Ⅺ 《正義》 天秤の女王
女王は、すぐには答えなかった。
雨が窓枠を叩いていた。老人を載せた皿は少しも揺れず、その背後で、円い盤の雲だけがゆっくりと形を変えている。
ライトは床についた手へ力を込めた。立ち上がれば、声がもっと届く気がした。けれど、背中に走った痛みで、肘が折れた。
「座ったままでよい」
女王が言った。
「聞こえている」
その手が上がると、鎖が鳴った。
大きな皿が静かに下りてくる。石の床に触れる直前で止まり、老人の靴先が、手を伸ばせば届きそうな高さになった。
「ラタ」
女王の声に、老人が眉を動かした。
「もう済んだ。起きられるか」
老人は薄く目を開いた。
しばらく天井を見つめ、それから、身体を起こそうとした。女王が腕を差し出した。老人はその袖に掴まり、皿の縁へ腰を掛けた。
「……眠っておりましたか」
「よほど疲れたのであろう」
女王は、手にしていたランタンを彼の足元へ置いた。
老人の眼が、その灯りを追った。次にライトとルファを見つけ、困ったような笑みを浮かべた。
「お前さんたち。もう、着いたのか」
昨夜と同じ声だった。
ライトは、詰めていた息をようやく吐いた。
女王が三人の子供へ向き直った。
「ラタに、窓を壊した罪はない」
少年が顔を上げた。
「そんなはずはありません」
「針は動かなかった。この者が窓を壊した瞬間も、映らなかった」
「でも、僕は見ました。廊下を走っていたんです。あんな声を出して――」
「ラック」
女王が遮った。
「その話は聞いた」
少年の口が閉じた。
ライトは彼を見ていた。窓の壊れた廊下で、ルファに問われたときと同じ顔をしている。
女王は老人の前へ片膝をついた。
「何があったか、話せるか」
老人はランタンへ手を伸ばした。
取っ手に触れ、そこにあることを確かめてから、指を膝へ戻す。
「窓が、落ちてきたのです」
細い声だった。
「止めねばと思って。ですが、脚がついていかず……右へ行けば、左で音がして。長いこと、音がしておりました」
老人は目を閉じた。
「何と言えば、止まってくれるのかわからなくなった」
ラックが、わずかに動いた。
隣の少女が、その袖に触れた。
雨の向こうで、硝子が鳴った。
窓枠に残った一片が風に揺れていた。老人は音のする方へ顔を向け、何かを言いかけたが、言葉にはならなかった。
「ブー、」
女王がいちばん幼い子を呼んだ。
「お前は、そのときどこにいた」
男の子は、両手を腹の前で重ねていた。
袖口の下で、何かが赤く光った。
「ぼくが、割った」
女の子が息を呑んだ。
ブー自身も、驚いたように口を押さえた。その拍子に、袖の中から丸いものが現れた。赤い硝子を継いだリンゴ。細い軸のそばに、小さな葉が一枚ついていた。
ライトの指が動いた。
「それ……」
女王がブーの前へ進んだ。
「もう一度、聞く。窓を割ったのは、お前か」
ブーは首を振りかけた。
けれど、出てきた言葉は違った。
「ぼく。……ぼくが、全部」
ルファの手が、ライトの腕から離れた。
リンゴを見つめている。
「どうして、それがここに」
「俺の鞄に入ってたんだ」
ライトは答えた。
柱の陰へ転がっていった包みが、目に浮かんだ。
*
女王が手を差し出すと、ブーはリンゴを抱え込んだ。
「それを出して」
ルファの声は強くなかった。
それでも、男の子は彼女を見た。
「それは、あなたのものではないはずよ」
「落ちてたから」
「この人の鞄から落ちたのを、見ていた?」
ブーの目に涙が溜まった。
「……見てた」
指がほどけた。
女王がリンゴを受け取り、そばの台へ置いた。
ルファは小さく息を吐いた。
「真実のリンゴです。手にした人は、知っていることを偽って話せなくなる」
「そなたの作か」
「いいえ。私には作れないものです。以前、私の店にありました」
女王は、赤い硝子をしばらく見た。
「神々の遺した品か。この天秤にも、似たところがある。使うことはできても、私が作り直すことはできぬ」
それから、ブーへ視線を戻した。
