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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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12/22

Ⅻ 《吊るされた男》 愛しのラタ

挿絵(By みてみん)




 白い花の光が、女王の足元まで伸びていた。


 直したばかりの窓から差す光だった。彼女が天秤へ歩み寄ると、衣の裾がその上を横切り、床の花は一度途切れて、また元の形になった。

 ライトは、彼女の手を見ていた。

 老人を皿から下ろした手。薬の箱を開け、傷のある背中に触れる前に、ひと言断ってくれた手だった。


 その指が、円い盤へ近づいた。


「いつから、確かめていないの」


 ルファが尋ねた。

 女王は手を止めた。


「中へ入ったのは、ずいぶん前だ」


 静かな答えだった。


「使い続けていた。変わっていないと思っていた」


 彼女は子供たちを振り返った。

 レドが腕を抱え、ブーはラタの服を掴んでいた。ラックだけが盤から目を離さずにいる。


「確かめる。皆、離れていなさい」


「わたしも――」


 レドの声を、女王は首を振って止めた。


「入るのは私だけだ。中から声がしても、近づくな」


 ラタへ目を向ける。


「庭へ下りていなさい。ここは足元も悪い」


 老人は頷いた。

 ブーの手を自分の服からそっと外し、その肩へ一度触れてから、杖とランタンを持って歩き出した。


 ルファがライトの鞄を肩へ掛けた。

 ライトは硝子の剣を手に取り、壁際まで下がった。巻いてもらった布が背中で引きつれ、息を深く吸うと痛んだ。


 女王が盤へ触れた。


 雲が割れた。

 奥に、四角い部屋が見えた。光がないのではなかった。床にも壁にも、細い線が隙間なく重なり、白いはずの面を埋め尽くしていた。


 文字だった。


 遠くからでも、場所によって筆跡が違って見えた。小さく整った行。その上を斜めに走る大きな字。書ききれず、角を曲がって続いているものもある。

 そこにいる誰かが、立って、座って、手の届かない場所へ腕を伸ばした。その時間だけが、部屋の中に残っているようだった。


 女王が一歩、雲の向こうへ入った。


 足元が見えなくなった。

 次に肩が、最後に頭が隠れた。


 広間には、風の音だけが残った。


     *


 何かを引きずる音がした。


 ライトは顔を上げた。

 盤の向こうからだった。椅子を動かすような短い音が二度して、それから、女王の声が聞こえた。


「手を離しなさい」


 ルファが、鞄を床へ下ろした。


 次の音は、硬かった。

 床を強く打つ音。それに重なって、子供たちが動いた。


「待って」


 ルファが腕を広げたとき、雲の中から縄が飛び出した。


 太い一本が天井へ伸び、梁に巻きついた。続いて二本、三本。先端が石の継ぎ目へ入り込み、乾いた音を立てて締まっていく。

 皿の鎖が激しく鳴った。


 何かが、引き上げられた。


 男だった。


 片足を縄に絡め取られ、頭を下にして、天秤の前へ吊り上がってくる。長い髪が垂れ下がり、捲れた袖からは、痩せた腕が出ていた。

 その腕が、女王の襟元を掴んでいた。


 彼女の背から、白い翼が垂れていた。

 片側だけだった。

 反対側では衣が裂け、血を含んだ羽が、男の指の間から一枚、二枚と落ちた。


 レドが息を呑んだ。


 男はゆっくり首を動かした。

 逆さになった眼が、こちらを見た。瞳の周りに細い血管が浮き、唇にはひびがあった。


「誰が、入っていいと言った」


 声は大きくなかった。

