Ⅻ 《吊るされた男》 愛しのラタ
白い花の光が、女王の足元まで伸びていた。
直したばかりの窓から差す光だった。彼女が天秤へ歩み寄ると、衣の裾がその上を横切り、床の花は一度途切れて、また元の形になった。
ライトは、彼女の手を見ていた。
老人を皿から下ろした手。薬の箱を開け、傷のある背中に触れる前に、ひと言断ってくれた手だった。
その指が、円い盤へ近づいた。
「いつから、確かめていないの」
ルファが尋ねた。
女王は手を止めた。
「中へ入ったのは、ずいぶん前だ」
静かな答えだった。
「使い続けていた。変わっていないと思っていた」
彼女は子供たちを振り返った。
レドが腕を抱え、ブーはラタの服を掴んでいた。ラックだけが盤から目を離さずにいる。
「確かめる。皆、離れていなさい」
「わたしも――」
レドの声を、女王は首を振って止めた。
「入るのは私だけだ。中から声がしても、近づくな」
ラタへ目を向ける。
「庭へ下りていなさい。ここは足元も悪い」
老人は頷いた。
ブーの手を自分の服からそっと外し、その肩へ一度触れてから、杖とランタンを持って歩き出した。
ルファがライトの鞄を肩へ掛けた。
ライトは硝子の剣を手に取り、壁際まで下がった。巻いてもらった布が背中で引きつれ、息を深く吸うと痛んだ。
女王が盤へ触れた。
雲が割れた。
奥に、四角い部屋が見えた。光がないのではなかった。床にも壁にも、細い線が隙間なく重なり、白いはずの面を埋め尽くしていた。
文字だった。
遠くからでも、場所によって筆跡が違って見えた。小さく整った行。その上を斜めに走る大きな字。書ききれず、角を曲がって続いているものもある。
そこにいる誰かが、立って、座って、手の届かない場所へ腕を伸ばした。その時間だけが、部屋の中に残っているようだった。
女王が一歩、雲の向こうへ入った。
足元が見えなくなった。
次に肩が、最後に頭が隠れた。
広間には、風の音だけが残った。
*
何かを引きずる音がした。
ライトは顔を上げた。
盤の向こうからだった。椅子を動かすような短い音が二度して、それから、女王の声が聞こえた。
「手を離しなさい」
ルファが、鞄を床へ下ろした。
次の音は、硬かった。
床を強く打つ音。それに重なって、子供たちが動いた。
「待って」
ルファが腕を広げたとき、雲の中から縄が飛び出した。
太い一本が天井へ伸び、梁に巻きついた。続いて二本、三本。先端が石の継ぎ目へ入り込み、乾いた音を立てて締まっていく。
皿の鎖が激しく鳴った。
何かが、引き上げられた。
男だった。
片足を縄に絡め取られ、頭を下にして、天秤の前へ吊り上がってくる。長い髪が垂れ下がり、捲れた袖からは、痩せた腕が出ていた。
その腕が、女王の襟元を掴んでいた。
彼女の背から、白い翼が垂れていた。
片側だけだった。
反対側では衣が裂け、血を含んだ羽が、男の指の間から一枚、二枚と落ちた。
レドが息を呑んだ。
男はゆっくり首を動かした。
逆さになった眼が、こちらを見た。瞳の周りに細い血管が浮き、唇にはひびがあった。
「誰が、入っていいと言った」
声は大きくなかった。
それなのに、広間の誰も動けなくなった。
女王の手が上がった。
子供たちへ向かって、小さく動く。
「下がれ……」
ブーの身体が、青くほどけた。
次の瞬間には獣が床を蹴っていた。男の腕へ牙を向け、彼が身を逸らした隙に、女王の衣を咥える。
白い翼が大きく揺れた。
獣は彼女を抱えるようにして着地し、二度跳ねて、広間の端へ退いた。
「ブー、そのまま!」
レドの輪郭が赤く燃えた。
長い鼻面と尖った耳を持つ姿が現れ、開いた口から炎が伸びた。男を、縄が守るように束になった。炎はそこへ当たり、天井の下を赤く這った。
ライトは、熱から顔を背けた。
黒い影が、その下を走った。
ラックの呼び出した亡骸たちだった。壁を上り、男の腕や腰へ手を伸ばす。
男が指を曲げた。
影の身体に縄が巻きつき、次々と宙へ引き上げられた。
