ⅩⅢ 《死神》 魂の番人
朝になっても、女王は戻らなかった。
翼に積もった雪が融け、羽の先から雫が落ちていた。斜めに差した光が硝子の中を通り、瓦礫の上へ幾筋もの白を引く。
ライトは、その光が動くのを見ていた。
一瞬、指が動いたような気がした。顔を上げても、女王は昨日と同じ姿勢で、もう誰もいない翼の下を見つめていた。
背後で、小さな金具の鳴る音がした。
ルファが鞄の留め口を閉めている。切れた肩紐には新しい布が巻かれ、結び目が二つ並んでいた。
「持てそう?」
ライトは肩へ掛けてみた。
背中は痛んだが、昨日のように息が詰まるほどではなかった。荷物は、二人で分け直してある。
「これなら」
ルファが頷いた。
彼女の肩にも布が当てられていた。外套を羽織るときだけ、腕の動きが小さくなった。
城には、まだ風を防げる部屋が幾つか残っていた。
夜の間にラックの呼び出した影たちが道を開け、ラタが水と食料のある場所を教えた。レドは朝から、濡れた毛布を石垣に広げていた。
何かをしている間は、手を止めずにいられるのだろう。
ライトたちが近づくと、少女は最後の毛布を広げ終えた。
「もう、行くの」
「うん」
返事が短くなった。
ここに残っても女王を戻せないことと、ここを離れてよいことは、同じには思えなかった。
レドは城の奥へ目を向けた。
「湖の人なら、わかるかもしれない」
何が、とは言わなかった。
ライトは、彼女と同じ方を見た。
「女王のことも、訊いてみる」
少女は頷いた。
ありがとうとは言わず、毛布の端をもう一度伸ばした。
*
ラックは、崩れた門の前で待っていた。
その隣に、人の形をした影が立っている。細い骨格が煤のような黒で縁取られ、肘や膝を動かすたびに、薄い煙がほどけた。
昨日、廊下で襲ってきたものと同じ姿だった。
ライトは無意識に剣の包みへ手を添えた。
ラックが、その手を見た。
「湖まで、案内させる」
少年は影へ顔を向けた。
「西の湖だ。何があっても寄り道をさせるな。二人が追いつくまで待て。着いたら、役目を終えろ」
影が頭を下げた。
空洞の目が、ライトとルファへ向いた。
「二人とも、マルクトへ帰るんだろう」
ラックに問われ、ライトは頷いた。
「ああ。そのための道を、聞いてくる」
少年は、しばらく口を閉じていた。
やがて、ライトの手首へ視線を落とした。
「僕が、君たちを城へ入れなければ」
その先は続かなかった。
何もかもが、後悔へと連なっていた。
窓を割った夜。ランタンへ注いだもの。旅人を呼び止めた声。その一つを変えれば、母はまだいるのではないかと。
ライトは、すぐには答えられなかった。
「あのときは、怖かったよ」
ようやく、言った。
「まだ、身体も痛い」
ラックが顔を上げた。
「でも、湖への道を頼みたいんだ」
ライトは案内人を見た。
「ありがとう」
ラックはゆっくり答えた。
ラタが門まで来た。
手にはランタンがあった。昼の光の中でも、硝子の奥に小さな金色が揺れていた。
「道中、気をつけてな」
ライトは頷いた。
ブーは老人のそばにいた。片脚に布を巻き、昨日と同じ黒い服を着ている。
「背中、痛い?」
「少し」
「……ごめんなさい」
ライトは、その顔を見た。
獣の牙と、差し出された背中を思い出した。
「あの時、引っ張ってくれて、ありがとう」
ブーは目を伏せた。
返事をする代わりに、服の裾を握った。
案内人が歩き出した。
二人があとへ続くと、門の影で一度だけ立ち止まり、こちらを振り返った。
ライトも振り返った。
ラタたちの後ろに、屋根を失った城があった。朝の空の下で、片翼の先だけが光って見えた。