 それなのに、広間の誰も動けなくなった。


 女王の手が上がった。

 子供たちへ向かって、小さく動く。


「下がれ……」


 ブーの身体が、青くほどけた。


 次の瞬間には獣が床を蹴っていた。男の腕へ牙を向け、彼が身を逸らした隙に、女王の衣を咥える。

 白い翼が大きく揺れた。

 獣は彼女を抱えるようにして着地し、二度跳ねて、広間の端へ退いた。


「ブー、そのまま!」


 レドの輪郭が赤く燃えた。

 長い鼻面と尖った耳を持つ姿が現れ、開いた口から炎が伸びた。男を、縄が守るように束になった。炎はそこへ当たり、天井の下を赤く這った。


 ライトは、熱から顔を背けた。


 黒い影が、その下を走った。

 ラックの呼び出した亡骸たちだった。壁を上り、男の腕や腰へ手を伸ばす。

 男が指を曲げた。

 影の身体に縄が巻きつき、次々と宙へ引き上げられた。


 幾つもの足が、宙で蠢いた。


 ライトは剣を握った。

 掌が濡れていた。


     *


「あの部屋は、あなたのものなの?」


 ルファが声を張った。


 男の眼が動いた。

 束ねた縄が緩み、生き物のように動き出す。焦げた匂いが広間へ落ちてきた。


「そうだ」


「子供たちを入れたのは、私だ」


 女王が言った。

 ブーに支えられ、片膝をついていた。失われた翼のあった側へ身体が傾き、それを片手で床について支えている。


「中を知らずに使った。だが、そなたがなぜ、そこにいる」


 男は答えなかった。


「あの文字は、何だ」


「言うな」


 声が変わった。

 天井の縄が、一斉に軋んだ。


「何もない部屋に戻すつもりだろう。削って、白く塗って。……あれだけ書くのに、どれほどかかったと思っている」


「消すとは言っておらぬ」


「外の者は、いつもそう言う」


 男は首を曲げ、背後の盤を見た。

 その顔が、ほんの短い間だけ緩んだ。


「あそこには、残っている。確かめたことが、全部」


 ライトは、床の鞄を見た。

 手帳が入っている。道順も、女王から聞いたことも、春を待った一行も。

 男が何を守ろうとしているのか、わかる気がして、すぐにその考えを振り払った。

 女王の足元に、血が落ちていた。


「誰も、消そうなんて思ってない」


 ライトが言うと、男は彼を見た。


「そこから下りて、話せないのか」


 男の目が細くなった。


「下りたら、どうなる」


 自分へ訊いているような声だった。


「お前に、わかるのか」


 縄が動いた。


 ライトは剣を上げた。

 横から伸びてきた一本が刃に触れ、短く裂けた。切れ端が床で跳ねたが、男の方から、もう次の縄が伸びてきていた。


「入口へ!」


 ルファの声がした。


 ライトは後ろへ退いた。

 足元に、短い縄が落ちている。跨ごうとした瞬間、それが手首へ跳ね上がった。


 身体が引かれた。

 剣を持つ腕が横へ伸び、肩に激痛が走った。


 ルファがその腕を掴んだ。

 別の縄が彼女の肘へ巻きつく。

 先端が跳ね、肩口の布を裂いた。


 レドの炎が途切れた。

 ラックの身体が、壁へ押しつけられた。


 逃げ道だった扉の前にも、幾本もの縄が渡っていた。


     *


 床を擦る音がした。


 女王の足元に、砂が集まっていた。砕けた石の粉が、指先の動きに合わせて浮き上がる。細い矢の形が、いくつも宙に並んだ。


「レド」


 呼ぶ声に、少女が顔を上げた。


「こちらを見なさい」


 女王は、自分の前を指した。

 レドが唇を結び、顎を引いた。


 砂の矢が走った。

 少女の吐いた炎が、その途中を包む。熱の中を抜けたものは、透明な光を帯びていた。


 男が腕を上げた。

 何本かは縄に弾かれた。一本が肩を掠め、もう一本が袖を壁へ縫い留めた。