「今は、持っておらぬ。自分で話しなさい」
男の子は袖で口を拭いた。
否定しようと思えば、できるのだろう。目が姉の方へ動き、兄の方へ動いた。けれど、どちらも何も言わなかった。
「ランタンを、取ったんだ」
今度の声は、小さかった。
「追いかけてくると思って」
女王は頷きもせずに聞いていた。
「走ったら、身体が窓に当たった。割れると思わなかった。……最初は」
老人の手が、膝の上で重なった。
「最初は、か」
女王が繰り返した。
ブーの唇が震えた。
「レド姉ちゃんが……」
「言わないで」
少女の声がした。
ブーが顔を上げる。少女は、袖の中へ両手を引っ込めていた。
「ブーだけを叱れば済むと思っているのか、レド」
女王が言った。
「私のいない夜のことを、この子一人に話させるつもりか」
レドは俯いた。
滴が落ち始めた床の上で、その影が細く揺れた。
*
老人が皿から下りると、女王は彼を椅子へ座らせた。
次に、ブーを呼んだ。
男の子は皿の前で足を止めた。
振り返ったが、誰も代わってはくれなかった。縁へ両手を掛け、膝を載せ、座る。
鎖が張った。
円い盤の雲が、内側から押されたように薄くなった。
その奥に、廊下が見えた。
窓があった。
まだ割れていない、幾つもの美しい窓だった。灯明の炎が鳥や花の輪郭を照らし、色をまとった夜が、長い廊下に満ちていた。
そこを、青い獣が駆け抜けた。
口には古いランタンを咥えている。身体が窓へ触れた瞬間、大きな花の模様が内側へ崩れた。明るい音が幾重にも重なり、老人が両腕を上げた。
やめてくれ。
声はそう聞こえた。
ブーは皿の上で、自分の膝を見ていた。
雲の中の獣は立ち止まった。そのそばへ、黒い服の少女が近づいた。
「全部、割ってしまえばいい」
盤の中から、レドの声がした。
「ラタがやったことにするの。そうすれば、女王もあの人をここへ置かない」
ライトは、広間に立つ少女を見た。
今の彼女は、唇を噛んでいた。
雲の中で、また窓が落ちた。
老人は、落ちてくる硝子を受け止めようとでもするように、手を伸ばした。届かなかった。獣が身を翻し、次の窓へ向かった。
その先に、少年が現れた。
彼が見たのは、破片の中で叫んでいる老人と、床に落ちたランタンだった。
ラックは、盤を見つめていた。
口が半ば開き、そこから先、言葉が出てこない。
「……レド」
やっと、それだけを言った。
少女は兄を見なかった。
女王の手が動くと、雲が厚くなり、廊下の光景を閉ざした。
針が傾いていた。
その重みを受けるように、ブーの載った皿が、わずかに沈んだ。
*
「わたしの花を、取っていくの」
レドが言ったのは、自分の名を呼ばれたときだった。
女王が待つ。
少女は、濡れた床から顔を上げないまま続けた。
「庭の白い花。咲くのをずっと待っていたのに、切って、どこかへ持っていってしまう。何度言っても、また」
老人が顔を上げた。
少女はその方を見ない。
「嫌だった。もう、いなくなればいいと思った」
「それで、窓を壊したことにしたのか」
レドは頷いた。
肩が細かく震え始めた。
女王は、すぐには次を尋ねなかった。
老人の膝の上へ目をやり、それから少女へ戻す。
「花のことは、改めて聞く。だが、お前がしたことは、それとは別だ」
もう一枚、皿が下りた。
レドがそこへ座ると、雲の奥で、先ほどとは別の場所に灯りがともった。
水汲みの桶が並ぶ、小さな部屋だった。
古いランタンの蓋が開いている。
その前に、ラックがいた。
彼は小瓶の中身を、灯りの皿へ注いでいた。
ライトは、隣のルファが息を止めるのを感じた。
「迷いの涙」
女王が言った。
「その灯りで歩く者は、知っている道にも戻れなくなる」
少年は盤から目を逸らした。
同じ石の前へ戻っていた。
何度歩いても、同じだった。
雪の中で聞いた声が、ライトの耳に戻ってきた。
「知ってて、帰れなくしたのか」
少年を見た。
怒りで、声が低くなった。
「あの人は、自分が道を忘れたんだと思ってた」
