色ではなかった。あるところでは透けるほど薄く、あるところでは緑が深く重なっている。その濃い部分がほどけていくと、隠れていた星が一つずつ現れた。
「硝子で、作れるかな」
ライトは言った。
ルファは空を見たまま、少し考えた。
「一枚の色では、難しそうね」
「重ねたら?」
「重ねたところが暗くなるわ。光を通す隙間も、残さないと」
ライトは頷いた。頭の中で硝子を選ぼうとしたが、見つからなかった。作業場の棚にある緑は、どれも今夜の空には足りない。
「帰ったら、試してみたい」
「ええ」
光のひだが、山の向こうまで伸びた。
「起こして、ごめん」
ルファは首を振った。
「見られてよかった」
白い息が、彼女の頬の前を通った。眼鏡の端に緑が映り、瞬きするたび、細く途切れた。
ライトは先に小屋へ戻り、入口のそばの荷物を動かした。火の近くからでも、少し身を寄せれば空が見える場所を、二人分作った。
*
夜は、思ったより長かった。
ライトが眠くなったころ、ルファと交代した。壁へもたれると首が痛く、膝を抱えても落ち着かなかった。何度か姿勢を変えているうちに、隣から声がした。
「肩、使っていいわよ」
「重いだろ」
「痛くなったら、起こすわ」
ライトは返事をしなかった。しばらく火を見て、それから、少しだけ身体を傾けた。
外套越しに、ルファの肩が触れた。カフェの作業台で隣に立つときより、ずっと近かった。落ち着かないまま目を閉じると、今度は壁の冷たさが気にならなかった。
「もし、朝になったら」
ライトは言った。
「うん」
「春になるところ、起こして」
少し間があった。
「眠っていても?」
「見たいから」
「わかった」
薪が爆ぜた。その音のあとに続く静けさを、今度は怖いと思わなかった。
*
水の音で目が覚めた。
はじめは、雨だと思った。屋根から落ちた雫が、入口の石を打っていた。ひと粒ずつだった音が、いつの間にか細い流れになっている。
「ライト」
肩に手が置かれていた。ルファが、顔を覗き込んでいる。
「春になるわ」
その言葉で、夜の約束を思い出した。
立ち上がろうとすると、片脚が痺れていた。壁に手をついて身体を起こす間に、ルファが外へ出た。すぐそこで振り返り、手を差し出した。
ライトは手を取った。足元の水を越えると、空気の匂いが違った。
雪が薄くなっていた。
岩の黒い肌が、あちこちで覗いている。その縁から水が流れ、凍っていた土を細く削っていた。昨夜は何も見えなかった斜面に、伏せられていた草が少しずつ起き上がってくる。
山の稜線が、淡い桃色に縁取られた。
ライトは息を吸った。湿った土の匂いがした。冷たいのに、その奥に柔らかいものがある。冬の底へ埋もれていたものが、一斉に息をし始めたようだった。
「本当だったんだな」
ルファが頷いた。
近くの枝で、鳥が一声鳴いた。返事をするように、谷の向こうからも声が上がった。
ライトの靴先で、最後の雪が崩れた。その下から、小さな白い花が現れた。水の重みに俯いていた花が、ゆっくり顔を上げていく。
二人はしゃがんで、それを見た。言葉にすると、動きが止まってしまいそうだった。
花びらの縁に、朝の光が触れた。
ライトは隣を見た。ルファも花を見ていた。少し疲れた顔で、それでも口元を緩め、濡れた土の上に咲くものを、飽きずに眺めていた。
空の硝子だけでは足りない、と彼は思った。あの緑の夜の下に、この花も入れたい。冬と春が、一枚の窓の中にある。そんなものを、今まで作ろうと思ったことはなかった。
*
小屋へ戻って荷物をまとめた。
火が消えたのを二人で確かめる。使い切れなかった乾いた木片を、次に火を起こしやすいように細いものから揃えて置いた。手帳を出すと、指先がまだ煤で汚れていた。
ライトは、道順を書いた次の頁を開いた。城までの道を簡単に描き、女王に帰り道と時間のことを尋ねる、と書いた。その下へ、老人から聞いたことを、覚えている言葉で足していく。
三週間ほど前。赤い髪の女性。名前はわからない。
そこで手を止めた。
何も書かなければ、いつか、この夜はそれだけになってしまいそうだった。父を探す途中で聞いた、確かではない話。それだけでは、今朝の胸の中と違っていた。
少し余白を空け、もう一行、書いた。
ルファと、春を待った。
外から、彼女が呼んだ。
「歩けそうよ」
ライトは手帳を閉じ、鞄へ収めた。
雪の消えた道には、平たい石が埋められていた。低い手すりが城まで続き、その脇を細い水が走っている。昨夜、老人の杖が探っていた道だった。
崖の先の城は、もう氷の城には見えなかった。白い壁に朝の色が差し、幾つもの窓が並んでいる。その一つに、小さな灯りが見えた。しばらくすると、少し離れた窓にも灯った。
「おじいさん、着いたんだ」
ライトが言った。
ルファも、その灯りを見ていた。
二人は石小屋を離れ、城へ続く道に足を踏み出した。
昨夜渡した灯りが、朝の向こうで、まだ動いていた。