 男の身体が大きく揺れた。

 ライトの手首を引いていた力が、わずかに緩んだ。


 冷たいものが、指先に触れた。


 ルファの人形だ。

 彼の袖をよじ登り、縄の下へ、小さな刃を入れようとしている。

 ルファを見ると、彼女はライトではなく男を見ていた。唇だけが、かすかに動いていた。


 ライトは手首を捻った。

 皮膚が擦れ、痛んだ。けれど、縄と腕の間に隙間ができた。

 小さな刃が入った。


 繊維が一本ずつ切れていく。

 焦って引けば、刃ごと折ってしまう。ライトは歯を食いしばり、腕を動かさずに待った。


 縄がほどけた。


 彼は剣を落とさないよう握り直し、ルファの腕を縛る一本へ刃を当てた。

 金色の線が、硝子の中で灯った。


 切れた縄の向こうから、彼女の手が戻ってきた。


「ありがとう」


 短い声だった。

 ライトは頷くことしかできなかった。


     *


 女王は天秤へ手を向けていた。


 盤面の雲が、男の腰まで届いている。その身体を中へ戻そうとしていた。男は天井から垂れた縄を掴み、片腕だけで抵抗した。

 梁から、白い粉が落ちた。


「上の縄が、引っ張ってる」


 ルファが言った。


 ライトも見た。

 太い縄が三本、離れた梁へ巻きついていた。男の身体へ繋がり、雲に引かれるたび、天井全体を軋ませている。


「切れれば、あいつを戻せるのか」


 女王が一度頷いた。

 口元の色が失われていた。


 ルファが両手を上げた。

 掌の間に、細い刃が形を結びかけた。天井へ届けるには、遠すぎる。彼女はその先を伸ばそうとして、顔を歪めた。

 肩の傷から、また血が滲んだ。


 ライトは剣を見た。

 手の中のものなら、もう形がある。


「俺が行く」


 ルファが彼を見た。


「そこまで、どうやって」


 青い獣が、近くにいた。

 ブーだった。女王を庇いながら、天井と二人を交互に見ている。


 ライトの肩に、さっき噛みつかれたときの衝撃が戻ってきた。

 あの時、身体を持ち上げられた。どこへ落とされるかもわからず、何もできなかった。


 獣の方へ足を動かした。


「あそこへ、届くか」


 ブーは天井を見上げた。

 それから、前脚を折った。


 ライトはルファへ顔を戻した。

 彼女は何も言わず、獣の背を見た。

 鞄から細い紐を取り出し、ライトの剣の柄へ結ぶ。もう一方を彼の手首へ回し、きつく締めすぎないところで留めた。


「剣を振り回さないで。近くへ寄ってもらったら、切るところだけを見るの」


「うん」


 ルファは結び目を引いた。

 もう一度引き、彼の手を離した。


「戻ってきてよ」


 ライトは頷いた。

 簡単には言えない言葉だった。だから、彼女の顔を見たまま、はっきり頷いた。


     *


 獣の背は、温かかった。


 青い毛を掴むと、ブーが顔を少しだけ向けた。ライトは剣を身体の外へ向け、両脚で背を挟んだ。


「頼む」


 床が遠ざかった。


 ブーは壁へ跳びつき、張り出した石を蹴った。次の瞬間には、窓の上の梁へ前脚を掛けていた。

 ライトの背中に痛みが走った。

 声が出た。飲み込もうとして、呼吸まで止まりそうになった。


 ブーが動きを止めた。


「……俺に、構わず」


 獣の耳が動いた。

 次は、足を置く場所を確かめるように、梁の上へ身体を引き上げた。


 一本目の縄が、すぐ前にあった。

 石へ食い込み、強く張っている。

 金色の光を帯びた刃を当てた。すると、撚り合わされた繊維が外側から切れた。


 最後の数本が弾けた。

 縄の端が跳ね、ライトの頬を掠めた。


 男の身体が傾いた。


「やめろ」


 声が、下から届いた。


 ブーが次の梁へ移った。

