Ⅹ 《運命の輪》 運命の指輪
朝の光の中に、灯りが残っていた。
谷を渡る風が、濡れた草を揺らしている。低い石の手すりに沿って歩くうち、城の窓は一つずつ大きくなり、その奥に揺れる炎も見分けられるようになった。
昨夜の老人がつけたものだろう。
明るくなった今も消さずにいるのが、少し不思議だった。
ライトは肩紐を掛け直した。
ルファが隣を歩いている。雪山を下り始めたころには白かった息も、もう見えない。道端の木には薄紅色の花がつき、水を含んだ花びらが、二人の足元へ落ちてきた。
「昨日は、枝だけだったのに」
彼が言うと、ルファは歩みを緩めて見上げた。
「帰りには、また違う姿になっているかもしれないわね」
花の向こうに、城門が見えた。
門は開いていた。分厚い扉の下に冬の名残の氷が貼りつき、そこから細い水が流れ出している。
その手前に、三人の子供が立っていた。
いちばん背の高い少年と、小柄な少女。それから、少女の半歩後ろに隠れるようにして、幼い男の子がいる。
三人とも黒い服を着ていた。襟や袖には丁寧にひだが寄せられ、胸元に白い花でも挿せば、そのまま誰かの葬列に加われそうだった。
少年が一歩進み出た。
「お待ちしていました」
年齢に似合わない、抑揚の乏しい声だった。
「女王がお呼びです」
ライトは立ち止まった。
「俺たちを?」
「山で老人に会ったでしょう」
ルファと目を合わせた。
老人が、二人のことを話してくれたのかもしれない。
「無事に帰れたのね」
ルファが言った。
少年は頷かなかった。細い指を門の内側へ向ける。
「こちらへ」
「待って。私たちは、人を捜しているの。それから、帰り道も確かめたい」
「女王にお話しください」
答えてから、少年は初めてライトの顔をまともに見た。
「マルクトから来たのでしょう」
聞き慣れない名前だった。
ライトが訊き返すより先に、ルファの視線が上がった。
「ここは、どの領域なの」
「ティファレトです」
少年の口調に変化はなかった。
ルファは城の塔を見上げ、それから、今歩いてきた道を振り返った。
「……そう」
ライトは、その横顔を見た。
「知っている場所?」
「名前を知っているだけよ。来たことはないわ」
彼女は少し身を寄せ、声を落とした。
「マルクトは、私たちが暮らしている世界を指す名前。冥界と呼ばれる場所は一つではなくて、いくつもの領域に分かれていると伝えられているの。ティファレトも、その一つ」
「この町の名前じゃなくて?」
「ええ」
ライトは、背後に連なる山々を見た。
あの向こうへ歩いていけば、知っている町があるわけではない。海を越えれば帰れるということでもない。
昨夜から見てきた雪も、花も、自分たちの世界のどこかで起きている出来事ではなかった。
ルファが少年へ向き直った。
「こちらとマルクトでは、時間の流れも違うの?」
少年の眼が、わずかに細くなった。
「それも、女王に」
少女が、少年の袖を引いた。
「ラック。お待ちよ」
少年は踵を返した。
ルファはライトを見た。彼は頷き、鞄の肩紐を握り直した。
帰るために知りたいことが、城の中にあった。
*
門の内側は、外から見たより暗かった。
黒い石を敷いた廊下に、靴音が硬く返る。壁の高いところには細長い明かり取りがあり、格子を通った朝日が、床に幾本もの線を引いていた。
火の匂いがする。
壁に備えられた灯明の皿に、小さな炎が揺れていた。その下には煤が残り、古い油の垂れた跡が幾重にも重なっている。
老人は、ここを毎晩歩いているのだ。
ライトはその姿を想像した。杖を脇へ立てかけ、背伸びして灯りを移す。ひとつ済めば、また次の皿へ。