幾つもの足が、宙で蠢いた。
ライトは剣を握った。
掌が濡れていた。
*
「あの部屋は、あなたのものなの?」
ルファが声を張った。
男の眼が動いた。
束ねた縄が緩み、生き物のように動き出す。焦げた匂いが広間へ落ちてきた。
「そうだ」
「子供たちを入れたのは、私だ」
女王が言った。
ブーに支えられ、片膝をついていた。失われた翼のあった側へ身体が傾き、それを片手で床について支えている。
「中を知らずに使った。だが、そなたがなぜ、そこにいる」
男は答えなかった。
「あの文字は、何だ」
「言うな」
声が変わった。
天井の縄が、一斉に軋んだ。
「何もない部屋に戻すつもりだろう。削って、白く塗って。……あれだけ書くのに、どれほどかかったと思っている」
「消すとは言っておらぬ」
「外の者は、いつもそう言う」
男は首を曲げ、背後の盤を見た。
その顔が、ほんの短い間だけ緩んだ。
「あそこには、残っている。確かめたことが、全部」
ライトは、床の鞄を見た。
手帳が入っている。道順も、女王から聞いたことも、春を待った一行も。
男が何を守ろうとしているのか、わかる気がして、すぐにその考えを振り払った。
女王の足元に、血が落ちていた。
「誰も、消そうなんて思ってない」
ライトが言うと、男は彼を見た。
「そこから下りて、話せないのか」
男の目が細くなった。
「下りたら、どうなる」
自分へ訊いているような声だった。
「お前に、わかるのか」
縄が動いた。
ライトは剣を上げた。
横から伸びてきた一本が刃に触れ、短く裂けた。切れ端が床で跳ねたが、男の方から、もう次の縄が伸びてきていた。
「入口へ!」
ルファの声がした。
ライトは後ろへ退いた。
足元に、短い縄が落ちている。跨ごうとした瞬間、それが手首へ跳ね上がった。
身体が引かれた。
剣を持つ腕が横へ伸び、肩に激痛が走った。
ルファがその腕を掴んだ。
別の縄が彼女の肘へ巻きつく。
先端が跳ね、肩口の布を裂いた。
レドの炎が途切れた。
ラックの身体が、壁へ押しつけられた。
逃げ道だった扉の前にも、幾本もの縄が渡っていた。
*
床を擦る音がした。
女王の足元に、砂が集まっていた。砕けた石の粉が、指先の動きに合わせて浮き上がる。細い矢の形が、いくつも宙に並んだ。
「レド」
呼ぶ声に、少女が顔を上げた。
「こちらを見なさい」
女王は、自分の前を指した。
レドが唇を結び、顎を引いた。
砂の矢が走った。
少女の吐いた炎が、その途中を包む。熱の中を抜けたものは、透明な光を帯びていた。
男が腕を上げた。
何本かは縄に弾かれた。一本が肩を掠め、もう一本が袖を壁へ縫い留めた。
男の身体が大きく揺れた。
ライトの手首を引いていた力が、わずかに緩んだ。
冷たいものが、指先に触れた。
ルファの人形だ。
彼の袖をよじ登り、縄の下へ、小さな刃を入れようとしている。
ルファを見ると、彼女はライトではなく男を見ていた。唇だけが、かすかに動いていた。
ライトは手首を捻った。
皮膚が擦れ、痛んだ。けれど、縄と腕の間に隙間ができた。
小さな刃が入った。
繊維が一本ずつ切れていく。
焦って引けば、刃ごと折ってしまう。ライトは歯を食いしばり、腕を動かさずに待った。
縄がほどけた。
彼は剣を落とさないよう握り直し、ルファの腕を縛る一本へ刃を当てた。
金色の線が、硝子の中で灯った。
切れた縄の向こうから、彼女の手が戻ってきた。
「ありがとう」
短い声だった。
ライトは頷くことしかできなかった。
*
女王は天秤へ手を向けていた。
盤面の雲が、男の腰まで届いている。その身体を中へ戻そうとしていた。男は天井から垂れた縄を掴み、片腕だけで抵抗した。
梁から、白い粉が落ちた。
「上の縄が、引っ張ってる」
ルファが言った。
ライトも見た。
太い縄が三本、離れた梁へ巻きついていた。男の身体へ繋がり、雲に引かれるたび、天井全体を軋ませている。
「切れれば、あいつを戻せるのか」
女王が一度頷いた。