 ライトは身を低くした。縄が二人の頭上を通り、壁を叩いた。


 二本目を切った。


 天秤の雲が、男の胸まで覆った。

 彼は片手を盤の縁へ伸ばし、爪が剥がれそうなほど強く掴んだ。


「まだ、終わっていない」


 聞こえた声には、さっきまでとは違うものが混じっていた。


「あと少しで……」


 男が上を見た。

 逆さのまま、ライトと目が合った。


 ライトは三本目へ剣を当てた。

 息が上がっていた。両手で柄を持つと、指輪の縁が、もう片方の指に触れた。


 ルファが、下にいる。


 刃を押し込んだ。


 縄が切れた。


     *


 男は、落ちなかった。


 広間じゅうに散っていた細い縄が、一斉に天井へ伸びた。

 梁へ、窓の上の石へ、吊られた灯具の鎖へ。届くものをすべて掴み、男の身体を引き留めた。


 雲が強く引いた。

 男も、引き返した。


 石が割れた。


 ライトは足元を見た。

 梁と壁の間に、黒い隙間が開いていた。小さかった隙間が、見ている間に広がり、白い粉が吹き出した。


「下へ!」


 叫ぶと同時に、ブーが跳んだ。


 背後で、重い音がした。

 灯具が一つ落ち、床に当たって砕けた。縄に引かれた梁が、そのあとを追った。


 ブーは落下する石を避け、扉のそばへ着地した。

 ライトは背中から滑り下りた。脚が立たず、片膝を床についた。


 扉の向こうには、廊下が見えていた。

 庭へ出られる。

 白い光が、ほんの数歩先にあった。


 振り返った。


 ルファが、向こうにいた。

 ラックとレドを柱の陰へ引き寄せている。二人とも動きが鈍かった。レドは片脚を引きずり、ラックは妹の肩を抱えたまま膝を折った。


 その前へ、石が落ちた。


 ライトは立ち上がった。

 背中が痛んだ。かまわず一歩進み、剣で、足元へ絡みついた縄を切った。


「ルファ!」


 彼女がこちらを見た。

 手を伸ばすには遠かった。さっきまで通れた床に、瓦礫が重なっていく。


「来ないで!」


 その声のあとで、天井が沈んだ。


 女王が、片翼を広げた。


 白い羽が、ルファと子供たちを覆った。

 足元から砂が舞い上がり、翼の隙間へ吸い寄せられていく。折れた羽軸の一本一本が光り、繋がり、内側に小さな空間を残して固まり始めた。


 火が見えた。

 女王の衣の裾から、静かな炎が上がっていた。


 ライトは、もう一歩進もうとした。

 背後から、服を引かれた。


 ブーの牙が、彼の上着を咥えていた。


「離せ」


 声が掠れた。


「まだ、あそこに――」


 白い翼の内側で、ルファが子供たちを抱き寄せた。

 その顔が見えた。

 彼女も、こちらを見ていた。


 女王が顎を引いた。

 翼の縁が、床へ届いた。


 ブーが後ろへ跳んだ。


 天井が落ちた。


     *


 音が、いつまでも終わらなかった。


 石と石がぶつかり、柱が折れ、崩れたものが次の壁を倒していく。扉の下まで運ばれたライトは、両腕で頭を庇いながら、その音を聞いていた。


 最後に、大きな金属音がした。


 天秤のあった方からだった。

 地面が一度震え、足元を粉塵が流れた。


 しばらくして、小さな石の転がる音だけになった。


 ライトは腕を下ろした。


 王の間が、なかった。


 天井のあった場所に、空が見えた。砕けた壁の向こうで、午後の雲が流れている。

 修復した窓も、低い机も、老人が座っていた椅子も、瓦礫の下だった。


 青い獣が、そばで息をしていた。

 前脚の片方を浮かせている。黒い石に触れた毛先から、細く血が落ちていた。


「ルファ」


 呼んだ。

 声は石の上を滑り、返ってこなかった。


 ライトは立ち上がり、よろめいた。

 ブーが身体を寄せた。彼はその背へ手をつき、支えにして瓦礫を越えた。