昨夜は、そのための灯りを捜していた。
先を行く少年の後ろ姿へ声をかけた。
「あの人にも、お礼を言いたいんだけど」
返事はなかった。
少年は右へ曲がった。ライトは曲がり角の、角の欠けた石を目で覚えた。
背後では幼い男の子の靴が、ときどき床を擦っていた。
振り向くと、男の子はライトの鞄を見ている。
「何が入ってるの」
「食べるものと、道具」
「道具?」
「硝子を削ったり、切ったりする」
男の子が足を止めた。
少女がその手を取り、引き寄せる。
「ブー。前を見て歩いて」
少女と男の子を置いて次の角を曲がると、先頭の少年が、小さな部屋の前で止まっていた。
「ここで、お待ちください」
石の腰掛けが壁に沿って置かれているだけの部屋だった。細い窓から中庭が見え、乾いた泉の底に花びらが溜まっていた。
「女王に取り次いでもらえるのね?」
ルファが確かめた。
少年は一度だけ頷き、廊下の奥へ消えた。
ライトは腰掛けに鞄を下ろした。
肩に食い込んでいた紐が離れ、息が深く入った。
「三週間前、だったな」
窓を見ながら言った。
「あの人が、赤い髪の女の人を見たの」
ルファが頷いた。
「エマだったら、父さんも近くにいるかもしれない」
「まず、本人かどうかを確かめましょう」
「うん」
答えたあと、ライトは自分の手を見た。
爪の脇に、昨夜の煤が少し残っている。この手の汚れが落ちるまでに、父に会えるかもしれない。そう思うと、指先を膝へ擦りつけることさえ、なぜかためらわれた。
ルファが外套の留め具を外した。
部屋の中は、山道よりいくらか暖かかった。畳んで腕へ掛け、窓辺に歩み寄ろうとした、そのときだった。
床を、黒いものが横切った。
蛇だった。
ルファが足を引いた。踵が腰掛けに当たり、ライトは咄嗟にその肘を支えた。
小さな音がした。
外套から落ちた箱が床を打ち、蓋が開いた。転がり出たものが、窓の光を受けて一瞬だけ煌めいた。
ライトは足を動かさずに屈んだ。
指で輪の縁を押さえる。蛇はもう、入口の暗がりへ消えていた。
「大丈夫?」
「ええ。……ありがとう」
ルファは、彼の手元を見ていた。
指輪だった。
細い金属の枠に、小さな色硝子が嵌め込まれている。丸い太陽から羽が広がり、その先が輪の形に沿って指を包むように作られていた。
掌に載せると、青と金の光が、皮膚の皺に沿って揺れた。
「欠けてないと思う」
ライトは差し出した。
ルファは受け取らなかった。
「あなたに、渡すものだったの」
彼は顔を上げた。
「誕生日の。渡せないままになっていて」
廊下のどこかで、かすかな音がした。
それきり、静かになった。
ライトはもう一度、掌の指輪を見た。
太陽の周りの細い縁は、一本ずつ磨かれていた。羽の先に指の腹を滑らせても引っ掛からない。小さな硝子の裏側まで、継ぎ目が均等に整えられている。
すぐにできる仕事ではなかった。
「あの日、用意してくれてたんだ」
「ええ」
あの日。
歌があり、ケーキがあり、帰り支度をするまでは、何も変わらない一日だと思っていた。
同じ日のどこかで、彼女はこの箱を持ち、自分に渡そうとしていたのだ。
「指に、合うかしら」
訊く声には、いつもの確かさがなかった。
ライトは右手の中指へ輪を通した。
関節で少し止まり、そこを越えると、指の根元へ静かに収まった。握っても、羽の先は隣の指に当たらない。
「合ってる」
手を開いて見せた。
「よかった」
ルファの肩から、わずかに力が抜けた。
ライトは指輪を見ながら、どう礼を言えばいいのか考えた。綺麗だと言うだけでは足りない気がした。けれど、ほかにうまい言葉もなかった。