*
森へ入ると、空が遠くなった。
木々の幹は太く、根は道を横切って地面へ潜り、少し先でまた顔を出していた。靴の下には湿った落ち葉が重なっている。山の石畳とは違い、足音はすぐに土へ吸われた。
案内人は何も言わなかった。
枝が低いところでは身を屈め、斜面では先に下りて待った。ライトが立ち止まると、そのたびに顔をこちらへ向けた。
急げば、傷が痛んだ。
休めば、その間にもカフェの時間が進んだ。
ライトは何度も空を見ようとした。枝葉の隙間に光は見えても、太陽の位置はわからなかった。
「少し、飲みましょう」
ルファが言った。
「まだ、歩ける」
「私が、飲みたいの」
振り返ると、彼女は肩紐を外していた。
ライトも鞄を下ろした。倒れた木に並んで腰を掛け、水筒を受け取る。
水が、喉の奥へゆっくり落ちた。
飲み終えて初めて、自分がずっと口を結んで歩いていたことに気づいた。
ルファも水を飲んだ。
布の巻かれた指が、水筒の蓋を一度取り落としかけた。ライトが下から支えると、彼女は短く礼を言った。
いつもなら、見過ごすほどのことだった。
今は、彼女が痛む手を使うたびに目が向いた。
木の上で、鳥が鳴いた。
ルファが顔を上げた。
首筋に、葉の間から細い光が当たった。
「いるわね」
「鳥?」
「ええ」
それだけの会話だった。
ライトは、しばらく耳を澄ませた。
昨日から、何かが落ちる音ばかり聞いていた。石や硝子が砕ける音。そこへ戻ってしまいそうになる耳に、知らない鳥の声が、何度も届いた。
案内人は道の先で待っていた。
風が通るたび、骨の輪郭から薄い煙が流れた。
「行こう」
ライトが立つと、ルファも立ち上がった。
今度は、彼女が鞄を背負い終えるのを待ってから歩き出した。
*
水が見えたとき、はじめは空だと思った。
木々の根元の向こうに、淡い青が広がっていた。近づくにつれ、その青が細かく揺れ、春の雲を逆さに映しているのがわかった。
湖だった。
対岸が霞むほど広い。その中央近くから、一本の大樹が立ち上がっていた。
幹は塔のように太く、何本もの根が島を抱えて水へ沈んでいる。枝は湖の上へ大きく張り出し、遠くへ行くほど細く分かれ、空の青へ溶けていた。
葉が鳴った。
風はまだ二人のところへ届いていなかった。遠い枝から順に、何かが渡ってくる。ざわめきが湖を越え、岸辺の草を揺らし、最後にルファの髪を持ち上げた。
ライトは鞄の紐を握ったまま、動けずにいた。
「世界樹……」
ルファが小さく言った。
木の名前なのか、見たままを口にしたのか、訊くことができなかった。
あの枝の先に何があるのか、根がどこまで続いているのか。目に入るものだけでさえ、全部を見きれなかった。
案内人が岸辺へ進んだ。
長い指を、右手の木陰へ向ける。
そこに、人がいた。
黒い頭巾を被り、根に腰を下ろしている。手には細い竿があり、その先から、銀色の糸が湖へ垂れていた。
案内人が頭を下げた。
次の瞬間、骨の輪郭が崩れた。煙は地面へ広がり、草の間を流れ、何も残さず消えていった。
「城からか」
男が言った。
まだ、水面を見ていた。
*
近づくと、魚籠がないことに気づいた。
足元には平たい石と、使い込まれた手綱が置かれている。革はところどころ白く擦り切れ、金具には、水で洗っても落ちなさそうな黒い錆があった。
「湖の番人を、捜しています」
ルファが言った。
「俺だ」
男が振り返った。
頭巾の中に、白い顔があった。
頬は深く削げ、眼窩は暗かった。皮膚なのか、骨がそのまま露わになっているのか、すぐにはわからない。
黒い衣の背後で、翼が一枚動いた。