 白いものが見えた。


 石の間から、羽の先が出ていた。


 ライトは膝をついた。

 石をどけた。小さいものから、両手で持てるものから。爪の間へ砂が入り、手首の傷が擦れた。


 ブーも、鼻先と前脚で瓦礫を押した。


 羽が、少しずつ現れた。

 透き通っていた。


 光がその中を通り、重なった羽の形を、内側へ映していた。


「……ライト」


 聞こえた。


 彼は顔を上げた。


「ルファ?」


「下に、隙間がある。こちらは動けるわ」


 ライトは翼の縁へ手を入れた。

 動かそうとして、止めた。これを割れば、上の石まで落ちてくるかもしれない。


「待って。石を、どけるから」


 急ぎたいのに、急げなかった。

 ルファはその間、声をかけ続けた。ラックがいる。レドもいる。呼吸はしている。こちらの石は動かさないでほしい。


 彼女の言葉を一つずつ聞いた。

 そのとおりに手を動かした。


 やがて、翼の下に、人が這って出られる隙間が開いた。


     *


 レドが先に出てきた。


 ブーは獣の姿を解き、姉へ駆け寄った。片脚を引きずっていたが、それでも両腕を差し出した。

 レドはその肩に掴まり、何度も咳き込んだ。


 次にラックが出た。

 最後にルファが、片手を外へ伸ばした。


 ライトは、その手を取った。


 彼女が這い出るまで離さなかった。出てきてからも、離すことができなかった。

 指先が冷たく、手の甲には細い傷がいくつもあった。


「血が……」


「あなたも」


 ルファは彼の頬を見た。

 ライトは片手を上げかけたが、途中で止めた。


「立てる?」


「少し、待って」


 彼女はそう言い、座ったまま息を整えた。

 ライトも隣へ腰を下ろした。

 二人の肩が触れた。どちらからともなく、体重を少しずつ預け合った。


 ラックの声がした。


「女王」


 少年は、翼の向こうを見ていた。


 ライトも振り返った。


 そこに、女王がいた。


 片膝をつき、片腕を床へ伸ばしている。残った翼は、身体の前へ大きく湾曲し、内側に三人がいた空間を残していた。

 髪も、衣も、指先も、硝子になっていた。


 首はわずかに傾いていた。

 最後まで、翼の下を見ようとしていた顔だった。


 ラックが、その前へ立った。


「もう、出ました」


 返事はなかった。


「みんな、出ましたから」


 声が少し大きくなった。

 レドが弟の肩から手を離し、女王の前へ膝をついた。


 細い指が、透明になった手へ触れた。


「お母様」


 呼び名が、瓦礫の間へ落ちた。


     *


 女王の指先には、まだ温かさが残っていた。


 ルファはその手に触れ、顔を近づけた。

 羽の付け根へ、衣の胸元へと、目を移していく。どこにも割れ目はなかった。翼の表面には石が当たった細かな傷があったが、その内側は滑らかなままだった。


「戻せないの」


 レドが訊いた。


 ルファはすぐには答えなかった。


「窓を、直してくれたでしょう」


 少女の手が、彼女の袖へ伸びた。


「同じ硝子でしょう」


 ルファはその手を両手で包んだ。


「私には、この人を元へ戻す方法がわからない」


 レドが首を振った。

 小さく、何度も振った。


 ライトは女王の翼に触れた。

 光が出ないか、待った。

 ランタンのときのように。剣を持ったときのように。


 指の下にあるのは、硬い硝子だった。


 もう一度、掌を押し当てた。

 熱は来なかった。


 女王が作ったものには、自分の力は届かないのかもしれない。そもそも、これは作られた置物ではない。

 わからないことばかりだった。

 今だけは、わかっていてほしかった。