口元の色が失われていた。
ルファが両手を上げた。
掌の間に、細い刃が形を結びかけた。天井へ届けるには、遠すぎる。彼女はその先を伸ばそうとして、顔を歪めた。
肩の傷から、また血が滲んだ。
ライトは剣を見た。
手の中のものなら、もう形がある。
「俺が行く」
ルファが彼を見た。
「そこまで、どうやって」
青い獣が、近くにいた。
ブーだった。女王を庇いながら、天井と二人を交互に見ている。
ライトの肩に、さっき噛みつかれたときの衝撃が戻ってきた。
あの時、身体を持ち上げられた。どこへ落とされるかもわからず、何もできなかった。
獣の方へ足を動かした。
「あそこへ、届くか」
ブーは天井を見上げた。
それから、前脚を折った。
ライトはルファへ顔を戻した。
彼女は何も言わず、獣の背を見た。
鞄から細い紐を取り出し、ライトの剣の柄へ結ぶ。もう一方を彼の手首へ回し、きつく締めすぎないところで留めた。
「剣を振り回さないで。近くへ寄ってもらったら、切るところだけを見るの」
「うん」
ルファは結び目を引いた。
もう一度引き、彼の手を離した。
「戻ってきてよ」
ライトは頷いた。
簡単には言えない言葉だった。だから、彼女の顔を見たまま、はっきり頷いた。
*
獣の背は、温かかった。
青い毛を掴むと、ブーが顔を少しだけ向けた。ライトは剣を身体の外へ向け、両脚で背を挟んだ。
「頼む」
床が遠ざかった。
ブーは壁へ跳びつき、張り出した石を蹴った。次の瞬間には、窓の上の梁へ前脚を掛けていた。
ライトの背中に痛みが走った。
声が出た。飲み込もうとして、呼吸まで止まりそうになった。
ブーが動きを止めた。
「……俺に、構わず」
獣の耳が動いた。
次は、足を置く場所を確かめるように、梁の上へ身体を引き上げた。
一本目の縄が、すぐ前にあった。
石へ食い込み、強く張っている。
金色の光を帯びた刃を当てた。すると、撚り合わされた繊維が外側から切れた。
最後の数本が弾けた。
縄の端が跳ね、ライトの頬を掠めた。
男の身体が傾いた。
「やめろ」
声が、下から届いた。
ブーが次の梁へ移った。
ライトは身を低くした。縄が二人の頭上を通り、壁を叩いた。
二本目を切った。
天秤の雲が、男の胸まで覆った。
彼は片手を盤の縁へ伸ばし、爪が剥がれそうなほど強く掴んだ。
「まだ、終わっていない」
聞こえた声には、さっきまでとは違うものが混じっていた。
「あと少しで……」
男が上を見た。
逆さのまま、ライトと目が合った。
ライトは三本目へ剣を当てた。
息が上がっていた。両手で柄を持つと、指輪の縁が、もう片方の指に触れた。
ルファが、下にいる。
刃を押し込んだ。
縄が切れた。
*
男は、落ちなかった。
広間じゅうに散っていた細い縄が、一斉に天井へ伸びた。
梁へ、窓の上の石へ、吊られた灯具の鎖へ。届くものをすべて掴み、男の身体を引き留めた。
雲が強く引いた。
男も、引き返した。
石が割れた。
ライトは足元を見た。
梁と壁の間に、黒い隙間が開いていた。小さかった隙間が、見ている間に広がり、白い粉が吹き出した。
「下へ!」
叫ぶと同時に、ブーが跳んだ。
背後で、重い音がした。
灯具が一つ落ち、床に当たって砕けた。縄に引かれた梁が、そのあとを追った。
ブーは落下する石を避け、扉のそばへ着地した。
ライトは背中から滑り下りた。脚が立たず、片膝を床についた。
扉の向こうには、廊下が見えていた。
庭へ出られる。
白い光が、ほんの数歩先にあった。
振り返った。
ルファが、向こうにいた。
ラックとレドを柱の陰へ引き寄せている。二人とも動きが鈍かった。レドは片脚を引きずり、ラックは妹の肩を抱えたまま膝を折った。
その前へ、石が落ちた。
ライトは立ち上がった。
背中が痛んだ。かまわず一歩進み、剣で、足元へ絡みついた縄を切った。
「ルファ!」
彼女がこちらを見た。
手を伸ばすには遠かった。さっきまで通れた床に、瓦礫が重なっていく。