青にも紫にも見える色が、光の角度で赤へ変わった。
ライトは足を止めた。
男は彼の顔を見てから、ルファの肩の包帯を見た。
「穏やかな道中ではなかったらしいな」
「城が、崩れました」
ルファは答えた。
竿の先が、わずかに下がった。
「女王は」
その一言に、ライトが答えた。
天秤の中に男がいたこと。争いになり、天井が落ちたこと。女王が片翼で皆を庇い、硝子になったこと。
言葉にすると、短かった。
昨日のことを、それだけで話し終えてしまうのが苦しかった。
男は竿を岸へ置いた。
「あの子たちは、残ったか」
「三人とも。ラタさんも、無事です」
「そうか」
長い指が、膝の上で一度開いた。
それから、また閉じた。
「女王を戻す方法を、知らないか」
ライトが訊いた。
男は湖へ目をやった。
糸の落ちた場所に、小さな波紋が残っていた。
「俺には、戻せん」
短い答えだった。
「俺は、魂の行き来を見ている。だが、行き先を全部、俺が決めているわけじゃない」
ライトは唇を結んだ。
レドに聞かせる答えが、また一つなくなった。
「お前たちの用は、それだけか」
男が尋ねた。
ライトは顔を上げた。
「マルクトへ、帰りたいんだ。それから、父を捜してる。ジンという人で、エマという赤い髪の人を追って……」
男の眼が、ライトの顔に留まった。
「ジン」
名を繰り返した。
何かを確かめるように、もう一度顔を見た。
「硝子を作る男か」
ライトの喉が動いた。
「知ってるのか!」
「来たことは、覚えている」
それだけで、立っている地面の感触が変わった。
ここに、父が来た。
同じ湖を見て、この男と話をした。
「どこへ行ったんだ。今は――」
男が片手を上げた。
「教える。その前に、一つ頼みたい」
ライトは動きを止めた。
「何を」
男は、足元の手綱を見た。
「捜している命がある」
*
名は、ディマイズといった。
白い馬だった。
男はその名を言ってから、しばらく湖を見ていた。まるで、呼べば水の向こうから姿を現すのを、待っているようだった。
「海の魔物に奪われた。身体は戻らなかった」
風で、竿の先が揺れた。
「ここには、遠くで身体を失った魂が流れ着くこともある。だから、待っているのさ」
「その糸で、捜しているの?」
ルファが尋ねた。
「ああ」
男は手綱を持ち上げた。
空いたままの金具が、鈍く鳴った。
「何も掛からなくても、上げるときには、少し期待する。馬鹿みたいだがな」
ライトは、水面の糸を見た。
いつか家の戸が開くと思っていた。知らない男の声が外ですると、母より先に顔を上げたこともある。
その期待を馬鹿だとは思えなかった。
けれど、待つ長さは同じではない。
「俺たちには、時間がないんだ」
男を見て言った。
「ここの一日が、向こうの一年だと聞いた。母と妹が待っている。いつまでかかるかわからないことは、引き受けられない」
男は手綱を下ろした。
初めて、ライトの言葉を最後まで聞く顔になった。
「城の者が作れない灯りを、お前たちは作ったんだろう」
ルファが頷いた。
「ラタが持っていたやつだ。遠くからでも見えた」
男の眼が、ライトの手へ落ちた。
「同じことを、ここで試せないか。姿かたちがあれば、あいつの魂が寄るかもしれん」
ルファは、すぐには答えなかった。
「似た姿を作ることなら、できるかもしれないわ。でも、私たちは魂を呼び戻したことはないの」
「わかっている」
「うまくいかなかったら、話は聞けない?」
男は彼女を見た。
長い沈黙のあと、首を振った。
「一度、手を貸してくれ。それでいい」
ライトはルファを見た。