 ブーが隣へ来た。

 小さな手が、ライトの手の横に重なった。


 それでも、何も起きなかった。


 ライトは歯を食いしばった。

 手を離すことが、終わりを認めることのように思えた。


 その手へ、ルファの指が触れた。

 剥がそうとはしなかった。


「もう少し、ここにいよう」


 彼女が言った。


 ライトは頷けなかった。

 それでも、隣へ座った。


     *


 日が傾くにつれ、風が冷たくなった。


 ラックが呼び出した影たちは、今度は誰も襲わなかった。石を運び、通れる場所を作り、残った壁の下へ荷物を集めた。

 ルファは助け出された鞄から外套を出し、レドとブーの肩へ掛けた。

 ライトは剣を手の届くところへ置いた。硝子の中の金色は、いつの間にか消えていた。


 天秤は、大きく傾いていた。


 落ちた梁と灯具の下敷きになり、盤の半分が砕けていた。雲はもう見えず、ひび割れた奥には、暗い空洞が開いている。

 縄も、男の姿もなかった。


 影たちが周囲を捜したが、見つからなかった。


 瓦礫の向こうで、杖の音がした。


 ラタが歩いてきた。

 外套の肩に砂埃が積もり、片手には、布に包んだ花があった。もう片方の腕にランタンの取っ手を掛け、杖をついている。


 ラックが立ち上がった。


「どこに、いたんだ」


「庭の先におった。戻ろうとしたが、階段が……」


 老人の声が止まった。


 女王を見ていた。

 硝子の片翼と、その下に座る子供たちを、長いこと見ていた。


 頭が、ゆっくり下がった。


 誰も、何が起きたのかをすぐには話せなかった。

 老人も訊かなかった。杖をつき、女王の前まで来ると、しばらく動かなかった。


 それから、崩れた天秤へ顔を向けた。


 ライトは、その視線を追った。


 ラタは石を一つ跨ぎ、盤の前へ進んだ。

 膝をつこうとしてよろめいたので、ライトが腕を支えた。


 抱えていた布がほどけた。

 白い花が、何輪か現れた。


 レドが顔を上げた。


「クリスマスローズ……」


 老人は花を見た。


「すまんかった」


 少女へ顔を向けた。


「お前さんが、大事にしておったのにな」


 レドは何も言わなかった。

 老人は、もう一度花へ目を戻した。


「会いに行くときは、これがよかったんじゃ」


     *


 天秤の内側は、もともと白かった。


 剥がれ落ちた一片の、何も書かれていない縁だけが、それを教えていた。

 ほかは文字に覆われていた。細かな字の上に別の字が重なり、乾いた墨の跡を、さらに尖ったもので刻んだ線が走っている。


 ライトは、その破片を拾い上げた。


 数字らしいものがあった。

 線で結ばれた印もあった。

 けれど、どれも途中で切れていて、意味は読み取れなかった。


 端に、短い言葉が残っていた。


 愛しのラタよ。


 ライトは、隣の老人を見た。


 ラタは、崩れた盤の奥へ顔を向けていた。

 花を差し出す手が、宙で止まっている。


「……いつも、ここへ?」


 ライトが訊くと、老人は頷いた。


「明かりをつけたあとに、少し」


 唇が、かすかに動いた。


「花を見ると、あの人は静かになる。書く手を止めてな。……その間なら、話ができた」


 ライトは破片を見た。

 男の眼を思い出した。逆さに吊られたまま、書いたものを奪うなと言った顔。誰かを待つ人の顔には、見えなかった。


 老人の指から、花びらが一枚落ちた。


「今日は、遅くなってしまった」


 レドが、そばへ来た。

 片脚を庇いながら、天秤の前へしゃがむ。


 彼女も、破片の文字を見た。

 口を開きかけ、閉じた。


 やがて、ラタの手から落ちそうになっていた一本を支えた。

 老人は少女を見たが、何も言わなかった。