「来ないで!」
その声のあとで、天井が沈んだ。
女王が、片翼を広げた。
白い羽が、ルファと子供たちを覆った。
足元から砂が舞い上がり、翼の隙間へ吸い寄せられていく。折れた羽軸の一本一本が光り、繋がり、内側に小さな空間を残して固まり始めた。
火が見えた。
女王の衣の裾から、静かな炎が上がっていた。
ライトは、もう一歩進もうとした。
背後から、服を引かれた。
ブーの牙が、彼の上着を咥えていた。
「離せ」
声が掠れた。
「まだ、あそこに――」
白い翼の内側で、ルファが子供たちを抱き寄せた。
その顔が見えた。
彼女も、こちらを見ていた。
女王が顎を引いた。
翼の縁が、床へ届いた。
ブーが後ろへ跳んだ。
天井が落ちた。
*
音が、いつまでも終わらなかった。
石と石がぶつかり、柱が折れ、崩れたものが次の壁を倒していく。扉の下まで運ばれたライトは、両腕で頭を庇いながら、その音を聞いていた。
最後に、大きな金属音がした。
天秤のあった方からだった。
地面が一度震え、足元を粉塵が流れた。
しばらくして、小さな石の転がる音だけになった。
ライトは腕を下ろした。
王の間が、なかった。
天井のあった場所に、空が見えた。砕けた壁の向こうで、午後の雲が流れている。
修復した窓も、低い机も、老人が座っていた椅子も、瓦礫の下だった。
青い獣が、そばで息をしていた。
前脚の片方を浮かせている。黒い石に触れた毛先から、細く血が落ちていた。
「ルファ」
呼んだ。
声は石の上を滑り、返ってこなかった。
ライトは立ち上がり、よろめいた。
ブーが身体を寄せた。彼はその背へ手をつき、支えにして瓦礫を越えた。
白いものが見えた。
石の間から、羽の先が出ていた。
ライトは膝をついた。
石をどけた。小さいものから、両手で持てるものから。爪の間へ砂が入り、手首の傷が擦れた。
ブーも、鼻先と前脚で瓦礫を押した。
羽が、少しずつ現れた。
透き通っていた。
光がその中を通り、重なった羽の形を、内側へ映していた。
「……ライト」
聞こえた。
彼は顔を上げた。
「ルファ?」
「下に、隙間がある。こちらは動けるわ」
ライトは翼の縁へ手を入れた。
動かそうとして、止めた。これを割れば、上の石まで落ちてくるかもしれない。
「待って。石を、どけるから」
急ぎたいのに、急げなかった。
ルファはその間、声をかけ続けた。ラックがいる。レドもいる。呼吸はしている。こちらの石は動かさないでほしい。
彼女の言葉を一つずつ聞いた。
そのとおりに手を動かした。
やがて、翼の下に、人が這って出られる隙間が開いた。
*
レドが先に出てきた。
ブーは獣の姿を解き、姉へ駆け寄った。片脚を引きずっていたが、それでも両腕を差し出した。
レドはその肩に掴まり、何度も咳き込んだ。
次にラックが出た。
最後にルファが、片手を外へ伸ばした。
ライトは、その手を取った。
彼女が這い出るまで離さなかった。出てきてからも、離すことができなかった。
指先が冷たく、手の甲には細い傷がいくつもあった。
「血が……」
「あなたも」
ルファは彼の頬を見た。
ライトは片手を上げかけたが、途中で止めた。
「立てる?」
「少し、待って」
彼女はそう言い、座ったまま息を整えた。
ライトも隣へ腰を下ろした。
二人の肩が触れた。どちらからともなく、体重を少しずつ預け合った。
ラックの声がした。
「女王」
少年は、翼の向こうを見ていた。
ライトも振り返った。
そこに、女王がいた。
片膝をつき、片腕を床へ伸ばしている。残った翼は、身体の前へ大きく湾曲し、内側に三人がいた空間を残していた。
髪も、衣も、指先も、硝子になっていた。
首はわずかに傾いていた。
最後まで、翼の下を見ようとしていた顔だった。
ラックが、その前へ立った。
「もう、出ました」
返事はなかった。
「みんな、出ましたから」
声が少し大きくなった。
レドが弟の肩から手を離し、女王の前へ膝をついた。
細い指が、透明になった手へ触れた。