彼女もこちらを見ていた。
できると言ってしまえば、相手はいつまでも待つ。
「昼まで」
ライトは言った。
「それまでに、できるところまで」
ルファが頷いた。
男も、一度だけ頭を下げた。
*
岸辺の乾いた場所に、布を広げた。
ルファは男から馬の大きさを聞き、土の上へ細い枝で線を引いた。背の高さ。首の角度。脚の長さ。
ライトはその横へしゃがみ、関節の位置を確かめた。
「一度に、この大きさを作れる?」
ルファは首を振った。
「小さく分けて作る。骨組みをつないで、その上に硝子を合わせるわ」
線の交わるところを指した。
「ここの形、見ていてくれる?」
ライトは頷いた。
傷のある指へ薄い布を巻き直し、鞄から道具を出した。
男は少し離れて座った。
釣り糸は、水に垂らしたままだった。
ルファの掌に、光が集まった。
最初にできたのは、短い脚の骨組みだった。
細い枠をつなぎ、前脚を二本、後ろ脚を二本、順に立てていく。小さな部品のままなら見慣れた仕事だったが、それらが馬の高さを持ち始めると、ライトは思わず後ろへ下がった。
まだ何も入っていない胴の向こうに、湖が見えた。
「首は、もう少し太かった」
男が言った。
ルファは図案を見直し、頷いた。
光を細く伸ばし、曲がりを変える。
「前脚に傷があった。右だ。石を嫌って飛び越えようとして、かえって転んだ」
男の声に、かすかな笑いが混じった。
ライトは顔を上げた。
「速い馬だった?」
「速かった。だが、急いでほしいときほど、途中で止まることもあった」
「どうして」
「そんなもんさ」
男は湖畔を見た。
それから、黙った。
ライトは骨組みへ手を戻した。
立派な馬だった、という話だけでは見えなかったものが、少しずつ形を持ち始めていた。
乳白色の硝子が、枠の中へ収まっていく。
完全な白ではなかった。光の当たるところは薄く透け、内側に重なった面が、青や淡い灰色を含んだ影になった。
腹の曲面を合わせるとき、ルファの手が止まった。
肩が震えていた。
「ここ、俺が支える」
ライトは布越しに硝子を受けた。
彼女は一度腕を下ろし、息を吐いた。
「少し、休む?」
「この継ぎ目まで」
彼は頷いた。
継ぎ目が閉じると、ルファがまた手を伸ばす前に、水筒を差し出した。
彼女はそれを見てから、受け取った。
*
日差しが、湖の手前まで届いた。
世界樹の枝が落とす影が、ゆっくり岸を離れていく。風は朝より温かく、首筋に汗が滲んだ。
白馬が、立っていた。
細い継ぎ目で形作られた胸。その奥を通って、向こう側の水が揺れて見える。耳はわずかに前を向き、長いたてがみは、何枚もの薄い硝子を重ねて作られていた。
右の前脚に傷は入れなかった。
ルファが男へ確かめると、彼はその脚を見て、しばらくしてから首を振ったのだった。
ライトは道具を布の上へ置いた。
ルファも手を下ろした。
まだ、馬は動かなかった。
風が耳の先を通り、水面の光が腹を撫でた。それでも、硝子は硝子のまま、そこに立っていた。
「ライト」
ルファが呼んだ。
「無理には、出そうとしないで」
彼は頷いた。
右手の布を外し、馬の首へ掌を当てた。
冷たかった。
女王の翼に触れたときの感触が戻ってきた。
どれほど待っても、金色は現れなかった。何かが足りないのか、自分が間違っているのか、それさえわからなかった。
今回も、同じかもしれない。
ライトは馬の胸を見た。
ルファが一枚ずつ合わせた硝子がある。自分が支えた曲面がある。
ここまでは、二人で作った。
掌の下で、細い熱が生まれた。
線が伸びた。