「ありがとう。大事にする」
ルファは頷き、床に落ちていた箱を拾った。
蓋を閉めかけ、彼の手をもう一度見た。
「十七歳、おめでとう」
知らない城の、冷たい石の部屋だった。
それでも、その言葉を聞いたときだけ、ライトの胸に、あの夜の店の灯りが戻ってきた。
*
廊下には、誰もいなかった。
ルファが入口から顔を出し、少年を呼んだ。
返事はなかった。少女も、幼い男の子も、足音さえしない。
しばらく待ってから、ライトも鞄を背負い直した。
ルファは指輪の箱を彼へ渡した。上着の内ポケットへしまい、二人で廊下へ出る。
「門まで戻ってみよう」
ライトが言った。
「道、覚えてるから」
ルファは頷いた。
二つ目の曲がり角までは、覚えたとおりだった。けれど、角の欠けた石があるはずの壁には、古い扉があった。
「ここだったと思ったんだけど」
ライトは足を止めた。
ルファは壁を見て、それから、背後の廊下を振り返った。
「私も、ここだと思っていたわ」
すぐには動かなかった。
ライトは手帳を出し、今いる扉と、そこまでの角を線で繋いだ。確かめながら一度引き返す。
腰掛けのある部屋には戻れなかった。
同じ数の角を、反対に曲がったはずだった。
今度は、上り階段がある。
足元を、冷たいものが撫でた。
黒い石の継ぎ目へ、細い影が滑り込んでいく。見つめると、影はただの染みのように動かなくなった。
ルファがライトの袖に触れた。
「離れないで」
彼は手帳をしまった。
階段の上からは、外の光が差していた。
少なくとも、そこからなら城のどちら側にいるか確かめられる。二人は壁に手を添え、一段ずつ上がった。
最後の段に足を載せたとき、小さな音がした。
硝子を踏む音だった。
*
廊下いっぱいに、色が散っていた。
赤。青。深い緑。
朝日を受けた破片が床に重なり、遠くからなら、水の底に敷かれた宝石のように見えたかもしれない。
窓が、すべて割れていた。
壁の高いところに、丸い窓が並んでいる。どれも外枠だけを残し、内側に細い金属の線が垂れ下がっていた。花びらの形をした硝子が一枚残っていた。それが風に押され、枠の中でかすかに鳴った。
ライトは、踏み出しかけた足を戻した。
床の破片のひとつに、葉脈が描かれていた。
その隣には鳥の嘴らしい黄色があり、少し離れたところに、指先を象った色硝子が落ちていた。どれも、時間をかけて作られたものだった。
作った人が最後に布で磨き、光へかざした姿が、容易に想像できた。
「全部……」
ルファの声が、途中で途切れた。
窓の下には、灯明が並んでいた。
いくつかには、まだ火が入っている。炎は風に煽られ、灯すべき硝子のない窓の下で、せわしなく揺れていた。
夜に内側から灯りを入れるとな。
老人が話をやめたときの顔を、ライトは思い出した。
「なぜ、帰してしまったんだ」
声がした。
階段の入口に、黒い蛇がいた。
頭を上げると、その輪郭がほどけた。細い身体から煙が溢れ、床を離れて積み重なる。
黒い服の少年が、そこに立っていた。
ライトは、息を吸うことを忘れた。
さっき部屋へ入ってきたものも、これだったのか。
少年は二人を見ていなかった。
窓の下の、小さな炎を見ていた。
「ようやく、出ていったのに」
「あのおじいさんのこと?」
ルファが尋ねた。
「また、灯りをつけて回っている。窓はもう、ないのに」
少年の声が硬くなった。
「自分で壊したくせに」
ライトは顔を上げた。
「あの人が、これを?」
「城じゅうを走り回っていた。叫びながら。あの夜から、ずっとこのままだ」
