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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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Ⅺ 《正義》 天秤の女王

挿絵(By みてみん)




 女王は、すぐには答えなかった。


 雨が窓枠を叩いていた。老人を載せた皿は少しも揺れず、その背後で、円い盤の雲だけがゆっくりと形を変えている。

 ライトは床についた手へ力を込めた。立ち上がれば、声がもっと届く気がした。けれど、背中に走った痛みで、肘が折れた。


「座ったままでよい」


 女王が言った。


「聞こえている」


 その手が上がると、鎖が鳴った。

 大きな皿が静かに下りてくる。石の床に触れる直前で止まり、老人の靴先が、手を伸ばせば届きそうな高さになった。


「ラタ」


 女王の声に、老人が眉を動かした。


「もう済んだ。起きられるか」


 老人は薄く目を開いた。

 しばらく天井を見つめ、それから、身体を起こそうとした。女王が腕を差し出した。老人はその袖に掴まり、皿の縁へ腰を掛けた。


「……眠っておりましたか」


「よほど疲れたのであろう」


 女王は、手にしていたランタンを彼の足元へ置いた。

 老人の眼が、その灯りを追った。次にライトとルファを見つけ、困ったような笑みを浮かべた。


「お前さんたち。もう、着いたのか」


 昨夜と同じ声だった。

 ライトは、詰めていた息をようやく吐いた。


 女王が三人の子供へ向き直った。


「ラタに、窓を壊した罪はない」


 少年が顔を上げた。


「そんなはずはありません」


「針は動かなかった。この者が窓を壊した瞬間も、映らなかった」


「でも、僕は見ました。廊下を走っていたんです。あんな声を出して――」


「ラック」


 女王が遮った。


「その話は聞いた」


 少年の口が閉じた。

 ライトは彼を見ていた。窓の壊れた廊下で、ルファに問われたときと同じ顔をしている。


 女王は老人の前へ片膝をついた。


「何があったか、話せるか」


 老人はランタンへ手を伸ばした。

 取っ手に触れ、そこにあることを確かめてから、指を膝へ戻す。


「窓が、落ちてきたのです」


 細い声だった。


「止めねばと思って。ですが、脚がついていかず……右へ行けば、左で音がして。長いこと、音がしておりました」


 老人は目を閉じた。


「何と言えば、止まってくれるのかわからなくなった」


 ラックが、わずかに動いた。

 隣の少女が、その袖に触れた。


 雨の向こうで、硝子が鳴った。

 窓枠に残った一片が風に揺れていた。老人は音のする方へ顔を向け、何かを言いかけたが、言葉にはならなかった。


「ブー、」


 女王がいちばん幼い子を呼んだ。


「お前は、そのときどこにいた」


 男の子は、両手を腹の前で重ねていた。

 袖口の下で、何かが赤く光った。


「ぼくが、割った」


 女の子が息を呑んだ。


 ブー自身も、驚いたように口を押さえた。その拍子に、袖の中から丸いものが現れた。赤い硝子を継いだリンゴ。細い軸のそばに、小さな葉が一枚ついていた。


 ライトの指が動いた。


「それ……」


 女王がブーの前へ進んだ。


「もう一度、聞く。窓を割ったのは、お前か」


 ブーは首を振りかけた。

 けれど、出てきた言葉は違った。


「ぼく。……ぼくが、全部」


 ルファの手が、ライトの腕から離れた。

 リンゴを見つめている。


「どうして、それがここに」


「俺の鞄に入ってたんだ」


 ライトは答えた。

 柱の陰へ転がっていった包みが、目に浮かんだ。


     *


 女王が手を差し出すと、ブーはリンゴを抱え込んだ。


「それを出して」


 ルファの声は強くなかった。

 それでも、男の子は彼女を見た。


「それは、あなたのものではないはずよ」


「落ちてたから」


「この人の鞄から落ちたのを、見ていた?」


 ブーの目に涙が溜まった。


「……見てた」


 指がほどけた。

 女王がリンゴを受け取り、そばの台へ置いた。


 ルファは小さく息を吐いた。


「真実のリンゴです。手にした人は、知っていることを偽って話せなくなる」


「そなたの作か」


「いいえ。私には作れないものです。以前、私の店にありました」


 女王は、赤い硝子をしばらく見た。


「神々の遺した品か。この天秤にも、似たところがある。使うことはできても、私が作り直すことはできぬ」