「お母様」
呼び名が、瓦礫の間へ落ちた。
*
女王の指先には、まだ温かさが残っていた。
ルファはその手に触れ、顔を近づけた。
羽の付け根へ、衣の胸元へと、目を移していく。どこにも割れ目はなかった。翼の表面には石が当たった細かな傷があったが、その内側は滑らかなままだった。
「戻せないの」
レドが訊いた。
ルファはすぐには答えなかった。
「窓を、直してくれたでしょう」
少女の手が、彼女の袖へ伸びた。
「同じ硝子でしょう」
ルファはその手を両手で包んだ。
「私には、この人を元へ戻す方法がわからない」
レドが首を振った。
小さく、何度も振った。
ライトは女王の翼に触れた。
光が出ないか、待った。
ランタンのときのように。剣を持ったときのように。
指の下にあるのは、硬い硝子だった。
もう一度、掌を押し当てた。
熱は来なかった。
女王が作ったものには、自分の力は届かないのかもしれない。そもそも、これは作られた置物ではない。
わからないことばかりだった。
今だけは、わかっていてほしかった。
ブーが隣へ来た。
小さな手が、ライトの手の横に重なった。
それでも、何も起きなかった。
ライトは歯を食いしばった。
手を離すことが、終わりを認めることのように思えた。
その手へ、ルファの指が触れた。
剥がそうとはしなかった。
「もう少し、ここにいよう」
彼女が言った。
ライトは頷けなかった。
それでも、隣へ座った。
*
日が傾くにつれ、風が冷たくなった。
ラックが呼び出した影たちは、今度は誰も襲わなかった。石を運び、通れる場所を作り、残った壁の下へ荷物を集めた。
ルファは助け出された鞄から外套を出し、レドとブーの肩へ掛けた。
ライトは剣を手の届くところへ置いた。硝子の中の金色は、いつの間にか消えていた。
天秤は、大きく傾いていた。
落ちた梁と灯具の下敷きになり、盤の半分が砕けていた。雲はもう見えず、ひび割れた奥には、暗い空洞が開いている。
縄も、男の姿もなかった。
影たちが周囲を捜したが、見つからなかった。
瓦礫の向こうで、杖の音がした。
ラタが歩いてきた。
外套の肩に砂埃が積もり、片手には、布に包んだ花があった。もう片方の腕にランタンの取っ手を掛け、杖をついている。
ラックが立ち上がった。
「どこに、いたんだ」
「庭の先におった。戻ろうとしたが、階段が……」
老人の声が止まった。
女王を見ていた。
硝子の片翼と、その下に座る子供たちを、長いこと見ていた。
頭が、ゆっくり下がった。
誰も、何が起きたのかをすぐには話せなかった。
老人も訊かなかった。杖をつき、女王の前まで来ると、しばらく動かなかった。
それから、崩れた天秤へ顔を向けた。
ライトは、その視線を追った。
ラタは石を一つ跨ぎ、盤の前へ進んだ。
膝をつこうとしてよろめいたので、ライトが腕を支えた。
抱えていた布がほどけた。
白い花が、何輪か現れた。
レドが顔を上げた。
「クリスマスローズ……」
老人は花を見た。
「すまんかった」
少女へ顔を向けた。
「お前さんが、大事にしておったのにな」
レドは何も言わなかった。
老人は、もう一度花へ目を戻した。
「会いに行くときは、これがよかったんじゃ」
*
天秤の内側は、もともと白かった。
剥がれ落ちた一片の、何も書かれていない縁だけが、それを教えていた。
ほかは文字に覆われていた。細かな字の上に別の字が重なり、乾いた墨の跡を、さらに尖ったもので刻んだ線が走っている。
ライトは、その破片を拾い上げた。
数字らしいものがあった。
線で結ばれた印もあった。
けれど、どれも途中で切れていて、意味は読み取れなかった。
端に、短い言葉が残っていた。
愛しのラタよ。
ライトは、隣の老人を見た。
ラタは、崩れた盤の奥へ顔を向けていた。
花を差し出す手が、宙で止まっている。
「……いつも、ここへ?」
ライトが訊くと、老人は頷いた。
「明かりをつけたあとに、少し」
唇が、かすかに動いた。