ラックの喉が動いた。
「窓を、壊したから」
「見ていないんだろ」
言葉が、先に出た。
少年は唇を結んだ。ライトはその顔を見つめたまま、次の言葉を失った。
『父を奪った魔女がいる』
あの日、母の言葉を何度も胸の中で繰り返した。店の外から見て、優しく笑う顔さえ疑った。何を見ても、そうなのだと思いたかった。
そんな自分と重ねていた。
膝の上の指が曲がった。
あの日、そこにはナイフがあった。
ルファがすぐ隣にいる。
ライトは顔を向けられなかった。
「壊したと聞いた。それで、追い出してよいと決めた」
女王の声がした。
「そうだな、ラック」
少年が、小さく頷いた。
「雪の中で、死んでいたかもしれぬ」
「……夜が明けたら、戻れると思ったんです」
「戻れぬようにしたのは、お前だ」
ラックは答えなかった。
ライトは、ゆっくり指を開いた。
自分にも覚えがある。それでも、見過ごしていい理由にはならなかった。
*
三枚の皿が、盤の前に並んだ。
女王は、窓を壊したこと、嘘をついたこと、老人の帰る道を奪ったことを、一つずつ口にした。それから、旅人を自分の名で招き、襲ったことを告げた。
誰も、言い返さなかった。
「天秤の内へ入りなさい」
ブーが顔を上げた。
「どこ……?」
「何も置いていない、潔白の白い部屋だ。次の鐘で戻す。それまで、誰にも代わってもらわずに考えなさい。自分が何をしたか、ここを出たあと、誰に何を返さなければならぬか」
少女が、兄の方へ手を伸ばしかけた。
皿が離れ、その手は届かなかった。
雲が、盤から溢れた。
三人の足元を包み、膝を、肩を覆う。やがて黒い服も白い顔も見えなくなり、雲は静かに引いていった。
皿は空になった。
ライトは、その空白を見ていた。
胸の奥にあった怒りは、三人と一緒に消えてはくれなかった。背中は痛み、老人の手は、まだ膝の上で小さく重なっていた。
女王がこちらへ歩いてきた。
「客人を傷つけた。申し訳なかった」
頭が下がった。
ライトは、何と答えてよいかわからなかった。
「ラタも、私の城でこの目に遭った。裁きを下して、それで私の務めが済んだとは思っておらぬ」
彼女は腰を屈め、ライトの顔を見た。
「手当てをさせてほしい」
ルファが、ライトを見た。
彼は少し迷ってから、頷いた。
*
窓際を避けた長椅子へ移るころには、雨がやみ始めていた。
女王は布と薬の入った箱を持ってきた。ルファに手を添えてもらいながら、ライトは上着を脱いだ。背中を見た彼女が一度、唇を結んだ。
冷たい布が触れる。
彼は膝へ置いた手を握った。
「痛かったら、言って」
「痛い」
今度は、すぐに答えた。
ルファは頷き、布を当てる力を弱めた。
女王は、二人が落ち着くのを待っていた。
「聞きたいことがあると言ったな」
ライトは顔を上げた。
忘れていたのではなかった。口にするための隙間が、ようやくできた。
「父を、捜しています。ジンという人です。それから、赤い髪のエマという人も」
「エマなら、来た」
返事は、すぐだった。
ライトの膝から手が浮いた。
「名前を、名乗ったんですか」
「そうだ。赤い髪の、若い娘だった。ここから帰る道を訊ねた」
ルファが顔を上げた。
「若い、というのは……十五、六歳くらい?」
「そのくらいに見えたが」
「二十年以上、前の話ではなく……」
女王の目が、ルファからライトへ移った。
「こちらでは、三週間ほど前だ」
「……こちらでは」
部屋の中の音が、遠くなった。
昨夜、老人も同じことを言っていた。
ルファは布を置いた。
「マルクトと、こことでは、どれほど時間が違うの」
女王は二人を見た。
「知らずに来たのか」
「教えてください」
ライトが言った。
自分の声が、思っていたより低かった。
「この地の一日は、マルクトのおよそ一年に当たる」
女王の言葉が、ゆっくりと耳へ入ってきた。
一日。
一年。
ライトは窓を見た。
濡れた石の上で、朝から咲いていた花が開ききっている。その向こうに、夜を過ごした山があった。