 それから、ブーへ視線を戻した。


「今は、持っておらぬ。自分で話しなさい」


 男の子は袖で口を拭いた。

 否定しようと思えば、できるのだろう。目が姉の方へ動き、兄の方へ動いた。けれど、どちらも何も言わなかった。


「ランタンを、取ったんだ」


 今度の声は、小さかった。


「追いかけてくると思って」


 女王は頷きもせずに聞いていた。


「走ったら、身体が窓に当たった。割れると思わなかった。……最初は」


 老人の手が、膝の上で重なった。


「最初は、か」


 女王が繰り返した。


 ブーの唇が震えた。


「レド姉ちゃんが……」


「言わないで」


 少女の声がした。

 ブーが顔を上げる。少女は、袖の中へ両手を引っ込めていた。


「ブーだけを叱れば済むと思っているのか、レド」


 女王が言った。


「私のいない夜のことを、この子一人に話させるつもりか」


 レドは俯いた。

 滴が落ち始めた床の上で、その影が細く揺れた。


     *


 老人が皿から下りると、女王は彼を椅子へ座らせた。

 次に、ブーを呼んだ。


 男の子は皿の前で足を止めた。

 振り返ったが、誰も代わってはくれなかった。縁へ両手を掛け、膝を載せ、座る。


 鎖が張った。


 円い盤の雲が、内側から押されたように薄くなった。

 その奥に、廊下が見えた。


 窓があった。

 まだ割れていない、幾つもの美しい窓だった。灯明の炎が鳥や花の輪郭を照らし、色をまとった夜が、長い廊下に満ちていた。


 そこを、青い獣が駆け抜けた。


 口には古いランタンを咥えている。身体が窓へ触れた瞬間、大きな花の模様が内側へ崩れた。明るい音が幾重にも重なり、老人が両腕を上げた。


 やめてくれ。


 声はそう聞こえた。


 ブーは皿の上で、自分の膝を見ていた。

 雲の中の獣は立ち止まった。そのそばへ、黒い服の少女が近づいた。


「全部、割ってしまえばいい」


 盤の中から、レドの声がした。


「ラタがやったことにするの。そうすれば、女王もあの人をここへ置かない」


 ライトは、広間に立つ少女を見た。

 今の彼女は、唇を噛んでいた。


 雲の中で、また窓が落ちた。

 老人は、落ちてくる硝子を受け止めようとでもするように、手を伸ばした。届かなかった。獣が身を翻し、次の窓へ向かった。


 その先に、少年が現れた。

 彼が見たのは、破片の中で叫んでいる老人と、床に落ちたランタンだった。


 ラックは、盤を見つめていた。

 口が半ば開き、そこから先、言葉が出てこない。


「……レド」


 やっと、それだけを言った。


 少女は兄を見なかった。


 女王の手が動くと、雲が厚くなり、廊下の光景を閉ざした。

 針が傾いていた。

 その重みを受けるように、ブーの載った皿が、わずかに沈んだ。


     *


「わたしの花を、取っていくの」


 レドが言ったのは、自分の名を呼ばれたときだった。


 女王が待つ。

 少女は、濡れた床から顔を上げないまま続けた。


「庭の白い花。咲くのをずっと待っていたのに、切って、どこかへ持っていってしまう。何度言っても、また」


 老人が顔を上げた。

 少女はその方を見ない。


「嫌だった。もう、いなくなればいいと思った」


「それで、窓を壊したことにしたのか」


 レドは頷いた。

 肩が細かく震え始めた。


 女王は、すぐには次を尋ねなかった。

 老人の膝の上へ目をやり、それから少女へ戻す。


「花のことは、改めて聞く。だが、お前がしたことは、それとは別だ」


 もう一枚、皿が下りた。

 レドがそこへ座ると、雲の奥で、先ほどとは別の場所に灯りがともった。


 水汲みの桶が並ぶ、小さな部屋だった。

 古いランタンの蓋が開いている。

 その前に、ラックがいた。


 彼は小瓶の中身を、灯りの皿へ注いでいた。


 ライトは、隣のルファが息を止めるのを感じた。


「迷いの涙」


 女王が言った。


「その灯りで歩く者は、知っている道にも戻れなくなる」


 少年は盤から目を逸らした。


 同じ石の前へ戻っていた。

 何度歩いても、同じだった。


 雪の中で聞いた声が、ライトの耳に戻ってきた。


「知ってて、帰れなくしたのか」


 少年を見た。

 怒りで、声が低くなった。


「あの人は、自分が道を忘れたんだと思ってた」


 ラックの喉が動いた。


「窓を、壊したから」


「見ていないんだろ」


 言葉が、先に出た。


 少年は唇を結んだ。ライトはその顔を見つめたまま、次の言葉を失った。

 