「花を見ると、あの人は静かになる。書く手を止めてな。……その間なら、話ができた」
ライトは破片を見た。
男の眼を思い出した。逆さに吊られたまま、書いたものを奪うなと言った顔。誰かを待つ人の顔には、見えなかった。
老人の指から、花びらが一枚落ちた。
「今日は、遅くなってしまった」
レドが、そばへ来た。
片脚を庇いながら、天秤の前へしゃがむ。
彼女も、破片の文字を見た。
口を開きかけ、閉じた。
やがて、ラタの手から落ちそうになっていた一本を支えた。
老人は少女を見たが、何も言わなかった。
二人で、花を置いた。
それで、男がしたことが消えるわけではなかった。
数歩向こうには、硝子の女王がいた。
レドはそちらへ顔を向け、唇を噛んだまま、立ち上がれなくなった。
*
夜になる前に、皆で風を避けられる場所へ移った。
崩れずに残った壁のそばに、火がともった。ラタのランタンが荷物の横に置かれ、その青と蜂蜜色が、石の凹凸を照らしていた。
今夜も、その灯りは消えなかった。
ライトは、最後まで女王のそばにいたラックへ声をかけた。
少年は一度だけ首を振り、それから、自分の手を見た。
「女王が、案内をつけると」
声が掠れていた。
「約束したから。湖までの道は、僕が……」
そこで言葉が途切れた。
「うん」
ライトは答えた。
「頼む」
今夜のうちに歩き出せば、それだけ早く帰れるのかもしれない。
けれど、少年に今すぐ案内を作れとは言えなかった。自分の脚も震えていたし、ルファは小さな物音にも顔を上げていた。
急がなければならない。
それでも、立ち上がれない時間がある。
ライトは鞄を引き寄せ、残っている食べ物を出した。
パンを、人数分に分けた。
*
火の向こうで、ブーが眠った。
泣き疲れた顔を姉の膝へ載せている。レドは弟の髪へ手を置いたまま、ランタンの光を見ていた。
少し離れたところに、ラタが座っていた。もう花は持っていなかった。
ルファがライトの手首に布を巻いた。
縄に擦れたところを避け、最後に結び目を作る。彼女自身の指先にも傷があった。
「次は、俺がやる」
ライトが言うと、ルファは布の残りを渡した。
素直に手を差し出した。
彼は、その手を取った。
強く巻きすぎないよう、何度も確かめた。
「さっき」
ルファが言った。
「戻ってこようとしたでしょう」
ライトは手を止めた。
「見えてたんだ」
「ええ」
しばらく、火の音を聞いた。
言い訳をしようとは思わなかった。彼女が向こうにいるのを見て、身体がそちらへ向いた。それ以上のことは、そのとき考えられなかった。
「いなくなるのが、怖かった」
言うと、ルファの指がわずかに動いた。
「あなたも、いなくなったら困るわ」
彼は顔を上げた。
ルファは、まっすぐこちらを見ていた。
「私も、怖かった」
ライトは頷いた。
雪山へ入る前、怖くなったら言おうと話した。その言葉を、二人とも今は、違う重さで持っていた。
結び目を作り、余った布を畳んだ。
手を離す前に、もう一度だけ、彼女の指の温かさを確かめた。
*
雪が降り始めた。
ライトは顔を上げた。
昨夜と同じように、小さな雪片が闇を横切っていた。けれど、空を覆う緑の光は見えなかった。
少し離れた瓦礫の上に、硝子の翼があった。
昼の光がなくなると、女王の顔は見えにくくなった。その輪郭に、雪が静かに積もっていく。
レドが立ち上がった。
外套を肩へ掛け直し、そこまで歩いていった。
掌で、羽の上の雪を払った。
一度払って、また払った。
雪はすぐに、新しく降り積もった。
ライトは立ち上がりかけたが、ルファの手が、そっと腕へ触れた。
レドは、女王のそばに座った。
もう雪を払わなかった。ただ、硝子の手の下へ自分の掌を合わせ、その重みを受け止めていた。
やがてラックが、妹の肩へ毛布を掛けに行った。
ラタの置いた白い花にも、雪が降っていた。
崩れた天秤の前で、花と雪の境目が、少しずつ見えなくなっていった。