「じゃあ、昨日の夜から……」
数えようとした。
店を出たとき、あちらは朝だった。こちらは夕暮れだった。雪が降って、老人に会って、火を囲んで、ルファの肩で眠った。
それだけだった。
「向こうでは、もう何か月も?」
女王は真顔で頷いた。
ライトは立ち上がりかけた。
背中が痛んだが、今はその痛みが邪魔だった。
「戻らないと」
「ライト」
「帰って話すって、言ったんだ」
ルファが彼の腕を支えた。
止めるためではなかった。立ち上がろうとする身体が傾かないように、支えていた。
「ええ。帰り道を確かめましょう」
彼女も女王を見た。
「町外れの絵の入口から来たの。そこへ戻れば――」
「日が暮れるまでに戻らなかった入口は、閉じる」
女王の声が重なった。
ライトは彼女を見た。
意味がわからなかった。わかったあとも、うまく頷けなかった。
「元の場所へ行っても、もう通れないのか」
「その入口はな。だが、帰る道がすべて失われたわけではない」
女王は西の窓を指した。
「境を行き来する者を見届ける番人が、湖にいる。エマにも、その者を訪ねるよう伝えた。そなたの父のことも、そこで訊くとよい。私には、ジンという男が来た覚えはない」
ライトは、女王が指した方角を見た。
父を捜す道と、家へ帰る道が、同じ場所へ続いていた。
それに安堵してよいのかさえ、分からなかった。
「案内を、つけてもらえますか」
ルファが尋ねた。
「つけよう。地理を知るラックに、道を導くものを出させる。ただし、今度は私の前で行わせる」
女王は、空の皿へ目をやった。
「次の鐘で戻す。それまで、身体を休めておきなさい」
*
虹色Caféの扉を開けると、レインの肩から雪が落ちた。
「いらっしゃい」
ルクルが、いつもの声で迎えた。
レインは手袋を外しながら、店の奥を見た。カウンターの横に、あの絵が置かれている。夏の日、兄が向こう側から手を振った場所だった。
今は、硝子の中に白い道が続いているだけだった。
「何か、変わった?」
ルクルは絵を見て、それから彼女へ顔を戻した。
「今朝からは、まだ」
レインは頷いた。
入口を開けようとしたことは、何度もあった。アディーも試した。けれど、触れた先にあったのは、冷たい硝子だけだった。
椅子へ座ると、台所からアディーが出てきた。
湯気の立つカップを、彼女の前へ置く。
「お母さんは」
「今日は、家にいる」
答えてから、レインはカップに両手を添えた。
「何かあったら、すぐ呼んでって」
「ああ」
アディーはそれだけ言い、隣の椅子を引いた。
レインは、兄の作った青い窓飾りを見上げた。
冬の光は薄く、床へ届く色も、夏に見たものとは違っていた。
「おもしろかったことだけじゃなくて、って言ったの」
誰に向けた言葉でもなかった。
アディーもルクルも、返事をしなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。何も見つからなくても、よかったのに」
カップの縁で、白い湯気がほどけた。
レインは両手を離さず、しばらくそれを見ていた。
*
ライトは、手帳を開いた。
前の頁には、母に話すつもりで書き留めた道順があった。
欠けた石柱。丸い窓。曲がり角。
正しく覚えて戻れば、帰れると思っていた。
新しい頁へ、女王の言葉を書いた。
一日が、およそ一年。
入口は、日暮れで閉じる。
西の湖。境の番人。
鉛筆の先が、そこで止まった。
父も、知らなかったのだろうか。
最後の冒険にすると言った人が、ほんの数日のつもりで歩いている間に、子供は生まれ、話すようになり、父の顔を知らないまま大きくなったのだろうか。
そうだったとしても、会いたかった時間が戻るわけではない。
「訊くことが、増えた」
ライトは言った。
隣で、ルファが頷いた。
「会って、確かめましょう」
彼女の声も疲れていた。
ライトは手帳を閉じた。革の表紙に、爪でつけた小さな跡が残った。
*
老人は、窓の下に立っていた。