『父を奪った魔女がいる』

 

 あの日、母の言葉を何度も胸の中で繰り返した。店の外から見て、優しく笑う顔さえ疑った。何を見ても、そうなのだと思いたかった。


 そんな自分と重ねていた。


 膝の上の指が曲がった。

 あの日、そこにはナイフがあった。


 ルファがすぐ隣にいる。

 ライトは顔を向けられなかった。


「壊したと聞いた。それで、追い出してよいと決めた」


 女王の声がした。


「そうだな、ラック」


 少年が、小さく頷いた。


「雪の中で、死んでいたかもしれぬ」


「……夜が明けたら、戻れると思ったんです」


「戻れぬようにしたのは、お前だ」


 ラックは答えなかった。


 ライトは、ゆっくり指を開いた。

 自分にも覚えがある。それでも、見過ごしていい理由にはならなかった。


     *


 三枚の皿が、盤の前に並んだ。


 女王は、窓を壊したこと、嘘をついたこと、老人の帰る道を奪ったことを、一つずつ口にした。それから、旅人を自分の名で招き、襲ったことを告げた。

 誰も、言い返さなかった。


「天秤の内へ入りなさい」


 ブーが顔を上げた。


「どこ……?」


「何も置いていない、潔白の白い部屋だ。次の鐘で戻す。それまで、誰にも代わってもらわずに考えなさい。自分が何をしたか、ここを出たあと、誰に何を返さなければならぬか」


 少女が、兄の方へ手を伸ばしかけた。

 皿が離れ、その手は届かなかった。


 雲が、盤から溢れた。

 三人の足元を包み、膝を、肩を覆う。やがて黒い服も白い顔も見えなくなり、雲は静かに引いていった。


 皿は空になった。


 ライトは、その空白を見ていた。

 胸の奥にあった怒りは、三人と一緒に消えてはくれなかった。背中は痛み、老人の手は、まだ膝の上で小さく重なっていた。


 女王がこちらへ歩いてきた。


「客人を傷つけた。申し訳なかった」


 頭が下がった。

 ライトは、何と答えてよいかわからなかった。


「ラタも、私の城でこの目に遭った。裁きを下して、それで私の務めが済んだとは思っておらぬ」


 彼女は腰を屈め、ライトの顔を見た。


「手当てをさせてほしい」


 ルファが、ライトを見た。

 彼は少し迷ってから、頷いた。


     *


 窓際を避けた長椅子へ移るころには、雨がやみ始めていた。


 女王は布と薬の入った箱を持ってきた。ルファに手を添えてもらいながら、ライトは上着を脱いだ。背中を見た彼女が一度、唇を結んだ。

 冷たい布が触れる。

 彼は膝へ置いた手を握った。


「痛かったら、言って」


「痛い」


 今度は、すぐに答えた。

 ルファは頷き、布を当てる力を弱めた。


 女王は、二人が落ち着くのを待っていた。


「聞きたいことがあると言ったな」


 ライトは顔を上げた。

 忘れていたのではなかった。口にするための隙間が、ようやくできた。


「父を、捜しています。ジンという人です。それから、赤い髪のエマという人も」


「エマなら、来た」


 返事は、すぐだった。


 ライトの膝から手が浮いた。


「名前を、名乗ったんですか」


「そうだ。赤い髪の、若い娘だった。ここから帰る道を訊ねた」


 ルファが顔を上げた。


「若い、というのは……十五、六歳くらい?」


「そのくらいに見えたが」


「二十年以上、前の話ではなく……」


 女王の目が、ルファからライトへ移った。


「こちらでは、三週間ほど前だ」


「……こちらでは」

 