金色が首の継ぎ目を伝い、胸へ、肩へと下りていく。透明な身体の内側で、幾筋もの光が分かれ、つながり、後ろ脚まで届いた。
ライトは息を吐いた。
馬の耳が、動いた。
手を離した。
光は消えなかった。胸の奥へ集まり、そこからまた、脚へ細く広がっていく。
蹄が土を踏んだ。
最初の一歩は、ひどく慎重だった。
上げた前脚をどこへ置くか迷うように、馬は首を下げた。蹄の下で草が折れた。その音に驚いたのか、耳がぴんと立った。
ルファが口元へ手を当てた。
ライトは馬の隣で、しばらく動けなかった。
男が立ち上がった。
手には、古い手綱があった。
「ディマイズ」
低い声だった。
馬は、湖を見ていた。
*
男はもう一度、名を呼んだ。
今度は馬が顔を向けた。
けれど、近づきはしなかった。差し出された手綱を見て、首を少し引いた。
男の指が止まった。
白い顔の奥の眼が、馬を見つめている。
長いこと、そのままだった。
「……違う」
言葉が落ちた。
ライトの肩が強張った。
「俺が待っていた魂ではない」
馬は一歩退いた。
男はそれ以上近づかなかった。手綱をゆっくり下ろし、膝のところで握り直した。
「姿は、よく似ている」
そう言ってから、白馬の首へ目を戻した。
「だが、こいつは俺を知らん」
ルファは黙っていた。
ライトは自分の掌を見た。熱はもう引いている。
動いた。
けれど、戻ってきたわけではなかった。
「すまない」
声が出た。
男は首を振った。
「最初に、言ってくれた」
手綱を、根の上へ戻した。
その置き方は、来たときと同じだった。
湖の糸が、風に引かれた。
男は反射のように振り向き、すぐに目を伏せた。
*
白馬は岸を歩いた。
水へ鼻を近づける。水面に映った自分の姿が揺れると、首を上げて退いた。今度は浅瀬の石へ顔を寄せ、しばらく、その光る表面を見ていた。
ライトはその様子を見守った。
「この馬は、どこから来たんだ」
男が顔を上げた。
「俺が、何かを呼んだのか」
「お前の光が何をしたか、そこまではわからん」
男は答えた。
「だが、あの馬の魂とは違う。そこは、見違えん」
ルファが白馬のそばへ歩いていった。
触れる前に、手を見せる。馬がその指へ鼻先を寄せてから、ゆっくり首筋を撫でた。
ライトは、その横顔を見ていた。
同じ形を作れば、同じ相手に会える。
もしそうなら、昨日の女王も、ラタの待つ人も、父を待ち続けた時間も、どうにかできる気がしてしまう。
目の前の馬は、まだ何も知らない。
この水も、草も、人の手も、一つずつ確かめている。
ライトは屈み、濡れた道具を拭き始めた。
考えがまとまらなかった。手を動かしていないと、できなかったことばかりが頭に浮かんだ。
やがて、足元に影が落ちた。
白馬が来ていた。
彼の肩越しに顔を下げ、布の端へ鼻を寄せた。
「それは、食べるものじゃない」
ライトが言うと、馬は顔を上げた。
硝子のたてがみが触れ合い、ごく小さな音を立てた。
ルファが、少し笑った。
その笑い声を聞いて、ライトは馬の首へ手を添えた。
消えてほしいとは、思わなかった。
*
男は、手綱を持たずに立ち上がった。
白馬の前まで来て、少し離れたところに止まる。
馬が顔を向けるのを待って、空の手を差し出した。
白い鼻先が、その指に触れた。
「俺のことを、知っているわけではないんだな」
答えはなかった。
馬の耳が、声のする方へ動いた。
男は指を開き、首筋へ掌を沿わせた。
古い傷を探すように一度手が下がったが、途中で止まった。
「そうか」
それだけ言った。
ライトは立ち上がった。
「この馬を、どうすればいいでしょう」
男は、馬から手を離さなかった。