雨のやんだ王の間へ、強い日差しが入り始めていた。床の水が光り、その中に落ちた小さな硝子が、ところどころで色を返している。
老人は屈み、一片拾った。
「手を切るわ」
ルファがそばへ行った。
老人は振り返り、掌を開いた。白い花びらの形をした硝子だった。
「ここの窓に、あったのです」
彼は、壁の中央を指した。
大きな丸窓の下に、小さな縦長の窓があった。大半は抜け落ちていたが、下の隅にだけ、緑の葉と花の茎が残っていた。
「朝は、この花の色が床へ落ちた」
ルファは掌の破片を見た。
それから、残っている茎の曲がり方を、目で辿った。
「直せるのか」
女王が近づいてきた。
「ランタンを見て、そなたならと思ったのだが」
「一枚ずつなら。ただ、今、城じゅうを直す時間は……」
「わかっている。帰り道を先にせねばな」
女王は言い、老人へ向き直った。
「破片は捨てさせぬ。集めておこう」
老人は花びらを見つめた。
頷いたあとも、手を下ろさなかった。
ライトは長椅子から、その小さな窓を見ていた。
欠けた部分の形は、難しくない。残った茎をつなげば、もとの花がどのあたりにあったかもわかる。
「その一枚だけなら」
ルファが振り返った。
「鐘が鳴るまでに、できないかな」
「ライト、手はまだ――」
「図案なら、描ける」
手帳を、もう一度開いた。
指を曲げると、鈍い痛みはあった。それでも鉛筆は持てた。
ルファはしばらく彼を見てから、窓へ目を戻した。
「大きく欠けたところは、新しい硝子にするわ。全部を元どおりにしようとすると、間に合わない」
「残ってる花は、使える?」
「ええ」
ライトは頷いた。
女王が紙を用意し、老人が覚えている模様を話し始めた。
*
作業台の代わりに、低い机を窓の下へ運んだ。
ライトは腰掛けたまま、線を引いた。老人がその横に座り、葉の向きや花の数を教えてくれた。ときどき言い直し、また考え込んだ。覚えていないところは、空けておいた。
ルファが、残っている硝子を一枚ずつ外していく。拾った破片と、窓枠に残っていたもの。それらを図案の上へ並べると、同じ白だと思っていた色にも、少しずつ違いがあった。
「この花びらは、ここだな」
老人が言った。
ライトは鉛筆を止めた。
「こっちじゃなくて?」
「灯りを入れると、ここだけ少し黄色くなるんじゃ」
ルファが破片を光へかざした。
白の中に、淡い蜜の色が浮かんだ。
誰よりも長く見ていた人が、そばにいる。
ライトは線を引き直した。
足りないところへ、ルファが小さな硝子を作った。
色を確かめ、大きさを合わせ、古い硝子の隣へ置く。いちどに窓が生まれるわけではなかった。彼女の指先に光が集まるたび、空白が一つずつ埋まっていった。
作業場で何度も見てきた時間だった。
同じことを、知らない城でしている。
ライトは顔を上げた。
ルファの眼鏡が少し下がっていた。指先が塞がっているので、彼女は手首で押し上げようとした。
「布、ここに置く」
「ありがとう」
彼女は一度手を止め、眼鏡を拭いた。
その短いやり取りだけで、ライトは肩の力を抜くことができた。
上手く描けない線があった。
消して、引き直した。
その間にも向こうの時間が進んでいることは、忘れられなかった。だから、最後まで描き込もうとはしなかった。残った部分で一枚の窓になるところを探し、鉛筆を置いた。
「これで」
ルファが図案を見た。
「ええ。つなげるわ」
*
窓が収まると、床に白い花が落ちた。
もとの模様とは違っていた。
花は少なくなり、その周りには透明な硝子が多く入った。古い葉の隣に新しい茎が続き、花びらの一枚だけが、蜜を含んだ色に光っていた。
老人が、窓の前へ歩いていった。
杖を置き、床へ落ちた光に手を差し入れる。
「ここじゃ」
掌に、黄色を帯びた白が載った。
「この色じゃ」
老人は、それ以上言わなかった。
長いこと、その手を動かさずにいた。
女王は少し離れたところに立っていた。
やがてルファへ頭を下げ、ライトにも礼を言った。