 部屋の中の音が、遠くなった。

 昨夜、老人も同じことを言っていた。


 ルファは布を置いた。


「マルクトと、こことでは、どれほど時間が違うの」


 女王は二人を見た。


「知らずに来たのか」


「教えてください」


 ライトが言った。

 自分の声が、思っていたより低かった。


「この地の一日は、マルクトのおよそ一年に当たる」


 女王の言葉が、ゆっくりと耳へ入ってきた。


 一日。

 一年。


 ライトは窓を見た。

 濡れた石の上で、朝から咲いていた花が開ききっている。その向こうに、夜を過ごした山があった。


「じゃあ、昨日の夜から……」


 数えようとした。

 店を出たとき、あちらは朝だった。こちらは夕暮れだった。雪が降って、老人に会って、火を囲んで、ルファの肩で眠った。


 それだけだった。


「向こうでは、もう何か月も?」


 女王は真顔で頷いた。


 ライトは立ち上がりかけた。

 背中が痛んだが、今はその痛みが邪魔だった。


「戻らないと」


「ライト」


「帰って話すって、言ったんだ」


 ルファが彼の腕を支えた。

 止めるためではなかった。立ち上がろうとする身体が傾かないように、支えていた。


「ええ。帰り道を確かめましょう」


 彼女も女王を見た。


「町外れの絵の入口から来たの。そこへ戻れば――」


「日が暮れるまでに戻らなかった入口は、閉じる」


 女王の声が重なった。


 ライトは彼女を見た。

 意味がわからなかった。わかったあとも、うまく頷けなかった。


「元の場所へ行っても、もう通れないのか」


「その入口はな。だが、帰る道がすべて失われたわけではない」


 女王は西の窓を指した。


「境を行き来する者を見届ける番人が、湖にいる。エマにも、その者を訪ねるよう伝えた。そなたの父のことも、そこで訊くとよい。私には、ジンという男が来た覚えはない」


 ライトは、女王が指した方角を見た。


 父を捜す道と、家へ帰る道が、同じ場所へ続いていた。

 それに安堵してよいのかさえ、分からなかった。


「案内を、つけてもらえますか」


 ルファが尋ねた。


「つけよう。地理を知るラックに、道を導くものを出させる。ただし、今度は私の前で行わせる」


 女王は、空の皿へ目をやった。


「次の鐘で戻す。それまで、身体を休めておきなさい」


     *


 虹色Caféの扉を開けると、レインの肩から雪が落ちた。


「いらっしゃい」


 ルクルが、いつもの声で迎えた。

 レインは手袋を外しながら、店の奥を見た。カウンターの横に、あの絵が置かれている。夏の日、兄が向こう側から手を振った場所だった。


 今は、硝子の中に白い道が続いているだけだった。


「何か、変わった?」


 ルクルは絵を見て、それから彼女へ顔を戻した。


「今朝からは、まだ」


 レインは頷いた。

 入口を開けようとしたことは、何度もあった。アディーも試した。けれど、触れた先にあったのは、冷たい硝子だけだった。


 椅子へ座ると、台所からアディーが出てきた。

 湯気の立つカップを、彼女の前へ置く。


「お母さんは」


「今日は、家にいる」


 答えてから、レインはカップに両手を添えた。


「何かあったら、すぐ呼んでって」


「ああ」


 アディーはそれだけ言い、隣の椅子を引いた。


 レインは、兄の作った青い窓飾りを見上げた。

 冬の光は薄く、床へ届く色も、夏に見たものとは違っていた。


「おもしろかったことだけじゃなくて、って言ったの」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 アディーもルクルも、返事をしなかった。