少年の指が、拳の形になった。
震えている。その震えを隠すように、腕を身体の脇へ押しつけた。
「なのに、お前たちは新しい灯りを渡した」
ライトの胸に、老人の空の左手が浮かんだ。
何もないのに、取っ手を握ろうとしていた指。
「道がわからなくなっていたんだ」
「だから、帰れなかった」
「雪の中に、あのまま置いてけっていうのか」
声が強くなった。
ルファが半歩前へ出た。
「割るところを、見たの?」
少年が彼女を見た。
「見たのは、窓を壊すところ? それとも、壊れた窓の前にいるところ?」
返事まで、間があった。
「同じことだ」
「同じではないわ」
少年の足元から、黒いものが滲み出した。
硝子の破片の隙間へ、油のように広がっていく。
ライトはルファの腕に触れた。
彼女も気づいていた。二人で、窓側へ半歩退いた。
「女王に会わせて」
ルファが言った。
「私たちを呼んでいるのでしょう。あの人の話も、そこで聞けるはずよ」
「女王の手を煩わせることはない」
黒いものが、階段を覆った。
戻る道が、闇の下へ沈んだ。
*
最初に現れたのは、手だった。
壁の影から、骨ばった指が突き出た。壁の石を掴み、その後ろから頭と肩が剥がれ出てくる。顔のあるはずのところは、黒く窪んでいた。
別の影からも、同じものが立ち上がった。
ライトは足を動かした。
靴底で硝子が鳴る。
その音に反応したように、いくつもの顔がこちらを向いた。
「窓から離れて」
ルファの声がした。
背中のすぐ後ろを、風が通っている。押されれば、枠のない窓から谷へ落ちる。
彼女の指の間に、光が生まれた。
掌ほどの人形が三体、床へ下りた。黒い髪に、小さな眼鏡。作業場で見た、人形たちだった。
今は誰も喋らない。
一体が金属の継ぎ目を足場に壁を上り、二体は床へ滑るように走った。
影の手が伸びた。
人形たちが細い棒を交差させ、その手を受ける。棒が撓み、硝子の鳴る音がした。
「奥の扉へ。私の横を通って」
ルファが言った。
ライトは頷こうとして、膝が動かないことに気づいた。
怖かった。
目の前のものが何なのかも、触れられたらどうなるのかも分からない。少年の姿が煙に崩れ、廊下の闇に混じっていくのが見えた。
「足が……」
かすれた声しか出なかった。
ルファが彼を見た。
手を引いて走り出す代わりに、すぐ隣まで戻ってきた。
「私も一緒に動く。まず、片足だけ」
外套が腕に触れた。
ライトは息を吐き、踵を床から剥がした。
その足首へ、影が巻きついた。
氷の水に入れられたようだった。
踏ん張ろうとすると、もう片方の足が破片を踏み、滑った。
ルファが彼を支えた。
空いた手の中で、細い光が一気に形を結ぶ。握りと鍔。その先へ、腕ほどの長さの硝子の刃が伸びた。
彼女は膝を落とし、足首を掴む影へ刃を当てた。
黒いものが裂けた。
同時に、刃の縁から、小さな欠片が落ちた。
影はすぐに繋がろうとした。
ライトは、ルファの手元へ手を伸ばした。
「貸して」
声を出すと、彼女がこちらを見た。
「昨日の灯りみたいに、できるかもしれない」
確かだとは言えなかった。
それでも、柄へ触れた指先には、もうあの熱が来ていた。
金色の線が走った。
鍔を越え、刃の中へ流れ込む。色硝子の一片ずつに光が行き渡り、欠けた縁のところで、細い輪郭が脈打った。
柄の重みが、掌に馴染んだ。
ライトは両手でそれを持った。
腕を大きく振る余裕はない。足首のすぐ前を、短く払った。
黒い手がほどけた。
切り離された指が空中で薄くなり、床へ届く前に消えた。
「立てる?」