「ほかの窓は、この城の者で直していく。急がずにな」
ライトは頷いた。
直すべき窓は、まだいくつも残っていた。
*
帰り支度を整えていると、ルファが赤いリンゴを持ってきた。
布に載せて、差し出される。
ライトは受け取り、葉の飾りを確かめた。細い軸にも、丸い腹にも傷はなかった。
「七年前、神社で拾ったんだ」
彼は言った。
「双子桜の根元に、落ちてた。チエたちのものかと思ったけど、訊けないままになって」
ルファの眼が、ゆっくりと上がった。
「あの子たちのところから、あなたへ……」
「これ知ってるの?」
「妹のエリさんが、店へ来ていたの。そのリンゴは、お姉さんと話をするために私が渡したものよ」
ライトは、布の上の赤を見た。
チエが遊びに来なくなった日。レインと二人で待った境内。根元に落ちていたものを拾い、いつか訊こうと思った。
「二人に、会ったんだな」
ルファは頷いた。
「あの夜、二人はちゃんと話せたと聞いているわ」
それを聞いて、ライトは少しだけ息を吐いた。
知らなかった友達の時間が、思いがけず、手の中へ戻ってきた気がした。
「これも、ノアティファクトなのか」
「ええ。あの天秤と同じように、私たちには作り方も、力のすべてもわからないもの」
ライトは、リンゴを包む布の端を持ち上げた。
「これを持っていたら、聞かれたことは、何でも話してしまう?」
「黙っていることはできるわ。でも、言葉にして嘘をつこうとすると、本当のことが出てしまう」
彼はリンゴを見つめた。
赤い硝子の中に、窓の白い花が小さく映っていた。
「ルファは、俺に訊きたいこと、ないの」
口にしてから、顔を上げた。
彼女は、すぐには答えなかった。
「あるわ」
胸が、一度強く打った。
「でも、それはしまって」
「どうして」
ルファは、彼の手元から目を上げた。
「あなたが言いたくないことまで、聞きたいわけではないもの」
ライトは布を折った。
一度折って、もう一度折った。赤が見えなくなるまで包み、鞄の内側へ収める。
天秤の針は、もう動いていなかった。
ルファは彼の返事を急がず、切れた肩紐を結び直すための紐を探していた。
*
鐘が鳴った。
窓の外で、鳥が飛び立った。
女王が盤の前へ戻り、片手を上げる。雲が溢れ、空の皿を包んだ。
三人が戻ってきた。
誰も、すぐには立たなかった。
ブーは膝を抱え、顔を埋めていた。レドは皿の縁を両手で握っている。ラックだけが顔を上げたが、その眼は女王を捉えていなかった。
「下りなさい」
女王が言った。
ブーが動いた。
足を下ろした途端、膝が折れた。そばにいたラタが手を伸ばし、倒れる前に受け止めた。
老人の腕の中で、男の子が顔を上げた。
何か言おうとして、息を吸った。
「ごめ……」
その先は、泣き声になった。
ラタは男の子の肩を支えた。
許したとも、気にするなとも言わなかった。ただ、床へ足が着くまで、手を離さなかった。
ライトは立ち上がった。
ルファが鞄を持つ。出発のことを話そうとした女王の前で、レドが口を開いた。
「もう、あそこへ入れないでください」
女王が彼女を見た。
「お前たちがしたことを、考える時間は必要だ」
「違うんです」
レドは首を振った。
強く振りすぎて、髪が頬に貼りついた。
「あの部屋……ずっと、見ていると……」
声が途切れた。
ラックが、妹の前へ半歩出た。
「壁が、黒かったんです」
女王の表情が変わった。
「中は白い。何も置いていないはずだ」
「近くで見るまで、僕も、黒い壁だと思っていました」
少年の指が、身体の脇で開いたり閉じたりしていた。
「天井にも、床にもあった。重なっていて、隙間がなくて……」
女王が盤へ向き直った。
ライトも、雲の奥を見た。
さっきまで罪を示していたものが、今は何も映していなかった。窓から入った光が、静かな針の縁を照らしている。
「何があった」
女王が尋ねた。
ラックは、その円い盤から目を離さずに答えた。
「文字です。部屋の隅で、誰かが、ずっと、書いていたんです」