「ねえ、お兄ちゃん。何も見つからなくても、よかったのに」


 カップの縁で、白い湯気がほどけた。

 レインは両手を離さず、しばらくそれを見ていた。


     *


 ライトは、手帳を開いた。


 前の頁には、母に話すつもりで書き留めた道順があった。

 欠けた石柱。丸い窓。曲がり角。

 正しく覚えて戻れば、帰れると思っていた。


 新しい頁へ、女王の言葉を書いた。


 一日が、およそ一年。

 入口は、日暮れで閉じる。

 西の湖。境の番人。


 鉛筆の先が、そこで止まった。


 父も、知らなかったのだろうか。


 最後の冒険にすると言った人が、ほんの数日のつもりで歩いている間に、子供は生まれ、話すようになり、父の顔を知らないまま大きくなったのだろうか。

 そうだったとしても、会いたかった時間が戻るわけではない。


「訊くことが、増えた」


 ライトは言った。

 隣で、ルファが頷いた。


「会って、確かめましょう」


 彼女の声も疲れていた。

 ライトは手帳を閉じた。革の表紙に、爪でつけた小さな跡が残った。


     *


 老人は、窓の下に立っていた。


 雨のやんだ王の間へ、強い日差しが入り始めていた。床の水が光り、その中に落ちた小さな硝子が、ところどころで色を返している。

 老人は屈み、一片拾った。


「手を切るわ」


 ルファがそばへ行った。

 老人は振り返り、掌を開いた。白い花びらの形をした硝子だった。


「ここの窓に、あったのです」


 彼は、壁の中央を指した。

 大きな丸窓の下に、小さな縦長の窓があった。大半は抜け落ちていたが、下の隅にだけ、緑の葉と花の茎が残っていた。


「朝は、この花の色が床へ落ちた」


 ルファは掌の破片を見た。

 それから、残っている茎の曲がり方を、目で辿った。


「直せるのか」


 女王が近づいてきた。


「ランタンを見て、そなたならと思ったのだが」


「一枚ずつなら。ただ、今、城じゅうを直す時間は……」


「わかっている。帰り道を先にせねばな」


 女王は言い、老人へ向き直った。


「破片は捨てさせぬ。集めておこう」


 老人は花びらを見つめた。

 頷いたあとも、手を下ろさなかった。


 ライトは長椅子から、その小さな窓を見ていた。

 欠けた部分の形は、難しくない。残った茎をつなげば、もとの花がどのあたりにあったかもわかる。


「その一枚だけなら」


 ルファが振り返った。


「鐘が鳴るまでに、できないかな」


「ライト、手はまだ――」


「図案なら、描ける」


 手帳を、もう一度開いた。

 指を曲げると、鈍い痛みはあった。それでも鉛筆は持てた。


 ルファはしばらく彼を見てから、窓へ目を戻した。


「大きく欠けたところは、新しい硝子にするわ。全部を元どおりにしようとすると、間に合わない」


「残ってる花は、使える?」


「ええ」


 ライトは頷いた。

 女王が紙を用意し、老人が覚えている模様を話し始めた。


     *


 作業台の代わりに、低い机を窓の下へ運んだ。


 ライトは腰掛けたまま、線を引いた。老人がその横に座り、葉の向きや花の数を教えてくれた。ときどき言い直し、また考え込んだ。覚えていないところは、空けておいた。


 ルファが、残っている硝子を一枚ずつ外していく。拾った破片と、窓枠に残っていたもの。それらを図案の上へ並べると、同じ白だと思っていた色にも、少しずつ違いがあった。


「この花びらは、ここだな」


 老人が言った。

 ライトは鉛筆を止めた。


「こっちじゃなくて?」


「灯りを入れると、ここだけ少し黄色くなるんじゃ」


 ルファが破片を光へかざした。

 白の中に、淡い蜜の色が浮かんだ。


 誰よりも長く見ていた人が、そばにいる。

 ライトは線を引き直した。


 足りないところへ、ルファが小さな硝子を作った。

 色を確かめ、大きさを合わせ、古い硝子の隣へ置く。いちどに窓が生まれるわけではなかった。彼女の指先に光が集まるたび、空白が一つずつ埋まっていった。


 作業場で何度も見てきた時間だった。

 同じことを、知らない城でしている。


 ライトは顔を上げた。

 ルファの眼鏡が少し下がっていた。指先が塞がっているので、彼女は手首で押し上げようとした。


「布、ここに置く」


「ありがとう」


 彼女は一度手を止め、眼鏡を拭いた。

 その短いやり取りだけで、ライトは肩の力を抜くことができた。


 上手く描けない線があった。

 消して、引き直した。

 その間にも向こうの時間が進んでいることは、忘れられなかった。だから、最後まで描き込もうとはしなかった。残った部分で一枚の窓になるところを探し、鉛筆を置いた。


「これで」


 ルファが図案を見た。


「ええ。つなげるわ」


     *


 窓が収まると、床に白い花が落ちた。


 もとの模様とは違っていた。