ルファに支えられ、ライトは頷いた。
刃を見た。新しい欠けはなかった。
確かめる時間は、それだけだった。
次の影が来た。
ライトは剣を振ったが、先端は肩を掠めただけだった。勢い余って壁を叩き、衝撃が手首へ返った。
指が痺れる。硝子は割れていなかった。
「大きく振らないで。通るところだけ空けて」
ルファが言った。
ライトは頷き、彼女の肩を見失わないようにした。ルファの人形が前方で手を上げる。その下を、二人で通った。硝子を踏む音と、自分の息の音がやけに近かった。
一体の人形が、影に押し戻された。
壁に当たり、片腕が落ちた。
ライトは足を止めかけた。
「進んで」
ルファの声に、振り返る。
彼女も落ちた腕を見ていた。それでも、前へ向き直った。
ライトは剣を握り直した。
彼が開けた隙間へ、ルファが入る。次に彼女が影を押し返したところを、彼が抜ける。
ようやく、廊下の奥の扉へ届いた。
*
扉の前に、小さな男の子がいた。
門にいた子だった。
頬に涙の跡があり、袖の端を両手で握りしめている。
「兄ちゃんを、いじめないで」
ライトは剣を下げかけた。
ルファがその手首へ触れた。
「ここから出たいだけなの」
彼女は男の子に言った。
「そこを譲ってくれる?」
背後ではまだ、黒い影が動いている。
男の子はそれを見て、唇を噛んだ。
「ブー、下がれ」
廊下から声がした。
けれど、男の子は首を振った。
「ぼくが、止める」
小さな指がほどけた。
青い煙が、床を覆った。
ライトはルファの肩を引いた。
子供のいた高さを越えて、何かが膨れ上がっていた。煙の奥で牙が光り、床へ下りた爪が石を削った。
獣だった。
青い身体に、いくつもの強靱な脚が見えた。背に沿って立つ毛が、一斉に逆立つ。
その顔が、こちらを向いた。
速さを目で追うことはできなかった。
避けようとしたときには、もう目の前に牙があった。
ライトは剣を横にした。
噛み合う音が、腕の骨まで伝わった。
刃は砕けなかった。獣の口の中で、金色の線が激しく揺れている。
けれど、持っている腕は耐えられなかった。
身体ごと持ち上げられた。
肩紐が爪に引っ掛かり、切れた。鞄が落ちる。留め口が開き、布に包んだものが幾つか床へ転がった。
丸い包みが、柱の陰へ消えた。
そこまで見えた。
背中に、硬いものが当たった。
息が全部抜けた。
「ライト!」
ルファの声がした。
返事をしようとしたが、口からは短い息しか出なかった。
手は、もう剣を握っていなかった。
何かを掴もうとした指が、石の床を滑った。
*
ルファは、彼の胸が動くのを見た。
近づこうとすると、青い獣が首を巡らせた。硝子の剣を噛んだまま、喉の奥で低く唸っている。
廊下の闇が、少し退いた。
「ブー。もういい」
少年の声がした。
獣の耳が動いた。けれど、その眼はルファを捉えたままだった。
彼女は両手を、見える高さへ上げた。
「その子のところへ行かせて」
指先に光が集まりかけた。
獣の脚が沈む。
ルファは光を止めた。ここで魔法を作り始めれば、出来上がる前に飛びかかられる。
ライトが、床の上でわずかに動いた。
彼の指から落ちた小さな色が、石の上に揺れた。
ルファは、そちらへ一歩動いた。
獣の前脚が床を蹴った。
「そこまで」
赤いものが、間へ立った。
熱い風が、ルファの頬を打った。尖った耳と長い鼻面を持つ影が、獣の前へ腕を差し出している。その背後で、黒い服の裾が炎のように揺れた。
「女王がお怒りよ」
門にいた少女の声だった。
獣が足を止めた。
口が緩み、硝子の剣が落ちた。乾いた音を立てて床を滑ったが、刃はまだ形を保っていた。