 二人で、花を置いた。


 それで、男がしたことが消えるわけではなかった。

 数歩向こうには、硝子の女王がいた。

 レドはそちらへ顔を向け、唇を噛んだまま、立ち上がれなくなった。


     *


 夜になる前に、皆で風を避けられる場所へ移った。


 崩れずに残った壁のそばに、火がともった。ラタのランタンが荷物の横に置かれ、その青と蜂蜜色が、石の凹凸を照らしていた。

 今夜も、その灯りは消えなかった。


 ライトは、最後まで女王のそばにいたラックへ声をかけた。

 少年は一度だけ首を振り、それから、自分の手を見た。


「女王が、案内をつけると」


 声が掠れていた。


「約束したから。湖までの道は、僕が……」


 そこで言葉が途切れた。


「うん」


 ライトは答えた。


「頼む」


 今夜のうちに歩き出せば、それだけ早く帰れるのかもしれない。

 けれど、少年に今すぐ案内を作れとは言えなかった。自分の脚も震えていたし、ルファは小さな物音にも顔を上げていた。


 急がなければならない。

 それでも、立ち上がれない時間がある。


 ライトは鞄を引き寄せ、残っている食べ物を出した。

 パンを、人数分に分けた。


     *


 火の向こうで、ブーが眠った。


 泣き疲れた顔を姉の膝へ載せている。レドは弟の髪へ手を置いたまま、ランタンの光を見ていた。

 少し離れたところに、ラタが座っていた。もう花は持っていなかった。


 ルファがライトの手首に布を巻いた。

 縄に擦れたところを避け、最後に結び目を作る。彼女自身の指先にも傷があった。


「次は、俺がやる」


 ライトが言うと、ルファは布の残りを渡した。

 素直に手を差し出した。


 彼は、その手を取った。

 強く巻きすぎないよう、何度も確かめた。


「さっき」


 ルファが言った。


「戻ってこようとしたでしょう」


 ライトは手を止めた。


「見えてたんだ」


「ええ」


 しばらく、火の音を聞いた。

 言い訳をしようとは思わなかった。彼女が向こうにいるのを見て、身体がそちらへ向いた。それ以上のことは、そのとき考えられなかった。


「いなくなるのが、怖かった」


 言うと、ルファの指がわずかに動いた。


「あなたも、いなくなったら困るわ」


 彼は顔を上げた。

 ルファは、まっすぐこちらを見ていた。


「私も、怖かった」


 ライトは頷いた。

 雪山へ入る前、怖くなったら言おうと話した。その言葉を、二人とも今は、違う重さで持っていた。


 結び目を作り、余った布を畳んだ。

 手を離す前に、もう一度だけ、彼女の指の温かさを確かめた。


     *


 雪が降り始めた。


 ライトは顔を上げた。

 昨夜と同じように、小さな雪片が闇を横切っていた。けれど、空を覆う緑の光は見えなかった。


 少し離れた瓦礫の上に、硝子の翼があった。

 昼の光がなくなると、女王の顔は見えにくくなった。その輪郭に、雪が静かに積もっていく。


 レドが立ち上がった。

 外套を肩へ掛け直し、そこまで歩いていった。


 掌で、羽の上の雪を払った。


 一度払って、また払った。

 雪はすぐに、新しく降り積もった。


 ライトは立ち上がりかけたが、ルファの手が、そっと腕へ触れた。


 レドは、女王のそばに座った。

 もう雪を払わなかった。ただ、硝子の手の下へ自分の掌を合わせ、その重みを受け止めていた。


 やがてラックが、妹の肩へ毛布を掛けに行った。


 ラタの置いた白い花にも、雪が降っていた。

 崩れた天秤の前で、花と雪の境目が、少しずつ見えなくなっていった。




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