 花は少なくなり、その周りには透明な硝子が多く入った。古い葉の隣に新しい茎が続き、花びらの一枚だけが、蜜を含んだ色に光っていた。


 老人が、窓の前へ歩いていった。

 杖を置き、床へ落ちた光に手を差し入れる。


「ここじゃ」


 掌に、黄色を帯びた白が載った。


「この色じゃ」


 老人は、それ以上言わなかった。

 長いこと、その手を動かさずにいた。


 女王は少し離れたところに立っていた。

 やがてルファへ頭を下げ、ライトにも礼を言った。


「ほかの窓は、この城の者で直していく。急がずにな」


 ライトは頷いた。

 直すべき窓は、まだいくつも残っていた。


     *


 帰り支度を整えていると、ルファが赤いリンゴを持ってきた。


 布に載せて、差し出される。

 ライトは受け取り、葉の飾りを確かめた。細い軸にも、丸い腹にも傷はなかった。


「七年前、神社で拾ったんだ」


 彼は言った。


「双子桜の根元に、落ちてた。チエたちのものかと思ったけど、訊けないままになって」


 ルファの眼が、ゆっくりと上がった。


「あの子たちのところから、あなたへ……」


「これ知ってるの?」


「妹のエリさんが、店へ来ていたの。そのリンゴは、お姉さんと話をするために私が渡したものよ」


 ライトは、布の上の赤を見た。

 チエが遊びに来なくなった日。レインと二人で待った境内。根元に落ちていたものを拾い、いつか訊こうと思った。


「二人に、会ったんだな」


 ルファは頷いた。


「あの夜、二人はちゃんと話せたと聞いているわ」


 それを聞いて、ライトは少しだけ息を吐いた。

 知らなかった友達の時間が、思いがけず、手の中へ戻ってきた気がした。


「これも、ノアティファクトなのか」


「ええ。あの天秤と同じように、私たちには作り方も、力のすべてもわからないもの」


 ライトは、リンゴを包む布の端を持ち上げた。


「これを持っていたら、聞かれたことは、何でも話してしまう?」


「黙っていることはできるわ。でも、言葉にして嘘をつこうとすると、本当のことが出てしまう」


 彼はリンゴを見つめた。

 赤い硝子の中に、窓の白い花が小さく映っていた。


「ルファは、俺に訊きたいこと、ないの」


 口にしてから、顔を上げた。

 彼女は、すぐには答えなかった。


「あるわ」


 胸が、一度強く打った。


「でも、それはしまって」


「どうして」


 ルファは、彼の手元から目を上げた。


「あなたが言いたくないことまで、聞きたいわけではないもの」


 ライトは布を折った。

 一度折って、もう一度折った。赤が見えなくなるまで包み、鞄の内側へ収める。


 天秤の針は、もう動いていなかった。

 ルファは彼の返事を急がず、切れた肩紐を結び直すための紐を探していた。


     *


 鐘が鳴った。


 窓の外で、鳥が飛び立った。

 女王が盤の前へ戻り、片手を上げる。雲が溢れ、空の皿を包んだ。


 三人が戻ってきた。


 誰も、すぐには立たなかった。

 ブーは膝を抱え、顔を埋めていた。レドは皿の縁を両手で握っている。ラックだけが顔を上げたが、その眼は女王を捉えていなかった。


「下りなさい」


 女王が言った。


 ブーが動いた。

 足を下ろした途端、膝が折れた。そばにいたラタが手を伸ばし、倒れる前に受け止めた。


 老人の腕の中で、男の子が顔を上げた。

 何か言おうとして、息を吸った。


「ごめ……」


 その先は、泣き声になった。


 ラタは男の子の肩を支えた。

 許したとも、気にするなとも言わなかった。ただ、床へ足が着くまで、手を離さなかった。


 ライトは立ち上がった。

 ルファが鞄を持つ。出発のことを話そうとした女王の前で、レドが口を開いた。


「もう、あそこへ入れないでください」


 女王が彼女を見た。


「お前たちがしたことを、考える時間は必要だ」


「違うんです」


 レドは首を振った。

 強く振りすぎて、髪が頬に貼りついた。


「あの部屋……ずっと、見ていると……」


 声が途切れた。

 ラックが、妹の前へ半歩出た。


「壁が、黒かったんです」


 女王の表情が変わった。


「中は白い。何も置いていないはずだ」


「近くで見るまで、僕も、黒い壁だと思っていました」


 少年の指が、身体の脇で開いたり閉じたりしていた。


「天井にも、床にもあった。重なっていて、隙間がなくて……」


 女王が盤へ向き直った。


 ライトも、雲の奥を見た。

 さっきまで罪を示していたものが、今は何も映していなかった。窓から入った光が、静かな針の縁を照らしている。


「何があった」


 女王が尋ねた。


 ラックは、その円い盤から目を離さずに答えた。


「文字です。部屋の隅で、誰かが、ずっと、書いていたんです」



 

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