ルファはライトのそばへ膝をついた。
頬に触れ、呼吸を確かめる。彼は目を開けたが、焦点が合うまでに時間がかかった。
「……ルファ」
「ここにいるわ」
起き上がろうとする肩を支え、動かないように伝えた。
彼女の背後で、青い煙が縮んでいく気配がした。
「私たちを呼んだのは、女王ではなかったってことね」
ルファは振り向かずに言った。
返事はなかった。
「今度こそ、会わせて」
声は低かった。
ライトの背に添えた手だけが、小さく震えていた。
*
遠くで、水の落ちる音がしていた。
ライトは目を開けた。
高い天井が見えた。さっきの廊下より、ずっと広い場所だった。仰向けになっていた身体を少し動かすと、背中に痛みが走った。
赤い煙に包まれたところまでは覚えていた。床の感触が消え、ルファの手だけが肩に残っていた。
「まだ、起きないで」
ルファがそばにいた。
丸めた外套を頭の下に入れ、濡らした布を手に持っている。
切れた肩紐の鞄と、硝子の剣が、壁際にまとめて置かれていた。
「ここは」
「王の間だそうよ」
どうやって来たのか訊こうとしたが、その前に、目の端に大きなものが入った。
時計だった。
そう思って見上げるうち、違う、と気づいた。
円い盤には、時刻を示す数字がない。大きな針は真上を向いたまま止まり、盤面の奥で、虹色を含んだ雲がゆっくりと渦巻いていた。
その前に、三本の鎖が下がっている。
鎖の先には、人が横たわれるほどの皿が吊られてあった。
ライトは息を詰めた。
皿の上に、老人がいた。
頭巾を取られ、白い髪を石の縁に預けている。目を閉じた顔には、昨夜と同じ深い皺があった。靴の先が、皿の端から少しはみ出していた。
「あの人……」
起き上がろうとして、息が詰まった。
ルファが背中を支えた。
「息はしているわ」
彼女も老人から目を離さなかった。
高い窓から、雨が吹き込んだ。
さっきまでの春の光が、雲に覆われている。窓の外枠を伝った水が、床へ落ちていた。
女が一人、盤の前に立っていた。
長い衣の裾を引き、こちらへ顔を向ける。広間の端には三人の子供が並んでいた。幼い男の子は俯き、少年は女の顔を見ている。少女だけが、二人の間にいる老人を見上げていた。
女の手には、ランタンがあった。
下の方が青い、蜂蜜色の硝子。
その中で、金色の光が揺れていた。
「この灯りを渡したのは、そなたたちか」
ライトは女を見た。
「ああ」
声が掠れた。
ルファが彼の隣へ座り直した。
「私が作りました。灯りを入れたのは、この子です」
女はランタンを少し持ち上げた。
床へ落ちた色が、長く伸びた。
「ラタを、城へ戻したのだな」
老人の名だとわかった。
ライトは皿の上の顔を見た。パンの欠片を拾って食べた手が、今は身体の脇に置かれている。
助けたつもりだった。
城の窓に灯りを見つけたときには、無事に着いたのだと、二人で喜んだ。
今、その人は、大きな皿の上にいる。
「あれは、何ですか」
ライトは訊いた。
女は円い盤へ視線を移した。
「罪を量る天秤だ」
雨の音が強くなった。
ライトは自分の手を床についた。
痛む身体を、ルファが支えてくれた。指輪が石に触れ、小さな音を立てた。
窓を割ったのはあの老人だと、少年は言った。
自分が見たのは、雪の中で道を見失った姿と、灯りを喜ぶ顔だけだった。
何があったのかを、まだ知らない。
だから、ここで決まってしまっては困る。
ライトは顔を上げた。
「その人にも、話をさせてください」
女王が、彼を見た。
止まっていた針の奥で、雲がゆっくりと形を変えた。