「ここに置いていってくれ」
ルファが顔を上げた。
「どのくらい、このままでいられるのかも、まだわからないわ」
「ああ」
「動かなくなるかもしれない」
男は、乳白色の胸の奥を見た。
金色の細い線が、ゆっくりと明滅していた。
「それも含めて、俺が見る」
白馬が男の衣へ鼻先を寄せた。
彼は引き退けず、そのままにしておいた。
古い手綱は、木の根の上に残っていた。
*
「約束の話をしよう」
男が言った。
ルファが片づけの手を止めた。
ライトは立ったまま、彼を見た。
「マルクトから来た赤い髪の娘。エマという名だった。深い海を通って、こちらへ入った」
男は湖を背にして腰を下ろした。
白馬は、その近くの草を見ていた。
「その数日あとに、ジンが来た。娘を捜していた。自分は硝子細工をする男だと言った」
ライトは膝へ手を置いた。
「俺たちのように、生きたまま、来たのか」
男が彼を見た。
「ああ。魂だけではない。身体を持っていた」
返事を聞いても、すぐには何も言えなかった。
冥界と聞いたときから、胸のどこかへ沈めていた考えだった。
父は死んで、ここへ来たのではないか。会えても、もう一緒には帰れないのではないか。
ライトは、膝へ置いた手を握った。
指輪が、皮膚へ触れた。
「そのあと、どこへ」
男は湖の向こうを指した。
「あの塔だ」
ライトは振り向いた。
世界樹の枝の間に、細い影があった。
遠い山の上から、真っ直ぐ空へ伸びている。頂は雲に隠れ、その上がどこへ届いているのか見えなかった。
「エマも、ジンも、あそこに向かった。戻ってきたのは見ていない」
「今も、そこに」
「そこまでは言えん。俺が知っているのは、向かった先と、ここへは戻っていないことだ」
ライトは塔を見た。
もう少し近くへ行けば、窓が見えるのだろうか。そのどれかに、父が立っているのだろうか。
「帰り道も、あっちなのね」
ルファが言った。
男が頷いた。
「月へと続く塔、と呼ばれている。ここからマルクトへ戻るには、月を経る道を通る」
「月……」
ライトは雲の先を見た。
「塔を上れば、帰れるのか」
「道は続いている。だが、通れるかどうかは、塔を預かる者次第だ」
ルファの表情が変わった。
「ただ上ればいい場所では、ないのね」
「そうだ」
男は答えた。
ライトは手帳を出した。
西の湖、と書いた下へ、塔と書き足す。鉛筆の先が少し震えた。
ジン。生きて、この世界へ来た。
その一行だけは、ゆっくり書いた。
*
雨が、湖へ落ち始めた。
最初の雫を、白馬が見上げた。
滴り始めた水が、首を振ると細かな光になって散った。
世界樹の葉が、いっせいに鳴った。
ルファが荷物へ布を掛けた。
ライトは手帳を上着の内側へしまい、剣の包みを持ち直した。
「塔までは、ここから歩いて――」
訊きかけたところで、男が顔を上げた。
湖の向こうではなく、二人の後ろを見ていた。
雨の匂いに、花のような匂いが混じった。
「歩くには、少し遠い道ですわ」
女の声がした。
ライトは振り向いた。
白い服の女が、岸辺に立っていた。
背には、赤い翼があった。降り始めた雨は、その羽に触れる直前で光り、細い色に分かれて湖へ落ちていた。
ルファが、ライトの隣へ来た。
彼も半歩動き、鞄を二人の間に置いた。
女はそれを見て、歩みを止めた。
「驚かせてしまいましたね」
微笑んだ。
「塔へおいでになるのでしたら、ご案内できます」
ライトは、すぐには頷かなかった。
城門で聞いた声が、耳に残っていた。
隣で、ルファが口を開いた。
「まず、あなたのお名前を聞かせて」
雨の向こうで、赤い翼が静かに開いた。




